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『大清帝国の形成と八旗制』メモ2 ─ウラ ナラ閥とフリンの継位─

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 続けて、杉山センセの『大清帝国の形成と八旗制』のメモ。今回は、第一節 両黄旗──ウラ=ナラ氏の部分です。何にせよ自分の興味あるドルゴン時代の政争についての記事が多いので、引用長めです。ていうか、この本あれば史料で調べられる範囲は全部網羅できちゃってる感じですかね…。あとは、参考文献に上がってる史料に直接当たるしか無いですね。細かい描写までは当然全部上がってはいないので。

図2-1 ウラ=ナラ氏略系図i
図2-2 ウラ=ナラ氏と順治期政争関係者ii

 図は省略しますが、これあればおおよそのウラ ナラ氏アイシン ギョロ氏との関係は網羅できます。要するに、白旗三王(アジゲ、ドルゴン、ドド)の生母であるマンタイの娘・アバハイとその弟のアブタイ、そして、マンタイの弟であるブジャンタイの娘の嫁ぎ先(ショト、サハリヤン、アイドゥリ……と、ドゥドゥ)が天命末から順治中に至るまでの政争に関係してるのでは無いか?というのが、この節の主眼ですので、その関係を整理するにはこの系図を確認すべきかと…。

 ブジャンタイは、シュルガチの二人の娘エシタイ=ゲゲ(Esutai Gege 額実泰格格)・オンジュ=ゲゲ(Onje Gege 娥恩哲格格)、それにヌルハチの娘の和碩公主ムクシ=ゲゲ(Muksi Gege 穆庫什格格)を相次いで娶っており───にもかかわらず、最終的には敵対して滅ぼされるのであるが───、第四子バヤン・第五子ブヤントゥはムクシの所生、また第六子モー=メルゲンと第八子ガダフンは何れかの公主の所生であった。iii

 この辺はブジャンタイの子供たちの母親の中には、ヌルハチの娘やシュルガチの娘がいたことが確認できればいいかと。

 従来、ウラ=ナラ氏一族は無条件にドルゴンと結びつけられてきたが、直接の主従関係はアジゲとの間に設定されていた。すなわち、アブタイは一六四二(崇徳七)年十月にアジゲを告発、その結果「阿布泰納哈処、告首して一旗に同居するに便ならざるを以て、命じて其の弟多羅豫郡王(ドド)の旗下に挑撥せしむ」とあって、それまでアジゲ属下だったことが知られる。また、従弟モー=メルゲンは、その官職を「長史」と記され、一六三七(崇徳二)年の大事に朝鮮出兵後の行罰では、「王のところに留めおかず、ニルに追い立てた(発与牛彔、不許永入王府)」との処分を受けているので、旗王との深い関わりが推測される。後年、彼はドルゴンの死の直後にアジゲが摂政王の座を狙って失敗した際、「毛墨爾根、曾て大罪を犯すも死を免ぜられ、其の英王(アジゲ)の処に行走するを禁ぜらる。……今、王の乱謀に預かり、兵を率ゐて前住すれば、応に斬として其の家を籍すべし」とあって、アジゲと行動を共にして「率兵前往」までしたとして、処刑されることになる。これらから、モー=メルゲンはアジゲの王府の長を務めたものとみて誤りあるまい。彼らブジャンタイ家は、アブタイと異なりアジゲ属下に留まったのである。iv

 ウラ滅亡後、アブタイ家は元々はアジゲ属下に配置されたモノの、崇徳7(1642)年にアジゲを告発してドド属下に移籍したようですね。しかし、ブジャンタイ家…の息子たちはそのままアジゲ属下に留まり、特にシュルガチの娘の子であるモー・メルゲン英親王府長史アジゲの家宰機関の長官を務めて、アジゲの失脚にお供していると言うことですね。と言うワケで、他家に嫁いだブジャンタイの娘たちはむしろアジゲと連携してそうですね。実家はアジゲの属下ですからねぇ…。

アブタイは①ホンタイジの嗣立と、②フリンの嗣立の二度にわたってこれに反対する動きを取り、少なくとも②において、ドルゴンの擁立を企てたというのである。そこで、天聡~順治期の、関連する動きを追ってみたい。
 ホンタイジの継位をめぐっては、ドルゴン自身が「太宗文皇帝之位、原係奪立」と語ったことが知れているように暗闘があり、①にある、大妃アバハイと弟アブタイ夫妻が「太祖時……欲陥太宗」としたというのが、具体的に何を指しているのかは不明であるけれども、ヌルハチ晩年の水面下の抗争を推測させる。その結果を窺わせるものとして諸家によってたびたび引かれるのが、ホンタイジの嗣立から一年半ほど経った一六二八(天聡二)年三月に見える、私婚をめぐる以下の事件である。(中略)
 この一件から、一六二五(天命十)年八月の「黄字檔」勅書では三等総兵官であったアブタイが、僅かな間に遊撃にまで降格されており、このとき一介の備禦に落とされたことが知られる。(中略)
 一方で、この件自体に注目するならば、旧両黄=新両白旗における結合関係の構築が見て取れる。すなわち、旗王ドドは、属下の重臣アサンの弟アダハイ(Adahai 阿逹海)の仲介で、母系の叔父アブタイの娘、すなわち交叉イトコの女性を娶ろうとしていたのである。ここで仲立ちしたアダハイは鑲黄旗に勅書があり(表2-1:31)、『宗譜』によれば、ドドの側福晋として「伊爾根覚羅氏護軍統領阿逹海之女」とあるので、彼自身が主ドドと姻戚関係にあったことが知られる(後掲図3-4)。アサンも、没後の一六五二(順治九)年に、アブタイと列ぶドルゴン支持者として名前が挙がっているのである。v

 この辺は鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就てviに書かれている、ドルゴン没後の、ジルガランによるアブタイに対する告発文についての考証からです。
 で、手始めにホンタイジが継位したばかりの天聰2(1628)年というタイミングで、ホンタイジ議政王大臣の審議を経ないで勝手にドドアブタイの娘が婚姻を上げたとして、アブタイらがホンタイジに叱責を受けた件を取り上げています。《宗譜》によると、ドドの妻にウラ ナラ氏のアブタイの娘…という人は記録されていないので、この際に離縁させられたんでしょうね(ナラ氏の夫人は複数人いますが)。ドドアブタイの娘の仲立ちをしたという事で、アジゲホショ・ベイレの位を剥奪され、ドルゴンと交代させられ、以後ずっとアジゲドルゴンより一段したの評価をされています。この時期はまだホンタイジが権力確立されていない時期とされていますから、ダイシャンアミンマングルタイアブタイウラ ナラ関係者を支持しなかったと言うコトになるんでしょうね。
 それにしても、このときのホンタイジの怒りは尋常では無く、今後は諸ベイレアブタイの関係者が姻戚を結ぶことを禁じています。

[Ⅱ-6B] 六月初一日、アダハイを殺した。……また一罪。「アブタイ=ナクチュの娘を何れの諸ベイレも娶るな。諸ベイレの娘をアブタイ=ナクチュ(の子)に与えるな。親戚となってはならない。讒悪である」と断じた。ハンは諸ベイレと議して定め、禁じた。(アダハイ)はそれに背いてエルケ=チュルフを唆し、自分は娘をアブタイ=ナクチュの息子に与えて親家となっているので、「ハンや諸ベイレに請うて、汝はアブタイ=ナクチュの娘を娶れ」と唆したとして、アダハイを死罪としてあった。……vii

 ではあるんですが、この後にも出てきますが、何故かヌルハチ異母弟・バヤラの第五子バヤラは宗室であるにもかかわらずアブタイの娘を娶っています。シハン黄旗大臣として活躍していますから、宗室とは言え当然ホンタイジの直属の部下です。と言うコトは、ホンタイジの意向を汲んだ上での婚姻だったのでしょう。まぁ、この文章でも「何れの諸ベイレも娶るな」としていることから、当時は閑散宗室であったシハンは適用外だとされたのかも知れませんが…。いずれにしろ、シハンアブタイの娘との間の子は天聰7(1633)年の生まれですから、少なくともこの事件の5年後には娶っていたと言うことですね。下手したら、ドドと結婚するはずだった女性がシハンに嫁いだのかも知れません。

 これに続く第二幕が、②フリンの即位であった。一六四三年八月のフリン擁立をめぐる過程については、内藤湖南[一九二二]の先駆的研究以来、数多くの蓄積があり、経緯はほぼ明らかになっている。それによれば、九日夜にホンタイジが急死し、緊急の会議で激論が闘わされた末、十四日にフリンの嗣立が決定し、二十五日にフリンが即位した。しかし、フリン嗣立が決まった十四日、アブタイが身分剥奪処分を受け、続いて十六日に、ダイシャンの子ショト(Šoto 碩托)夫妻と孫の多羅郡王アダリ(Adari 阿逹礼)母子がドルゴン擁立を図ったとして処断されるという事件が起きている。フリン擁立をめぐる確執は、ホーゲ派対ドルゴン派の対立として更に激化して翌年には大量の刑死者を出すに至るが、ここで見える二例も、このような慌ただしい時期に即刻処分が為されている点で重要であろう。(中略)
 アブタイは大喪に際し、ドド属下に転じていたとはいえ、内大臣の列に在りながら宮中に参列せず、ドドに私従したとして処罰されたのである。さらに二日後の丁丑条には、(中略)旗王クラスのショト・アダリが処刑されるという大事が出来した。(中略)ショトはダイシャンの子で鑲紅旗の故ヨトの下にあり、またアダリは親ホンタイジで知られた故サハリヤン(Sahaliyan 薩哈廉)の子で正紅旗旗王であり、(中略)また処罰は、一方は夫妻、他方は母子と言うのも不可解である。
 だが、『宗譜』によれば、ショトの「嫡妻」、アダリの「嫡母」はともに「烏喇納喇氏布占泰貝勒之女」とあり、ウラ最後のベイレ・ブジャンタイの娘、すなわちアブタイの従姉妹であることが判明するのである。すなわち、ショトとアダリの処罰がそれぞれ「夫妻」と「母子」だったことは根拠があったのであり、「阿逹礼之母、碩托之妻、相助為乱」(「残巻」)、「同劭托夫妻・阿打里母子、又陰謀作乱」(「罪奏」)というのは、むしろ「妻」と「母」こそが陰で糸を引いていた可能性を示唆するであろう。そしてこのことは、事件の黒幕がアブタイだという「擬定阿布泰那哈出罪奏」の記述を裏づけるものである。ドルゴン没後の告発によれば、このときアジゲとドドがドルゴンに即位を勧めていたといい、それが実話であるかどうかはともかく、そのような時にアブタイが「私自に豫王に随従」していることは重大であろう。
 また、このとき使者に立つなどして処刑される覚羅ウダンはショト属下のバヤラ=ジャラン=ジャンギンで、その母は、ドド属下のレフ(Lefu 勒伏)島地方トゥンギヤ氏のリサン(Lisan 礼山)の娘、妻はドルゴン属下のウバイ(Ubai 呉拜)の姉妹であった。すなわち、主ショトの親衛に属すとともに、彼自身が他旗である両白旗と深い関係がある人物だったのである。viii

 と、長いですが、フリン順治帝継位の直後に起きた、アブタイの身分剥奪とショト夫妻、アダリ母子の処刑のあらましは、およそこれ以上詳しくは分からないレベルの文章です。自分が棚上げにしていたウダンについても詳しく出自から属旗まで書かれているので、放心しますね…。何もくわえることはありません。

 さらに余震は続き、翌一六四四(順治元)年六月には、鑲藍旗棋王の一人である鎮国公アイドゥリが、フリンの嗣位に不満を漏らした廉で、妻およびこのハイドゥリ(Haiduri 海度里)とともに処刑される。この事件に関しては他の史料を欠くが、『宗譜』によれば、アイドゥリの妻は、これもショト・サハリヤンと同じくブジャンタイの娘であり、さらにハイドゥリは「嫡妻烏喇納喇氏長史懋墨爾根之女」とあってモー=メルゲンの娘を娶っており、夫妻は交叉イトコであったのである。以上から、ドルゴン嗣立運動の背後にある姻戚勢力の影がはっきり看て取れるであろう。ix

 で、自分が何度か取り上げたアイドゥリです。ここも、特に加えることは無いんですが、アイドゥリは処刑された順治元(1644)年正月に会合で誓詞を交わしたと供述していますから、従兄弟同士で妻の実家でもあるブジャンタイの息子たちと誓詞を交わしたのかも知れないなぁ…などと妄想してしまうくらいですかねぇ…証拠があれば一緒にしょっ引かれてるハズなので、証拠は無かったんでしょうから何とも言えませんが。

 フリン嗣立をめぐる暗闘が、ホンタイジ即位に続く第二波であるとするならば、第三波はドルゴン没後の政争であった。一六五〇(順治七)年十二月、ドルゴンが死去すると、翌年早くも黄旗反ドルゴン勢力の巻き返しが始まり、数々の獄が生起した。まず、先に見たようにアジゲが摂政王の座を狙って失敗した際に、モー=メルゲンが兵を動かして行動を共にしたとして処刑される。さらに一六五二(順治九)年三月には、黄旗でありながらドルゴンに阿附したとしてバイントゥ、グンガダイ(Gūnggadai 鞏阿岱)・シハン(Sihan 錫翰)ら五人が処断された際、モー=メルゲンの兄バヤンも「伯陽は官職を革去し、牛彔に併せて間人と為し、伯陽の母は和碩格格を革去す」(『世祖実録』)とあって、革職されている。ここには「巴顔」とだけあって旗属・出自は明記がないが、「巴顔之母革去和碩公主」とあるので、ウラのバヤンに間違いない。(中略)
 また、このとき処刑されたシハンはヌルハチ異母弟のバヤラの子であったが、同じ記事に「伯陽、尓寄養錫翰之子巴図・巴哈納」とあって、子をバヤンに預けていたといい、その密接な関係が知られる。『宗譜』によれば、シハンの妻はほかならぬアブタイの娘であった。彼らバヤラ諸子がドルゴンに与したのは、単に一事の権勢になびいた「阿附」というだけでなく、これらウラ=ナラ氏王家との密接な婚縁が背後にあったことに因るのだろう。x

 と言うコトで、ウラ ナラ氏の暗躍をドルゴン没後にまで拡げています。アジゲの蜂起?にモー・メルゲンが積極的に関わっていたというのは自分も知らなかったので、これは勉強になりました。個人的にはドルゴン没後の政争は、ホーゲ贔屓でドルゴン嫌いの順治帝ドルゴン治世下では抑圧されていた黄旗大臣が結託し、それに阿るその他諸々がドルゴン残党叩きに必死になったという構図だと思っているので、ウラ ナラ氏だから処罰された…というより、単純にドルゴンと関わりが深かったという事だと思います。ドルゴンドドアジゲも特段持ち上げた訳では無いとも思うので、いわんやウラ ナラ氏をば!という感じだと思うんですけどねぇ。ただ、バヤラの息子三兄弟(バイントゥ、ゴンガダイ、シハン)については自分もドルゴン治世期のキーパーソンだと思っているので、シハンの嫡福晋がアブタイの娘だという指摘は盲点でした…。いや、まだ《宗譜》をよく読んでなかったんですが…。

 と、今回はこの辺で…。

  1. P.105
  2. P.117
  3. P.104
  4. P.110~111
  5. P.112~113
  6. 『人文研究』6巻6号
  7. P.113
  8. P.113~116
  9. P.116
  10. P.116~118

『八旗制度の研究』メモ1 ─ドゥドゥの愚痴─

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 と言うワケで、杉山センセの本のメモを一休みして、同時期に出版した谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版会 のメモをば…。


 杉山センセの説は八旗はそれぞれ独立した封建的な勢力であり、畢竟、マンジュ清朝とは八旗の連合体であり、連邦制ならぬ連旗制の国家であった…という主張に立っておられるわけですが、一方の谷井センセは八旗に封建制と判断する材料や考察は充分されておらず、むしろ、史料を丁寧に読み込む程、連旗制とは正反対であるハン皇帝の権力が非常に強い集権的な性格が非常に強い政権であったとしています。なので、杉山センセの本を読むと連旗制説の有用性を説くと共に谷井センセに反論しており、谷井センセの本を読むと連旗制自体が机上の空論で、そんなモノは存在しないとして杉山センセらの説に反対しておられます。
 個人的には八旗制は杉山センセ達が言うように独立した封建的な性格はあまり有していないと思います。マンジュ清朝では国初以来、何度も皇室内で処刑を伴う政争が起きていますが、何れもハン皇帝やその代行者の決定(どんな理不尽な決定であっても)に従い、唯々諾々と処罰されることを受け入れ、決して皇室を二分するような武力闘争に陥っていません。こう言う観点から見ると、どうしても八旗…というかグサが封建的な独立不羈の政体であった様には自分には思えません。ただ、ハン皇帝側も圧倒的な権威を誇りながら、八旗に君臨する旗王に対しては、たとえば大明のように独裁君主的に振る舞えなかったとも考えています。ある程度、普段はハン皇帝旗王に遠慮ないし顔を立てる様な姿勢を取りつつも、いざという時はハン皇帝の権力で有無を言わせない措置を取る…という感じでしょうか。

 ともあれ、今回は谷井センセの本で紹介されていた、安平貝勒ドゥドゥ崇徳5(1640)年に受けた処罰に関する下りに関するメモです。

 崇徳五年十二月、安平貝勒ドゥドゥは側近5人のものから訴えられた。(中略)彼らが訴えたドゥドゥの罪過は、以下のようなものである。

①自分は数々の功を立てたのに報われず、罪を得た故ヨトとその子ロロホン Lolohon、ろくな功のないジルガランの方が優遇されているなどと、外でも家でも絶えず口にする。
②グルン公主に贈り物を送る際、これは公課同然だと言い、公主が受け取らずに返すと、どうせ送らなかったといってまた罪せられるのだろうと言った。
②自分が〔親王・郡王より下の〕貝勒の地位にあることに不満を表した。
④自分が〔礼〕部の王に任じられたことを、重んじられたからではなく、楽をさせないために任じられたのだと言った。
⑤朝鮮国王の子が門前を通り過ぎたとき、天を恨むことばを漏らした。

 要するに、自分の不遇について身辺に仕える者に愚痴をこぼしたというの過ぎない。(中略)5人はドゥドゥの母方の親戚で、ドゥドゥの側近く仕え、ある程度の物的恩恵を受けていたことも窺われる。彼らはドゥドゥの不穏な発言に対して、諫めたが聞き入れられなかったとした上で、訴え出て信用されなかった場合の聞きと、訴えずにいて他人に告発された場合の危険を秤にかけ、殺される覚悟でハンに訴えたとしている。
 この訴えは王・貝勒・グサイエジェン・議政大臣らの会議によって審理され、すべて事実と認められた。会議はドゥドゥ夫婦を監禁、奴隷・隷民・財物を没収するとしたほか、父を諫めなかった3人の子と、問題となった発言を聞きながら黙っていた2人の者も罪にあてたが、ハンの旨により、ドゥドゥには1万両の罰贖のみ、3人の子は罪を免じることとし、主人の罪を免じた以上、下の者を罪することは出来ないとし、黙っていた2人も放免した。罰贖の額は大きいが、全体としては穏便に解決され、訴えた5人はドゥドゥから離れることを許され、彼らを含む1ニルと50人の男子が肅親王ホーゲの下に移動した。i

 ドゥドゥは割と不遇ではあったと思うのですが、それについて愚痴をこぼしたらそれを聞いていた身内に密告されてしまった…と言う話ですね。ドゥドゥヨトと比較すれば確かに戦功では見劣りしないでしょう。また、ジルガランは戦場に出ていないわけではありませんが、ドゥドゥと比べて著しい戦功を挙げたわけではありません。ジルガランホンタイジへの忠誠心とか刑部での勤務の方が評価されたんでしょうから、戦場での勲功を第一と考えるマンジュの価値観の中にいるドゥドゥにとってはジルガランが何故評価されるのか理解できなかったはずです。なんであれ、ドゥドゥは彼らの風下に立つのは面白くなかったはずです。
 ②番で上げられてる公主に贈り物をしても…という下りも、細かい上に恨みがましい性格のホンタイジならいかにも言いそうで、こう言う君主に仕えるのはめんど臭そうだなぁ…と、個人的にはドゥドゥに同情してしまいます。
 そんな本筋とは別に、ヨト亡き後の礼部管理部務王ドゥドゥだったというのがこんなところで発見できたのでビックリしましたが…。

崇徳五年十二月に訴えられた安平貝勒ドゥドゥは、宗室内での待遇の不公平をかこっていた。それによれば、彼は遵化において単独で敵を破った、朝鮮平定時に少数の兵で多くの紅衣砲を運ばせた、ドルゴンとともに江華島を攻略した、崇徳三~四年の華北遠征でヨトを助けて牆子嶺の城を取った、敵将2人を捕らえて殺した、済南府攻略に力を尽くした、明の廬軍門(象升)と戦う時にヨトは止まったが自分は兵を率いて戦った、ヨトが亡くなった夜に来襲した敵を追って撃破した、撤退するときに殿後を務め犠牲を出さなかった、という数々の「功」を立てたのを評価されなかったという。それに対して、克勤郡王ヨトは死後に罪を得ながらも郡王号を残され、ヨトの子ロロホンも多羅貝勒の爵を得た。鄭親王ジルガランは「功を得るために書に書いたことが、ただ元来ハンに忠実であったというだけの事情で鄭親王となしだぞ」ということであった。
 ドゥドゥは父チュエンがヌルハチに幽閉死させられており、その他の人間関係もあって、実際に「功」の割には不遇であった可能性がある。逆にジルガランは、実兄アミンがやはり失脚して幽閉されながらも、元々兄とは不仲でホンタイジとの関係が良好であったためか、むしろ兄に取って代わる地位を得ており、確かに目だつ功績を挙げたとは言い難いが、罰を受けることもほとんど無く、親王の地位を確保している。ii

 で、ちょっと先でも同じくこの事件について書かれています。こちらでは、ドゥドゥが一々戦功を誇ってる箇所が面白いですね。これだけ戦功が有るのになんでこいつ等よりも評価されないのか?という自負に溢れてますね。戦功のあるヨトは死後に罪を得たのに郡王から降格されていない上、その子供のロロホンはロクな戦功も上げていないのにベイレ位を継位している。ジルガランホンタイジと仲が良いだけで目だった戦功は無い!とこれまた身も蓋もない事をドゥドゥは主張したみたいですね。確かにドゥドゥの父親は刑死したヌルハチ嫡子・チュエンですが、それを言うならジルガランも幽死したシュルガチの子にして、同じく幽死したアミンの弟ですから、親族に罪人がいたことに関してはドゥドゥよりは分が悪いはずです。にもかかわらず戦功のあるドゥドゥよりジルガランの方が爵位が高いのですから、不満に思うでしょうね…。この引用ではホンタイジがこのドゥドゥの異議になんと反論したのかは書かれていません。これは確認したいですね。

ドゥドゥ自身は自分の不当な待遇の理由として、「ヒルゲン Hirgenを敬わなかった」ことと、「紅旗に配属された」ことを挙げている。ヒルゲンはホンタイジから信任を得ていた大臣であり(『八旗通志初集』巻百五十・Hirgen)、彼によって妨害を受けたと言いたいのであろう。紅旗云々については不明であるが、すでにダイシャンの子らが占めていた旗に後から押し込まれたため待遇が悪くなったと言いたいのかも知れない。iii

 で、先に引用した文の註では、ドゥドゥ自身が何故自分が報われないのか?という原因を分析した部分が訳出されています。要するにホンタイジの寵臣を軽視したことと、ホンタイジ旗下の鑲白旗鑲黄旗から鑲紅旗に移されたことから、評価されないと自己分析したようです。鑲紅旗ドゥドゥが罪を得たのに降格されていないと指摘しているヨト旗王として君臨していますから、上司とは言わないまでも目上に属します。要するに見る目が無い大したことない旗王の下に配属されたから戦功を公平に評価されなかった!と言いたいんでしょうね。まぁ、直接批判しないまでも、死後罪に問いながらヨト郡王位を剥奪せずに子のロロホンベイレを継位させたのも、大した戦功が無いジルガラン鄭親王に封じたのも他ならぬホンタイジですから、ドゥドゥが本当に気に食わなかったのはどう考えてもハンホンタイジなワケで、よくこんなこと堂々と言って大した罪にも問われなかったなぁ…と、自分などは感心してしまいます。まぁ、連旗制的な見方かも知れませんがw
 ドゥドゥはこの翌年、崇徳6(1641)年6月に病没しています。ドゥドゥの嫡福晋は再三触れているようにウラ ナラ氏でブジャンタイの娘です。ドゥドゥヨトについては買っていなかったようですが、ヨトの兄弟にしてドゥドゥの義兄弟であるショトサハリヤンとの関係はどうだったんでしょうかねぇ…。ホンタイジ崩御時にドゥドゥが存命ならどう動いたんだろう?などとウツラウツラ考えてしまいます。案外仲悪かったりして連絡しなかったかも知れませんけど…(ドゥドゥの子であるドルフとムルフは若年とは言え存命しているので、同じウラ ナラ閥に属するショト、アダリ、アイドゥリに荷担しようと思えば出来たはず)。

 ちなみに、アイドゥリに関しても谷井センセの本に言及があったので、メモ。

決議撤回の動きに加わらなかった諸王・宗室の中にも、フリンすなわち順治帝の即位に不満を燻らせる者はいた。鎮国公アイドゥリ Aiduriは「二王(ドルゴンとジルガラン)が強いて誓えというので、我アイドゥリは言葉・表面では従うけれども、心・意思では従わない。ハンは小さく我が内心では不満に思う」との文言を密かに誓詞にしたためたといい、アジゲは順治帝を指して「小さいハン」「小児」と呼び軽んじたことで糾弾されている。iv

 ………アジゲの記事も付いてきてますね…w

  1. P.327~328 註によれば『太宗実録』崇徳五年十二月初四日条より。
  2. P.373~374 註によれば『太宗実録』崇徳五年十二月初四日条。
  3. P.393
  4. P.341

『八旗制度の研究』メモ2 ─順治年間の宗室の出征─

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 と言うワケで引き続き谷井センセの『八旗制度の研究』のメモです。この本は『天理大学学報』で発表された「八旗制度再考」という八本に及ぶ論文が元になっています。入関前を対象とした本論は元の論文の通りなのですが、入関後のことを対象にした附論iが付いていることが、自分にとってはこの本の最大のセールスポイントです。


 入関後の議政王についての記事はホントに為になります。で、今回はその中でも労作の「順治朝に出征した主な宗室(『世祖実録』に見えるもの)」を引用してみました。しかし、この表は満文《世祖実録》を参照したようで、満文での名前のみ記載されています。折角なので、一人一人漢文と見比べて宗室を比定していきました。爵位については見てる史料がバラバラなので、一貫性は無いのですが、その辺はご容赦を…。本当は出征年次の爵位で書こうとも思ったのですが、流石にそこまで辿り着かずに息絶えました。

表1 順治朝に出征した主な宗室ii
出征した宗室目標
元年四月Dorgoniii(大将軍)・Hoogeiv・Dodov・Ajigevi・Lolohonvii・Nikanviii ・Boloix・Mandahaix ・Tuncihaxi ・Bohotoxii ・Hotoxiii山海関方面xiv
十月Ajige(靖遠大将軍)・Lolohon・Mandahai ・Bohoto・Tunciha流寇xv
Dodo(定国大将軍)・Šosexvi ・Bolo・Nikan・Tuncixvii ・Hoto・Šangšanxviii ・Durhuxix ・Terfuxx ・Dununxxi ・Baintuxxii ・Handaixxiii陝西→南京xxiv
十二月以前Hooge不明
二年正月Abataixxv山東(Hoogeと交代)
閏六月Bolo・Baintu浙江xxvi
七月
九月に増援
Lekdehunxxvii (平南大将軍)・Kanggadaixxviii・Babutaixxix ・Fulehexxx Jahanaxxxi ・Ungguxxxii ・Fulataxxxiii ・Subutuxxxiv ・Sabixxxv 江南(Dodoと交代)xxxvi
三年正月Hooge(靖遠大将軍)・Lolohon・Nikan・Tunciha・Mandahai・Kalcuhūnxxxvii ・Yoloxxxviii ・Nusaixxxix 四川xl
二月Bolo(征南大将軍)・Hoto福建・浙江xli
五月Dodo(揚威大将軍)・Šose・Wakdaxlii ・Bohotoモンゴルxliii
四年正月Kanggadai宣府
五年閏四月Tunci(平西大将軍)・Handai陝西
八月Ajige・Šose・Nikan・Šangšan・Yolo天津土寇
九月Jirgalangxliv (定遠大将軍)・Subutu・Gungganxlv ・Lekdehun・Durhu・Gūlmahūnxlvi ・Fulata湖広xlvii
十一月Ajige(平西大将軍)・Bolo・Šose・Baintu・Fulehe・Yolo戌守大同xlviii
十二月Wakda・Šangšan・Tunci・Jahana・Handai大同(Ajigeの軍前に)xlix
六年正月Nikan(定西大将軍)・Kalcuhūn・Murhul 太原li
二月Dorgon大同lii
四月Ubahailiii ・Tunciha・Babutai大同(Ajigeらと交代)liv
Bolo(定西大将軍)汾州府
Nikan大同lv
七月Dorgon大同lvi
Mandahai(征西大将軍)・Wakda(十月より征西大将軍として山西へ)・Sabi・Bintu・Handai朔州・寧武lvii
八月Ajige・Kanggadai大同lviii
十月Dorgonモンゴルlix
九年七月Nikan(定遠大将軍)・Bashanlx ・Tunci・Jahana・Murhu・Handai湖南・貴州lxi
十年正月Tunci(定遠大将軍)・Basahn・Jahana・Murhu・Handai湖南(Nikanの死による再命令)lxii
七月Yolo(宣威大将軍)駐防帰化城
十一年十二月Jidulxiii (定遠大将軍)・Balcuhūnlxiv ・Udahai鄭成功
十四年四月Lotolxv (寧南靖海大将軍)駐防荊州→湖広・貴州lxvi
十五年正月Donilxvii(安遠靖寇大将軍)・Lokodolxviii ・Šangšan・Dulanlxix雲南lxx
十七年八月Loto(安南大将軍)鄭成功

 この表見ると、ドルゴンは入関以後、モンゴル関係でしか出征していないとか、鄭成功が二度出て来るけど、南京占領のあった順治15(1658)年には宗室は動いていないとか、ニカン漢土中心に見ると分からんことも、この表見てるだけで気がつける部分ありますね。
 この表と隣の「表2 順治年間に死亡した公以上の宗室」だけで、順治年間宗室の把握が相当楽になります。ですが、こっちも満文標記なので、手が空いたらまたメモを上げます。

  1. 附論1 入関後における八旗制度の変化
  2. P.402
  3. 摂政王・ドルゴン 多爾袞
  4. 肅親王・ホーゲ 豪格
  5. 豫親王・ドド 多鐸
  6. 英親王・アジゲ 阿濟格
  7. 衍嬉郡王・ロロホン 羅洛宏⇒ヨト第一子
  8. 敬謹親王・ニカン 尼堪⇒チュエン第三子
  9. 端重親王・ボロ 博洛⇒アバタイ第三子
  10. 巽親王・マンダハイ 滿達海⇒ダイシャン第七子
  11. 元グサ ベイセ・トゥンチハ 屯齊哈⇒シュルガチ第三子トゥリン第一子
  12. グサ ベイセ・ボホト 博和託⇒アバタイ第二子
  13. グサ ベイセ・ホト和托⇒アジゲ第一子
  14. 入関作戦 大順・李自成
  15. 李自成
  16. 承澤親王・ショセ 碩塞⇒太宗ホンタイジ第五子
  17. 鎮國公・トゥンチ 屯齊⇒シュルガチ第三子トゥリン第二子
  18. 元ドロ ベイレ・シャンシャン 尚善⇒シュルガチ第八子フィヤング第二子
  19. ドロ ベイレ・ドルフ 杜爾祜⇒チュエン第一子ドゥドゥ第一子
  20. グサ ベイセ・テルフ 特爾祜⇒ドゥドゥ第三子
  21. 輔國公・ドゥナン 杜努文⇒ ドゥドゥ第六子
  22. 元ドロ ベイレ・バイントゥ 拜音圖⇒ヌルハチ五弟バヤラ第二子
  23. 鎮國公・ハンダイ 漢岱⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子
  24. 李自成⇒南明・福王政権
  25. 饒餘郡王・アバタイ 阿巴泰
  26. 南明・魯王政権
  27. 順承郡王・レクデフン 勒克徳渾⇒ダイシャン第三子サハリヤン第二子
  28. 元グサ ベイセ・カンガダイ 鞏阿岱⇒ヌルハチ五弟バヤラ第四子
  29. 鎮國公・バブタイ 巴布泰⇒ヌルハチ第九子
  30. 鎮國公・フレヘ 傳勒赫⇒アジゲ第二子
  31. 輔國公品級・ジャカナ?ジャハナ? 扎喀納⇒シュルガチ第三子ジャサクト第二子
  32. 輔國公・ウング 翁古⇒アバタイ第二子ボホト第一子
  33. グサ ベイセ・フラタ 傅喇塔⇒シュルガチ第八子フィヤング第四子
  34. グサ ベイセ・スブトゥ 蘇布圖⇒アバタイ第一子シャンギャン第一子
  35. グサ ベイセ・サビ 薩弼⇒ドゥドゥ第七子
  36. 南明・魯王政権
  37. ドロ ベイレ・カルチュフン 喀爾楚渾⇒ヨト第三子
  38. 安親王ヨロ 岳楽⇒アバタイ第四子
  39. グサ ベイセ・ヌサイ 努賽⇒シュルガチ第八子フィヤング第六子
  40. 大西・張献忠
  41. 南明・魯王政権⇒唐王政権
  42. 謙郡王・ワクダ 瓦克達⇒ダイシャン第四子
  43. ソノド?(蘇尼特)部⇒ハルハ部
  44. 鄭親王・ジルガラン 濟爾哈朗
  45. 輔國公・グンガン 恭阿⇒アミン第四子
  46. グサ ベイセ・グルマフン 固爾瑪渾⇒アミン第三子
  47. 李錦
  48. ハルハ部⇒大同総兵・姜瓖
  49. 姜瓖
  50. グサ ベイセ・ムルフ 穆爾祜⇒ドゥドゥ第二子
  51. 姜瓖
  52. 姜瓖
  53. グサ ベイセ・ウダハイ 務逹海⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第四子
  54. 姜瓖
  55. 姜瓖
  56. 姜瓖
  57. 姜瓖
  58. 姜瓖
  59. ハルハ部アルチュフル?(二楚虎爾)
  60. ドロ ベイレ・バスハン?バスハ? 巴思哈⇒ヨト第四子
  61. 南明・桂王政権
  62. 南明・桂王政権
  63. 簡親王・ジドゥ 濟度⇒ジルガラン第二子
  64. ドロ ベイレ・バルチュフン 巴爾楚渾⇒ヨト第四子
  65. グサ ベイセ・ロト 洛託⇒シュルガチ五子ジャイサングの子
  66. 南明・桂王政権
  67. 信郡王・ドニ 多尼⇒ドド第二子
  68. 平郡王 ロコド 羅科鐸⇒ヨト第一子ロロホン第一子
  69. ドロ ベイレ・ドゥラン 杜蘭⇒サハリヤン第三子
  70. 南明・桂王政権

宣教師の見た肅親王ホーゲ

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 と言うワケで、ゴールデンウィークを利用して、矢沢利彦センセの”De bello Tartarico historia“の訳本、『だったん戦争記』を確認してきました。収蔵図書館がやたら少ないと思ったらこれ、50頁程度の同人誌ですわ…。後書きにも、ワープロ・文豪mini7買ったンで三ヶ月で打ち込んでみたゾ!みたいなコトが書かれてますね。おう、同人誌や…。ただ、中身についてはやっぱり面白いコトが書いてありました。
 ”De bello Tartarico historia“はイタリア人のイエズス会宣教師である衛匡國ことマルティノ・マルティニ(Martino Martini)の著作です。主にアマワンこと皇父摂政王ドルゴン漢土征服時代のコトについてあれこれ書かれています。
 色々興味深い事と、それあんまり興味無いわっていう宣教師事情も書かれているのですが、まず、ホーゲの記事を引用してみましょう。

 かれiがせん西省iiに侵入するかしないうちに、皇帝の叔父[兄が正しい]であるだったんiii人たちの将帥[太宗の長子肅親王ホーゲ]が5千のだったんiv兵を率いて到着した。他の部隊がその後を追っていた。だったんv人の習慣に従って、5名の騎兵が先行していた。なぜならば、だったんvi人はつねに数人のものを先行させ、もし彼らが厚く遇されるならば、服従と和平のしるしとだvii見なすけれども、、もしかれらになにかが引き起こされるならば、それによって来たるべき戦闘のしるしを認めるからである。この騎馬の先兵を匪賊の斥候かviii見つけたので、ただちにその到来を報告した。ところが、匪賊は斥候たちの言葉をあざ笑い、まさかだったんix人は空を飛んでやってきたのではあるまいと尋ねた。その時多数のひとびとが死刑に処せられるために、かれのまえにつながれて来ていた。また四川省に戻る許しを求めたという理由で、わが会の神父たちも死刑を宣告されて、そのなかにいた。なぜならば、かれらはその省を改宗する命を受けていたからである。しかし匪賊の思いがけない死がかれらを差し迫った危険から救った。けだし丁度その時にだったんx人が正真正銘到来したということが将軍たちによって報告されたからである。これを聞くや、かれはもともと剛勇の士であったので、自らただちに天幕から飛び出し、甲ちゅうxiも着けずに槍をひっさげ、僅かの従者を連れてだったんxii人の到来を探るために、陣営の外に出た。丁度そこへ例の5人のだったんxiii兵が現れて、暴君に激しく襲いかかった。かれらが射た最初の矢がだったんxiv人と多くの他のひとびとにとって幸福であったことには、この匪賊の凶悪な心臓を貫き、すべての人間を殺すであろうと考えられていた、そしてまた匪賊という卑しい身分から出て、ついには皇帝の称号を暴力で握ったこの男の生命を奪ってしまった。こうして残念な怪物は倒れたのであった。かれを打ち倒したあと、残りのだったんxv兵が一斉に到着し、首領を失ったかれの全部隊に苦もなく襲いかかった。多くの兵士はだったんxvi人に降伏したが、他のものは殺害されたり、逃亡したりした。そのあと四川省に生き残っていた気の毒なひとびとは、だったんxvii人をあたかも救世主のように迎えた。こうしてシナの最西部にあり、チベット国に隣接しているこの省もだったんxviii人に服従した。
 こうしてこの省に治安を確立し、守備兵を配置したのち、だったんxix人の将軍は首都北京へ戻る準備をしていた。その時すでに釈放されていたわが会の神父たちは四川省に留まる許可を自ら願い出た。しかし将軍はこの許しを与えようとは望まず、自分は北京の皇帝のもとに沢山の客人を連行しなくてはならないと述べた。わたしは1650年にこの市[北京]でかれらと別れた。xx

 と、ホーゲが先行させた斥候部隊が放った一矢で、張献忠が一戦も交えずに落命した事が書かれています。ワザワザ当時死刑されかけていた宣教師からマルティノが聞いた話のようなので、少なくとも四川にいた宣教師はこう言うことだと認識していたみたいですね。教会史料を通してみた張献忠の四川支配xxiという論文によると、この頃張献忠の支配下にはイエズス会ルイス・ブリオ(Louis Buglio 利類思)とガブリエル・デ・マガリャンエス(Gabriel de Magalhāes 安文思)という宣教師がいたようです。この論文によると、マルティノの『韃靼戦争記』のこの部分も二人の宣教師による『中国の有名な盗賊張献忠によって行われた暴政についての報告書』から作成されたと考えられるみたいですね。この本についてはフランス人イエズス会宣教師・グールドン(F.M.J.Gourdon 古東洛)の《聖教入川記》という本に漢訳が残って居るみたいですね。もの凄く珍しいことですが。あと、『四川Sú chuēng省とキリスト教会が破壊され、失われたことについて、そしてその地でルイス・ブリオとガブリエル・デ・マガリャンエスがとらわれの身になったことについての報告』というイエズス会史料もあるようなので、十中八九マルティノはこの二人のことを書いているようです。

 ところが、前記の将軍はこれほどの大勝利を収めた後、兄弟[叔父が正しい]であるアマヴァンから非道な待遇を受けた。すなわちかれは凱旋式を望んでいたのに、死に出くわしてしまったのである。なぜならば、何ヶ月にも及ぶ長途の行軍の間に、困苦を不断に忍ばなければならなかったことと、終始厄介事に遭遇したことから、戦闘によるのよりも以上の多数の兵士を失っていたからである。かれは自分が賞賛に値する働きをしたと信じていたのにも拘わらず、用兵に抜かりがあったと非難されたので、憤怒を抑えることが出来なかった。そこでだったんxxii式フェルト帽を脱ぎ取って、地上になげつけた(このことは憤怒を表す最も強い表現である)。そのためにシナ[明]皇室の血を引いたものがなにか罪を犯した時に、シナ皇帝によって投ぜられるしきたりになっていたある監獄に入れられることに決まった。この監獄はカオチャン[高しょうxxiii、高い垣]と呼ばれている。しかしかれはだったんxxiv人のうちで最初にこの屈辱を受けるものにならないようにするために、入獄に先立って自分の邸で自ら首を吊って死んだ。この皇子はその高まいな精神とすばらしい功業とにふさわしいもっといい運命に恵まれてもよかったのである。このことがアマヴァンの嫉妬に起因すると確信すひともなくはなかったが、わたしは剛毅ではあるが、向こうみずな気質をもった兄弟[甥]に対して、だったんxxv人の平安のために少なからず懸念していたので、アマヴァンがこのような処置を取ったのであると信じている。xxvi

 マルティニアマヴァンの聡明さを信じているものの、やはりホーゲに同情する声は当時からあったみたいですね。いかにもいちゃもん付けて粛正してるわけですし。まぁ、ある意味、ドルゴン白旗兄弟よりはホーゲの方を評価していたからこそ排除せざるを得なかったんでしょうし。嫌疑かけられて激高したホーゲが入獄を嫌って自縊したというのも何だか納得してしまう顛末ですね…。短慮ではあるけど、俠気に溢れたホーゲというイメージには沿った結末ではあります。

  1. 張献忠
  2. 陜西省
  3. 韃靼
  4. 韃靼
  5. 韃靼
  6. 韃靼
  7. 原文ママ
  8. 原文ママ
  9. 韃靼
  10. 韃靼
  11. 韃靼
  12. 韃靼
  13. 韃靼
  14. 韃靼
  15. 韃靼
  16. 韃靼
  17. 韃靼
  18. 韃靼
  19. マルチノ・マルチニ/矢沢利彦『だったん戦争記』P.55~56
  20. 浅見雅一「教会史料を通してみた張献忠の支配」『史学』第五十九巻第二・三合併号
  21. 韃靼
  22. 韃靼
  23. 韃靼
  24. マルチノ・マルチニ/矢沢利彦『だったん戦争記』P.56

『八旗制度の研究』メモ3 ─順治年間に死亡した公以上の宗室─

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 と言うワケで、久しぶりに谷井センセの本のメモです。今回は順治年間に死去した公以上の宗室の卒年別の表です。これも貴重な表ですね。比定させるのに非常に手間取りましたけどグレイトです。


死亡年死亡時点で公以上であった宗室(爵・没時の年齢)政治的理由によるもの
順治元年Aidurii(35歳・処死)
二年
三年Hušeii(鎮国公・19歳)、Abataiiii(郡王・58歳)、Lolohoniv(郡王・24歳)、Hotov(貝子・28歳)
四年Ungguvi(Bohoto 第1子・輔国公・21歳)
五年Bohotovii(貝子・39歳)、Dununviii(輔國公・23歳)、Daišanix(親王・66歳)、Subutux(貝子・24歳)、Gungganxi(Amin第4子・輔国公・26歳)Hoogexii(40歳・自尽)
六年Dodoxiii(親王・36歳)、Bonixiv(輔国公・5歳)、Jingjixv(郡王・6歳)、錦柱xvi(輔国公・26歳)
七年Nusaixvii(貝子・23歳)、Dorgonxviii(摂政王・39歳)
八年Fuldunxix(世子・19歳)、G'olaixx(鎮国公・22歳)、Kalcufūnxxi(貝勒・24歳)、Kiyangduxxii(貝子・23歳)、Šunggutuxxiii(輔国公・20歳)、Sibsilunxxiv(輔国公・23歳)Ajigexxv(47歳・自尽)
九年Mandahaixxvi(親王・31歳)、Boloxxvii(親王・40歳)、Lekudehunxxviii(郡王・24歳)、Hūdibuxxix(貝勒・18歳)、Wakdaxxx(郡王・47歳)、Nikanxxxi(親王・43歳)Kanggadaixxxii(47歳・処死)、Sihanxxxiii(43歳・処死)
十年
十一年Šosexxxiv(親王・27歳)
十二年Balcuhūnxxxv(貝勒・26歳)、Babutaixxxvi(鎮国公・64歳)、Sabi xxxvii(貝子・26歳)、Durhuxxxviii(貝勒・41歳)、Hailanxxxix(輔国公・34歳)、Jirgalangxl(親王・57歳)、Udahaixli(貝子・55歳)、Leduxlii(郡王・20歳)
十三年Bombogorxliii(親王・16歳)
十四年Unggoxliv(G'olai 第1子・輔国公・11歳)、Fekejikuxlv(貝子・25歳)、Tarnaxlvi(郡王・15歳)、Masanxlvii(鎮国公・20歳)
十五年Terhuxlviii(貝子・40歳)、Senggexlix(鎮国公・27歳)、Uncihal(鎮国公・21歳)、Gunaili(鎮国公・6歳)、Martulii(鎮国公・28歳)
十六年Jahanaliii(輔国公品級・49歳)
十七年Babuhailiv(輔国公・39歳)、Jidulv(親王・28歳)、Mandulvi(輔国公・3歳)、Lasitalvii(輔国公・44歳)、Nishalviii(親王・10歳)、G'ag'ailix(鎮国公・32歳)、Labuhūlx(鎮国公・13歳)lxi
十八年Donilxii(郡王・26歳)、Ciksinlxiii(貝勒・12歳)

 前半、順治7(1650)年までのドルゴン執政期と、後半、順治8(1651)~順治18(1661)年のフリン順治帝親政期で大体二分されるものの、やはり数に偏りが見られます。特にドルゴン死後の順治8(1651)年と順治9(1652)年の人数の多さ、特に順治9(1652)年の爵位の高さと旗色の偏りに不自然さが残りますが…谷井センセ自体はこんな感じに仰ってます。

次の世代の年長者で、そろそろ長老格になりかけていたボロやワクダ・ニカンが40歳代で死んでいるのも、当時としては異とするに足りない。だが、血統からしても政権を支える中核となることが予想され、然るべく実績を積まされてきたロロホン・レクデフン・マンダハイ・ショセ・ジドゥ・ドニといった諸王が20~30歳代で次々と死んだのは想定外であったに違いない。順治年間には、ホーゲ以外の順治帝の兄弟2人に加え、ヨトの5子(1郡王・4貝勒)・ジルガランの3子(世子および1親王・1郡王)・ドゥドゥの5子(1貝勒・3貝子・1輔国公)を始め、有力諸王の家系の若い世代に多くの死者を出している。戦地での死もあるが、多くは自然死であり、おそらく天然痘の流行と無関係ではあるまい。lxiv

 うーん…天然痘の流行というのは妥当な見方であると思いますが、どうも偏りがあるある……と思うのは穿ちすぎですかねぇ…。

年号西暦死者数
順治元年16441(輔國公1)
順治二年1645
順治三年16464(郡王2、ベイセ1、鎮國公1)
順治四年16471(輔國公1)
順治五年16486(親王2、ベイセ2、輔國公2)
順治六年16494(叔親王1、郡王1、輔國公2)
順治七年16502(皇父摂政王1、ベイセ1)
順治八年16517(親王1、世子1、ベイレ1、ベイセ1、鎮國公1、輔國公2)
順治九年16528(親王3、郡王2、ベイレ1、ベイセ1、鎮國公1)
順治十年1653
順治十一年16541(親王)
順治十二年16558(親王1、郡王1、ベイレ2、ベイセ2、鎮國公1、輔國公1)
順治十三年16561(親王)
順治十四年16574(郡王1、ベイセ1、鎮國公1、輔國公1)
順治十五年16585(ベイセ1、鎮國公4)
順治十六年16591(鎮國公品級)
順治十七年16607(親王2、鎮國公2、輔國公3)
順治十八年16612(郡王1、ベイレ1)

 上の表を人数と爵位をまとめ直しましましたが、やっぱりおかしくないッスかねぇ?順治5(1648)年、順治8(1651)~9(1652)年、順治12(1655)年、順治17(1660)~18(1661)年ってそれなりに政変の起こってる最中に処死以外に死者が多すぎる気はするんですが…。
 まぁ、記録に残らない部分を想像してもしょうがないので、谷井センセのスタンスが一番妥当だとは思うんですが…やっぱり腑に落ちませんね…w
 ただ、この表も全部を網羅してるわけでも無いですし、時系列に列んでいるわけでも無いので、いずれその辺まとめた記事を作りたいですねぇ…。
  1. 鎮國公・アイドゥリ 艾度里⇒アミン第四子
  2. 鎮國公・フセ 祜塞⇒ダイシャン第八子
  3. 饒餘郡王・アバタイ 阿巴泰
  4. 衍嬉郡王・ロロホン 羅洛宏⇒ヨト第一子
  5. ベイセ・ホト 和托⇒アジゲ第一子
  6. 輔國公・ウング 翁古⇒アバタイ第二子ボホト第一子
  7. ベイセ・ボホト 博和託⇒アバタイ第二子
  8. 輔國公・ドゥヌン 杜努文⇒ ドゥドゥ第六子
  9. 禮親王・ダイシャン 代善
  10. ベイセ・スブトゥ 蘇布圖⇒アバタイ第一子シャンギャン第一子
  11. 輔國公グンガン 恭阿⇒アミン第四子
  12. 肅親王・ホーゲ 豪格
  13. 豫親王・ドド 多鐸
  14. 輔國公・ボニ 博尼⇒アバタイ第二子ボホト第一子ウング第一子
  15. 郡王・ジンジ 精濟⇒ダイシャン第八子フセ第二子
  16. 輔國公・錦柱⇒アバタイ第二子ボホト第二子
  17. ベイセ・ヌサイ 努賽⇒シュルガチ第八子フィヤング第六子
  18. 皇父摂政王・ドルゴン 多爾袞
  19. 世子・フルドゥン 富爾敦⇒ジルガラン第一子
  20. 鎮國公・ゴライ 郭賴⇒アミン第六子
  21. ベイレ・カルチュフン 喀爾楚渾⇒ヨト第三子
  22. ベイセ・キヤンドゥ 強度⇒アバタイ第一子シャンギャン第二子
  23. 輔國公・シュングトゥ 舒翁固圖/嵩布圖⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第三子
  24. 輔國公・シブシルン 席布錫倫⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第二子
  25. 英親王・アジゲ 阿濟格
  26. 巽親王・マンダハイ 滿達海⇒ダイシャン第七子
  27. 端重親王・ボロ 博洛⇒アバタイ第三子
  28. 順承郡王・レクデフン 勒克徳渾⇒ダイシャン第三子サハリヤン第二子
  29. ベイレ・フディブ 祜世布⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第九子フディタ?(祜世塔)第一子
  30. 謙郡王・ワクダ 瓦克達⇒ダイシャン第四子
  31. 敬謹親王・ニカン 尼堪⇒チュエン第三子
  32. 元ベイセ・カンガダイ 鞏阿岱⇒ヌルハチ五弟バヤラ第四子
  33. 元鎮國公・シハン 錫翰⇒ヌルハチ五弟バヤラ第五子
  34. 承澤親王・ショセ 碩塞⇒太宗ホンタイジ第五子
  35. ベイレ・バルチュフン 巴爾楚渾⇒ヨト第四子
  36. 鎮國公・バブタイ 巴布泰⇒ヌルハチ第九子
  37. ベイセ・サビ 薩弼⇒ドゥドゥ第七子
  38. ベイレ・ドゥルフ 杜爾祜⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第一子
  39. 輔國公・ハイラン 海蘭⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第一子
  40. 鄭親王・ジルガラン 濟爾哈朗
  41. ベイセ・ウダハイ 吳達海⇒ヌルハチ二弟ムルハチ第四子
  42. 敏郡王・レドゥ 勒度⇒ジルガラン第三子
  43. 襄親王・ボンボゴル 博穆博果爾⇒太宗ホンタイジ第十一子
  44. 輔國公・ウンゴ 翁古⇒アミン第六子ゴライ第一子
  45. ベイセ・フケジク 佛克齊庫⇒アバタイ第二子ボホト第三子
  46. 郡王・タルナ 塔爾納⇒アバタイ第三子ボロ第四子
  47. 鎮國公・マサン 馬山⇒アミン第三子グルマフン第三子
  48. ベイセ・テルフ 特爾祜⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第三子
  49. 鎮國公・センゲ 僧額⇒アミン第三子グルマフン第二子
  50. 鎮國公・ウンチハ 溫齊喀⇒シュルガチ第四子トゥルン第一子トゥンチハ第一子
  51. 鎮國公・グナイ 顧鼐⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第七子サビ第二子
  52. 鎮國公・マルトゥ 馬爾圖⇒アミン第三子グルマフン第一子
  53. 輔國公品級・ジャハナ 扎喀納⇒シュルガチ第三子ジャサクト第二子
  54. 輔國公・バブハイ 拔都海⇒ヌルハチ第六子タバイ第六子
  55. 簡親王・ジドゥ 濟度⇒ジルガラン第二子
  56. 輔國公・マンドゥ 滿度⇒シュルガチ第四子トゥリン第一子トゥンチハ第一子ウンチハ第一子
  57. 輔國公・ラシタ 喇石塔⇒ヌルハチ二弟ムルハチ第十子
  58. 敬謹親王・ニスハ 尼思哈⇒チュイェン第二子ニカン第二子
  59. 鎮國公・ガガイ 郭蓋⇒アミン第五子
  60. 鎮國公・ラドゥフ 喇篤祜⇒シュルガチ第八子フィヤング第六子ヌサイ第一子
  61. Fulehe 鎮國公・フレヘ 傅勒赫⇒アジゲ第二子も順治17年4月卒
  62. 信郡王・ドニ 多尼⇒ドド第二子
  63. ベイレ・チクシン 齊克新⇒アバタイ第三子ボロ第八子
  64. 谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版会 P.404~405

『大清帝国の形成と八旗制』メモ3 ─ホンタイジの本名─

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 と言うワケで、一息つけそうなので、久しぶりに杉山センセの本のメモをば…。満族史研究会第30回大会はざっとレポを書いたモノのどこまで書いて良いものやら見当が付かないので、取りあえずオロオロするコトにしました。


 ホンタイジ(hong taiji)という名前が”皇太子”という漢語⇒モンゴル語に由来すると言うコトは、つとに指摘されています。同時代のモンゴルでもホンタイジという名前は王公の名前としてメジャーですし、”副王”を意味する称号でもありますが、マンジュとしては少し見かけない名前ではあります。もし、これが太宗=スレ・ハンの本名であったなら生まれついての”皇太子”であったということになるでしょう。しかしながら、元々はヌルハチは元妃・トゥンギヤ氏所生のチュエン、ダイシャンを後継者と目していたらしいことは《満洲老檔》はじめ当時の記録を見ると明らかですし、むしろ四大ベイレの中ではアンバ・ベイレ=ダイシャン、アミン、マングルタイに比べても一番立場が弱かったと言われています。つまり、必ずしも太宗=スレ・ハンはヌルハチの後継者として目されていたわけでは無いわけで、即位後は正にその正当性を主張していく事に躍起になるわけで、盤石な状態で権力継承が行われていたわけではありません。
 という所で、杉山センセの本の引用です。

 ホンタイジについて常に語られるのは、その名が「皇太子」に由来すると言うことである。ホンタイジという語の語源は漢語の「皇太子」であると言われるが、漢語から直接入ったものではなく、漢語起源のモンゴル語「ホンタイジ qong tayji」に由来するのは確実である。彼がその名のゆえに元来意中の後継者だったという憶説や。予言的な符合であるという公式資料の評言は、もとより取るに足らないが、そもそもこの「ホンタイジ」が、実は本名ではなかったとみられることが、夙に指摘されている。すなわち三田村[一九四二:一四頁]によれば。明の陳仁錫「山海紀聞」に「喝竿」、朝鮮『仁祖実録』に「黒還勃烈」とあって、本名はヘカン、ホンタイジは通称だというのである。三田村は、モンゴルにルーツをもつイェヘの王女の所出ゆえに、「モンゴル王子」という意味で通称されたものと推測しており、また李光濤[一九四八]は、その登位を正当化するために即位後に自称したものと説く。i

 と言うコトで、三田村泰助の古典的研究について触れられてますね…(李光濤論文については手続きすれば見られそうなんですがねぇ…)。と言うワケで、京大のサイトでその論文iiのPDFが公開されているので、見てみましょう。

然し本當の名は皇太極ではなかった様である。 明の陳仁錫の山海紀聞によると「黄旗下是喝竿汗。老奴第四子也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲汗」とある。この通りであれば太宗の本名は皇太極でなくては喝竿hekanといふ事になる。この事實は先年和田先生から教示されたのであつたが私は他に證據がないので少しく疑問を抱いて居たが、今度李朝仁祖實録を見ると、太祖の没した時にこの前後の情報を齎した平安監司の馳啓がのせてあつてその文中「奴酋死後。第四子黒還勃列承襲」と記して居る。黒還勃列はhekan beile(貝勤)で陳仁錫の記述に合する事になり太宗の本名は通説の皇太極でなくてへカンである事が確かめられた。さうすると皇太極はどうなるか。この名稱が當時建州内部で用ゐられて居た事は確かで朝鮮の記録に洪大主・弘太市・紅歹是と冩して居る事によつて知り得る。その故にhongtaijiは太宗の通稱であつたらうと思ふ。この言葉は元來蒙古語から轉化した詞で、蒙古では王族の子弟を指して用ゐた言葉で王子の意味である。太宗が特にホンタイジと呼ばれる理由はあるので、彼の母の姓葉嚇納喇氏で名は蒙古哲哲Monggojeje(mongoは蒙古、jejeは姐姐音冩)と稱した。彼女の里方の葉嚇納喇氏はその始祖は土黙特tumet姓の蒙古人で、それが海西女直族の納喇氏を滅しその姓を冒したので謂はゞ蒙古系女眞貴族の家柄である。従ってモンゴジエジエ生む所の太宗を建州部衆が本名へカンを云はずに蒙古の王子を意味するホンタイジを以て呼び慣はしたものと考へられる。既に記した如く常時の女眞族上流社會は蒙古文化が風靡したのであるからこの通稱から推察すると、太宗の貴公子振りはその出自教養武勇等、凡ての點で太組の他の諸子を凌いだ壓倒的存在で修った事が窺へよう。そして太宗の中の文字の素質は一面母の系統を受けついだものと思へる。

 と、太宗=スレ・ハンの母親がモンゴル色が説くに強いイェヘ出身であったことから、モンゴル王子の意味でホンタイジという通称で呼ばれたのではないか?という説ですね。これはこれでありそうなんですが、いやそれはしかし…と、結構黙殺されてはいたんですよね。他に太宗の本名がヘカンだった説を推してる学者さんも見たこと無いです。で、杉山センセはサラッとこの説を又引っ張り出して、肯定してるんですよね。

 このことはその後はほとんど深められていないが、あらためて確認すると、ヘカンという名を記す記事は、同時代の明・朝鮮史料にかなり見いだすことが出来る。それらは全て名をヘカン、元来の地位をベイレないし第四ベイレと伝えており、それらの記事に併載される情報の精度も高いことから、信を置くに足るものと判断されるのである。したがって、残念ながら正確な語と語義は不明だが、ホンタイジが本名でなかったことは確実と思われる。iii

 と、折角表になってるので、引用しておきましょう。
表4-1 「ヘカン」名記載記事一覧(P.224)

1626年奴酋死後。第四子黒還勃列承襲。朝鮮『仁祖実録』巻14、天啓六年十月癸亥条三田村[1942];李光濤[1948]
1626年(1642年述)六年八月、奴児哈赤死、其四子河干貝勒立。銭謙益「特進光禄大夫左柱国少師兼太子太師兵部尚書中極殿大学士孫公行状」『牧斎初学集』巻47上
1630年(1642年述)奴四酋河干貝勒、傾巣入寇、偽二王子安明貝勒居守瀋陽。銭謙益「特進光禄大夫左柱国少師兼太子太師兵部尚書中極殿大学士孫公行状」『牧斎初学集』巻47下己巳の役(1629-30)で河北に親征した際の記事
1629年四月間、四憨掲竿先至。『国榷』巻90、崇禎二年三月条同上
1630年頃号憨者主也。[四男、名喝竿。称憨不出戦]
一、黄旗下是喝竿憨。老奴第四男也。老奴死。喝竿立。奴衆稱爲憨、偽号後金国皇帝。倒黄旗、則喝竿之頸可繋、頭可献。内有黄心紅辺者、台吉超哈貝勒乃喝竿之男。
陳仁錫「山海紀聞」『無夢園集』三田村[1942]
1641年建主喝竿以三千騎来援。『国榷』巻97、崇禎十四年八月辛酉条

 探せばもっと出てきそうですね…。で、そんじゃホンタイジってどう言う名前なの?って言うことが続きます。

 では、そのホンタイジとはいかなる名であろうか・先学がこれを通称や自称のように述べる点については、再検討の余地がある。ホンタイジなる名は、「洪大主」(『光海君日記』)、「紅歹是」(『建州見聞録』)、「黄台住」(『遼夷略』)などと伝えられており、異なる情報源をもつ複数の外国人が記す以上、公的な場で用いられていたはずであるから、単なる通称ではなく、ヌルハチが授与した称号とみなくてはなるまい。この点について少し検討したい。iv

 確かにただの通称を複数の外国人が記述するのは不自然…と言うコトで、更に続くわけです。

賜号を持った形跡のない三兄マングルタイがベイレないしタイジと称される一方で、ホンタイジがベイレなどを附称することなく並記されており、また、これらを載せる『原檔』「荒字檔」では、長兄チュエンは「argatu tumen」、次兄ダイシャンは「guyen baturu」と、両者とも概ね称号で記されている。これらの用法からすると、「ホンタイジ」は、アルガトゥ=トゥメンやグェン=バトゥルと同様の、ヌルハチによる賜号と判断するのがするのが適切と思われる。『原檔』では一見ホンタイジが呼び捨てに見えるのに対し、マングルタイがベイレ号ないしタイジ号を附称されるのは、むしろ「ホンタイジ」が称号であって、マングルタイには賜号がないゆえに実名に連称されたものと解することができよう。v

 ホン=タイジがアルガトゥ=トゥメンやグェン=バトゥルと同じくモンゴル由来の称号だというのは、なる程筋の通った論ですね。

 以上の論と既知の情報を整理してみると、次のようになる。
本名      :ヘカン
即位前の称号  :ホンタイジ hong taiji(一六〇七~一二?~)・四(ドゥイチ)ベイレ duichi beile(一六一九~二六)
君主としての尊号:スレ=ハン sure han(一六二六~三六)
         →寛温仁聖皇帝(ハン) gosin onco hūwaliyasun enduringge han(一六三六~)
 ただし、称号や尊号をとることは漢字圏でも非漢字圏でも珍しいことではないが、君主の実名は忌避すればよいのであって、記録は残る。ところが、実名の忌避にとどまらず、本名を記録から抹消してしまった(とみられる)ことは、ホンタイジの特異な点であり、また彼の人物と施策を考える上で考慮しなければならない点であろう。vi

 ホントに太宗=ホンタイジって陰険で嫌な感じする人なんすよなぁ…。まぁ、イモっぽいヘカンよりホン タイジっていうモンゴル的に洗練された名前で呼ばれたかった厨二キャラという線もありますが…。

  1. 『大清帝国の形成と八旗制』P.223
  2. 再び清の太宗の卽位事情に就いて『東洋史研究』7巻1号
  3. 『大清帝国の形成と八旗制』P.223~224
  4. 『大清帝国の形成と八旗制』P.224
  5. 『大清帝国の形成と八旗制』P.225
  6. 『大清帝国の形成と八旗制』P.228

ダイチン・グルンの歴代モンゴル・ハーン号

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 昨日の杉山センセ本のメモでホンタイジの本名に触れましたが、あの本では次にモンゴル・ハーン号に付いて触れられていたので、他の皇帝についても気になって検索してみたところ、中文Wikipediaに蒙古大汗という項目があったので、メモ。正直どこから取ってきたのかよく分からない。ちなみに、カタカナ表記とアルファベット表記は自分が適当につけたモノなので、間違ってる可能性は大いに大デス!
 あと、ヌルハチのモンゴルハーン号も補ってみました。

(ヌルハチ⇒スレ・クンドゥレン・ハーン Sure Kundulen Khan 昆都倫汗)
ホンタイジ⇒ボクド・セチェン・ハーン(Богд сэцэн хаан=Bogd setsen khaan 博格逹徹辰汗)
順治帝⇒イャルート・ジャサク・ハーン(Эеэр Засагч хаан=Eyebeer Zasagch Khaan 額耶爾札薩克汗)
康熙帝⇒エンケ・アムガラン・ハーン(Энх Амгалан хаан=Enkh Amgalan khaan 恩赫阿木古朗汗)
雍正帝⇒ナイラル・トゥブ・ハーン(Найралт Төв хаан=Nairalt Töv khaan 納伊拉爾圖托布汗)
乾隆帝⇒テングリ・テクゲチ・ハーン(Тэнгэрийг Тэтгэгч хаан=Tengeriig Tetgegch khaan 騰格里特古格奇汗)
嘉慶帝⇒サイシャ・ヤルート・ハーン(Сайшаалт ерөөлт хаан=Saishaalt yeröölt khaan 薩伊什雅爾圖伊魯格爾圖汗)
道光帝⇒トル・グレト・ハーン(Төр Гэрэлт хаан=Tör Gerelt khaan 托爾格勒特汗)
咸豊帝⇒トゥゲモル・エルベト・ハーン(Түгээмэл Элбэгт хаан=Tügeemel Elbegt khaan 圖格莫爾額爾伯特汗)
同治帝⇒ブリン・ジャサク・ハーン(Бүрэн засагч хаан=Büren zasagch khaan 布倫札薩克汗)
光緒帝⇒バダルグ・トル・ハーン(Бадаргуулт төр хаан=Badarguult tör khaan 巴達古爾特托爾汗)
宣統帝⇒ゲブト・ヨスン・ハーン(Хэвт Ёс хаан=Khevt Yos khaan 哈瓦圖猷斯汗)

 思いついて、各皇帝のマンジュ号の表も作ってみたのですが…

ヌルハチ=天命汗⇒アブカイ・フリンガ・ハン(Abkai Fulingga Han)
ホンタイジ=天聰汗⇒スレ・ハン(Sure Han)
順治帝⇒イジシュン・ダサン・フワンディ(Ijishūn Dasan Hūwangdi)
康煕帝⇒エルへ・タイフィン・フワンディ(Elhe Taifin Hūwangdi)
雍正帝⇒フワリヤスン・トブ・フワンディ(Hūwaliyasun Tob hūwangdi)
乾隆帝⇒アブカイ・ウェヒイェヘ・フワンディ(Abkai Wehiyehe Hūwangdi)
嘉慶帝⇒サイクンガ・フェンシェン・フワンディ(Saicungga Fengšen Hūwangdi)
道光帝⇒ドロ・エルデンゲ・フワンディ(Doro Eldengge Hūwangdi)
咸豊帝⇒グブチ・エルギイェンゲ・フワンディ(Gubci Elgiyengge Hūwangdi)
同治帝⇒ヨオニガ・ダサン・フワンディ(Yooningga Dasan Hūwangdi)
光緒帝⇒バダランガ・ドロ・フワンディ(Badarangga Doro Hūwangdi)
宣統帝⇒ゲフンゲ・ヨソ・フワンディ(Gehungge Yoso Hūwangdi)

 スレ・ハンは天聰年間であって、崇徳年間にスレ・フワンディと名乗ってはいないと思うんで、ホンタイジは正確に一致するわけではないんですが、順治帝以降はマンジュ号のモンゴル訳をハーン号として採用してるんじゃないの?これ…って感じになってますね。ザッと見た感じですけど。順治帝と同治帝に共通したЗасагчと言うモンゴル語単語とマンジュ語単語Dasanが対応してますし、道光帝と光緒帝に共通するТөрというモンゴル語単語もマンジュ語のDoroと対応しているようです。
 あと、明代は年号+帝というのは通称と言うように説明されますが、清代に関してはマンジュ語では帝号=年号になっており、そのモンゴル語訳がハーン号になってるわけですね。なので、順治帝や康煕帝でもマンジュ的考え方なら通称ではなく正式名称と言うコトになりますね(もっとも、正確には順治皇帝なり康煕皇帝になりますが)。宣統帝はダイチン・グルンのハン=皇帝として即位していた時にはこの法則が適用されるわけです。この辺ちょっと自信ないですけど。

康煕年間の十三阿哥

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 ツラツラとWikipediaで康煕帝の十三阿哥・胤祥の中文記事を読んでいたら、おもろい事書いてあったのでメモ。

康熙四十七年九月废太子,并将皇太子、皇长子、皇三子、皇五子、皇八子、胤祥圈禁。十一月康熙解除其他皇子圈禁,继续对皇长子和胤祥实行圈禁[1]。i

 康煕47(1708)年9月の廃太子事件とその後の廃嫡謀議事件の影響で、皇太子(理親王)、皇長子(大阿哥・直郡王)、皇三子(三阿哥・誠郡王)、皇五子(五阿哥・恒親王)、皇八子(八阿哥・廉親王)…と十三阿哥胤祥が拘禁され、その後同年11月には他の皇子達は解放されたものの、大阿哥と十三阿哥は引き続き監禁されたと書いてます。
 そもそも、《清史稿》では十三阿哥の康煕年間の事績については全然触れられていません。

怡賢親王允祥,聖祖第十三子。康熙三十七年,從上謁陵。自是有巡幸,輒從。六十一年,世宗即位,封為怡親王。ii

 康煕37年から61年までの30年近くがスッ飛んでます。かなり雑ですが、康煕年間には十三阿哥は封爵されていなかった事は分かると思います。しかし、監禁状態にあったとかそう言うことは書いてません。ドラマなどでは上のような展開はお約束になっていて、この監禁によって十三阿哥は身体を壊して寿命を削ったと言うコトになることが多いのですが、自分は何かソースがあるのかな?と、気になってました。九阿哥、十阿哥、十二阿哥、十四阿哥は康煕48(1709)年に始めて封爵されていることから、康煕47(1708)年に何らかの事件があり、十三阿哥だけが封爵から漏れたというのは状況から見てあり得ることです。
 で、Wikipediaの上の記事には引用したように註が引かれていますが、そこも引用してみましょう。

1.^ 乾隆年間皇八子胤禩的後嗣弘旺在《皇清通志綱要》中寫道:“(康熙四十七年)九月,皇太子、皇長子、皇十三子圈禁。”“十一月,上(玄燁)違和,皇三子同世宗皇帝、皇五子、皇八子(原注:先君)、皇太子開釋。” 又,雍正年間蕭奭(shì)在 《永憲錄》中記載,康熙四十七年九月,皇十三子胤祥“因廢東宮事波及,削爵”。iii

 で、十三阿哥監禁の根拠として弘旺(八阿哥の息子・菩薩保)が責任編集した《皇清通志綱要》の記事が引用されています。で、この本や本文を検索したんですが、電子テキストに溢れた大陸サイトは愚か、国内の図書館検索でも引っかかりません。刊本として出版されたようですが、あまり流通してる本でもなさそうですね…。というので、こちらは確認が取れませんでした。でも、これが本当なら事件にかなり近い所にいた人物の記述としてかなり信用が置けます。
 で、もう一つ上がっている雍正年間の書物《永憲錄》ですが…こちらは中華書局の清代史料筆記にも入ってますね。

逮尚書法海。命順承郡王錫保訊其悖亂妄行諸罪。(中略)海字淵若。號悔翁。甲戌進士。選庶常。累官侍講學士。於懋勤殿侍皇十三子、十四子讀書。戊子九月。皇十三子今怡親王因廢東宮事波及。削爵。海降檢討。iv

 どうやら、法海(ファーハイ?)という人物に関する記事の一部の様です。当該する人物は検索するとこんな記事が出てきましたノデ。

法海,字淵若,號悔翁,滿洲旗人。康熙甲戌進士,改庶吉士,授檢討,官至兵部尚書。有《悔翁集》。v

 って《晚晴簃詩匯》って徐世昌の編纂ですか…。ともあれ、この法海は満洲旗人なので白蛇伝とは関係ないみたいですね。お坊さんじゃないです。あと、上の記事ではサラッと侍講學士については触れられていませんね…法海にとっても十三阿哥の教師をしていたって言うコトは黒歴史ナンですかね…。検索すると、法海は佟法海ともされているので、どうやらトンギャ氏の出身みたいですね。先の記事は兵部尚書だったときに逮捕された記事に付随して、元々はこう言う経歴の人物で……という部分の記述のようですね。《清史稿》を検索すると法海という人は結構出てくるんですが、立伝されていないので詳細は分かりません。それはともかく、内容です。
 法海は侍講學士の職に就いていたときに、懋勤殿で十三阿哥と十四阿哥の教育を担当していた様ですね。で、懋勤殿ってどこにあるんだろうってトコですが、こういう時に役に立つ《日下旧聞考》を見てみるとこんな感じデス。

乾清宮西廡向東與端凝殿相對者懋勤殿vi

 皇帝のプライベートゾーンである後宮の中でも、康煕年間は皇帝の居所であった乾清宮の中の区画ですね。懋勤殿は皇子の教育に使うには皇帝の目も届く良い場所だったのかな?という感じデス。
 で、康煕戊子=47(1708)年に十三阿哥が廃太子事件で罪を問われたことに連座した法海は爵位を削られ、侍講學士から檢討に降格させられたと言うことのようです。Wikipediaの執筆者は”削爵”を十三阿哥のことだと思ったようですが、このとき無爵だった十三阿哥の爵位が削られたとなると矛盾してますからねぇ。ともあれ、法海は十三阿哥の罪状に深く関わっていたのかどうかはこの記事では分かりませんが、状況から見て指導責任を取らされたという所でしょうか?罪を犯しているのを知りながら告発を行わなかったとか、積極的に十三阿哥に荷担したと言うコトなら、下手したら死罪でしょうしね。

 ともあれ、起居注なり実録からはサックリこの事は削除されたので、康煕年間の十三阿哥の経歴については謎ってコトになってしまうわけですね…。でも、大阿哥と同様に康煕年間監禁されてたって事は、皇太子を呪詛した大阿哥と同様とみられる罪状があったんでしょうね。即位した四阿哥こと雍正帝は後継者レースで最有力視されていた同母弟・十四阿哥を失脚させたものの、冷や飯食らいで干されていた八阿哥と監禁生活していた十三阿哥をそれぞれ廉親王、怡親王に封じて抜擢しているあたり、雍正帝は実はこの二人を評価してたんじゃないかと自分は思うんですけどね。廃太子=二阿哥は皇宮から北京近郊の理親王府に移動され、十三阿哥と同じような状況にあった大阿哥はそのまま監禁生活をおくり、八阿哥党とされた九阿哥や十阿哥は冷遇されているあたり、この人選には意味があると思います。雍正帝は九阿哥に関してはかなり悪感情を持っていたようですが、八阿哥にはそれほど悪い印象持っていなかったように思います。どちらかというと、九阿哥や十阿哥との決別を強いられた八阿哥が雍正帝に反抗した…ってコトなんじゃないか?と個人的には思います。
 あ、《永憲錄》には十三阿哥が拘禁された事は書いてあったけど、その後、監禁生活を強いられたって事は《皇清通志綱要》見ないと分からないのか…。むむむ…。

  1. 2015/06/27アクセス
  2. 《清史稿》卷二百二十 列傳七 諸王六 聖祖諸子 怡賢親王允祥
  3. 2015/06/27アクセス
  4. 蕭爽《永憲錄》卷四
  5. 徐世昌《晚晴簃詩匯》巻五十四
  6. 《日下旧聞考》巻十四 國朝宮室

ホンタイジの接待狩猟

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 と言うワケで、GoogleBooksで陳捷先センセの《皇太極寫真》を読んでたら、 面白い記事があったのでメモ。

昔太祖時,我等聞明日出獵,即豫為調鷹蹴毬。若不令往,泣請隨行。今之子弟,惟務出外遊行,閒居戲樂。在昔時無論長幼,爭相奮厲,皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少,人各牧馬披鞍 ,析薪自爨,如此艱苦,尚各為主効力,國勢之隆,非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵,或言妻子有疾,或以家事為辭者多矣,不思勇往奮發,……惟偷安習玩,國勢能無衰乎?i

 出典書いてなかったんですが、ネットで検索したら、どうやら、《太宗文皇帝聖訓》からの引用みたいですね。

崇徳元年丙子、七月丁卯。上諭。曰諸固山貝子爾等敬聽。朕言「昔太祖時、我等聞明日出獵、即豫為調鷹蹴毬。若不令往、泣請隨行。今之子弟、惟務出外遊行、閒居戲樂。在昔時無論長幼、爭相奮勵、皆以行兵出獵為喜。爾時僕從甚少、人各牧馬披鞍、析薪自爨、如此艱辛、尚各為主效力、國勢之隆、非由此勞瘁而致乎?今子弟遇行兵出獵、或言妻子有疾、或以家事為辭者多矣、不思勇往奮發、而惟耽戀室家、偷安習玩、國勢能無衰乎?」ii

 句読点は《皇太極寫真》を参考にしてます。何が書いてあるかというと…

適当な訳⇒崇徳元(1636)年、7月丁卯。陛下は諸グサ ベイセ等にこう訓示された。「昔、太祖皇帝の御代、我等は明日猟に出ると聞けば、道具や鷹の準備をしたものだ。もし、猟に同行する命令がなければ、泣いて随行を願い出たものだった。今時のお前等は、ただ外に出て遊んだり、家の中でどんちゃん騒ぎするだけだ。昔は年齢に関係なく、お互いにいがみ合っていても、一旦猟に出ると皆一同に喜んだものだ。こういう時は供回りの者も少なく、各々が飼い慣らした馬に鞍を置いて、自分たちで薪を割って自炊したものだ。このように苦楽を共にして主人につくしたので、国勢は高まったのだ。今のお前等ときたら、猟に出ると言われたら、やれ妻子が病気でとか、やれ家事が忙しくてと何かと理由を付けては辞退する者が多い。進んで猟に出ようとも思わず、ただ家の中で思いに耽ってだらだらしているだけで、国勢が衰えないと言うコトがあるだろうか?」

 最近の若いモンは…と言う感じに書かれてますけど、カリスマ君主であったヌルハチと陰険あら探し大好きマンのホンタイジでは、一緒に猟に出るにしても部下のテンションは違ったって事では…w以前iiiも触れましたけど、多分、ホンタイジは一緒に接待ゴルフで回りたくないタイプの人だったように自分は思います。史書を見るに、猟自体は皆さん好きだったようですし。

  1. 陳捷先《皇太極寫真》遠流出版
  2. 《太宗文皇帝聖訓》卷一
  3. 『八旗制度の研究』メモ1 ─ドゥドゥの愚痴─

マンジュ王号の漢字音訳

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 思いついて《清史満語辞典》上海古籍出版 を購入したところ、マンジュ親王号の漢字音訳があったので、メモ。

【和碩多隆俄親王(Hošo i doronggo cin wangi)】又は合碩多羅俄親王⇒和碩礼親王。
【和碩額爾克親王(Hošo i erke cin wang)】又は合碩額爾克親王、簡称は額爾克王⇒和碩豫親王。
【和碩法奉阿親王(Hošo i fafungga cin wang)】又は合碩発奮親王、和碩法奉親王⇒和碩肅親王。
【和碩墨爾根親王(Hošo i mergen cin wang)】又は和碩黙児根親王⇒和碩睿親王。
【和碩木特卜勒親王(Hošo i mutebure cin wang)ii】又は合碩木特卜勒親王⇒和碩成親王。
【和碩蘇勒親王(Hošo i sure cin wang)】又は合碩淑勒親王⇒和碩穎親王。
【和碩烏真親王(Hošo i ujen cin wang)】又は合碩烏真親王、和碩兀真親王⇒和碩鄭親王。
 サラッと成親王と克勤郡王では封号違うってコトもココで分かりますね…。

 ついでに多羅郡王も…。
【多羅巴図魯郡王(Doro i baturu giyûn wang)】又は多羅把土魯郡王⇒多羅武英郡王。

 も一つベイレも。
【多羅巴彦貝勒(Doroi bayan beile)】又は多羅伯陽貝勒、多羅巴顔貝勒⇒多羅饒餘貝勒。
【多羅厄勒供貝勒(Doroi elehun beile)】又は多羅厄勒紅貝勒⇒多羅安平貝勒。

 ただ、この辺は出典が書かれてないので、よくわからんのですよね。多分、漢文檔案とかにあるんでしょうけど。あと、本文では簡体字になってるのを、自分が無理矢理新字体に直してるので、もしかしたら字が違うかも知れませんし。

 ついでに言えば、《太宗実録》の崇徳元年の封爵では、親王郡王ベイレが封爵されてまして…。

(夏四月)丁酉。分叙諸兄弟子姪軍功。册封大貝勒代善、爲和碩禮親王貝勒濟爾哈朗、爲和碩鄭親王墨爾根載青貝勒多爾袞、爲和碩睿親王額爾克楚虎爾貝勒多鐸、爲和碩豫親王貝勒豪格、爲和碩肅親王岳託、爲和碩成親王阿濟格、爲多羅武英郡王杜度、爲多羅安平貝勒。阿巴泰、爲多羅饒餘貝勒。iii

 これで見ると、この頃の序列は…ダイシャン、ジルガラン、ドルゴン、ドド、ホーゲ、ヨト、アジゲ、ドゥドゥ、アバタイとなりますね。気になるのはサハリヤンが居ないことですかね…。このとき穎親王に封じられたはずですが、この頃死の床についていたはずなので、叙勲式には参加していなかったから書かれていないのかも知れません。
 で、ココで見ると、ドゥドゥとアバタイは同列扱いで、ベイレでは有るんですが、他の親王、郡王と同じように封号を貰ったみたいなんですよね。この後はベイレに封号を与えることもなかったようなので、崇徳元年の封爵の特色と言って良いでしょう。崇徳年間に没しているのに、ドゥドゥは安平貝勒と呼ばれるのに何となく違和感あったんですが、アバタイが出世して郡王になったから目だつだけなんですね。なんか目から鱗でした。

追記:《満文老檔》の該当部分に王号がザラッと…。

orin ilan de,gosin onco hūwaliyasun enduringge han i hesei ahūta,deote,juse be gung ilgafi,ce bume amba beile be hošoi doronggo ahūn cin wangjirgalang beile be hošoi ujen cin wangmergen daicing beile be hošoi mergen cin wangerke cūhur beile be hošoi erke cin wanghooge beile be hošoi fafungga cin wangyoto beile be hošoi mutebure cin wangajige taiji be doroi baturu giyūn wang obuha。

 実録では呼び捨てのヨトがヨト・ベイレ、アジゲがアジゲ・タイジになってます。こっちではドゥドゥとアバタイは抜けてますね…。

  1. 実際には hošoi doronggo ahūn cin wang=和碩礼兄親王 と称されることも…
  2. その後降格されて、Doro i kicehe giyûn wang=多羅克勤郡王
  3. 《太宗実録》巻二十八

李自成─駅卒から紫禁城の主へ その2

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 と言うワケで、佐藤文俊『李自成─駅卒から紫禁城の主へ(世界史リブレット人041)』山川出版のメモ第二弾です。大まかなところは面白いのですが、細かく調べると多分あの辺りとかこの辺りとか違うんじゃないかなぁ…という予感は有るものの、おもろいです。

◇掌盤子勢力の変質
イナゴ戦法⇒都市支配維持、掌盤子の集合体⇒大掌盤子(李自成、張献忠)への集権体制
革左五営⇒安徽・湖北・河南境界の山岳地帯を拠点とした陝西出身の有力五代掌盤子:馬守応(綽名:老回回)、賀一龍(綽名:革里眼)、賀錦(綽名:左金王)、劉希堯(綽名:争世王)、蘭養成(綽名:治世王)
李自成は崇禎16(1643)年1月に開封戦に勝利すると掌盤子の盤踞を禁じ、襄陽を襄京と改め、旧襄王府宮殿で奉天倡義文武大将軍を自称した。
掌盤子の羅汝才、賀一龍、馬守応らこれに従っては李自成を盟主としたi
しかし、同年3月~4月には李自成は掌盤子解体に反対した賀一龍と羅汝才を殺している。掌盤子が皆殺されたかというとそうでもなく、賀錦、劉希堯は積極的に李自成政権に高級武官として参加した。
元々、粗食粗衣で兵士と苦楽をともにするタイプの李自成と、美食を好み綺羅を着て妻妾を幾人も侍らせる羅汝才とはそりがあわなかったとも言われている。
羅汝才らの掌盤子は混乱をきたし、官軍に降る者が多かった。また、李自成勢力の高級武官となっていた馬守応は羅汝才の殺害を知ると、李自成の帰還命令を拒否して張献忠に合流した。
掌盤子の解体と再編に一段落した李自成は5月に新順王を名乗った。
この頃から六政府(六部)を中心とした中央政権を整備し、進士、挙人を中心に知識人も大順政権に参加した。
掌盤子を解体し、田見秀と劉宗敏を指揮官として軍隊を再編したが、本営は中営(老営)、左営、右営、前営、後営の五営なのは変わらなかった。

◇大順政権の発足
陝西地方に入った大順勢力は各都市を陥落させ、投降を呼びかけ降った者は登用した。その中には、かつて李自成を裏切って明に降った白広恩や、李自成の左目を射貫かせた陳永福もいる。
崇禎17(1644)年1月1日、湖北西部、河南ほぼ全域、甘肅、陝西全域を勢力圏に入れた大順政権は西安で建国を宣言し、国号を大順、年号を永昌とした。
西安を長安と改称し西京とし、秦王府宮殿を皇帝の居所と定めた。始祖を西夏建国の基礎を築いた李繼遷とし、曾祖以下に追尊して妻の高氏を皇后に封じた。
建国宣言の後、大順東征軍は三路に別れて北京を目指して進軍し、行く先々で、降伏すれば攻撃せず官戸を開いて税を免じると触れ回った。多くの都市は戦わずに降っている。
李自成、劉宗敏らの第一隊は寧武関で頑強な抵抗に遭ったので、大同、太原など武力拠点を落とすのは困難と一事西安に戻ることが、大同総兵・姜瓖ii、宣府総兵・王翔胤が投降表を届けに来たため、東征を続行することになった。
彼我の戦力差を感じ取った明官軍はこれ以降、戦わずして降ることが多くなる。

◇崇禎帝の断末魔
マンジュでホンタイジが崩御して6歳のフリンが継位したことを知ると、崇禎帝は皇位継承の混乱に乗じようとしたが、ドルゴンが予想外に政権を掌握していたため果たせなかった。
大順政権の東征を知ると、崇禎17(1644)年1月、南京遷都を討議させたが北京で社稷を死守すべしと言う意見が優勢を占めて遷都は頓挫する。
更に大学士・李健泰に崇禎帝の代わりに親征を行う督師として権限を与えて征西させたが、李健泰は同年3月には保定で大順勢力に投降し、逆に北京攻めの水先案内人として北京に帰っている。
また、同じく1月、寧遠城にいた遼東総督・呉三桂を精兵5千とともに、寧遠城を放棄して山海関に移そうとしたが、協議に時間を要して結局、3月6日に実施している。
それに先立つ3月4日には、呉三桂を平西伯に封じたのを初め、東北辺境の将軍達を封爵している。
しかし、大順勢力が北京に迫ると呉三桂は間に合わず、同僚の薊鎮総督・唐通は駆けつけたものの、3月15日、戦わずに李自成に投降している。
3月17日、大順勢力は北京城下に到達し、大順側から崇禎帝に割地と崇禎帝の退位を条件とした降伏勧告がされたが、3月18日夜になっても返答がなかった。大順軍は北京攻撃を開始し、北京城はあっけなく落城した。
翌3月19日正午頃、李自成は徳勝門から北京に入り、承天門(天安門)で門額「奉天承運」の”天”の字を狙って弓を射かけたが、矢は字の右下に当たった。
崇禎帝は皇太子・朱慈燎と永王、安王の二人の息子を城外に脱出させたが逃げ切れずに李自成の入城を他の官僚たちと共に迎え、劉宗敏預かりとなっていた。
また、崇禎帝も変装して北京を脱出しようとしたが、城門で阻まれて失敗している。百官を集めるための鐘を鳴らすも集まったのは太監・王承恩のみで、遂に万歳山(景山)で崇禎帝は首を吊って自殺し、王承恩も後を追った。
二日後の3月21日に二人の遺体は発見されたが、東華門外に遺体は晒された。
明遺臣の訴えで4月になってようやく崇禎帝と周皇后の亡骸を昌平県の明陵墓に葬られ、王承恩の墓もその傍らに作られた。
順治2(1645)年に王承恩墓の横に順治帝名義の石碑が建てられたiii

◇大順政権の北京
それまで大順勢力は占領した都市では反乱を警戒して民家を摂取することなく城外にテントを張っていた。
しかし、北京を占領すると大順政権の高級武官は明の大官邸宅を摂取し、文官は富裕層の民家を摂取、一般兵士は民居に分居した。
どうやら、命令系統に沿った占拠ではなく、場当たり的な摂取だったようで市民と兵士のトラブルは増加した。
傘下に収めていない地域の支配を見据えて、明の官僚を登用を決めたようだが、三品官以下に限定した。
三品以上の大官は重税を掛けて財産を奪い、規定の額に満たない者や財産の供出を拒否した者は徹底的に拷問を行って財産のありかを吐かせた。
また、拷問によって刑死する者が多かった。更に皇族に関しては制限を設けずに財産と生命を奪った。
流石にまだ決着の付いていない呉三桂と北京市民の反感を考慮して、4月8日には李自成は劉宗敏に拷問を中止させている。

長くなったので分けます。

  1. もっとも羅汝才は代天撫民威徳大将軍と自称して李自成もそれを許した
  2. ちなみにこの後、姜瓖は清の入関後、李自成を追うアジゲに投降して李自成を追い詰め、その後アジゲが軍を引き連れてハルハ部に備えるために大同に駐屯すると清に反旗を翻している。ドルゴンはこの反乱を重視し自ら鎮圧に向かっている。最終的には姜瓖は部下の反乱に遭い殺され、アジゲによって大同は落とされている。
  3. 当時はまだ遷都がされていないのでドルゴンの独断だと思われる

清朝漢滿王号対照表

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 と言うワケで、お休み中は、前に橘玄雅的博客というブログの清宗室爵号清语考(简版)iという記事で見かけた、清朝の王号漢文マンジュ文の対応表を見直してました。下の表は、ほぼほぼリンク先の表の引き写しなんです。元々はこの表自体、《满语研究》1997年第02期という雑誌の程大鲲〈清代宗室亲王之封谥〉という論文を元に書かれてるっぽいですね…(自分は論文読んでないです)。

漢滿王号対照表

房数漢文封号マンジュ封号附註
タクシ(顕祖宣皇帝)系
第二房誠毅貝勒cing baturu iiiiiムルガチ(Murgaci 穆爾哈齊)。
第三房鄭親王ujenシュルガチ(Šurgaci 舒爾哈齊)iv家本流、
ジルガラン(Jirgalang 濟爾哈朗)。v
簡親王vikemungge鄭親王家本流、ジドゥ(Jidu 濟度)。 vii
敏郡王ulhisu鄭親王家支流、レドゥ(Ledu 勒度)。
第四房viii通達郡王hafukaヤルハチ(Yarhaci 雅爾哈齊)。
第五房篤義貝勒joriktuixバヤラ(Bayara 巴雅喇)。
ヌルハチ(太祖高皇帝)系
長房広略貝勒argatu tumenチュイェン(cuyen 褚英)。
安平貝勒elehunチュイェン本流、ドゥドゥ(Dudu 杜度)。
敬謹親王ginggunチュイェン支流、ニカン(Nikan 尼堪)。
第二房禮親王xdoronggoダイシャン(Daišan 代善)。
成親王mutebure禮親王支流、ヨト(Yoto 岳託)
克勤郡王kicehe成親王から改号?(ヨト追封)。
衍禧郡王fengšengge克勤郡王本流、ロロホン (Lolohon 羅洛渾)。
平郡王dahasu衍禧郡王本流、ロコド (Lokodo 羅可鐸)。
穎親王sure禮親王支流、サハリヤン(Sahaliyan 薩哈璘)。
順承郡王dahashūn潁親王本流、レクデフン (Lekdehun 勒克德渾)。
謙郡王gocishūn禮親王支流、ワクダ(Wakda 瓦克逹)。
巽親王ijishūn元禮親王本流、後に革爵され支流。マンダハイ(Mandahai 滿逹海)。
康親王nemgiyen元禮親王支流、後に本流を継承。ギイェシュ(Giyešu 傑書)。
第七房饒餘親王bayanアバタイ(Abatai 阿巴泰)。
端重親王jingjixixii饒餘親王本流、ボロ(Bolo 博洛)。後に革爵され支流。
tob ujen
安親王elhe元饒餘親王支流。後に本流を継承。ヨロ(Yolo 岳樂)。
僖郡王olhošon安親王支流、經希。
勤郡王kicehe安親王支流、蘊端。
第十二房英親王xiiibaturuアジゲ(Ajige 阿濟格)。
第十四房睿親王mergenドルゴン(Dorgon 多爾袞)。
第十五房豫親王erkeドド(Dodo 多鐸)。
信郡王akdun豫親王本流、ドニ(Doni 多尼)。
ホンタイジ(太宗文皇帝)系
長房肅親王fafunggaホーゲ(Hooge 豪格)。
顕親王iletu肅親王本流、フシェオ( Fušeo 富綬)。
温郡王nemgiyen肅親王家支流、モンゴ(Mongo 猛峨)。
第五房承澤親王kesinggeショセ(Šose 碩塞)。
莊親王tob承澤親王支流、ボコド( Bokodo 博果鐸)。
惠郡王fulehun承澤親王支流、博翁果諾。
第十一房襄親王tusanggaボムボゴル(Bomubogor 博穆博果爾)。
フリン(順治帝=世祖章皇帝)系
第二房裕親王elgiyenフチオワン(Fuciowan 福全)。
第四房榮親王xivwesihun孝獻端敬皇后ドンゴ(Donggo 董鄂)氏所生、夭折。
第五房恭親王gungnecukeチャンニン(Cangaing 常潁)。
第七房純親王guluルンヒ(Lunghi 隆禧)。
玄燁(康煕帝=聖祖仁皇帝)系
長房直郡王sijirhūn胤褆(允褆)。
第二房理親王giyangga胤礽(允礽)xv
第三坊誠親王unenggi胤祉(允祉)。
第四房雍親王hūwaliyasun胤禛。後の世宗雍正帝。
第五房恒親王tomohonggo胤祺(允祺)。
第七房淳親王bolgo胤祐(允祐)。
第八房廉親王hanja胤禩(允禩)。
第十房敦郡王jiramin胤䄉(允䄉)。
第十二房嘉郡王dorolon胤裪(允裪)。
履親王dorolonxvi嘉郡王改号、胤裪。
第十三坊怡親王urgun胤祥(允祥)。
寧郡王xviielehunxviii元怡親王家支流、弘晈。後に本家を継承。
第十四房恂郡王boljonggo胤禵(允禵)。
泰郡王hafun恂郡王家支流、弘春。
第十五房愉郡王hebengge胤禑(允禑)。
第十七房果親王kengse胤禮(允禮)。
第二十一房慎郡王ginggulehe胤禧(允禧)。
第二十四房諴親王yargiyangga胤袐(允袐)。
胤禛(雍正帝=世宗憲皇帝)系
第四房寶親王boobai弘暦。後の高宗乾隆帝。
第五房和親王hūwaliyaka弘晝。
弘暦(乾隆帝=高宗純纯皇帝)系
長房定親王tokton永璜。
第三坊循郡王julungga永璋。
第五房榮親王dengge永琪。
第六房質親王gungmin永瑢。
第七房哲親王sultungga永琮。
第八房儀親王yongsu永璇。
第十一房成親王mutengge永瑆。
第十五房嘉親王saicungga永琰(顒琰)。後の仁宗嘉慶帝。
第十七房慶親王fengšen永璘。
顒琰(嘉慶帝=仁宗睿皇帝)系
長房穆郡王cibsonggo和裕皇貴妃リンギャ( Liogiyara 劉佳)氏所生、夭折。
第二房智親王mergengge綿寧(旻寧)。後の宣宗道光帝。
第三坊惇親王jiramin綿愷。
第四房瑞親王sabingga綿忻。
端親王tab瑞親王改号、載漪。
第五房惠親王xixfulehun綿愉。
旻寧(道光帝=宣宗成皇帝)系
第二房順郡王ijishūn奕綱。
第三坊慧郡王ulhicungga奕繼。
第六房恭親王gungnecuke奕訢。
第七房醇親王guluxx奕譞。
第八房鍾郡王ferguweng奕詥。
第九房孚郡王unenggi奕譓。

 《欽定宗室王公功績表伝》と比較すると、多羅通達郡王(Doroi hafuka giyûn wang)・ヤルハチ(Yarhaci 雅爾哈齊)が抜けてるくらいですかねぇ。ほぼ網羅できると思います。
 ともあれ、〈清代宗室亲王之封谥〉読んでみたいですねぇ…。
  1. http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c26e27b01015ipo.html
  2. 原註1:清代の封爵制度が制定されてからは、親王・郡王にのみ封号が授けられ、ベイレ以下の宗室には諡号があるだけである。ムルハチの誠毅貝勒、バヤラの篤義貝勒、チュイェンの広略貝勒、ドゥドゥの安平貝勒などは皆入関前の封号で、爵位制度が制定される前の比較的特殊な事例である。
  3. 天聰年間と崇徳年間でも封爵の制度は異なる。
  4. 原註2:鄭親王の爵位は実質的にはシュルガチの代から開始している。シュルガチは死後、和碩莊親王(hošoi ambalinggū cin wang)に封じられている。しかし、檔案によると"莊"は明らかに諡号なので、シュルガチを鄭親王の始祖と看做すことが出来る。
  5. 元表では鄭親王の始祖をシュルガチとしている。しかし、順治中期以前は王号自体が個々人の称号であった可能性は高い。なので、そもそもUjen Cin Wangという称号自体、シュルガチ家ではなく、ジルガラン個人を指す王号と考えた方が良い…というのが宣和堂の考え。
  6. 元の表では簡郡王
  7. 元頁では改号としているが、順治中期以前は個々人で封号が違うというべきというのが、宣和堂の持論。
  8. この行、元表に無し
  9. 原註3:マンジュは入関前の封号にモンゴル語を常用していた。たとえばチン・バトゥル・ベイレ(誠毅貝勒)の"cing"やジョリクトゥ・ベイレ(篤義貝勒)の"joriktu"は皆モンゴル語の語彙である。
  10. 元の表では礼王
  11. 原註4:端重親王の封号は比較的複雑で、清中後期の宗人府の檔案などの記録によると“tob ujen”としているが、程大鲲《清代宗室亲王之封谥》では“jingji”としている。後者は出典を明示していないので、筆者(宣和堂註:この表の作者)は清初ではこう書いていたのでは無いかと思う。しかし、結局の所“tob ujen”と“jingji”の語彙は基本的に似たような意味である。
  12. 《欽定宗室王公功績表伝(Hesei toktobuha uksun i wang gung sai gungge faššan i iletun ulabun)》では”jingji”
  13. 元の表では武英親王
  14. 中文Wikipedia榮親王の項では「追封他為親王,諡號榮。」と"榮"を諡号としているが、《世祖実録》巻一百十五に「(順治十五年三月)甲子。上以皇子生甫四月而薨。悼之。追封為和碩榮親王。」とあり、《清史稿》巻五 本紀五 世祖 福臨 二 順治十五年の項にも「(三月)甲子,追封皇第四子為和碩榮親王。」とある。他にも「和碩○親王◇◇薨。追封和碩△親王」で諡号を意味するコトもあるが、宣和堂はこの材料だけでは”榮”を諡号と断定できないと考える。
  15. 廃太子
  16. 原註5:允裪の封号は興味深い。彼は元々は嘉郡王に封じられ、後に履郡王に改封されているが、マンジュ封号は変更されていない。これは清朝一代でも珍しい特殊事例である。
  17. =甯郡王
  18. 原註6:寧郡王と鐘郡王の封号は、筆者(原文作者)の手元の資料では関係する情報は無いが、幸いにも程大鲲《清代宗室郡王封谥考》には、この二つの封号について記述がある。ただし、寧郡王を“alehun”、鐘郡王を“ferguwang”としているが、完全にマンジュ語の意味とは符合しない。転写ミスか誤解があったものと考えられる。筆者(原文作者)はこの文中の前提条件を信じているが、マンジュ語の発音からすると、恐らく寧郡王を“elehun”、鐘郡王を“ferguweng”としたはずである。しかし、具体的な根拠を確認するためにも檔案類を再確認する必要がある。
  19. 元の表では惠郡王
  20. 中文Wikipediaの醇親王の項によるとhatan

順治帝の廃后とドルゴン

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 陳捷先《順治寫真》遠流出版 のメモ。今回は順治帝の皇后廃立のこと。

 順治帝の廃后=靜妃は順治8(1651)年に皇后に冊立されますが、早くもその二年後には皇后の廃立が取りざたされます。実録を見るとこんな感じデス。

(順治十年八月)丁亥。大學士馮銓、陳名夏、成克鞏、張端、劉正宗奏言。「今日禮部諸臣、至內院恭傳上諭。察前代廢后事例具聞、臣等不勝悚懼。竊惟皇后母儀天下、關系甚重。前代如漢光武、宋仁宗、明宣宗、皆稱賢主、俱以廢后一節、終為盛德之累。望皇上深思詳慮、慎重舉動。萬世瞻仰、將在今日。得㫖、關系至重。宜慎舉動。」果如所言。「皇后壼儀攸系。正位匪輕。故廢無能之人。爾等身為大臣、反於無益處、具奏沽名。甚屬不合。著嚴飭行。」i

 《順治寫真》を参考にザッと訳すと…順治10(1653)年8月丁亥(26日)、大学士・馮銓、陳名夏、成克鞏、張端、劉正宗らが「今日、礼部の諸臣は内院に到りて上諭を恭しく伝えましたが、察するに歴代廃后の故事についてお尋ねとのこと、臣等は恐懼いたしました。皇后は天下の母ですから、非常に重い存在です。たとえば後漢の光武帝、北宋の仁宗、明の宣宗などの例は皆賢主でありましたが、皇后を廃立したので遂に徳が絶えてしまったのです。皇上は深慮を巡らして、軽挙を慎まれて下さい。陛下の声望が決まるのは正に今日この時なのです。皇后という存在は甚だ重いのです。軽挙を慎まれるよう。」と、このように言った。順治帝は「皇后は壼儀を納めていればよいので、その地位は軽いものだ。無能の人ゆえに廃するのだ。汝らは大臣のくせに、無益なことで反対し、古くさい名分論を持ち出すか?甚だ不合理である。」
 壺儀が何を指すにか調べが付かなかったんですが、要するに大臣達が軒並み反対しているのに、順治帝は聞く耳持たず、皇后は無能だから廃立すると言う点では変わりませんね。ともあれ、順治帝は皇后の廃立という国家の一大事を思い立ち、故実を調べよ…という形で大臣達に相談したところ、全員一致の大反対にあったと言うコトですね。
 更にその二日後の話も《世祖実録》にあります。

(順治十年八月)己丑。諭禮部、「朕惟自古帝王、必立后以資內助。然皆慎重遴選、使可母儀天下。今后乃睿王於朕幼冲時、因親定婚。未經選擇。自冊立之始、即與朕志意不協。宮閫參商、已歷三載。事上御下、淑善難期。不足仰承宗廟之重。謹於八月二十五日、奏聞皇太后。降為靜妃、改居側宮。」ii

 順治10(1653)年8月乙丑(28日)、順治帝は「朕は古からの帝王を思い起こすに、必ず后の内助の功があったと考える。しかるに皆は慎重に過ぎ、何かと言えば”母儀天下”と言う言葉を振りかざす。今の皇后は朕が幼い時に、睿王=ドルゴンが自分と近しいものと決めた婚姻であって、朕の選択を経ていない。その皇后ときたら、冊立されてから朕とは心がかけ離れていて協力しようともしない。宮廷に来てからすでに三年経とうというのに、朕に仕えて叔徳を旨とするわけでもない。宗廟に祀られる様な人物ではない。8月25日にすでに皇太后には報告済みだ。皇后を靜妃に降格させ、居所を(皇后の住居である乾清宮から)側宮に移せ!」と礼部に命令された。
 8月26日に大臣達に廃后の故実を調べさせる前に、すでに8月25日の段階で皇太后=孝荘文皇后・ブムブタイには廃后のことを相談というか通達していたわけですね。順治帝の廃后は孝荘文皇后の兄であるジョリクト親王・ウクシャンの娘ですから、順治帝にとっては母方の従姉妹に当たります。ホルチン閥ど真ん中の女性ですから、当然孝荘文皇后の肝煎りです。しかし、最初は無能だ何だと言っていたんですが、要するにドルゴンが選んだ皇后だから気に食わない!と言って、史書の上では3日くらいで廃后してます。他の例を詳しく知っているわけでは無いんですが、いくら何でも早すぎませんかねぇ…。

 で、この記事見つけるときに、目に入ったのですが、こんな記事が…。

(順治十年八月)丁丑。先是、睿王多爾袞專政。潛有異志。上嘗幸睿王邸第、隨駕內大臣、及侍衛等、不及二十人。一等侍衛喀蘭圖聞之。懼有叵測。急歸家。挾弓矢追從、密為防衛。至是、上嘉其忠誠不怖死、特賞十丁之莊一。鞍馬全副。銀五百兩。升二等阿達哈哈番、為一等阿達哈哈番。iii

 順治10(1653)年8月丁丑(16日)、かつて睿王ドルゴンが専権を振るっていた頃、密かにドルゴンは逆心をもって居た。順治帝が睿親王府に行幸される時、一行は内大臣や侍衛など20人に満たない人数だった。一等侍衛ハランドゥ?(喀蘭圖)はコレを聞くと、もしものことがあることを恐れた。急ぎ家に帰って弓矢を担いで一行を追いかけて、密かに隠れて一行を守った。この時、陛下はこの死を恐れぬ忠義をよしとして、特に賞して十丁の荘園を一つ、鞍を付けた馬、銀五百両を与え、二等アスハン イ ハファン(ashan i hafan 男爵)から一等アスハン イ ハファンに昇格させた。
 どうやら廃后の十日前くらいにドルゴンについて何らか思い出すことがあり、ドルゴンの見舞いに行った際にストーキングしてきたヒヤ(侍衛)を取り立てて、それでも気が済まなかったのか、ドルゴンが勝手に決めた皇后を廃立することを思い立ったようですね。もう、2~3年経ってるのに…と言ってもこの頃は順治帝はまだハイティーンですから、まぁ、仕方なかったのかなぁ…と言う気もしますが…。
 それにしても、順治帝のドルゴン絶対ゆるさねぇ!は、廃后にまで及んでいたと言うことですね…。この後、順治11(1654)年5月に迎える孝惠章皇后もホルチン王家の出身ですが、ウクシャンとブムブタイの兄・マンジュシリの孫娘です。ウクシャンの娘である廃后と比べると、孝荘文皇后とは少し血縁が遠くなります。で、自分で選んだ孝惠章皇后にも見向きもせず、結局、順治帝は賢皇貴妃ドンゴ氏=孝獻端敬皇后に首ったけだったわけで……。本音と建前が分からないわけでは無かったのに、やっぱりドルゴンだけは許せねぇ…と言うコトなんでしょうねぇ…。

  1. 《清世祖実録》巻七十七
  2. 《清世祖実録》巻七十七
  3. 《清世祖実録》巻七十七

大玉兒

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 今回も陳捷先《順治寫真》遠流出版 のメモ。孝荘文皇后 ブムブタイの異称:大玉兒についてです。

 フリン=順治帝生母であるブムブタイ=孝荘文皇后はドラマなどでは大玉兒、若しくは玉兒と称されることが多いです。《山河戀·美人無淚(邦題:宮廷の泪 山河の恋)》でもやはり玉兒ですね。勿論、孝荘文皇后の本名はブムブタイであって大玉兒も玉兒も発音的に全くかすりません。他の后妃はモンゴル名なのになんでかなぁ…と思ってたわけです。てっきり、ドラマか映画で付けられた最近の風潮なんだろうなぁ…と漠然と思っていたんですが、《順治寫真》を読んだところ、意外と歴史の古い呼称だったようです。
 ホンタイジの后妃については、松村潤『明清史論考』山川出版 「清太宗の后妃」という論文にも書かれています。大清建国期のことを記したマンジュ文史料《満文老檔》の元史料である《旧満洲檔》にそれぞれ名前が記されているようです。と言うワケで、ハイランチュやナム チョンも《旧満洲檔》がソースと言うコトになります。
 『中国史籍解題辞典』によると、《旧満洲檔》は1931年と1935年、二回にわけてに故宮博物院の内閣大庫から発見されましたが、影印が出版されたのは1969年になってからです。これは戦後の話ですし、そもそも漢文以外のソースをあまり重視しない”清代史”の立場に立つ人から見たら無いも同然の史料ですしね。いずれにしても、それまでに出版された通俗的な清朝モノが《旧満洲檔》を参照できなかったことは確かです。
 で、そんなのあったのかよ!と言うと、民国に入ってから清朝に関する通俗小説がそこそこ出たみたいですね。《順治寫真》によると、民国5(1916)年にはすでに蔡東藩《清史通俗演義》が出版されているようです。ネットでザッと調べたところ、この本では孝荘文皇后は皇太后吉特氏であって大玉兒では無いようです。で、いよいよ大玉兒ですね。引用しましょう。

 民國三十七i年、又有一位王浩沅出版了《清宮十三朝》、又名《清宮秘史》(中略)而布木布泰名「大玉兒」輿其妹名「小玉兒」也是王浩沅的發明之一。ii

 と言うワケで、ドラマなり映画なりで孝荘文皇后を大玉兒と称すのは《清宮十三朝》に始まるようですね。しかし、本文読むと大玉兒と小玉児出て来ると、玉のような肌なので玉兒なのです!が何回か出てきてちょっとキモいっすね…。
 まぁ、真田幸村にしろ大玉兒にしろ一度小説なんかで名前が売れると、興業的には中々本名に戻せないってことなんですかねぇ…。

  1. 1948
  2. 陳捷先《順治寫真》遠流出版 P.122123

アバタイの嫁

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 饒餘郡王・アバタイは庶出ながら、鑲黄旗旗王⇒正藍旗旗王としてホンタイジを支え続けた旗王です。庶出なので嫡出の兄弟…たとえばドルゴンやドドに比べると一段低い地位に甘んじ無ければならなかった反面、弟である太宗・ホンタイジからの信任は厚く、死後ですが親王に追封されるまでになっています(ホンタイジ逝去後なので恐らくドルゴンの遺志の入った人事)。本人的には功績の割に嫡出の異母兄弟に比べて出世が遅いことに不本意だと思っていたようですが、たとえば崇徳元年には序列的には同列だったドゥドゥと比べればキチンと評価されていますし、むしろ厚遇されている様にも思えます。で、そんな複雑な事情を抱えるアバタイですが、鈴木真「清初におけるアバタイ宗室-婚姻関係を中心に-」iを読んでいて、面白いコトが書いてあったのでメモ。

 清朝宗室の家譜である『宗譜』および『玉牒』(宗室女子の情報も含む)によれば、アバタイには4子7女が確認できる(夭折した子女を除く)が、いずれもホイファ=ナラ氏出身の嫡夫人サムハ(Samha)との間の子である。夫婦の間に最初に生まれた長女の生年が甲辰年(1604)、すなわちアバタイが16歳のときのことなので、アバタイがサムハを娶ったのは、アバタイが成人した(15歳となった)その前年あたりと考えてよいであろう。このサムハに関する逸話としては、以下の事件が知られる。
 アバタイがホンタイジから娘を差し出すように命じられた際、アバタイは妻サムハの言に従って二度もハンの命令を拒絶したとして、崇徳元年(1636)5月3日に罪を議されている。『老檔』同日条にはこの時のこととして、

多羅饒餘貝勒(アバタイ)は妻に逆らわず、聖主の旨に背き、むすめを二度「与えよ」というと、妻の言を容れて拒んだ。衆和碩親王・多羅郡王、衆大臣らが審理して、多羅饒餘貝勒の嫡妻を死罪に擬して、聖主に言を奉った。

とあってアバタイを掣肘したサムハも死罪に擬された。しかしホンタイジは、以後政治に㖨しないこと、夫アバタイに逆らったり無理強いしたりしないよう厳命した上で、サムハの罪を免じている。
 この事件から、嫡夫人サムハの、夫アバタイに対する影響力の強さが窺えよう。

 《太宗実録》を確認したら該当の記事あったので載せておきます。

(崇徳元年五月丙午)議多羅饒餘貝勒阿巴泰罪。阿巴泰受制於妻。上兩次有旨、命嫁其娘。皆以妻言不從。因命和碩親王、多羅郡王、及衆大臣審擬。阿巴泰妻罪應死。上宥之。阿巴泰奏聴妻言、兩次違旨。應罰銀四百兩、入官。又阿巴泰當明巡撫袁崇煥對敵時、不輿和碩肅親王豪格迎戰而散。多羅武英郡王阿濟格見之、曾鞭其馬首。時已定罪、蒙恩寛宥。乃阿巴泰以事久遺志、反誑稱輿袁崇煥交戰有功、應再罰鞍馬十匹、銀四百兩。議上。從之。ii

 ほぼほぼ概要は一緒ですが、この時の娘が何女だったのかとか、アバタイの嫁の名前とかがすっかり飛んでいるので、やっぱり《満文老檔》凄いと言うコトになりますね。あと、アバタイの嫁を赦したと言うだけで、政治というか政略結婚に口出しするなとクドクド厳命したことも飛んでます。で、なんだかアバタイはついでに袁崇煥と対陣した時にホーゲを見捨てて逃げたのをアジゲにチクられて更に罰受けてますね…。

 アバタイはダイシャンに次ぐくらい子沢山なのは知ってましたが、生母が皆同じだというのは確認してませんでした。一夫多妻が当たり前の時代ですから、1人で4男7女の11人を出産するというのは、この時代でも珍しいのではないでしょうか?夭折した子供は記録から省かれているので、幼少児の死亡率を考慮すれば、もしかしたらサムハはもっと生んでいたのかも知れません。と言うか、双子や三つ子が居ないと仮定すると、十年以上常に妊娠してることになりますから、なんか凄いですね。
 子沢山というのにも驚いたんですが、何より個人的にはホンタイジに忠実というイメージを持っていたアバタイが、嫁の意見の方を優先してホンタイジの意向を二度も無視しているってことですね。おまけに、恨み深いホンタイジが特に罰すること無く、アバタイに…と言いつつ多分サムハに対して、政治的な問題=政略結婚に口出しするな、ホンタイジに逆らうなと厳命…と言うより、言い聞かせた…お願いしたって感じですかね…このあたり、驚きました。ホンタイジはアバタイの嫁には一目置いていたというか、頭が上がらなかったんでしょうか?何とも謎です。
 論文ではこのあと、サムハの実家のイェヘ=ナラ氏の権勢について述べています。名家でありホンタイジも無視できない政治力を有していたようです。更に、モンゴルと婚姻を結んで自己のヒエラルキーを上げようとしているホンタイジは手駒にすべき実子がまだ幼かったので、女子が多いアバタイ家は特に重視され、実際、天聰年間にはモンゴルとの婚姻にアバタイ家の娘のうち、四女がハラチン王家に、七女がホルチン王家に嫁いだことも紹介しています。で、この後問題になってくる六女もどうやらボルジギット氏に嫁いだようですが、これが崇徳5年のことのようです。上の記事もこの六女に関する事件だったと言うのが、この論文が取っている説ですが、多分それが事実でしょう。先に七女を嫁がせて手元に残して、ホンタイジからの縁談を二度も断っているところを見ると、六女はアバタイの嫁が特に可愛いがっていた娘だったんでしょうかね…。
 ともあれ、この後、この六女の婚姻に絡んで又一騒動起きたようです。論文を引用しましょう。

 そして崇徳5年(1640)3月にボルジギット氏の一等侍衛塞爾祜稜に嫁いでいるが、婿の詳細は不明である。ただ、この婚姻の翌月の『大清太宗文皇帝実録』巻51、崇徳5年4月乙亥(24日)条に、以下のような記載がある。この日、アバタイ家の侍女らが刑部に密告したことにより、以前アバタイの娘のひとり(六女であろう)が、巴山(パサン)ニルの克什訥(ケシネ)家の、琥珀を売る常二なる者を勝手に府第に呼び寄せていたこと、アバタイ夫人(サムハ)が六女を外藩の者・国内の者のいずれと婚約させるのが吉であるのかを占わせていたことなどが露顕した。刑部は以前(おそらく前述の崇徳元年の5月の事件のこと)、ホンタイジが、そのアバタイの六女を外藩に嫁がせようと命じても、国内の者に嫁がせようと命じても、二度とも夫人サムハが従わなかったことを再びとりあげ、それのみならずサムハが勝手に娘の相手を占いで選んで嫁がせたこと(おそらくはこの前月に一等侍衛塞爾祜稜に嫁がせたこと)を重く見なし、夫人と六女とを死刑、アバタイには罰銀1,000両の上、多羅貝勒の爵位を革去するよう奏上した。結果、ホンタイジの命により、アバタイの革爵は赦されて罰銀1,000両を支払い、夫人サムハは死を免ぜられて三子ボロの家で養われることになり、六女も死を免ぜられて婿を選んで嫁がされることになった。あらためて一等侍衛塞爾祜稜に嫁したのか、別の婿が選ばれたのかわからない。

 驚くべきことに、アバタイ夫人・サムハはホンタイジの命令を二度も断って叱責されたのに、四年後に又同じネタで事件を起こした…と言うコトのようですね。それも、占い師に娘が国内・国外の誰に嫁ぐべきか占わせて、ホンタイジにお伺いを立てるでも無く、その結果に従って勝手に嫁がせたようです。ホンタイジの命令に二回も背いた上で、まだ六女が独身だったことが驚きですね…。しかも、この論文読む限りはホンタイジに許可を得ないで勝手に六女を嫁がせたことより、占い師に嫁ぎ先を占わせたことが問題だったようです。
 と、言うわけで《太宗実録》の当該箇所も見てみましょう。

乙亥。先是、多羅饒餘貝勒・阿巴泰女、擅令巴山牛彔下克什訥家販賣琥珀人・常二、至於府第。又令使女三人輿二太監結爲姉弟。福金以其女許字國人及外藩執吉。令鳴讚官代都、問卜於黒際盛家。二使女及常二、首於刑部訊實。
福金於從前上曾兩次命以此女輿外藩、不従。又令輿國中人、亦不従。擅自擇嫁。遣官問卜、又失於閫教。
福金輿其女、倶應論死。阿巴泰屢違上命、私庇福金、全無家法。阿巴泰應革去多羅貝勒爵。罰銀一千兩。代都、黒際盛、及使女一人、太監一人、倶應論死。其一太監實供應鞭一百、入官。出首二使女、應斷出奏聞。
上命免福金死、令随其子貝子・博洛贍養。其女又免死、令擇嫁之。阿巴泰免奪爵、罰銀一千兩。代都免死、鞭一百、貫耳鼻。不據實吐供之太監・尼滿、使女・艾尼克、伏法。據實吐供之太監糾、鞭五十、入官。黒際盛免死、座以應得之罪、禁止賣卜。出首二使女斷出。常二、自首免罪。iii

 上の文章では関係者として、アバタイ、アバタイ夫人(サムハ)、アバタイの娘(六女)、侍女三名、太監(宦官?)二名、琥珀商人?・常二(チャンル?)、鳴讃官ivの代都(ダイトゥ?)、卜者の黒際盛(ヘシチェン?)という名前が挙がってます。どうやら取り調べの時には出頭した侍女二名と常二、そして太監一名は素直に供述し、その他の侍女の艾尼克(アイニク?)と太監の尼滿(ニマン?)は虚偽の供述を行ったとされています。もしかしたら主人を庇ったのかも知れませんね。
 《太宗実録》の記述にある事件のあらましは鈴木センセの論文の通りですが、事情聴取を行った刑部はサムハと六女は死罪、アバタイの爵位を剥奪した上で罰金・銀一千両とし、代都、黒際盛、侍女一名(艾尼克?)、太監一名(尼滿?)らについては皆死罪、事実を供述した太監には鞭五十回の上で身柄を宮廷付けとし、侍女二人は断出?vする様に奏上しています。
 これに対してホンタイジは、サムハの死罪を免じてベイセ・ボロの家に移し(自宅謹慎?)、六女は死罪を免じて(多分、塞爾祜稜に)嫁がせ、アバタイは爵位剥奪を免じて罰金・銀一千両、代都は死罪を免じて鞭打ち百回の上に耳や鼻に穴を開け、偽証をした太監・尼満と侍女・艾尼克は法を適用し(恐らく死罪)、正しい証言を行った太監(糾?)は鞭打ち五十回の上財産を没収して宮廷付けとし、黒際盛は死罪を免じて以後占卜を禁じました。自首してきた侍女二名は断出とし、常二は不問に付したようです。

 実録を見るに、どうやらこの案件も旗王が身内から告発される案件だったようですね。あの陰険なホンタイジに対して、外交政策上必要な適齢期の娘を差し出すことを拒んだ上に、数年経過したとは言え相談も無く勝手に嫁がせて恥をかかせた…と言う事件にしては、罪状に対する罰則が手ぬるい印象があります。まぁ、夫の元から離されて息子の家で厄介になるという罰にどう言う意味があるのかよく分からないんですが、もしかしたらボロと不仲だったり、ボロの嫁と仲悪かったりするのかも知れませんし、個人財産を没収されることが前提だったのかも知れません。この辺は想像の範囲を超えませんが。
 それはさておき、どうやらサムハは勝手に娘を結婚させたことで罪に問われたわけでは無く、皇帝の指図を袖にした上に占いの結果で娘の結婚相手を決めたことが罪だと認識されていたようですね。勝手に娘の結婚を決めたことについてはあまり触れられていないように思います。正直、え?怒るところそこなの?と言う印象です。てっきり崇徳元年の段階で六女はホンタイジの命令通りにモンゴルに嫁いだもんだと思ったら、その後も独身を貫いた上に母親が占いで決めた相手に嫁いでいるわけです。天聰年間にホンタイジや大臣に相談も無く、勝手にアブタイの娘とドドの婚姻を取り仕切っただけで爵位を剥奪されたアジゲと同じくらいの罰を受けてもしかるべきだとは思うんですが、アバタイもアバタイの嫁もさしたる降格や罰を受けるわけで無く、罰金だけで済んでいるのはなんだか依怙贔屓なんじゃ無いかと勘ぐりたくなります。
 また、他の旗王が身内から告発される案件では告発者が庇護されたり褒賞を受けたり、罪に荷担している場合はその罪を免じられたりするのですが、侍女二名と常二は罰せられはしないモノの賞されても居ない印象を受けます。他の使用人達は死罪に処せられているのでそれに比べればマシなんでしょうけど、厄介事を持ち込んでくれた…というニュアンスで読んでしまったんですが、これも穿ちすぎでしょうか…。

  1. 『歴史人類』第36号, 2008年03月
  2. 《太宗実録》巻二十九 五月丙午条
  3. 《太宗實録》巻五十一 四月乙亥条
  4. 儀式の時に祭文を読む官吏
  5. 切り出す?アバタイ家から他の家に移す?

満漢将軍号対照表

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 というわけで、ようやく国会図書館で調べてきた論文のネタを書くのです。マンジュの親王・群王号について論文がある程大鲲センセの〈清代大将军满文名号考iという論文に書いてあることを表にまとめてみました。

満漢将軍号対照表

年号西暦マンジュ号漢号対象者備考
崇徳31638hese be aliha amba cooha i ejenii奉命大将軍睿親王・ドルゴン明への侵攻の為
崇徳31638horon be algimbure amba jiyanggiyūn揚威大将軍iiiベイレ・ヨト明への侵攻の為
崇徳71642hese be aliha amba jiyanggiyūn奉命大将軍バヤン ベイレiv・アバタイ明への侵攻の為
順治元1644hese be aliha amba jiyanggiyūn奉命大将軍睿親王・ドルゴン入関作戦の為
順治元1644goroki be geterembure amba jiyanggiyūn靖遠大将軍英親王・アジゲ李自成攻撃の為
順治元1644gurun be toktobuha amba jiyanggiyūnv定国大将軍豫親王・ドド南明・江南攻撃の為
順治21645julergi be necihiyen amba jiyanggiyūnvi平南大将軍ベイレ・レクデフン南明・江南攻撃の為(ドドと交代)
順治21645waugi be toktobure amba jiyanggiyūn定西大将軍内大臣・ホロホイ張献忠攻撃の為
順治31646goroki be toktobume amba jiyanggiyūnvii靖遠大将軍肅親王・ホーゲ張献忠攻撃の為
順治31646julergi be dailare amba jiyanggiyūn征南大将軍ベイレ・ボロ南明・閩浙侵攻の為
順治31646horon be algimbure amba jiyanggiyūn揚威大将軍viii 豫親王・ドドモンゴル ハルハ、ソニト部攻撃の為
順治31646julergi be dailara amba jiyanggiyūn平南大将軍グサエジェン・タンタイ江西の金聲桓反乱鎮圧の為
順治51648waugi be necihiyere amba jiyanggiyūn平西大将軍ベイセ・トゥンチ陝西ムスリム教徒鎮圧の為
順治51648goroki be toktobuha amba jiyanggiyūnix定遠大将軍鄭親王・ジルガラン南明・湖広進撃の為
順治51648waugi be necihiyere amba jiyanggiyūn平西大将軍英親王・アジゲ大同防御の為
順治61649waugi be toktobure amba jiyanggiyūn定西大将軍敬勤郡王・ニカン大同・姜瓖の反乱鎮圧の為
順治61649waugi be toktobure amba jiyanggiyūn定西大将軍端重親王・ボロ山西汾州鎮圧の為
順治61649waugi be amba jiyanggiyūn征西大将軍巽親王・マンダハイ朔州寧武鎮圧の為
順治61649waugi be amba jiyanggiyūn征西大将軍謙郡王・ワクダマンダハイと交代
順治91652goroki be toktobure amba jiyanggiyūn定遠大将軍敬勤郡王・ニカン南明・李定国攻撃の為
順治101653goroki be toktobure amba jiyanggiyūn定遠大将軍ベイレ・トゥンチ陣没した敬謹郡王・ニカンの代役
順治101653horon be algimbure amba jiyanggiyūn宣武大将軍x安郡王・ヨロ帰化城防御の為
順治111654julergi be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn寧南靖遠大将軍グサエジェン・チェンタイ?xi湖南防御の為
順治111654goroki be toktobuha amba jiyanggiyūn定遠大将軍ジドゥxii南明・鄭成功攻撃の為
順治121655julergi be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn寧南靖寇大将軍グサエジェン・アルチン南明・孫可望侵攻の為
順治121655mederi be elhe obure amba jiyanggiyūn寧海大将軍グサエジェン・イルデ南明・浙江舟山侵攻の為
順治141657julergi be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn寧南靖寇大将軍グサエジェン・宗室ロト荊州防御の為
順治141657waugi be necihiyere amba jiyanggiyūn平西大将軍平西王・呉三桂貴州侵攻の為
順治151658goroki be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn安遠靖寇大将軍信郡王・ドニ南明・永暦政権雲南侵攻の為
順治161659mederi be tuwakiyara amba jiyanggiyūn鎮海大将軍グサエジェン・劉之源鎮江防御の為
康煕121673julergi be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn寧南蕩寇大将軍xiii順承郡王・レルギイェンxiv湖広呉三桂反乱軍攻撃の為
康煕131674goroki be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn安遠靖寇大将軍ベイレ・シャンシャン湖広呉三桂反乱軍攻撃の為
康煕131674hese be aliha amba jiyanggiyūn奉命大将軍康親王・ギイェシュ耿精忠反乱軍攻撃の為
康煕131674waugi be toktobure amba jiyanggiyūn定西大将軍ベイレ・ドンエ?xv四川呉三桂反乱軍攻撃の為
康煕131674horon be algimbure amba jiyanggiyūn揚威大将軍xvi 簡親王・ラブ江寧進軍の為
康煕131674goroki be toktobure hūlha be necihiyen amba jiyanggiyūn安遠平寇大将軍安親王・ヨロ江西進軍の為
康煕141675goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍信郡王・オジャチャハル部侵攻の為
康煕151676goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍大学士 都統・トゥハイ?xvii陝西王輔臣反乱軍攻撃の為
康煕171678goroki be elhe obure hūlha be geterenbure amba jiyanggiyūn安遠靖寇大将軍ベイレ・チャニシャンシャンと交代
康煕171678horon be yendebure amba jiyanggiyūn奮武大将軍平南王・尚之信広東から広西侵攻の為
康煕181679goroki be toktobuha hūlha be necihiyen amba jiyanggiyūn定遠平寇大将軍ベイセ・ジャンタイ湖南から雲貴侵攻の為
康煕191680julergi be dailara amba jiyanggiyūn征南大将軍都統・ライトゥ?xviii雲貴侵攻の為
康煕291690goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍祐親王・プチェンxixガルダン攻撃の為
康煕291690amargi be elhe obure amba jiyanggiyūn安北大将軍恭親王・チャンニンxxガルダン攻撃の為
康煕341695goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍右衛将軍・フィヤングガルダン攻撃の為
康煕351696amargi be necihiyen amba jiyanggiyūn平北大将軍領侍衛内大臣・マスハxxiガルダン追撃の為
康煕571718goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍ベイセ・胤禵チベット進軍の為
康煕611722goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍都統・宗室ヤンシンxxii胤 禵と交代
雍正元1723goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍川陝総督・年羹堯青海進軍の為
雍正71729jecen be bolgo obure amba jiyanggiyūn靖辺大将軍領侍衛内大臣・フルダンxxiii北路よりジュンガル侵攻の為
雍正71729goroki be elhe obure amba jiyanggiyūn寧遠大将軍川陝総督・岳鍾琪xxivジュンガル侵攻の為
雍正91731goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍大学士・マルサイxxv帰化城防禦の為
雍正91731jecen be bolgo obure amba jiyanggiyūn靖辺大将軍順承郡王・シボxxviフルダンと交代
雍正101732goroki be elhe obure amba jiyanggiyūn寧遠大将軍吏部尚書・チャランガ?xxvii岳鍾琪 xxviiiと交代
雍正101732goroki be dahabre amba jiyanggiyūn撫遠大将軍康親王・崇安臨時就任
雍正111733jecen be toktobure amba jiyanggiyūn定辺大将軍平郡王・福彭ジュンガル進攻の為
雍正131735jecen be toktobure amba jiyanggiyūn定辺大将軍戸部尚書・慶復福彭と交代
咸豊31853hese be aliha amba jiyanggiyūn奉命大将軍恵郡王・綿愉総理京師巡防を司る

 この辺は註を確認して頂きたいのですが、清の官選書である《玉牒》と《実録》でもマンジュ号、漢号で異同があったり、授封の年月に差があったりするようですが、概ね表のような感じです。清代通じて満遍なく大将軍号が授与されていたかどうかというと、どうやらそういうわけでもないようで、どうも期間に偏りがありますね…。順治年間は入関後からの対李自成、対張献忠、対南明及び、金聲桓・姜瓖などの反乱鎮圧、康煕年間は三藩の乱、対ジュンガル戦、雍正年間も対ジュンガル戦で大将軍号が授与されています。それからしばらく将軍号の授与は記録になくなり、咸豊年間に太平天国の際に久しぶりに大将軍号が授与されています。
 ホンタイジの頃はどうやらマンジュ号では大将軍は”amba cooha i ejen”であったようですが、マンジュ版《玉牒》及び《実録》でも漢語由来である”amba jiyanggiyūn”に改竄されているようです。これは、《清理紅本紀》と言う本と順治年間の檔案に押してある印字によって判明します。
hese be aliha amba cooha i ejen「hese be aliha amba coohai ejen」xxix

 なので、おそらくは揚威大将軍も、少なくとも崇徳年間は”horon be algimbure amba cooha i ejen”であったはずです。記録も檔案もないので、憶測になってしまいますが。
 ホンタイジ期には、ただ奉命大将軍と揚威大将軍があるだけだったのが、入関後からだんだん将軍号が増えていきます。順治年間にはむしろ、奉命大将軍と揚威大将軍は使われなくなる印象すらあります。順治帝はどうやら将軍号に関して改革を行ったようで、順治12(1655)年の記事として将軍印の鋳造を命じた記事があります。

(順治十二年十二月)乙卯。鑄寧海大將軍、寧海將軍、鎮海大將軍、鎮海將軍、揚威大將軍、揚威將軍、征東大將軍、征南大將軍、征西大將軍、征北大將軍、鎮東將軍、鎮南將軍、鎮西將軍、鎮北將軍、靖南將軍、安東將軍、安南將軍、安西將軍、安北將軍、靖東大將軍、靖南大將軍、靖西大將軍、靖北大將軍、撫遠大將軍、鎮西大將軍、安東大將軍、安南大將軍、安西大將軍、安北大將軍、定南大將軍、定西大將軍、定北大將軍、定東大將軍、平南大將軍、平西大將軍、定西將軍、定南將軍、定北將軍、定東將軍、鎮東大將軍、鎮北大將軍、平東大將軍、平西將軍、平東將軍、靖北將軍、靖西將軍、征北將軍、靖東將軍、撫遠將軍、平北將軍、平北大將軍、鎮南大將軍、征東將軍、征西將軍、征南將軍、平南將軍印。xxx

 何じゃよくわからんけど、いっぱい将軍号があります。なんだか順不同なので、ちょっと表にまとめましょう。

大將軍將軍
1安東大將軍安東將軍
2安西大將軍安西將軍
3安南大將軍安南將軍
4安北大將軍安北將軍
5征東大將軍征東將軍
6征西大將軍征西將軍
7征南大將軍征南將軍
8征北大將軍征北將軍
9鎮東大將軍鎮東將軍
10鎮西大將軍鎮西將軍
11鎮南大將軍鎮南將軍
12鎮北大將軍鎮北將軍
13定東大將軍定東將軍
14定西大將軍定西將軍
15定南大將軍定南將軍
16定北大將軍定北將軍
17平東大將軍平東將軍
18平西大將軍平西將軍
19平南大將軍平南將軍
20平北大將軍平北將軍
21靖東大將軍靖東將軍
22靖西大將軍靖西將軍
23靖南大將軍靖南將軍
24靖北大將軍靖北將軍
25揚威大將軍揚威將軍
26撫遠大將軍撫遠將軍
27寧海大將軍寧海將軍
28鎮海大將軍鎮海將軍

 このとき鋳造されたのは大将軍印28個と将軍印28個であったことがわかります。内容を見ていくと、安○大将軍(将軍)、征○大将軍(将軍)、鎮○大将軍(将軍)、定○大将軍(将軍)、平○大将軍(将軍)、靖○大将軍(将軍)の各将軍号が東西南北で合計24個×2。それに、揚威大将軍(将軍)、撫遠大将軍(将軍)、寧海大将軍(将軍)、鎮海大将軍(将軍)の4個×2で総計28大将軍号と28将軍号の印綬がこのとき鋳造されたようです。
 実際には順治12(1655)年の段階でも、寧南靖寇大将軍の授与が行われているように、将軍印の鋳造と実際に付与される将軍号の間には関係がなさそうですが、個人的には奉命大将軍印を作らなかったあたり、順治帝は徹底的にドルゴンの痕跡を消し去ろうとしてたのでは…と、いう意図を読みとってしまいます…。
平西大将軍「waugi be necihiyere amba jiyanggiyūn i doron/平西大將軍印」xxxi

 時期は違いますが、このときに鋳造されたのも、おおよそ上の画像のような満漢合璧印だったようです。元々の影印はどうやら印字に関するカタログの一部なんだろうと思いますが、満漢合璧で解説がついてます。解説によると、この印は順治5年閏4月に鋳造されて、順治6(1649)年に英親王・アジゲ、順治14(1657)年に平西王・呉三桂に賜与された印だということです…。てか、解説通りなら、順治12年に鋳造された印は無視されてるってことになるんでは…。

 それはともかく、由緒ある将軍号である奉命大将軍も揚威大将軍も順治帝親政以降はあまり使われなくなり、次第に撫遠大将軍や定遠大将軍などがそれに変わって使われるようになったという感じですかね。
 皇族が多いのは軍団を率いるに足る人材が旗王に多かったということでしょうから、ある意味当然でしょう。で、皇族以外では内大臣やグサ・エジェンが任命されることが多かったのが、次第に内大臣や藩邸旧人など皇帝本人に近しい人間が任命されるようになっていくようです。なんだか、皇帝権の確立の一面として語れそうですね。
 ホロホイはこうしてみると、正藍旗の乱というか、マングルタイ兄妹の謀反未遂事件の密告による功績だけではなく、よほど出自がよかったのかなぁ…というか、そうでもないと納得できない抜擢ですね。清代の大将軍は一軍の将というより、大規模な軍事行動の方面軍司令官というイメージですし。あと、こうしてみると皇子にして撫遠大将軍に任命されているのは胤禵くらいなんですね。周りを宿老で固めたにしてもやはり異例だと思えます。

  1. 《满语研究》2013年02期
  2. 《清太宗実録》も《玉牒》もマンジュ号をhese be aliha amba jiyanggiyūnとしているが、《清理紅本紀》では明確にhese be aliha amba cooha I ejenとしている。
  3. 《玉牒》による。《清太宗実録》によると、揚武大将軍。マンジュ号は同一
  4. 饒餘貝勒
  5. 《玉牒》による。《清世祖本紀》ではgurun be toktobure amba jiyanggiyūn。
  6. 《玉牒》による。《清世祖本紀》ではjulergi be necihiyere amba jiyanggiyūn。
  7. 《玉牒》による。《清世祖実録》ではgoroki be toktobure amba jiyanggiyūn。
  8. 《清世祖実録》による。《玉牒》には威遠大将軍とある。マンジュ号は同一。
  9. 《玉牒》ではgoroki be toktobure amba jiyanggiyūn。《清世祖実録》ではgoroki be toktobume amba jiyanggiyūn。⇒では、この表は何を根拠にしたものなのだろう…。
  10. 《玉牒》による。《清世祖実録》によると、宣威大将軍
  11. 陳泰
  12. 世子
  13. 《玉牒》のよる。《清世祖実録》では寧南靖遠大将軍。マンジュ号は同一。
  14. 勒爾錦
  15. 董額
  16. 《清世祖実録》による。《玉牒》には威遠大将軍とある。
  17. 図海
  18. 賚塔
  19. 福全
  20. 常寧
  21. 馬思喀
  22. 延信
  23. 溥爾丹
  24. 元表では岳忠琪
  25. 馬爾賽
  26. 錫保
  27. 査朗阿
  28. 元表では岳忠琪
  29. 庄声「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号
  30. 《大清世祖實錄》卷九十六
  31. 《清史図典》第二冊 順治朝 P.55

ドルゴンの印璽

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 と言うわけで、前回触れた大将軍号印の話から、今回はドルゴンの入関前後からの勅書に捺印される印璽の話です。
 まず、「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」という論文から長めの引用です。

hese be aliha amba cooha i ejen「hese be aliha amba coohai ejen」

一方、崇徳八年(1643)に太宗のホンタイジが没すると、ドルゴンは幼少の順治帝を擁立し、鄭親王のジルガランとともに輔政王として攝政に就任した。そして、明攻略事業の主役であった攝政王ドルゴンは、しばしば降伏を勧める詔勅を出したが、その文書にはなんとホンタイジが、和碩睿親王ドルゴンに[奉命大将軍]と称号を授け与えた[hese be aliha amba coohai ejen]という勅印が使われていた。本来なら詔勅には[制誥之寶]や[皇帝之寶]を捺すべきであるが、それにふさわしくない「官印」を用いたことには違和感があろう。しかも、攝政王ドルゴンは次に列挙するように、意識的に印を使い分けていることがわかる。

ⓒ 勅諭都督府都督僉事孔希貴、茲以定鼎燕京、薊鎭爲畿輔要區、建威銷萌亟需彈壓、特命爾充總兵官、鎭守薊州等處地方。(中略)。順治元年九月十一日。※印[hese be aliha amba coohai ejen]。
ⓓ 皇帝勅諭衍聖公孔興燮。(中略)。順治六年十二月十一日。※印[制誥之寶]。
ⓔ 大淸國/攝政王令旨諭都司徐標・沈高簡等。(中略)。順治元年八月十八日。※印[hese be aliha amba coohai ejen]。
ⓕ 攝政王令旨諭諸王及大臣知悉。(中略)。順治元年五月 日。※印「なし」。

以上、例のⓒは、明の総兵官である孔希貴を薊鎮の総兵官に任命した勅諭であり、勅諭といっても年月日に捺されたのは印璽ではなく、官印の[hese be aliha amba coohai ejen]であり、同様にⓔの「大清国攝政王令旨」にも使われていた。一方、ⓓは衍聖公に下した勅諭であり、衍聖公とは山東省の曲阜にあって歴代王朝から尊崇を受けていた孔子直系の子孫のことで、いわば中華の精神文化の伝統を象徴する身分である。これに対して用いるのは、清廷が自ら刻した印璽ではなく、天の命の象徴として有徳の王者のもとに帰した「伝国の璽」こそふさわしいと考えたわけである。つまり、衍聖公に下した勅諭には上述した漢文のみの[制誥之寳]が使われたことがわかる。i

 と言うわけで、入関作戦前にドルゴンが詔勅を降した…と書いてる割に、日付がないのでよくわかりません。順治元(1644)年4月以降はドルゴンは正式に奉命大将軍に任命されていますから、”hese be aliha amba coohai ejen”印を使用していても、それがホンタイジが崇徳3(1638)年にドルゴンが任命された時に使用していた印だとしても、再任されているわけですからまた意味が違うのではないかと思うんですけどねぇ…。
 ともあれ、ドルゴンは崇徳末年には吏部管理部務王であったので、吏部印(hafun i jurgan i doron)であってもいいんじゃないかと思うんですが、やはり、奉命大将軍印(hese be aliha amba coohai ejen)である点は注意を要する点かもしれません。

hafun_i_jurgan_i_doron「hafun i jurgan i doron」ii

 一方、ⓕは、対内の諸王や大臣等に出した「勅諭」であるが、奇妙なのは年月日は書かれているのに、印を用いていないことである。かつて今西春秋は、「勅諭として全然体を成さぬことである。漢文の終わりにも、又満文の終わりにも、全く日付の記入が無い。日付の下部に押捺さるべき最も重要な印璽が無い。謂わば正式の勅諭として発令されたものではない」と述べている。これは順治六年(1649)正月八日に『太宗実録』の編修のために、内三院の大學士であるガリン(剛林)や甯完我等に下した攝政王の「勅諭」である。確かに、その後の甯完我や洪承疇に下した「勅諭」も公刊されたものを見る限りでは、今西春秋が指摘したように、満漢合璧の形で日付と印璽が、いずれも用いられていないことは明らかである。当時は公表された史料に限りがあるから、正式の勅諭ではないと考えたのは当然なことだろう。
 ところが、ⓕの場合は、「攝政王」は「天」より一文字を下げているのに対し、実録編修の勅諭の冒頭の「皇父」は、太宗と同じく二文字を抬頭し、また先述した順治七年(1650)十二月二十日の「皇父攝政王多爾袞喪儀合依帝礼詔」は、「皇父」を「天」と「太宗」とともに二文字抬頭する一方で、「皇帝」の方はかえって下げられている。「皇父」を加えるだけで勅諭に変化が表れていることがわかる。そもそも対外的には攝政王の勅諭であれば、ドルゴンは自らの将軍官印を捺していたにもかかわらず、「皇父」になると日付から印まで存在せず、正式の勅諭ではないように思わせた理由は何なのだろうか。ここに、時間と空間をこえた歴史考察の難しさがある。
 こうしてみると、すでに片岡一忠(2008)は、「攝政王令旨には北京入城以前から押印がない」と指摘していたが、しかし、ⓔのように将軍の官印が捺されたとすると、必ずしもそうとも言えないことがわかる。とりわけ、冒頭に「勅諭」と「大清国攝政王令旨」とある場合には、将軍の官印を使用しており、それは、フリン(福臨)は幼少で即位したため叔父のドルゴンが攝政王、ジルガランが輔政王となり、しかも、明攻略事業と北京遷都など初期草創期において、ドルゴンが国政の最高権力者として存分に活躍し、入関前後の多難な政局の運営に当たって、そのとき最高の権力の所在を示すのがほかでもないこの官印なのである。例のⓒとⓔとはそうした状況の証左ともいえる事例だろう。iii

 と言うわけで、睿親王なり皇父摂政王なりそれに即した印璽もあったはずですが、檔案などで認められるのは奉命大将軍印だけのようですね。もっとも、論文で上げられているのは順治元年の詔勅なので、皇父摂政王に封じられて以降の檔案ではないのでしょうから、何とも言えませんが…。論文で上げられている「皇父攝政王多爾袞喪儀合依帝礼詔」はドルゴン死後に順治帝が下した詔勅なので、「han i boobai/皇帝之寶」が捺されていても、ドルゴンが自分で捺すわけはありませんから問題はないことになります。

boobai「gurun be tuwašare doro be aliha wang ni boobai/監国摂政王寳」iv

 上の印は宣統帝・溥儀の父親にして最後の摂政王である醇親王・載灃のものですが、こういう感じの印はドルゴン時代のものは残っていないみたいですね。なんだか奇妙に思えます。ちなみに皇父摂政王は”doro be aliha han i ama wang”なので印文はまた違ってくるはずです。関係ないですけど、奉命大将軍=”hese be aliha amba cooha i ejen”とは”aliha”という単語が共通してるんすな。お気に入りの単語だったんですかね。

 ところで、ドルゴン死後に上げられた罪名として玉璽を自宅に持ち帰った…と言うのがあったので、てっきりそういう檔案があるんだと思ってたんですよね…。

 順治帝をつれて北京にうつったドルゴンは、いまや完全な独裁者になった。彼は皇父摂政王の称号をもち、皇帝の印璽を自分の邸にもちだして政務をとり、いっさいの文章はドルゴンのもとにおくられてその決済をうるようになった。v

 この印璽が「制誥之寶」なのか「han i boobai/皇帝之寶」なのかは不明ですけど、手元にあった概説書『紫禁城の栄光 明・清全史』にもこうあります。念のためにソースを確認してみましょう。

(順治八年二月)癸巳,蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫首告故攝政王多爾袞逆節皆實,籍其家,誅其黨何洛會、胡錫。vi

 《清史稿》本紀のドルゴンが罪を問われる記述では、具体的には何も載っていませんね…。

(順治八年)二月,蘇克薩哈、詹岱訐告王薨時,其侍女吳爾庫尼將殉,請以王所製八補黃袍、大東珠素珠、黑貂褂置棺內。王在時,欲以兩固山駐永平,謀篡大位。固山額真譚泰亦言王納肅王福金,復令肅王子至第較射,何洛會以惡言詈之。於是鄭親王濟爾哈朗、巽親王滿達海、端重親王博洛、敬謹親王尼堪及內大臣等疏言:「昔太宗文皇帝龍馭上賓,諸王大臣共矢忠誠,翊戴皇上。方在沖年,令臣濟爾哈朗與睿親王多爾袞同輔政。逮後多爾袞獨擅威權,不令濟爾哈朗預政,遂以母弟多鐸為輔政叔王。背誓肆行,妄自尊大,自稱皇父攝政王。凡批票本章,一以皇父攝政王行之。儀仗、音樂、侍從、府第,僭擬至尊。擅稱太宗文皇帝序不當立,以挾制皇上。搆陷威逼,使肅親王不得其死,遂納其妃,且收其財產。更悖理入生母於太廟。僭妄不可枚舉。臣等從前畏威吞聲,今冒死奏聞,伏願重加處治。」詔削爵,撤廟享,並罷孝烈武皇后諡號廟享,黜宗室,籍財產入官,多爾博歸宗。vii

 ドルゴンの列伝を見ても、ジルガランから恨みがましい感じで、儀仗、音樂、侍從、府第が不遜だった!という告発があったみたいですが、肝心の玉璽のことは触れられていません。

(順治八年二月)癸巳。蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫首告睿王薨於出獵之所。侍女吳爾庫尼、將殉葬時。呼羅什、博爾惠、蘇拜、詹岱、穆濟倫五人至。囑之曰。王曾不令人知備有八補黃袍、大東珠素珠、黑狐褂、今可潛置棺內。及回家殯殮時。羅什、蘇克薩哈、詹岱、穆濟倫將八補黃袍、大東株素珠、黑狐褂潛置棺內。又王欲於永平府圈房、偕兩旗移駐。與何洛會、羅什、博爾惠、吳拜、蘇拜等密謀定議。將圈房之人、已經遣出。會因出獵稽遲未往等語。事聞。
上令諸王大臣質訊。時固山額真尚書譚泰、亦首言睿王取肅王妃并令肅王諸子至第較射時、何洛會詈之曰:「見此鬼魁、不覺心悸。」蘇克薩哈告於睿王。王曰:「想彼欲媚我而為是言也。但我之愛彼、更自有在。」貝子錫翰、亦首言何洛會向我言:「上今親政。兩黃旗大臣、與我相惡。我昔曾首告肅王。今伊等豈肯不殺我、而反容我耶。」於是併案會訊俱實。以睿王私制御用服飾等件。又欲率兩旗駐永平。陰謀篡逆。睿王應籍沒、所屬家產人口入官。其養子多爾博、女東莪、俱給信王。何洛會前首告肅王。非肅王有抗上之罪也。肅王以睿王攝政、心懷篡逆。不能隱忍發言。何洛會黨附睿王、乃以首告。彼時即應正法。今複言皇上親政。兩黃旗大臣、與我相惡。必挾仇殺我。罪一。以惡言加肅王諸子。罪一。睿王欲另駐永平時、同與密謀。罪一。何洛會應凌遲處死。籍其家。胡錫、知其兄何洛會種種逆謀、不行舉首。亦應凌遲處死。籍其家。蘇拜、知睿王棺內置黃袍、黑狐褂、東珠素珠、徇隱不首。罪一。睿王欲另駐永平時、同與密謀。罪一。蘇拜、應斬。因先犯死罪、曾蒙聖恩寬宥。仍應免死。奏入。得旨、依議。viii

 で、《実録》確認すると、やっぱり一番詳しいですね。しかし、ドルゴン死後の罪状としてココで上がっているのは、1:勝手に皇帝の専用衣装である黄袍を作らせ、大真珠、黒狐(貂?)のコートと一緒に棺に入れるようにと、侍女であるウルフニ?(吳爾庫尼)を通してスクサハらに指示したこと。2:(本来両黄旗が領有すべき)永平府を両白旗の旗地(圏地)として横領したこと。3:謀反を企んだこと。あとは間接的に、4:ホーゲ未亡人を娶ったこと(ひいてはホーゲを冤罪によって処刑したこと)。あたりが上がっていますが、玉璽を勝手に邸宅に持ち帰ったことは少なくともこの時には問題視された形跡がありません。重大なことだと思うんですけどね…。というか、ドルゴンが玉璽をガメていたとするソースがパッと出てきませんでしたねぇ…。
 それはともかく、ネットなどで見かけてはいたんですが、ドルゴンの娘の名前を東莪とするソースなんなんだろうなぁ…と思ってたんですが、《清世祖実録》のこの記事なんですね。養子である後継者・ドルポとともに信郡王・ドニ預かりになったと言う下りに出てきます。

睿親王取肅親王福金,召肅親王諸子入府校射,何洛會詈之曰:「見此鬼魅,不覺心悸!」尚書譚泰聞其語。及睿親王薨,世祖親政,何洛會語貝子錫翰曰:「兩黃旗大臣與我相惡,我嘗訐告肅親王,今豈肯容我?」八年二月,蘇克薩哈等訐睿親王將率兩白旗移駐永平,且私具上服御,及薨用斂,何洛會、羅什、博爾惠等皆知狀。時羅什、博爾惠已先誅,執何洛會,下王大臣會鞫。譚泰、錫翰各以何洛會語告,又追論誣告肅親王罪,與其兄胡錫並磔死,籍其家。ix

 ホロホイの下りに出てくるフシ?(胡錫)は《実録》ではホロホイの弟になっていますが、《清史稿》ではホロホイの兄になっています。なんにせよ、ホロホイの親族でわかるのは、このフシだけなのかなぁ…と言うことでメモ。

 もっとも、ドルゴン大嫌いの順治帝のことですから、ドルゴンが下した勅書の中で玉璽が捺されていたり、皇父摂政王印に類する印璽が捺されていた档案が棄却された可能性はあるのですが、それなら、「制誥之寶」あたりも棄却されててもおかしくないと思うんですが、どうなんですかねぇ…。

  1. 庄声 「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号
  2. 《清史図典》第一冊 太祖 太宗朝 P.201
  3. 庄声 「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号
  4. 《清史図典》第十一冊 光緒 宣統朝 上 P.77
  5. 岡田英弘/神田信夫/松村潤『紫禁城の栄光 明・清全史』講談社学術文庫 1784 P.216
  6. 《清史稿》卷五 本紀五 世祖 福臨 二 順治八年
  7. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞
  8. 《大清世祖實錄》卷五十三
  9. 《清史稿》卷二百四十六 列傳三十三 何洛會

マングルタイ兄弟謀反未遂事件に登場する「金国汗印」について

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 今回はマングルタイ兄弟謀反未遂事件に登場する、「金国汗印」もしくは「大金国皇帝之印」、「金国皇帝之印」の話です。

 すでに病没していたマングルタイ兄弟が謀反の嫌疑にかけられ、その遺族である同母妹=マングジ・ゲゲらの裁判が終わった後に続けてこんな記事があったりします。まずは日本語の本から。

 その後、家宅捜索の結果、不軌の証拠として「金国汗印」なるものが発見されたという。i

 マングルタイ兄弟謀反未遂事件自体が、日本語ではまとまった文献というと、杉山センセの本にしか載っていないのですが、要するに「金国汗印」の発見がマングルタイ謀反の物的証拠とされたっていうことです。このあたり個人的にはなんだか違和感があってしっくりこなかったんですよね。なので、ソースを確認して見ましょう。

(天聰九年)搜得牌印十六,文曰「大金國皇帝之印」。ii

 《清史稿》のマングルタイ伝を確認すると、牌印十六とあります。「牌印」?印璽ではないんですかね…。おまけになんだか「大金國皇帝之印」と、杉山センセの本とは印文が微妙に違います。

(天聰九年十二月辛巳)莽古爾泰家復獲所造木牌印十六枚。視其文、皆曰金國皇帝之印。iii

 更に《清太宗實録》を確認すると、こんな感じです。マングルタイの家を家宅捜索したところ、木製の「牌印」を十六枚見つけたと。木製とわざわざ断っている点にも、個人的にはなんだかずっと引っかかっていたんですよねぇ…。で、印文は「金國皇帝之印」です。むーん…なんじゃこりゃ。

(天聰九年十二月初五日)后抄莽古尔泰贝勒家器皿时、获木制牌十六枚、视其文、曰;”金国汗之印”。iv

 で、満文内国史院檔ではこんな感じのことが書いてるようです。相変わらず元のマンジュ文がないので何とも言えませんが、ほとんど実録と内容は変わりませんね。ただ、印文が「金国汗之印」になっています。思うにこりゃ、マンジュ文の漢訳のブレでしょうね。

 で、以前も引用した「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」を見ると、こんなことが書いてあるので、長めですが引用してみましょう。

 さて、太宗のホンタイジより年長であるマングルタイ(莽古爾泰 manggūltai、ヌルハチの五子)等は、かつて簒奪を企てていたことを、マングジの家僕レンセンギが刑部のジリガランに密告し、これを知った諸王は懲罰を決議、ホンタイジも裁可し、かくて関係者が逮捕処刑された。そこではマングルタイの家から不軌の証拠として[金国汗印]なるものが発見されていた。その記事を以下の『満文内国史院檔』から引用する。

また、後にマングルタイ・ベイレの家で器物を調べると、木で造った「pai doron・牌印」が十六箇も見つかった。みると[aisin gurun i han i doron]と書かれていた。その印を大衙門に持っていて、諸ベイセ、大臣にすべての民を集めて、その事実を読み上げた。

とある。manggūltai beile の家から木で作った「pai doron」が十六個も見つかっており、それに[aisin gurun i han i doron]と記されていた内容がうかがえるが、印璽であるには間違いないだろう。つまりこれは[金国汗印]なるものが「pai doron」という、訳せば「牌印」という意味であることがわかる。かつて Fuchsにより学界に紹介されたが、それは「くぼんだ12.1cm の一面に朱印を捺した紙が貼り付けられたが、その朱印は[aisin gurun i han i doron]なるものの「牌」である。その正面には三種類の文字が刻まれていたが、おそらくヌルハチ時代からホンタイジ時代にかけて使われたインペアルコマンド」だと述べられている。確かに【図 6】によると、無圏点のマンジュ文字(HAN I TORON / han i doron)以外に、モンゴル文字(qagan u tamga)と漢文(皇帝之寳)も刻まれている。明の場合にはもっぱら詔書や勅書に捺されていたのは[皇帝之寳]という印璽である。だが、これは「印」として詔書に捺すものではなく、身分証明書として使われた「パイ」に使用されたものである。かつて天命年間に馬に財貨を載せて運ぶときには必ず「パイ」を持たせたし、これに関しては罰則も規定されていた。こうしたものは瀋陽故宮博物院には、五百個ほど所蔵されており、「パイ」はグルンで文書などを送達するときに欠かせない存在であり、さらに「パイ」自体に欠かせないものこそ、やはり「印璽」であった。v

 おお……。謎は氷解。やはり、印文は「aisin gurun i han i doron」というマンジュ文を漢語に翻訳する際のブレですね。かつ、なんだろう?と思っていた「牌印」はパイと呼ばれる木製の牌だということですね。身分証というか通行証というか…虎符や割符のように所持していることで、ハンの代理人であることを証明するものが牌印=パイと言う理解でいいんじゃないかと思います。論文で写真も上がっていますが、折角なので手元にある《大清盛世 瀋陽故宮文物展》図録の写真を見てみましょう。

パイ(表)「han i doron/qagan u tamga/皇帝之寳」vi
パイ(裏)「aisin/gurun i/ han i/doron」vii

 おお…グレイト。論文で指摘されている通りの文面の通りです。まぁ、瀋陽故宮にはこんなのが500個残ってたと言うので、ありがたみはないんでしょうけど。要するに、マングルタイは自宅に「aisin gurun i han i doron」が捺されたパイを16枚隠匿していたのが、謀反の証拠とされたようですね。もっとも、こういったパイは公務に携わる人間に支給されるものなので、恐らくマングルタイ邸は旗王継承の段階で主人が代わってデゲレイ邸となっていたのでしょうから、この年に病没したデゲレイがパイを持っていても不思議ではないはずです。まぁ、もしかしたら厳重に管理すべきパイを王府に持ち帰っていたことが問題視されたのかもしれません。でも、500枚も現存するパイが16枚あったからといって果たして謀反の物的証拠になるのかというと、個人的にはやっぱり言いがかりなんじゃないかと感じてしまいますが…。
 何はともあれ、今まで気になってた記載の意味がわかって個人的には大満足なのでした。画像もあるとわかりやすいですね。

 あと、ついでですが、先ほどの論文は続けて崇徳年間のパイについても触れています。

 ホンタイジは崇徳三年(1638)三月一日に北に向かって行軍し、狩猟しながらモンゴル各部を訪問し、いたるところに懇ろな歓迎を受けたり、温泉に入ったり、時折盛京城を留守する王や大臣等に勅書を下したりしていた。ところが、崇徳三年(1638)三月二十六日付けの記事を見てみると、助手三人に「akdun temgetu・信牌」を持たせ、盛京城の国史院大学士ガリンのもとに遣った。ガリンに「帰化城に交易に赴いた我が国の人を迎えに、駐防前鋒兵を速やかに差遣せよ」と諭して、助手三人に「akdun temgetu」を持たせて盛京に行かせたのである。『清文総彙』によると、「akdun temgetu」は「聖旨龍牌、乃伝布聖旨于四方用者」と解釈され、『五体清文鑑』はこれを「信牌」と訳し、文字通り信憑性のある「牌」の意味である。つまり、「信牌」とは身分証明書でもあり一種の交通手形でもある。ここで三人が所持した「akdun temgetu」は『清史図典』に収録された「寛温仁聖皇帝」という信牌に違いない。それはマンジュ・漢文・モンゴルの三文字で刻まれたもので、それぞれ「gosin onco hūwaliyasun/enduringge han i akdun temgetu:」・「寛温仁聖/皇帝信牌」・「aγuu örüsiyeici nayiramda-qu boγda qaγan –u itegel-tü temdeg」とあり、「寛温仁聖皇帝」とは、崇徳元年(1636)四月にマンジュ・モンゴル・漢の八旗の推戴をうけて、「金国ハン」から「大清皇帝」に即位した太宗ホンタイジの称号である。つまり、この「akdun temgetu」は崇徳年間に発行されたものとわかる。文字の部分がくぼんで、金色を塗りつけた陰文の信牌であるため読みやすい。赤色で塗られた木で作られ、上部に浮き彫りの龍がはめ込まれ、その上の穴から金色の紐が、革で作られたカバーの穴に通されている。さらにカバーの表面には龍の文様が描かれている。それは、皇帝権力のシンボルとする五爪の龍である。このような信牌は諭旨や身分証明書等によく使われるようである。もともとの「信牌」については、意訳の「akdun temgetu」でなく、「パイ」あるいは「パイ・ドロン」と称していた。

 手元の図録にあるので、これも見てみましょう。

akdun temgetu「寛温仁聖皇帝信牌」viii
寛温仁聖皇帝信牌 拡大「gosin onco hūwaliyasun/enduringge han i akdun temgetu:/
皇帝信牌/寛温仁聖/
aγuu örüsiyeici nayiramda-qu/boγda qaγan–u itegel-tü temdeg」拡大ix

 実際の文物がこうやって画像上がると、ホホーッと説得力出ますねぇ。と言うわけで、崇徳年間のホンタイジの生号は「寛温仁聖皇帝=gosin onco hūwaliyasun enduringge han」ということになるみたいですね。ふむふむ。こういうことがあるので図録収集もやめられないんですよねぇ…。

  1. 杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版 P.240
  2. 《清史稿》巻二百十七 列傳四 諸王三 太祖諸子二 莽古爾泰
  3. 《清太宗實録》巻二十六
  4. 中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案译编》光明日报出版社 上巻 P.214~215
  5. 庄声 「グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─」『歴史文化社会論講座紀要』 第12号
  6. 《大清盛世 瀋陽故宮文物展》国立故宮博物院 P.59
  7. 《大清盛世 瀋陽故宮文物展》国立故宮博物院 P.59
  8. 《大清盛世 瀋陽故宮文物展》国立故宮博物院 P.60
  9. 《清史図典》紫禁城出版社 巻一 太祖 太宗朝 P.189

満文老档の時代

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 清初のことを調べていると、なんとも《満文老档》がないと、どうしようもない…みたいな感じになってます。まぁ、もっと言えば中国第一歴史档案館蔵の《内国史院満文档案》見ないと詳しいことは分からんよ!なんですけどね…。まぁ、《満文老档》の和訳である東洋文庫の『満文老檔』の古書は検索すれば結構目につくんですが、価格は結構なお値段なんですよね…。で、仕方なくつらつらと国会図書館のサイト見てたら、『満文老檔』が電子化されている模様です!おお、すばらしい…と、中身見ようとしたら、現地に行かないと見せてあげないよ!っていう括りがある模様。グギギと思うものの、それぞれ目次がつけられていたので、今回はそれをペタペタ貼って誤魔化してみます。

満文老档 第1 (太祖 第1)
第一 萬曆三十五年三月―三十八年十二月
第二 萬曆三十九年二月―四十一年正月
第三 萬曆四十一年十二月―四十二年十二月
第四 萬曆四十三年正月―十二月
第五 天命元年正月―二年十月
第六 天命三年正月―閏四月
第七 天命三年五月―十二月
第八 天命四年正月―三月
第九 天命四年三月―六月
第十 天命四年六月
第十一 天命四年七月
第十二 天命四年八月
第十三 天命四年十月―十二月
第十四 天命五年正月―三月
第十五 天命五年四月―六月
第十六 天命五年七月―九月
第十七 天命六年二月―閏二月
第十八 天命六年閏二月―三月
第十九 天命六年三月
第二十 天命六年三月―四月
第二十一 天命六年四月―五月
第二十二 天命六年五月
第二十三 天命六年六月
第二十四 天命六年七月
第二十五 天命六年八月
第二十六 天命六年九月
第二十七 天命六年九月―十月
第二十八 天命六年十一月
第二十九 天命六年十一月
第三十 天命六年十二月
第三十一 天命六年十二月i

 万暦35(1607)年からってことは、たぶんフォイファを滅亡させた年から筆起こしているのかなと…。アシシン・グルンの成立は天命元(1616)年だから、その9年前からか。

満文老档 第2 (太祖 第2)
第三十二 天命七年正月
第三十三 天命七年正月
第三十四 天命七年正月―二月
第三十五 天命七年二月
第三十六 天命七年二月
第三十七 天命七年二月
第三十八 天命七年三月
第三十九 天命七年三月
第四十 天命七年三月―四月
第四十一 天命七年四月―六月
第四十二 天命七年六月
第四十三 天命八年正月
第四十四 天命八月正月―二月
第四十五 天命八年二月
第四十六 天命八年二月―三月
第四十七 天命八年三月
第四十八 天命八年三月―四月
第四十九 天命八年四月
第五十 天命八年四月―五月
第五十一 天命八年五月
第五十二 天命八年五月
第五十三 天命八年五月―六月
第五十四 天命八年六月
第五十五 天命八年六月
第五十六 天命八年六月―七月
第五十七 天命八年七月
第五十八 天命八年七月―八月
第五十九 天命八年九月
第六十 天命九年正月
第六十一 天命九年正月―六月
第六十二 天命九年六月
第六十三 天命九年六月ii

 年度としては抜けはないものの、月ごとに見ると割と歯抜けなんすな。天命7年6月の次が天命8年正月だったり、天命8年9月の次が天命9年正月だったり…。なんか、記述にムラがありますね。

満文老档 第3 (太祖 第3)
第六十四 天命十年正月―三月
第六十五 天命十年四月―八月
第六十六 天命十年八月―十一月
第六十七 天命十一年五月
第六十八 天命十一年五月
第六十九 天命十一年五月
第七十 天命十一年五月
第七十一 天命十一年三月―六月
第七十二 天命十一年六月―八月
第七十三 天聰四年三月―五月
第七十四 無 年 月
第七十五 無 年 月
第七十六 無 年 月
第七十七 無 年 月
第七十八 無 年 月
第七十九 萬曆三十八年
第八十 萬曆三十八年
第八十一 萬曆三十八年
補遺iii

 こっちも結構歯抜けの上に、天聰4年の記事が挟まっていたり、年月表記がない記事、さらに遡って万暦年間の記事が入ってますね。

満文老档 第4 (太宗 第1)
第一 天聰元年正月―二月
第二 天聰元年三月―四月
第三 天聰元年四月・正月
第四 天聰元年正月―四月
第五 天聰元年四月―五月
第六 天聰元年五月―六月
第七 天聰元年七月―八月
第八 天聰元年九月―十二月
第九 天聰二年正月―三月
第十 天聰二年三月―八月
第十一 天聰二年正月―三月
第十二 天聰二年四月
第十三 天聰二年八月―十月
第十四 天聰二年十二月
第十五 無 年 月
第十六 天聰三年正月―七月
第十七 天聰三年七月―十月
第十八 天聰三年十月―十一月
第十九 天聰三年十一月
第二十 天聰三年十二月
第二十一 天聰四年正月
第二十二 天聰四年正月―二月
第二十三 天聰四年二月
第二十四 天聰四年二月
第二十五 天聰四年三月
第二十六 天聰四年三月―四月
第二十七 天聰四年四月
第二十八 天聰四年五月
第二十九 天聰四年五月―六月
第三十 天聰四年六月
第三十一 天聰四年六月―七月
第三十二 天聰四年八月―十二月
第三十三 天聰四年正月―四月iv

 で、太宗の代に移り年号も天聰になります。天聰元年、天聰2年の記事が行ったり来たりしているのが気になりますが、歯抜けは減っていますね。網羅的になっています。

満文老档 第5 (太宗 第2)
第三十四 天聰五年正月
第三十五 天聰五年二月―三月
第三十六 天聰五年三月―四月
第三十七 天聰五年四月
第三十八 天聰五年四月―七月
第三十九 天聰五年七月―八月
第四十 天聰五年八月―九月
第四十一 天聰五年九月
第四十二 天聰五年十月
第四十三 天聰五年十月―閏十一月
第四十四 天聰五年十二月
第四十五 天聰六年正月
第四十六 天聰六年正月
第四十七 天聰六年正月
第四十八 天聰六年正月
第四十九 天聰六年二月
第五十 天聰六年二月
第五十一 天聰六年三月―四月
第五十二 天聰六年四月
第五十三 天聰六年五月
第五十四 天聰六年六月
第五十五 天聰六年六月
第五十六 天聰六年六月
第五十七 天聰六年七月―八月
第五十八 天聰六年八月―九月
第五十九 天聰六年十月
第六十 天聰六年十一月―十二月
第六十一 無 年 月v

 巻数変わって分かりづらいですけど、天聰4年4月から天聰5年正月に飛んでますね。それ以外は年月飛ぶこともなくキッチリ並んで歯抜けもありません。やればできるじゃん!

満文老档 第6 (太宗 第3)
第 一 天聰十年正月
第 二 天聰十年二月
第 三 天聰十年二月
第 四 天聰十年二月
第 五 天聰十年三月
第 六 天聰十年三月
第 七 天聰十年四月
第 八 崇德元年四月
第 九 崇德元年四月―五月
第 十 崇德元年五月
第十一 崇德元年五月
第十二 崇德元年五月
第十三 崇德元年五月
第十四 崇德元年五月
第十五 崇德元年六月
第十六 崇德元年六月
第十七 崇德元年六月
第十八 崇德元年六月
第十九 崇德元年七月
第二十 崇德元年七月
第二十一 崇德元年七月
第二十二 崇德元年七月
第二十三 崇德元年七月
第二十四 崇德元年八月
第二十五 崇德元年八月vi

 と、言った後にいきなり年単位でスッ飛んでますね。天聰6年12月の次が天聰10年=崇徳元年です。なるほどこれはいただけない…。

満文老档 第7 (太宗 第4)
第二十六 崇德元年九月
第二十七 崇德元年九月
第二十八 崇德元年九月
第二十九 崇德元年十月
第三十 崇德元年十月
第三十一 崇德元年十月
第三十二 崇德元年十月
第三十三 崇德元年十一月
第三十四 崇德元年十一月
第三十五 崇德元年十一月
第三十六 崇德元年十一月
第三十七 崇德元年十一月
第三十八 崇德元年十二月vii

 で、その後、崇徳元年12月まで書いて終わっているようです。ちなみに古書市場では7巻が希少本となっていて、これがあるのとないのとでは価格がかなり違います。…ですが、この期間ならまぁ何とか誤魔化せるかなぁ…ってとこですね。実録見ても何とかなりそうな…いや、見てないんで何とも言えませんが。
 
 それにしても…《満文老档》が歯抜けだとは前々から聞いていたものの、寡聞にしてどの辺がどれくらい抜けてるのか?調べてませんでしたが、確かに天聰7年から天聰9年まで抜けてるのはいただけませんね…。

 と言う所を汲んで、《旧満洲檔》とか《満文舊檔》と言われる、《満文老档》の原稿と目される資料が台湾の故宮博物院で見つかって、それに天聰9年部分を訳したものが、これですね…。国会図書館で電子化はされていないからか、目次はありません。

神田信夫, 松村潤, 岡田英弘譯註『旧満洲档 天聡九年 1』東洋文庫叢刊第18
神田信夫, 松村潤, 岡田英弘譯註『旧満州档 : 天聡九年 2』東洋文庫叢刊第18

 で、《満文老档》で抜けた部分を何とか補完できないか?と言う意味があるんでしょうけど、《満文老档》と別系統の史料ですが、北京の内国史院大庫に保管されていた档案=内国史院档から発見された档案の訳文もあります。こちらは原文の影印も載ってたりするので、実に便利です。ただ、天聰5年部分は自分も見たような見てないような…。収蔵図書館もあまり多くないようです。

東洋文庫 清朝満州語檔案史料の総合的研究チーム『内国史院档 : 天聡5年 1』東洋文庫
東洋文庫 清代史研究委員会『内国史院档 : 天聡七年』東洋文庫
東洋文庫 清朝満州語檔案史料の総合的研究チーム『内国史院档 : 天聡八年 本文』東洋文庫
東洋文庫 清朝満州語檔案史料の総合的研究チーム『内国史院档 : 天聡八年 索引・図版』東洋文庫

 ここまで来たら、内国史院档の天聰9年部分も訳したら!と思うんですが、そうはいかないみたいですね。《旧満洲檔》だと、マングルタイ謀反未遂事件の記述が正面から書いてないので、むしろ内国史院档の該当部分の訳出もそれなりに需要だと思うんですが…。
 で、抜けが埋まったら続きが知りたくなるのが人情です。続きもちょっとだけ出てます。

河内良弘訳註・編著『中国第一歴史档案館蔵 内国史院満文档案 訳註:崇徳二・三年分』松香堂書店

 で、崇徳年間に編纂された《太祖太后実録》に《太祖実録戦図》の挿絵を加えて乾隆年間に作成されたと言われる《満洲実録》も、また別系統の史料ではあるんで一応載せてておきましょう。こちらは全訳があって古書市場でも比較的よく出てます。で、こちらも国会図書館でデジタル文献になっていますので、目次が見られます。あと、各巻の年月が抜けてたので、漢語版のサイトから拝借して当てて見ました。これだと、ある程度中身が分かる目次になりますね…。

卷一 癸未歲至甲申歲(萬歷十一年至十二年)
〔長白山〕
〔天の三人の女布勒瑚里池に浴みせり〕
〔佛庫倫姙りて二人の姉より殘されぬ〕
〔佛庫倫子に訓へて天に昇りぬ〕
〔三姓の人布庫哩雍順を主となしぬ〕
〔神鵲樊察を免れしめき〕
〔都督孟特穆仇敵の人を殺せり〕
〔滿洲の興りし原の村〕
〔太祖まづ始めに圖倫の城を取れり〕
〔太祖計略を定めて諾密納,鼐喀達を殺せり〕
〔碩翁科羅巴圖魯,巴遜哈達の兵を擊ち敗れり〕
〔太祖恩寵もて理岱を殺さず養へり〕
〔太祖瑪爾墩の城に大いに戰へり〕
卷二 乙酉歲至戊戌歲(萬歷十三年至二十六年)
〔太祖恩寵もて鄂爾果尼,洛科を養へり〕
〔太祖訥申,巴穆尼を殺せり〕
〔太祖四人八百の兵を敗れり〕
〔太祖四十人と混り大いに戰へり〕
〔齋薩讎なる尼堪外蘭を殺し,太祖に首獻げたり〕
〔額亦都巴圖魯巴爾達の城を取りぬ〕
〔太祖扎海を降したり〕
〔太祖柳の木を射たり〕
〔太祖に三部の大人等降り來たれり〕
〔太祖兆佳の城の外に大いに戰ひ,九人を殺せり〕
〔太祖一門の弟旺善を脫れしめき〕
〔太祖富爾佳齊に哈達の兵と大いに戰へり〕
〔群なす鴉兀里堪を阻みき〕
〔太祖謀定めて九國の兵を敗れり〕
〔太祖德もて布占泰貝勒を養へり〕
〔三大人佛多和の山塞を圍みて攻め取れり〕
卷三 己亥歲至癸丑歲(萬歷二十七年至四十一年)
〔太祖に王格,張格狐の毛皮貂の毛皮の貢齎し叩頭せんと來たれり〕
〔太祖哈達の國を破り蒙格布祿貝勒を養へり〕
〔太祖を恩格德爾台吉崇めて崑都侖汗と言へり〕
〔揚古利大いに力めて戰ひ烏拉の兵を退けぬ〕
〔洪巴圖魯,代善二人の貝勒烏拉の兵を敗りたり〕
〔太祖輝發の國を滅せり〕
〔阿爾哈圖圖們貝勒,阿敏貝勒宜罕山を取りたり〕
〔額亦都巴圖魯從へたる九人の大人を太祖に會はしめたり〕
〔阿巴泰台吉,烏爾古宸,木倫を伐たんと行けり〕
〔三人の大人扎庫塔の城を取れり〕
〔太祖烏拉の國を伐ちけり〕
〔太祖義を究め布占泰に向ひて語りぬ〕
〔太祖烏拉の兵を敗りぬ〕
〔太祖克ちける稜威もて城を取りて樓に坐れり〕
卷四 癸丑歲至天命三年四月
〔太祖扈實木,繖坦を從へたり〕
〔太祖をもろもろの貝勒等大人等崇めて英明汗と云へり〕
〔薩哈連江橋架けたるが如く氷張りたり〕
〔太祖撫順所を取り,李永芳を從へき〕
〔太祖張承廕の兵を破れり〕
卷五 天命三年閏四月至四年七月
〔太祖兵率ゐて范河の地に進みたり〕
〔太祖淸河城を征め取れり〕
〔太祖界藩の地に杜松共の營を敗れり〕
〔太祖の先の皇太極貝勒,龔念遂の營を破れり〕
〔太祖尙間崗の地に馬林の營を敗れり〕
〔太祖斐芬の地に潘宗顏の營を破れり〕
〔皇太極貝勒,瓦爾喀什の地に劉綎の前鋒の兵を敗りたり〕
〔皇太極貝勒,劉綎の營を破れり〕
〔滿洲のもろもろの貝勒等康應乾の營を破れり〕
〔阿敏貝勒,喬一琦の兵を敗れり〕
〔朝鮮の都元帥姜功立兵率ゐて降れり〕
〔大明の李如栢の兵呼蘭の地より逃げけり〕
〔太祖開原の城を戰ひ敗れり〕
卷六 天命四年七月至六年三月
〔太祖鐵嶺城を征め取れり〕
〔太祖齋賽の兵を敗れり〕
〔太祖に擒へける齋賽を叩頭して會はしめたり〕
〔太祖英明汗葉赫の國を滅しぬ〕
〔太祖蒲河,懿路の地を分捕りぬ〕
〔皇太極貝勒,朱萬良の兵を敗れり〕
〔太祖英明汗瀋陽城を取れり〕
〔太祖陳策の營を破れり〕
〔皇太極貝勒三總兵官の兵を敗れり〕
〔太祖英明汗董仲貴の營を破れり〕
卷七 天命六年三月至九年八月
〔太祖の前にて皇太極貝勒五人の總兵官の兵を敗れり〕
〔太祖英明汗遼陽を取れり〕
〔太祖遼陽の處を得たる喜びの禮もて酒振舞へり〕
〔太祖西平堡を取りぬ〕
〔太祖劉渠等の兵を敗りぬ〕
〔太祖に廣寧城の官人等迎へ來て降れり〕
〔大貝勒,皇太極貝勒,義州を取れり〕
〔阿巴泰台吉,德格類台吉,齋桑古台吉,岳託台吉,昻安を敗りぬ〕
卷八 天命十年正月至十一年八月
〔太祖寧遠を攻め得ずして回れり〕
〔武訥格華島の兵を敗れり〕
〔皇太極貝勒,囊努克を殺したり〕viii

 と言うわけで、メモ的に《満文老档》についてまとめてみました。ほんとメモですな…。

  1. 満文老档研究会『満文老档 1』東洋文庫叢刊第12
  2. 満文老档研究会『満文老档 2』東洋文庫叢刊第12
  3. 満文老档研究会『満文老档 第3 (太祖 第3)』東洋文庫叢刊第12
  4. 満文老档研究会満文老档 第4 (太宗 第1)東洋文庫叢刊第12
  5. 満文老档研究会『満文老档 第5 (太宗 第2)』東洋文庫叢刊第12
  6. 満文老档研究会『満文老档 第6 (太宗 第3)』東洋文庫叢刊第12
  7. 満文老档研究会『満文老档 第7 (太宗 第4)』東洋文庫叢刊第12
  8. 今西春秋『満和対訳 満洲実録』日満文化協会

蜂蜜の雨と甘露

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 運良く比較的安価な古書を発見したので、『満文老档』を購入…。というわけで、つらつら読んでいます。

○ sunja biyade, hibsu i aga agaha, hecemu golo be tucime,juwan jakūn dabagan be abalafi, jaka i golo be dosime jidere de, emke emken tob seme agaha manggi, mangga moo i adbadaha de aiha i adali filtahūn bisire be safi, ileci jancuhūn uthai hibsu, han ilme tuwafi, ere sain ningge, geise ambasa gemu ile some ilebuhe;
⇒五月に、蜂蜜の雨が降った。Hecemu 路を出て、Juwan Jakūn Dabagan に狩し、Jaka 路に入つて來る時、一粒一粒ぼつぼつと雨が降つた。その後で橡の葉に瑠璃のやうに輝きのあるのを見て、舐めると甘い。正に蜂蜜である。Han は舐めてみて、「これはよいものだ。諸王諸大臣は皆舐めよ。」といひ舐めさせた。i


 と、いきなりヌルハチさんが即位した天命元(1616)年の記事として、上のような記事が出てきました。いきなり『蜂蜜の雨が降った(断言)』なので、お、おう…としか言いようがないんですが、要するに、狩りに出かけたヌルハチが雨に降られ、クヌギの葉っぱにツユが溜まっているのを見たところ、ガラスのような光沢があったと。で、おもむろに舐めたところ甘かったので、周りにいたベイセや大臣に勧めた…という感じでしょうか…。
 この年はヌルハチが即位した……とされている年ですから、当然、聖天子出現の吉兆としての記事なんでしょう。恐らくは甘露のことを聞きつけたマンジュの人たちが、そのエピソード頂き!っとばかりに書いた記事なんだと思いますが、なんだか蜂蜜の雨が降るとか言う記事なってます…。和訳では、hibsuと言う単語を蜂蜜と訳していますが…いくら何でもそれは…と思って、『満洲語辞典』を引いたんですが、こちらでもhibsuと言う単語は蜂蜜とあります。ご丁寧にこの項を引用して説明していますから、やっぱり蜂蜜の雨のようです。いやぁ…不思議不思議……。
 まぁ、百歩譲ってはちみつレモン味の雨が降って、葉に溜まって蜂蜜成分が凝縮されたとしても、供回りがヌルハチに報告する形を取らずに、ハンたるヌルハチが葉っぱに溜まったガラスっぽい何かをおもむろに舐めたりするもんでしょうかねぇ…。能動的なのはいいんですが、なんかいろいろ不用心な気がします。むしろ、得体の知れないものを毒味もせずに舐め取るアマ・ハンかっこええ!と、そこに痺れたり憧れたりする文脈なのかもしれませんが…。

 で、ココで一般的な甘露現象の発生と報告のあり方を、有名な甘露の変を例にとって、ちょっと《資治通鑑》を引用してみましょう。

(太和九年十一月)壬戍,上御紫宸殿。百官班定,韓約不報平安,奏稱:「左金吾聽事後石榴夜有甘露,臣遞門奏訖。」因蹈舞再拜,宰相亦帥百官稱賀。訓、元輿勸上親往觀之,以承天貺,上許之。百官退,班於含元殿。日加辰,上乘軟輿出紫宸門,升含元殿。先命宰相及兩省官詣左仗視之,良欠而還。訓奏:「臣與眾人驗之,殆非真甘露,未可遽宣布,恐天下稱賀。」上曰:「豈有是邪!」顧左、右中尉仇士良、魚志弘帥諸宦者往視之。宦者既去。ii

 結局、この甘露自体は謀略の為の虚偽報告なんですが、先の記事と比較する為に時系列で追っていきましょう。
 ①:左金吾衛の裏庭の石に甘露が観測されたと報告あり。②:諸大臣が文宗自ら甘露を見に行くことを提案。③:文宗は自ら甘露を見に行くことを快諾。④:先に大臣が甘露を観察したところ、「みんなで確認したところ、ほとんど甘露で間違いないんじゃないか」というふわっとした報告が来る。⑤:そんな訳あるかい!と、文宗が再調査を指示。⑥:宦官が総出で甘露の確認を行う。…という感じで、その場に皇帝は足を運んだものの、真っ先に甘露を舐めて皆に勧めるという感じになりませんね…。
 この時も結局は甘露は口実で、虚偽報告だったわけですから、もしかしたら蜂蜜味の水を石に吹きかけるなどして、偽装したのかもしれませんが、どうも確認の為に舐めたのかどうかすらこの記事では分かりませんね。ほとんど甘露で間違いないって何だよって感じですよね。

 ともあれ、唐代でも甘露が降ったというと、本当に吉兆なのか?と確認の為に大騒ぎが起こる類いのものだったようです。基本的には皇帝に報告され、大臣や宦官が確認した上で皇帝が天下に吉兆を報告する…って感じでしょうね。狩りに行ったらなんか甘い雨が降ってたとか、そういう感じじゃないですね…。

 それはともかく、先ほどの『満文老档』の記事には続きがありまして…。

○ dui biyai orin duin de morin inenggi nadan tanggū bade hibsu aga agaha;
⇒四月二十四日、牛の日、七百箇處に蜂蜜の雨が降つた。iii

 いくら吉兆でも、700カ所は盛りすぎじゃないかと思うんですけどねぇ…w

  1. 満文老档研究會譯註『満文老档Ⅰ 太祖1』東洋文庫 P.69 太祖五
  2. 《資治通鑑》第二百四十五卷 唐紀六十一 文宗太和九年
  3. 満文老档研究會譯註『満文老档Ⅰ 太祖1』東洋文庫 P.78 太祖五
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