Quantcast
Channel: 辮髪 –宣和堂遺事
Viewing all 63 articles
Browse latest View live

ドルゴン最後の嫁取り合戦

$
0
0

 たまたま《清世祖実録》パラパラ見てたら気になったので、メモ。

(順治六年十二月)壬子。攝政王多爾袞元妃薨。令兩白旗牛彔章京以上官員、及官員妻、皆衣縞素。六旗牛彔章京以上官員、皆去纓。i

 順治六年十二月にドルゴンの正妻であるボルジギット氏が薨じます。壬子は計算上12月28日になると思います。ド年末ですね。この葬儀に際して両白旗の官員とその夫人に喪服を着るように命令が出ていることから、晩年のドルゴンは正白旗だけではなく鑲白旗をも支配下に置いていた証拠とされる記述ですね。ともあれ、翌年十二月にドルゴンもハラ・ホトンで薨じていますから、なんだか偶然にしても出来過ぎてますね。

(順治七年正月)丁卯。攝政王以玉冊玉寶、追封其妃博爾濟錦氏、為敬孝忠恭正宮元妃。ii

 で、翌年正月丁卯にボルジギット氏を敬孝忠恭正宮元妃に追封して玉冊にそのことを記したようです。この頃の清朝皇族がどのような宗教に基づいて葬儀を行っていたのかは気になりますが、丁卯は1月13日ですから、元妃が薨じてから15日が経過しています。

(順治七年正月)己卯。攝政王召議政王、貝勒、固山額眞、內大臣、議政大臣會議是日、納和碩肅親王豪格福金博爾濟錦氏。iii

 ドルゴンはさぞや意気消沈しているのだろう…と思っていると、次に当たるのがこの記事デス…。亡きホーゲの未亡人を娶ることを同月己卯に議政王大臣会議に報告したようです。己卯は1月25日ですから、元妃が薨じてから27日目ですね…。あくまで報告がこの時期ですから、実際にはもっと早い時期に娶っていたんだと思います。ちなみにこの時期はまだ宗人府ができてないので、議政王大臣会議に報告してるわけですね。

(和碩粛武親王 豪格)嫡福晋博爾濟吉特氏依爾社齋董郭羅公之女iv

 《愛新覺羅宗譜》によると、ホーゲの嫡妻はボルジギット氏のイルドゥチ(依爾社齋)の娘だと言うことです。董郭羅公は多分、モンゴル封爵の音訳なんでしょうけどこれについてはよく分かりませんでした。

(崇徳元年七月)丙午、科爾沁國貝勒依爾都齋偕其妻、送女於粛親王豪格爲福金。(中略)癸丑、和碩粛親王豪格、納科爾沁國貝勒依爾都齋女。v

 嫡妻が嫁いできたことは《太宗実録》からも確認できます。前年である天聰九年にマングルタイ兄弟反乱未遂事件の際に、マングルタイの同母妹のマングジの娘である当時の嫡妻をホーゲは自らの手にかけて殺しています。その埋め合わせという意味なんでしょうかねぇ。

○ ice duin de, korcin i ilduci beile i sargan jui de, hošoi fafungga cin wang de sargan benjime jimbi seme donjifi, hošoi fafungga cin wang okdome genehe;
⇒四日、Korcin のIlduci Beile の娘を和碩粛親王に妻として送って來ると聞いて、和碩粛親王が迎へに行つた。vi
○ juwan emu de, non i korcin i ilduci beile i sarugan jui de, geren hošoi fafungga cin wang sargan gaijira(後略)
⇒十一日、Non の Korcin の Ilduci Beile の娘を和碩粛親王が娶る(後略)vii

 と言うことで、『満文老档』にも記述があるので間違いなさそうですね。ただ、このイルドゥチという人物がよくわからんのですがね…。杜家驥センセの《清朝満蒙聯姻研究》を見ると棟果爾とあります。と言うことは、ジャサク・ボドレガタイ・チンワン(扎薩克博多勒噶台親王)家の祖…つまり、センゲリンチンの祖先であるドンゴルに比定されたと言うことなんでしょうが、根拠がイマイチ分かりません。

和碩顕懿親王富綬 崇徳八年癸未五月十七日亥時生母嫡福晋博爾濟吉特氏依爾社齋董郭羅公之女 viii

 ともあれ、《愛新覺羅宗譜》によると、ホーゲ嫡妻であるボルジギット氏イルドゥチの娘という人物が後に粛親王家を再興するフシェオの生母です。ドルゴンは再婚したホーゲの未亡人とフシェオを自邸に招いていますから、普通に考えると生母とその子供だと考えられますよね。

七年正月,王納肅王福金,福金,妃女弟也。ix

 で、このホーゲ嫡妻ですが、《清史稿》によると、元妃の妹だと言うことみたいなんですよね…。

(和碩睿忠親王 多爾袞)嫡福晋科爾沁博爾濟吉特氏索諾穆台吉之女x

 ところが、《愛新覺羅宗譜》によると、ドルゴン嫡妻の元妃はホルチン・モンゴル出身なのは変わらないようですが、ソノム・タイジの娘とあります。杜家驥センセの《清朝満蒙聯姻研究》を見ると、ジャイサンの子でウクシャンの弟…と言うことは孝荘文皇后・ブムブタイの兄弟であるソノムとしていますから、ホーゲ嫡妻と元妃は同じホルチン部の王族出身ながら、姉妹と言うことでは無いと思われます。むしろ、ブムブタイの姪ですね。ドルゴン、ホーゲ、ブムブタイ、元妃は同世代ですから、ホーゲ嫡妻は彼らより一世代下の世代かもしれませんね。
 ネットで見かけた説に、このホーゲ嫡妻こそがマングジ失脚を招いた、リンダン・ハンの未亡人であるベキ皇后その人ではないか?と言う説がありました。なかなかおもしろい説ですね。確かにベキ皇后自体のその後の消息は分かりませんし、ホーゲ未亡人のホーゲに嫁ぐ前の消息は分かりません。同一人物でもおかしくないんですが、史料的な制約もあって確証はとれませんね…。

(順治七年正月壬午)攝政王遣官選女子於朝鮮國。xi
(順治七年五月)癸酉。攝政王率諸王大臣、親迎朝鮮國送來福金於連山。是日成婚。xii

 と言うわけで、順治七年に話を戻すと、ホーゲ嫡妻を娶ったことを報告した2日後、今度は来朝していた朝鮮の使節に対して、選女を行い嫁を連れてこいと命じてます。正月壬午は1月28日ですから、元妃が薨じてから実に30日目のことです。実際に同年五月にはドルゴンが朝鮮国からの嫁を受け取りに行ってます。

 なんとも、最後の一年にして少なくとも二人は娶っていて、かつ嫡妻の死後一ヶ月の間に行動を起こしているわけですね。

(順治六年十二月)丁未。攝政王多爾袞率大軍還。xiii

 ただ、ドルゴンは嫡妻・元妃が薨去する5日前に、大同に遠征中に急遽北京に帰っています。恐らく愛妻の看病の為に火急の仕事を放り投げて、取るものとりあえず帰還したのだと思います。前後の行動を一体全体どういうつもりで取ったものだったのか?史料からは伺い知れませんが、この辺の機微がなかなか難しいですねぇ…。

  1. 《世祖実録》巻四十六
  2. 《清世祖実録》巻四十七
  3. 《清世祖実録》巻四十七
  4. 《愛新覺羅宗譜》
  5. 《清太宗実録》巻三十
  6. 『満文老档』VI 太宗3 太宗崇徳二十 P.1159
  7. 『満文老档』VI 太宗3 太宗崇徳二十一 P.1177
  8. 《愛新覺羅宗譜》
  9. 《清史稿》 卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞
  10. 《愛新覺羅宗譜》
  11. 《清世祖実録》巻四十七
  12. 《清世祖実録》四十九
  13. 《世祖実録》巻四十六

清代の起居注冊と実録の編纂

$
0
0

 加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131 をつらつら読んでいると、起居注冊や実録の編纂過程が分かって面白かったので、ツラツラと年表にまとめてみたら、なんか大変な感じになってしまいましたよ…。

 なんだか表が壊れてるので巧いこと表示できないかもしれませんが、折角作ったので置いておきます。

清朝起居注及び実録編纂年表

年号西暦起居注冊実録事件
万暦431615万暦43(1615)年以降16人のアンバンと8人のバクシにより穀物庫の出納記録を行うようになる⇒併せて重要事件やハンの言動について記録されるようになる?i12月、エルデニ・バクシ《太祖紀》=《定本(an i bithe)》成立ii
天命元1616正月元旦、ヌルハチ、ハン位に即く。国号は後金。年号は天命iii
天命1116268月、ヌルハチ崩御、ホンタイジ即位する。年号は天聰iv
天聰元年1627《八旗値月档》を付けるようになるv
天聰31629これより以前、bithe boo=書房(文館)が成立vi
天聰61632この当時の書房は八旗当直記録などマンジュ文献の保管、史書の作成、満漢文の翻訳を職掌としていた。しかし、漢字文献は保管しておらず、書房を管轄するベイレも居なかった⇒ハン直属のだった?vii
天聰7163310月、書房のバクシに命じて「太祖行政用兵之道」を記録した史書の作成を命じる。⇒《太祖武皇帝実録》編纂の開始viii
天聰816344月、ガリン(Garin 剛林)ら挙人16名を選抜し、書房のバクシの人材を確保する。ix
天聰91635《太祖実録戦図》完成?x9月、チャハル部平定、ダイシャン失脚xi。12月、正藍旗の獄xii
天聰1016363月、文館を改組した内三院設立xiii
崇徳元163611月、《太祖太后実録(dergi taidzu,taiheo i yabuha yargiyan kooli githe)》告成xivxv4月、ホンタイジ帝位に即く。国号は大清、年号は崇徳xvi。5月、遼金元三史の満文編訳開始xvii
崇徳416396月、満文遼金元三史翻訳完成xviii
崇徳816438月、ホンタイジ崩御。フリン即位xix
順治元16443月、明が滅亡する。4月、ホーゲ失脚、清軍が山海関から入関。10月、北京遷都。順治帝再度即位するxx
順治21645翰林院を内三院に分属させるxxi4月、李自成敗死。5月、ドルゴンが皇叔父摂政王を称する。6月、南明福王弘光政権滅亡xxii
順治316468月、南明唐王隆武・紹武政権滅亡。12月、張獻忠敗死xxiii。満文遼金元三史、刊刻されるxxiv
順治516483月、ホーゲ失脚後、獄死。9月、ジルガラン南征。11月、ダイシャン薨去。ドルゴンが皇父摂政王を称す。12月、大同で姜瓖叛乱するxxv
順治61649正月、《太祖武皇帝実録》編纂、《太宗文皇帝実録》編纂開始xxvi8月、姜瓖の叛乱、鎮圧されるxxvii
順治71650順治重修《太祖武皇帝実録》ほぼ完成xxviii4月、満文《三国志演義》完成xxix。12月、ドルゴン薨去xxx
順治816512月、ガリン、ドルゴンに追従して《太祖武皇帝実録》及びホンタイジに関する記録を改竄した旨で斬刑に処されるxxxi。《太祖武皇帝実録》、《太宗文皇帝実録》の編纂が一旦ストップxxxii2月、ドルゴン反逆罪に問われ、反対派復活。ドルゴン派の粛清始まるxxxiii
順治91652正月、再度、《太祖武皇帝実録》編纂、《太宗文皇帝実録》編纂開始xxxiv4月、宗人府設立xxxv
順治121655正月、起居注官の設置が上奏されるxxxvi12月までに順治重修《太祖武皇帝実録》、初纂《太祖文皇帝実録)》告成xxxviixxxviii。また、内三院から翰林院を分立させ、所轄として国史館が開設される。国史の編纂は以降国史館の管轄となるxxxix6月、内務府を廃して十三衙門を設立。xl
順治1516587月、内三院を改組して内閣成立。xli
順治1616595月、鄭成功の南京侵攻xlii
順治1816616月、翰林院が内三院に復す。xliii正月、順治帝崩御。康熙帝即位。2月、十三衙門を廃して内務府を再建。6月、内閣を廃して内三院を復活。xliv
康熙元16624月、南明桂王永暦政権滅亡xlv
康熙616679月、《世祖章皇帝実録》編纂開始xlvi。11月、《太宗文皇帝実録》校訂開始?xlvii6月、ソニン逝去。7月、康熙帝親政開始xlviii
康熙816693月、《世祖章皇帝実録》草稿告成。xlix5月、オボイ失脚l
康熙916708月、内三院を改組して内閣とし、翰林院を復活させるli。12月、翰林院の定数が決まるlii
康熙1016713月、翰林院所属の10名が日購官に任命され、8月16日、起居注が設立され、日購官が起居注官の職掌も兼ねるliii。翌9・10月より《ilire tere be elehe dangse=起居注冊》が作成されるliv
康熙111672日講起居注官増員lv5月、《世祖章皇帝実録》告成lvi
康熙121673日講起居注官増員lvii8月、《太宗文皇帝実録》編纂開始lviii11月、三藩の乱始まる lix
康熙1416753月、チャハルのブルニ親王が三藩の乱に呼応して叛乱。5月、鎮圧される。二阿哥・胤礽が立太子されるlx
康熙161677日講起居注官増員lxi
康熙201681日講起居注官増員lxii10月、三藩の乱平定lxiii
康熙2116829月、重修《太宗文皇帝実録》告成lxiv。10月、三修《太祖武皇帝実録》編纂開始lxv
康熙2216837月、台湾鄭氏政権滅亡lxvi
康熙231684起居注官に対して守秘義務に関する諭旨を下すlxvii
康熙2516862月、三修《太祖武皇帝実録》告成。lxviii
康熙2816897月、ネルチンスク条約締結 lxix
康熙291690この年、対ジューンガル戦開始 lxx
康熙311692日講起居注官増員lxxi
康熙361697康熙帝、ジュ-ンガルに親征、ガルダン死亡するlxxii
康熙371698ジューンガル親征の論功行賞で皇子6名を封爵。九王奪嫡の契機となる lxxiii
康熙431704ソンゴトゥ失脚 lxxiv
康熙4717089月、第一次皇太子廃嫡 lxxv
康熙4817093月、再び二阿哥・胤礽が立太子されるlxxvi
康熙501711戴名世の筆禍事件(文字の獄)lxxvii
康熙5117123月、第二次皇太子廃嫡lxxviii
康熙52171310月、康煕帝が翰林院のレベルの低下を嘆くlxxix
康熙5317142月、翰林院の辞職者が定員の2/3に上るlxxx
康熙5617173月、起居注官による機密漏洩事件が発覚lxxxi
康熙5717183月、起居注衙門を廃止lxxxiiチベット遠征lxxxiii
康熙611722起居注官が復活lxxxiv《聖祖仁皇帝実録》編纂開始lxxxv11月、康熙帝崩御。雍正帝即位lxxxvi
雍正21724この頃、起居注冊の作成過程に変更が加わるlxxxvii4月、敦郡王・允䄉拘禁。貝子・允禟追放lxxxviii
雍正41726廉親王・允禩、貝子・允禟皇籍剥奪され拘禁lxxxix
雍正51727雍正5年以降、起居注冊は毎月2分冊で作成されるxc9月、キャフタ条約締結xci。11月、《八旗通志》編纂開始xcii
雍正81730軍機処設立xciii
雍正9173112月、《聖祖仁皇帝実録》告成xciv
雍正12173411月、四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》編纂開始?xcv。12月、四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》校訂開始?xcvi
雍正131735《世宗憲皇帝実録》編纂開始xcvii8月、雍正帝崩御、乾隆帝即位xcviii
乾隆元1736日講起居注官増員 xcix
乾隆4173912月、乾隆四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》告成c4月、《八旗通志》告成ci。10月、理親王・弘晳の簒奪事件発覚cii
乾隆617413月、《聖祖仁皇帝実録》序文ciii
乾隆817435月もしくは7月、満漢文の《満洲実録》この頃成立?civ
乾隆381773この頃、起居注冊の草本は漢文のみで月に二分冊で作成されていたcv
乾隆441779正月、《満洲実録》の編纂開始cvi
乾隆461781春、《満洲実録》告成cvii
嘉慶元1796乾隆帝の退位に伴い、嘉慶帝中心の《嘉慶帝起居注冊》と、乾隆年号の《太上皇帝起居注冊》と嘉慶年号の《太上皇帝起居注冊》の3種類cviiiが作成されるcix正月元旦、乾隆帝退位、嘉慶帝即位cx
嘉慶41799《太上皇帝起居注冊》編纂終了cxi《高宗純皇帝実録》編纂開始cxii正月、太上皇帝=乾隆帝崩御cxiii
嘉慶81803日講起居注官増員cxiv。紆余曲折を経た清朝起居注官も嘉慶年間で確立し、《嘉慶事例》にまとめられるcxv
道光41824《仁宗睿皇帝実録》編纂開始cxvi
咸豊21852《宣宗成皇帝実録》編纂開始 cxvii
同治元1862起居注冊の粗略化が始まるcxviii《文宗顕皇帝実録》編纂開始cxix
光緒元1875起居注冊の粗略化が更に進むcxx
光緒51879《穆宗毅皇帝実録》編纂開始cxxi
宣統元1909起居注冊の粗略化が加速するcxxii宣統年間に《徳宗景皇帝実録》編纂開始cxxiii
宣統41912清朝滅亡cxxiv
cxxv

 つまり、皇統に関わる事件が起こって、解決するとなんだか実録まとめにかかってない?と言う気がしたのですよね。この辺、皇帝権の確立と無関係じゃないのでこれだけでテーマにしても面白いと思うんですけどねぇ。李自成とか張獻忠、南明三王朝に台湾鄭氏勢力が滅亡しても、三藩の乱が起こっても(チャハル以外)、あんまり気にしていないことがここからも分かるんじゃないかと思います。
 ヌルハチはハン位を視野に入れた頃から記録を残すことを意識しますし、ホンタイジは四ベイレの掣肘に成功すると、《太祖太后実録》に着手しています。
 ドルゴンは政権を固めたあとに実録の編纂を命じていますし、順治帝はドルゴン死後にその編纂作業を責任者ごと否定しています。この期間は特に政争によって実録の記述そのものが焦点とされているだけにわかりやすい事例だと思います。
 康煕帝もオボイ失脚前後で実録編纂作業に不明瞭な記事が残っています。根拠無く想像するに、一度オボイに都合よく編纂された実録をまた編修し直したんじゃないかと思えます。また、翰林院や起居注官の設置も皇帝権の確立とともに進んできたのでしょう。康煕帝はそれまで満文ベースの記録が主流だった清朝の記録を起居注官を設置することで漢文ベースに変換しています(日々の記録は漢文のみで残し、月々の記録は草本作成段階で満文に訳して残される)。ですが、宮中の機密事項を外部に漏らされるような事態を憂慮していた康熙帝は、機密漏洩事件を機に起居注官を廃止しています。
 で、雍正帝ですが即位してまず起居注官を復活させたり、実録の編纂を命じたりと、どうも康煕帝の治世の否定と評価を行っているように見えます。九王奪嫡に一定の結末を見たとされる廉親王失脚前ですから、これは康煕帝時代との区切りを強く意識したって事でしょうか?廉親王の失脚後はむしろ八旗制度の完成として位置づけられる《八旗通志》の編纂を命じ、次いで太祖太宗世祖三朝の実録の編纂も命じています。皇統の確立と言うよりは、八旗制度の整理を完遂した区切りのように思えます。結局、完成は乾隆年間に持ち越すワケですが、太祖太宗世祖実録完成の時期も理親王・弘晳による皇位簒奪計画が発覚した時期の発表ですから、偶然にしても意図を感じてしまいます。皇統の正当性を誇示すべきタイミングですよねぇ…。
 皇統が安定して起居注作成のノウハウが確立し、実録の再編も行われなくなるのはこう見ると嘉慶年間ってことになります。嘉慶道光咸豊と記録的には安定した清朝も、同治光緒宣統と時代を経るに従って資金難や綱紀の弛緩で起居注冊編纂が簡素化し、マンジュ語本は次第に形骸化していくと言う感じです。
 本来は方略、列伝など清朝が編纂した他の史書のコトも抑えたかったんですが、その辺は手元の資料では手に余るので、またの機会という感じですかね。

 ちなみに、『清代文書資料の研究』の中でも特に史料価値の高い《逃人档》の部分で、天命~天聰あたりの《八旗値月档》を《逃人档》の記事から復元する趣旨の下りがあったので、それだけメモ。両黄旗⇒両藍旗⇒両白旗⇒両紅旗と言う順番で輪番していた模様。

天命十一年 十月:(当直旗の記載無し) 十一月:両藍旗 十二月:(記事無し)
天聰元年 正月:両紅旗 二月:両黄旗 三月:両藍旗 四月:両白旗 五月:両紅旗 六月:両黄旗 七月:両藍旗 八月:両白旗 九月:(記事無し) 十月:両黄旗 十一月:両藍旗 十二月:両白旗
天聰二年 正月:両紅旗 二月:両黄旗 三月:両藍旗 四月:両白旗 五月:(記事無し) 六月:両黄旗 七月:両藍旗 八月:両白旗 九月:両紅旗 十月:両黄旗 十一月:両藍旗 十二月:両白旗cxxvi

 なお、《満文原档》や《内国史院 天聰五年档》にも、この八旗当直記録である《八旗値月档》が使用されていた模様。

 他にもまとめたいことがあったので、とりあえず項を改めます。

  1. 『清代文書資料の研究』P.59
  2. 散逸?『清代文書資料の研究』P.39。ゲンギュエン・ハンとしてヌルハチが即位するまでの記録。内容は《満文原档》に忠実に引き継がれている。⇒同書P.59
  3. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.66
  4. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68
  5. ホンタイジ即位頃、八旗中の色を同じくする正鑲二旗がペアになって一ヶ月ごとの当番制で当直記録=《八旗値月档》を付けるようになった⇒『清代文書資料の研究』P.62
  6. 八旗当直記録は書房(文館)の記録と平行して実施された。 ⇒『清代文書資料の研究』P.67 ただし、文館の職掌は外交文章、奏章や過去の事績を記録することで、日々の出来事を記録することではなかった模様。 同書 P.69
  7. 『清代文書資料の研究』P.69
  8. 『清代文書資料の研究』P.70 『ダイチン・グルンとその時代』P.133
  9. 『清代文書資料の研究』P.70
  10. 《満洲実録》図画の元絵か?⇒『清代文書資料の研究』P.24
  11. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68
  12. 『大清帝国の形成と八旗制』P.238
  13. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 内国史院はハンの起居・事績の記録や表文。祭文などの作成、史書の編纂など。また、六部文書や外交文書も適宜記録した。⇒『清代文書資料の研究』P.37
  14. 『清代文書資料の研究』P.23、『明清史論考』P.314
  15. 《満洲実録》の満文はほぼ順治重修《太祖武皇帝実録》と同じ。ただし、ドルゴンにより削除されたドルゴン生母の記事は残る。⇒『清代文書資料の研究』P.27
  16. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68
  17. 『ダイチン・グルンとその時代』P.134
  18. 『ダイチン・グルンとその時代』P.134
  19. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68
  20. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70
  21. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70
  22. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70
  23. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70
  24. 『ダイチン・グルンとその時代』P.139
  25. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72
  26. 『清代文書資料の研究』P.25、『明清史論考』P.315
  27. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72
  28. 『清代文書資料の研究』P.25
  29. (順治七年四月)辛丑。以繙譯三國志告成。賞大學士范文程、剛林、祁充格、甯完我、洪承疇、馮銓、宋權、學士查布海、蘇納海、王文奎、伊圖、胡理、劉清泰、來袞、馬爾篤、蔣赫德等、鞍馬、銀兩有差。⇒《世祖章皇帝実録》巻四十八
  30. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72
  31. (順治九年二月)乙亥。刑部尚書固山額真公韓岱等、審議剛林等罪狀。(中略)以擅改國史一案、訊剛林。據供、睿王取閱太祖實錄、令削去伊母事、遂與范文程、祁充格、同抹去。後白之和碩鄭親王、和碩巽親王、和碩端重親王、和碩敬謹親王、未經奏聞。擅改實錄。隱匿不奏。(中略)又將盛京所錄太宗史冊、在在改抹一案、訊之剛林。據供、纂修之時、遇應增者增、應減者減、刪改是實。舊稿尚存。 《世祖章皇帝実録》巻五十四
  32. 『清代文書資料の研究』P.30
  33. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72
  34. 『清代文書資料の研究』P.30
  35. (順治九年四月)設立宗人府衙門。《世祖章皇帝実録》巻六十四
  36. 『清代文書資料の研究』P.21
  37. 『清代文書資料の研究』P.25
  38. しかし、《明実録》と比較して体裁が整っていなかった為、鄭親王ジルガランに編纂を命じたが、同年5月にジルガランが死去した為沙汰止みとなる『明清史論考』P.358
  39. 『清代文書資料の研究』P.37
  40. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  41. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  42. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  43. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  44. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  45. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  46. (九月)丙午。纂修世祖章皇帝實錄。《聖祖仁皇帝実録》巻二十四
  47. 『明清史論考』P.359
  48. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  49. 三月甲午朔。世祖章皇帝實錄、纂修草藳告成。《聖祖仁皇帝実録》巻二十八
  50. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72
  51. 『清代文書資料の研究』P.211
  52. 『清代文書資料の研究』P.212
  53. 『清代文書資料の研究』P.211、P.213 =日講起居注官:満人4、漢人8、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式4、満漢文筆帖式4、漢軍筆帖式4 P.218
  54. 『清代文書資料の研究』P.213 日講起居注官が作成した草本を総辨記注(起居注)官が校訂を行い清書して正本を作成し、翰林院掌院学士が検閲を行った。⇒同書P.224
  55. =日講起居注官:満人4、漢人8、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218
  56. 『清代文書資料の研究』P.218
  57. =日講起居注官:満人5、漢人10、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218
  58. 『明清史論考』P.359
  59. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  60. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  61. =日講起居注官:満人6、漢人10、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218
  62. =日講起居注官:満人6、漢人18、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218
  63. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  64. 『明清史論考』P.359
  65. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.9
  66. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74
  67. 『清代文書資料の研究』P.229
  68. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.9
  69. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  70. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  71. =日講起居注官:満人6、漢人12、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218
  72. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  73. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  74. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  75. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P219
  76. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  77. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P.219
  78. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P.219
  79. 『清代文書資料の研究』P.219
  80. 『清代文書資料の研究』P.219
  81. 『清代文書資料の研究』P.219
  82. しかし、翰林院の人員が交代で近侍し、重務・要旨があれば内閣の諸臣が記録し保管させ、簡便な形で起居注冊の様な記録は継続して保存された⇒ 『清代文書資料の研究』P.220~221
  83. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  84. =日講起居注官:満人6、漢人12 『清代文書資料の研究』P.221
  85. (十二月乙亥)命大學士二等伯馬齊、為聖祖實錄館監修總裁官。⇒《世宗憲皇帝実録》巻二
  86. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76
  87. 月末に各衙門から提出された資料の中から皇帝の行動だけが記載された档子を日付ごとに分け、日々の担当起居注官の氏名を記して冊子にして保管し、一月分溜まったところで草本が作られ、校訂を経て正本が作られた。年末に冊子の綴じ部に翰林院印を捺印して内閣大庫に保管した⇒『清代文書資料の研究』P.222
  88. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78
  89. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78
  90. 雍正年間から上奏文が飛躍的に増加した為、中央に大量の情報が流れ込んだことから。「上 dergi debtelin」と「下 fejergi debtelin」の二冊組み。⇒『清代文書資料の研究』P.222
  91. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78
  92. 《八旗通志初集》 奉勅纂修八旗通志諭旨
  93. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78
  94. (十二月)己酉。恭纂聖祖仁皇帝實錄聖訓告成。《世宗憲皇帝実録》一百十三巻。《聖祖仁皇帝実録》序。
  95. 『明清史論考』P.359⇒《高宗純皇帝実録》乾隆三年十月癸未を引用
  96. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.14⇒《世宗憲皇帝実録》雍正十二年十二月庚子を引用
  97. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  98. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78
  99. =日講起居注官:満人8、漢人12『清代文書資料の研究』P.227
  100. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74、『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.14、乾隆四修《太祖武皇帝実録》序文、乾隆三修《太宗文皇帝実録》序文、乾隆重修《世祖章皇帝実録》序文
  101. 《八旗通志初集》御製八旗通志序
  102. (乾隆四年十月)己丑,莊親王允祿、理親王弘晳 等緣事,宗人府議削爵圈禁。《清史稿》 巻十 本紀十 高宗
  103. 《聖祖仁皇帝実録》序
  104. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.4
  105. 当然、正本・副本は満漢2種類が作成される⇒『清代文書資料の研究』P.224 また、乾隆30年代後半には起居注冊の満文表題は《ilire tere be ejehe dangse 起居を記した档子》から《ilire tere be ejehe cese 起居を記した冊子》に改められ、この表題は宣統朝まで継承される⇒同書P.224~225。
  106. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.2 ただし、今西春秋は絵はすでに完成していたとしている。
  107. 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.3
  108. それぞれ満漢体2種存在するので計6種
  109. 基本的に中身は同じ⇒『清代文書資料の研究』P.225
  110. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.80
  111. 『清代文書資料の研究』P.227
  112. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  113. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.80
  114. =日講起居注官:満人10、漢人12 以降清朝滅亡まで定員変更無し。『清代文書資料の研究』P.227
  115. まず、日講起居注官が作成した草本を、総辨記注(起居注)官が校訂を行い、翰林院掌院学士が検閲を経て清書を行い正本・副本を作成、正本の冊中及び表紙と題簽の合わせ目に騎縫印として翰林院印を捺印した後、皇帝の御覧を経て鉄の箱に入れて起居注官と内閣学士立ち会いの下施錠して封印し、内閣大庫に保管した⇒『清代文書資料の研究』P.229~230
  116. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  117. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  118. 起居注冊の寸法が縮小され、表紙が黄絹から黄色の薄紙になり、月の誤記や干支の未記入が見られるようになる⇒『清代文書資料の研究』P.230
  119. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  120. 1頁あたりの文書量が1葉表裏7行 計14行だったものが、1葉表裏5行 計10行に減り、以前は見られなかった記事と記事の間の空白が挟まれるようになり、記載内容も貧弱になる。また、満文本での省略が目立つようになり、形骸化が進む。捺印が雑で押し忘れも目立ち、訂正箇所に紙を貼るなど以前では考えられない杜撰さが目立つ。⇒『清代文書資料の研究』P.230~231
  121. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  122. 文書量が1葉表裏4行 計8行になり、捺印も朱肉ではなくインクのようなもので乱雑に捺されている。記事も極めて簡便である。⇒『清代文書資料の研究』P.231
  123. 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  124. 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.84
  125. 参考文献:加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131
    松村潤『明清史論考』山川出版社
    今西春秋『對校 淸太祖實錴』國書刊行會
    杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版
    承志『ダイチン・グルンとその時代-帝国の形成と八旗社会-』名古屋大学出版
    神田信夫他 編『世界史大系 中国史4 明▽清』山川出版
  126. 『清代文書行政の研究』P.62~63

満文老檔と満文原檔

$
0
0

 さて、自分でよくこんがらがるので作表して誤魔化す感じのポストです。
 《満文老檔》は内藤湖南が明治38(1905)年に当時の奉天崇謨閣で発見した満文の史料です。これを奉天檔と言いますけど、ザックリ言うと太祖ヌルハチと太宗ホンタイジの事績が書かれた史料ですね。で、後の研究でこれが《太祖武皇帝実録》、《太宗文皇帝実録》の元ネタであったことが分かっています。
 で、その後、民国20(1931)年に故宮博物院文獻館が清朝内閣大庫を整理した際に同様の形態の檔案が見つかります。これが北京檔です。で、その翌月、同じ内閣大庫からこの《満文老檔》の元ネタと思われる檔冊37冊が発見され、さらにその四年後、民国24(1935)年にはこの檔冊と同じ様式の別檔冊3冊が発見されました。この合計40冊の檔冊が《満文原檔》…もしくは《旧滿洲檔》と称されている清朝最古の記録文章群と言うことになるかと思います。で、これが瀋陽で発見された奉天檔と、故宮で発見された北京檔と、更にその中で有圏点滿洲文字で書かれた有圏点檔子と無圏点檔子があるという…なんだかこんがらがってきましたから、『清代文書資料の研究』の巻末を元にまとめてみました。


 編纂編纂開始記述巻数書名保管場所影印出版備考
満文原檔満文i40冊ii臺北国立故宮博物院《旧滿洲檔》國立故宮博物院、《満文原檔》國立故宮博物院
満文老檔乾隆重鈔乾隆40iii満文(無圏点文字)180巻tongki fuka akū hergen i dangse北京本⇒中国第一歴史档案館、奉天本⇒遼寧省档案館iv中国第一歴史档案館 編《満文老檔》遼寧民族出版社北京本(楷書本、草書本)、奉天本(楷書本)v
満文(有圏点文字)180巻tongki fuka sindaha hergen i dangse北京本(楷書本、草書本)、奉天本(楷書本)vi

 で、《満文原檔》は乾隆年間に《満文老檔》が整理された際に、千字文の字号が振られた…というのは知っていたのですが、実際にどういう字号にどういう内容が記されていたのかまでは知らなかったので、『淸太祖實錄の研究』にまとまっていた表をほぼそのまままとめてみました。
字號料紙圏點記事年代
1荒字高麗紙無圏點萬暦35年3月~天命4年3月
2昃字萬暦43年6月~天命5年9月
3張字明公文紙天命6年2月~天命7年3月
4來字天命6年7月~天命6年11月
5辰字天命7年3月~天命7年6月
6列字天命8年正月~天命8年5月
7冬字高麗紙崇徳元年9月~崇徳元年12月
8盈字明公文紙天命8年6月~天命8年7月
9寒字天命9年正月~天命9年6月
高麗紙
10収字加圏點天命10年正月~天命10年11月
11黄字無圏點天命11年5月
12宙字明公文紙天命6年12月~天命11年8月
13附1高麗紙天命9年正月、3月、天命11年7、8月
14洪字明公文紙無年月(萬暦38年ムクン・タタン表を含む)
高麗紙加圏點
15蔵字明公文紙無圏點天命8年(投降漢官勅書)
16往字太宗朝無年月(八旗官員勅書・誓文)
17宿字太宗朝無年月(八旗官員誓文)
18露字高麗紙太宗朝無年月
19致字明公文紙太宗朝無年月(八旗官員誓文)
20無編號(断片貼り混ぜ)
高麗紙
21天字天聰元年正月~天聰元年12月
22歳字天聰2年正月~天聰2年4月
23閏字天聰2年正月~天聰2年12月
24陽字天聰3年正月~天聰3年閏4月
25秋字天聰3年10月~天聰3年12月
26調字天聰4年正月~天聰4年5月
27月字天聰4年3月~天聰4年4月
28雨字天聰4年2月~天聰4年5月
29雲字天聰4年3月~天聰4年4月
30騰字天聰4年3月~天聰4年5月
31呂字天聰4年4月~天聰4年6月
32暑字天聰5年正月~天聰5年7月、11月、12月
33餘字天聰5年7月~天聰5年9月
34律字天聰5年10月
35成字天聰3年10月~天聰5年閏11月
36地字天聰6年正月~天聰6年4月
加圏點
37附2無圏點天聰6年正月~天聰6年4月
加圏點
38附3天聰9年正月~天聰9年8月
39日字天聰10年正月~崇徳元年8月
40宇字崇徳元年9月~崇徳元年12月

 千字文冒頭の

天地玄黃 宇宙洪荒 日月盈昃 辰宿列張 寒來暑往 秋收冬藏 閏餘成歲 律呂調陽 雲騰致雨 露結為霜

天から露までの37文字が先に発見された檔冊に振られています。”玄”字は康熙帝の諱”玄燁”を避けていますが、欠番ではなく20番無編號がそれに当たるはずです。附1~3は後から発見された檔冊で、装丁は同じ仕様だったようですが、字號は振られていません。何故この3冊が別管理とされたのかもよく分かってはいないようです。

 『淸太祖實錄の研究』には

以下これらの檔册を字號によらず年代順に表示する。vii

と書かれてますが、一部年代順じゃないんですがこれは…。特に7番冬字冊は明らかに下の方にないといけないはずはのに何故そこに居る…とか、40番宇字冊と年代丸かぶりなんですが流石にこれは何らかのメモミスかなんかでは…と、ちょっと唸ってしまいますが、自分は《満文原檔》の影印本すら確認していないので、これについては確認しないと何ともですね。
 で、《満文老檔》180巻自体は一応編年体というか、年代順に並んでいるわけで(参照⇒満文老档の時代)、年代が重なっている檔冊が多い《満文原檔》をそのまま並べても順序などにどうしても編纂意図が出ます。
 また、《満文原檔》は無圏点滿洲文字で記されている箇所もあれば、天聰6(1632)年以降の記事は、有圏点滿洲文字が多くなります。また一覧表を見ると分かるように、天聰6年以前の記録…ヌルハチの天命年間の記事にも有圏点滿洲文字が使われている箇所もあります。これを《満文老檔》では一律有圏点滿洲文字に改めたり、一律無圏点滿洲文字に改めたりしているわけです。当時は辞典がないと無圏点滿洲文字を理解できないくらいに馴染みがなかったワケですから、《満文老檔》が《満文原檔》を忠実に整理した編纂物…と言うわけではないことがこの事からも分かるかと思います(実際に添削を行ったことは《満文原檔》の記述からも指摘されています)。
 しかも、《満文老檔》自体も、実録の原史料として乾隆年間に重鈔されているわけで、決して実録の否定を目的にはしていないようなんですよね。まぁ、そもそもこの字號の順番に何の意味があったのかとか、あとから見つかった3冊に字號が振られなかったのは何故なのかとか、内国史院檔として保管されている档案群とどういった関係があるのかなど、まだ自分も理解が追いついていない部分はあるんですけどねぇ。ともあれ、今回は自分ですっきりしない部分をまとめてみました。

参考文献:
加藤直人『清代文書資料の研究』汲古書院
庄声『帝国を創った言語政策─ダイチン・グルン初期の言語政策と文化─』京都大学学術出版会
松村潤『淸太祖實錄の研究』東北アジア文獻研究會

  1. ~天聰6年:無圏点文字 天聰6年~:加圏点文字、一部漢文⇒『淸太祖實錄の研究』P.28~29
  2. 民國20(1931)年発見分37冊(乾隆年間に表装され、《千字文》順に字号が「天」~「露」まで振られている(「玄」は康熙帝の諱を避けて使用されていない
  3. 1775
  4. 『淸太祖實錄の研究』P.27
  5. 『帝国を創った言語政策』P.309
  6. 『帝国を創った言語政策』P.309 ちなみに内藤湖南が奉天宮殿崇謨閣で発見したのは有圏点満文老檔楷書本で、この本の影印が取られ東洋文庫で和訳されている。
  7. 『淸太祖實錄の研究』P.28

天聰5年の六部人事

$
0
0

 庄声センセの『帝国を創った言語政策』のおもしろさを伝えようとして中々できていないのですが、とりあえず、清代の六部に関する表をば…。基本的には『帝国を創った言語政策』のP.85にある表3-1 天聰五年の六部を元に作表しました。六部のマンジュ名称はWikipediaにある清代の官職の項が参考になりました。


 ちなみに、人名の前の数字は定員です。人名が判明していないけど他にこれだけの人が居た可能性がある…と言うような感じですね…。定員見ただけでもマンジュが優遇されていたことは分かります。マンジュの承政については所属旗が『大清帝国の形成と八旗制』P.89の表1-4 入関前六部ベイレ・満承政一覧にあります。あと、『清初皇帝政治の研究』P.28にマンジュの六部啓心郎の所属旗についての記述があります。漢人については『清初軍事論考』に収録されている「漢軍八旗の成立」と「清初の漢人の総兵官について─八旗と緑旗の相違点─」と言う論文と『大清帝国の形成と八旗制』から拾いました。最後は『八旗通志列傳索引』も使いましたが案外立伝されてる人少なそうですね…。

Ninggun Jargan/
六部
 管理部務
Beile 貝勒/Taiji 台吉
Aliha Amban/
承政
Ashan i Amban/
参政
Mujilen Bahabuko/
啓心郎
Bithesi/
筆帖式
Hafan i Jargan滿洲Hošoi Mergen Daicing Beile(鑲白旗)/和碩墨爾根戴青貝勒2:Dorgei(鑲白旗)、Baintu(正黄旗)8:Hontu、Hobai、Haksaha、Yambulu、Kiska、Jumara、Artai、Keifu2:Sonin(正黄旗)、Nanggetu8:Sonin(正黄旗)、Nanggetu
蒙古1:Manjusiyeri4:Esei、Nanai、Dalai、Nomun
吏部1:李延庚(正藍旗?)i2:Yang Sing kūwe、「欠」2:Be Ing pin、呉景道(正黄旗)2:Be Ing pin、呉景道(正黄旗)
Boigon i Jargan滿洲Degelei Taiji(正藍旗)/徳格類台吉2:Inggoltai(鑲白旗)、Sabigan(正藍旗)8:Sirana、Yarana、Mafuta、Kūri、Dayangga、Afuni、Lolo、Jaisa2:Budan(鑲白旗)、Baturi16:Budan(鑲白旗)、Baturi
蒙古2:Obontoi4:Baisangko、Bandana、Kangkal、Henje
戸部1:佟三(正藍旗)ii2:呉守進(正紅旗)、Joo Teng ing2:Jin Ju、朱国柱2:Jin Ju、朱国柱
Dorolon i Jargan滿洲Sahaliyen Taiji(正紅旗)/薩哈璘台吉2:Baturi(正白旗)、Gisun (鑲黄旗)8:Mandarhan、Asan、Tongsan、Mūku、Jūjike、Nikan、Tarko、Lama2:Kicungge(正白旗)、Dumbai8:Kicungge(正白旗)、Dumbai
蒙古1:Buyantai4:Songkai、Siran、Harsungga、U Nagantai
礼部1:金玉和(正黄旗)2:祖思成、李思忠(正黄旗) iii2:斉国儒、Ū Yan sū2:斉国儒、Ū Yan sū
Coohai Jargan滿洲Hošoi Yoto Beile(鑲紅旗)/和碩岳託貝勒2:Namtai(正黄旗)、Jeksio (正紅旗)8:Oota、Yabukai、Sitangga、Tūmen、Ubahai、Sanuha、Tatai、Yasita2:Mūcengge(所属旗不明)、Buran16:Mūcengge(所属旗不明)、Buran
蒙古1:Suna Efu4:Kaktu、Toktokoi、Anggetu、Mangol
兵部1:石廷柱(鑲白旗)iv2:Ling Sino wen、G'u Yang moo2:丁文盛、趙福星2:丁文盛、趙福星
Beidere Jargan滿洲Hošoi Jirgalang Beile(鑲藍旗)/和碩濟爾哈朗貝勒2:Soohai(鑲黄旗)、Cakara(正紅旗)8:Lanbkio、Bušai、Cookar、Olosecen、Taisungga、Burkoi、Loki、Bakiran2:Ergetu(鑲黄旗)、Babum8:Ergetu(鑲黄旗)、Babum
蒙古1:Dorgi Efu4:Baikolai、Bursan、Usantai、Sarang
刑部1:高鴻中2:Yang Wen pong、Jin Haisa2:王廷選、Sin Joo ji2:王廷選、Sin Joo ji
Weilere Jurgan滿洲Abtai Taiji(鑲黄旗)/阿巴泰台吉2:Monggatu(正白旗)、Kangkalai(鑲藍旗)8:Basan、Langgeri、Emungge、Omsoko、Siltu、Kongniyakan、Fukana、Mootasa2:Miosikon(鑲白旗)、Cabuhai8:Miosikon(鑲白旗)、Cabuhai
蒙古1:Nangos4:Manggei、Tuktui、Tunggor、Nomtu
工部1:石国柱(鑲白旗?)v2:佟国印(正藍旗)、馬遠隆2:羅繍錦(鑲紅旗)、馬鳴佩(鑲紅旗)2:羅繍錦(鑲紅旗)、馬鳴佩(鑲紅旗)

 ちなみに、六部が設立される前には両院=Bithei Jurgan/文院とCoohai Jurgan/武院があったようですが、すでに内政が複雑化していたアイシン・グルン国内で機能不全に陥っていたようですvi。官員の配置・定数や官員の名称を見ても、明代の六部との共通性はむしろ少なく、ホンタイジのブレーンたちが創出したマンジュというかアイシン・グルン独自の制度を明代の制度に当てはめた…という感じはしますね。マンジュの参政・啓心郎やモンゴルは力尽きてしまったので今回はスルーの方向で…。

参考文献:
庄声『帝国を創った言語政策 ─ダイチン・グルン初期の言語生活と文化─』京都大学学術出版会
片岡一忠『中国官印制度研究』東方書店
杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版会
磯部淳史『清初皇帝政治の研究』風間書房
阿南惟敬『清初軍事史論考』甲陽書房
東洋文庫滿文老檔研究會『八旗通志列傳索引』東洋文庫滿文老檔研究會
谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版会
Wikipedia 清代の官職

  1. 李永芳長子・Yangga。
  2. 撫順佟氏
  3. 李成梁らの鉄嶺李氏
  4. 石国柱弟。
  5. 石廷柱兄。
  6. 『帝国を創った言語政策』P.84

清実録一覧

$
0
0

 と言うわけで、清朝の実録編纂に関しては太祖、太宗、世祖の三朝実録の複雑な編纂過程もあったり、満漢蒙の三言語で書かれていたりでかなりめんどくさい事になっています。なので、この辺の事情をやはり纏めておかないとこんがらがるので、纏めてみました。この辺は主に『清代文書資料の研究』の巻末にまとまってる情報を表にしてみただけです。

実録編纂編纂開始言語巻数書名収蔵場所
満洲実録乾隆勅撰乾隆44(1779)年満文8巻i
漢文8巻ii
蒙文8巻iii
太祖実録崇徳初纂崇徳元(1636)年iv満文8巻?vdergi taidzu,taiheo i yabuha yargiyan kooli githevi散逸?
漢文4巻?vii太祖太后実録viii
蒙文?
順治重修順治6(1649)年ix満文4巻daicing gurun i taidzu horonggo enduringge hūwandi yargiyan koolix北京・中国第一歴史档案館(完本)、北京・国家図書館(一巻欠)、台北・国家図書館(一巻欠)
漢文4巻xi大清太祖承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝武皇帝実録台北・国立故宮図書館(3本)
蒙文6巻?xii北京・中国第一歴史档案館xiii
康熙三修康熙21(1682)年xiv満文北京・中国第一歴史档案館
漢文10巻xv大清太祖承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武弘文定業高皇帝実録日本・内閣文庫(清三朝実録⇒私抄本)
乾隆四修雍正12(1734)年xvi満文13巻北京・中国第一歴史档案館
漢文10巻首3巻xvii大清太祖承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
蒙文北京・中国第一歴史档案館
太宗実録稿本漢文清太宗実録稿本xviii北京・国家図書館
順治初纂順治6(1649)年xix満文65巻xxdaicing gurun i daidzung gengiyen šu hūwandi yargiyan kooli北京・中国第一歴史档案館
漢文40巻xxi大清太宗応天典国弘徳彰武寛温仁聖睿孝文皇帝実録台北・国立故宮図書館
康熙二修康熙12(1673)年xxii満文北京・中国第一歴史档案館
漢文大清太宗応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝隆道顕功文皇帝実録日本・内閣文庫(清三朝実録⇒私抄本)
乾隆三修雍正12(1734)年xxiii満文daicing gurun i daidzung gengiyen šu hūwandi yargiyan kooli北京・中国第一歴史档案館
漢文65巻首3巻xxiv大清太宗応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝隆道顕功文皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
蒙文北京・中国第一歴史档案館
世祖実録康熙初纂康熙6(1667)年xxv満文北京・中国第一歴史档案館
漢文大清世祖體天隆運英睿欽文大徳弘功至仁純孝章皇帝実録日本・内閣文庫(清三朝実録⇒私抄本)
乾隆重修雍正12(1734)年xxvi満文北京・中国第一歴史档案館
漢文144巻首3巻xxvii大清世祖體天隆運英睿欽文大徳弘功至仁純孝章皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
蒙文北京・中国第一歴史档案館
聖祖実録乾隆勅撰康熙61(1722)年xxviii満文北京・中国第一歴史档案館
漢文300巻首3巻xxix大清聖祖合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬信中和功徳太成仁皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
蒙文北京・中国第一歴史档案館
世宗実録乾隆勅撰雍正13(1735)年xxx満文北京・中国第一歴史档案館
漢文159巻首3巻xxxi大清世宗敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅大孝至誠憲皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
蒙文北京・中国第一歴史档案館
高宗実録嘉慶勅撰嘉慶4(1799)年xxxii満文北京・中国第一歴史档案館
漢文1500巻首5巻xxxiii大清高宗法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武孝慈神聖純皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
仁宗実録道光勅撰道光4(1824)年xxxiv
漢文374巻首4巻xxxv大清仁宗受天興運敷化綏猷崇文経武孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝實錄xxxvi
宣宗実録咸豐勅撰咸豊2(1852)年xxxvii満文北京・中国第一歴史档案館
漢文476巻首5巻xxxviii大清宣宗効天符運立中體正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏成皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
文宗実録同治勅撰同治元(1862)年xxxix満文北京・中国第一歴史档案館
漢文356巻首4巻xl大淸文宗協天翔運執中垂謨懋徳振武聖孝淵恭端仁寛敏顕皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
穆宗実録光緒勅撰光緒5(1879)年xli満文北京・中国第一歴史档案館
漢文374巻首4巻xlii大清穆宗継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寛毅皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
徳宗実録宣統勅撰宣統年間xliii満文北京・中国第一歴史档案館
漢文597巻首4巻xliv大清徳宗同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝実録北京・中国第一歴史档案館(大紅綾本)
宣統政紀康徳編纂漢文70巻首1巻xlv大清宣統政紀

 清朝の実録編纂事情は調べると分かるけれども、纏めるのも大変です。日本語では三朝実録(太祖太宗世祖の三朝)の編纂状況についてはかなりの研究がありますが、清朝通じて…となると案外分からないんですよね。で、検索でヒットした谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社 と言う本をあまり期待せずに買ってみたら辞書並みに厚い本でして…しかも、知らないこといっぱい書いてあるので悪戦苦闘してますデス…。表を見ていて、え?実録って版本いくつあるのよ?とか、大紅綾本って何よ?とか、中国第一歴史档案館収蔵はいいけどこれ元々どこにあったのよ?とか、色々疑問もあるかと思いますが、そこも含めてまた追々更新していきます。

参考文献:
加藤直人『清代文書資料の研究』汲古書院
庄声『帝国を創った言語政策─ダイチン・グルン初期の言語政策と文化─』京都大学学術出版会
松村潤『淸太祖實錄の研究』東北アジア文獻研究會
松村潤『明清史論考』山川出版社
今西春秋『對校 大淸太祖實錄』國書刊行會
大淸歴朝実録》滿洲國國務院
《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類

  1. 《大淸歴朝実録》
  2. 《大淸歴朝実録》
  3. 《大淸歴朝実録》
  4. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  5. 『明清史論考』P.320
  6. dergi daidzu,abkai hese be alifi forgon be mukdembuhe,gurun I ten be fukjin ilibuha,feguwacuke gungge gosin giyoošungga horonggo enduringge hūwangdi,dergi taiheo gosin hiyoošungga doro de akūmbuha,ginggun ijishūn hūturingga eldengge hūturingga elfengga anduringge hūwangheo i yabuha yargiyan kooli =上の太祖承天廣運聖德神功肇紀立極仁孝武皇帝、上の太后孝慈昭憲純德貞順成天育聖皇后の實錄 ⇒『淸太祖實錄の研究』P.2
  7. 『明清史論考』P.320
  8. 太祖承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝皇帝、孝慈昭憲紀徳貞順承天育成武皇后実録
  9. 順治9(1652)年再開?『清代文書資料の研究』P.25、『明清史論考』P.315
  10. 巻頭は daicing gurun i taidzu horonngo enduringe hūwandi yargiyan kooli⇒P.26
  11. 『對校 大淸太祖實錄』P.4
  12. 『明清史論考』P.322
  13. 『明清史論考』P.322より『故宮博物院文献館現存清代実録総目』を引いている。故宮博物院文献館管轄だった档案は現在は中国第一歴史档案館が引き継いでいる。
  14. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  15. 『對校 大淸太祖實錄』P.4
  16. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  17. 《大淸歴朝実録》
  18. 入関前の会典か?⇒『帝国を創った言語政策』P.206
  19. 順治9(1652)年再開?『清代文書資料の研究』P.25、『明清史論考』P.315
  20. 『明清史論考』P.340
  21. 『明清史論考』P.340
  22. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  23. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  24. 《大淸歴朝実録》
  25. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  26. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  27. 《大淸歴朝実録》
  28. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  29. 《大淸歴朝実録》
  30. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  31. 《大淸歴朝実録》
  32. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  33. 《大淸歴朝実録》
  34. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  35. 《大淸歴朝実録》
  36. 《大淸歴朝実録》
  37. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  38. 《大淸歴朝実録》
  39. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  40. 《大淸歴朝実録》
  41. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  42. 《大淸歴朝実録》
  43. 《清史稿》巻一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類
  44. 《大淸歴朝実録》
  45. 《大淸歴朝実録》

甄嬛のモデル、海寧陳氏の元ネタ

$
0
0

 さて、鈴木真センセの新作論文「雍正帝の后妃とその一族i」という論文が学術的に非常に興味深い上にドラマネタ的にも面白い話だったのでメモ。
 で、どんな内容かというと⇒ドラマ《后宫甄嬛传(邦題:宮廷の諍い女)》の中で、正藍旗漢軍旗人である主人公・甄嬛が宮廷から出て道観に出家?して、再度入内する際にニオフル氏に改称するシーンがありました。ドラマ見ていた時には、楊玉環⇒楊貴妃を下敷きにしたのかなぁ…と思っていたのですが、どうやらこれに元ネタがあったようです…。原作小説は清代がモデルではないので、テレビ版がどれくらい意識しているかは分かりませんけど…。


 まず、清朝公式見解における、乾隆帝生母の身の上についての記事を見てみましょう。

孝聖憲皇后,鈕祜祿氏,四品典儀淩柱女。后年十三,事世宗潛邸,號格格。康熙五十年八月庚午,高宗生。雍正中,封熹妃,進熹貴妃。ii

 《清史稿》列傳一では高宗乾隆帝の生母は孝聖憲皇后であり、鈕祜祿氏ニオフル氏の出身で雍正帝生前は熹妃もしくは熹貴妃と呼ばれていた…と言うことが書かれています。と言うわけで、熹妃鈕祜祿氏という理解があればこの時点でよろしいかと。

 で、元々、蕭奭《永憲錄》という序文に乾隆17年の記載がある、康熙から雍正にかけての編年史に以下の文がある事が知られていました。

(雍正元(1723)年十二月)丁卯。午刻上御太和殿。遣使冊立中宮那拉氏為皇后。詔告天下。恩赦有差。封年氏為貴妃。李氏為齊妃。錢氏為熹妃宋氏為裕嬪耿氏為懋嬪iii

 ほぼ同時代史料の記事に熹妃錢氏とされていることが以前から知られていたわけです。となると、乾隆帝は漢人の母親から生まれてきたのでしょうかねぇ?

(雍正元(1723)年二月戊午(二十二日))傳皇太后懿旨。封側福晉年氏為貴妃。李氏為妃。格格鈕氏宋氏耿氏iv

 しかし、これまで《永憲錄》が何故信用されてこなかったのかというと、同じ巻の別の場所にある、ほぼ同じ内容の箇所で錢氏でなければならない箇所が鈕氏とされているからなんですね。清朝の漢文記事ではマンジュ人名や氏族を略して漢字の一字目を取ってくるという記述がままあります。全部書くと長いし画数も多いのでしんどいんです。なので、この箇所も氏=鈕祜魯氏で、氏というのも氏の誤記だろう…と、これまでは言われていたわけです。かなり苦しい論法ですが《永憲錄》内での記述が落ち着かない上に官選史料で鈕祜魯氏とされている以上仕方のないことかと思います。

(雍正元(1723)年二月)甲子。諭禮部。奉皇太后懿旨。側妃年氏、封為貴妃。側妃李氏、封為齊妃。格格鈕祜魯氏、封為熹妃。格格宋氏、封為懋嬪。格格耿氏、封為裕嬪v
(雍正元(1723)年十二月)丙寅。以冊立皇后、及冊封貴妃、齊妃、熹妃。上親詣奉先殿、行告祭禮。vi
(雍正元(1723)年十二月)丁卯。上御太和殿。命太保吏部尚書公隆科多、為正使。領侍衛內大臣馬武、為副使。持節齎冊寶。冊立嫡妃那拉氏為皇后。(中略)命禮部左侍郎登德、為正使。內閣學士塞楞額、為副使。持節、冊封熹妃。冊文曰。朕惟贊宮庭而衍慶。端賴柔嘉。班位號以分榮。丕昭淑惠。珩璜有則。綸綍用宣。咨爾格格鈕祜魯氏、毓質名門。揚休令問。溫恭懋著。夙效順而無違。禮教克。益勤修而罔怠。曾仰承皇太后慈諭、以冊印封爾為熹妃。爾其祗膺巽命。vii

 それに、上記のように清朝の公文書たる《世宗憲皇帝実録》でも熹妃鈕祜魯氏=ニオフル氏としているのです。まぁ、所謂野史である《永憲錄》は何らかの誤解なり誤記があったんだろう…と、結論づけるしかないでしょう。
 あと《永憲錄》では宋氏裕嬪に封じ、耿氏懋嬪に封じた…とありますが、《実録》では格格宋氏を封じて懋嬪となし、格格耿氏を封じて裕嬪となす…と宋氏耿氏の封号が《実録》と互い違いに記述していると言う点もその信用度を下げる原因となっていました。ともあれ、私撰史書の記述だし宮中のことがよく分からない人が書いたために起こった誤記なんだろう…と言うコトになっていたんですね。

 折角ですから他の后妃の出身も見ていくと…皇后に封じられたウラナラ氏は、雍親王藩邸時代の嫡福晋で、このサイトでも何度も触れているウラ国の王族の末裔ですから、押しも押されぬ名族の出身です。
 で、側福晋であった年氏こと年貴妃は、権臣である鑲白旗漢軍旗人年羹堯の妹なので名門とは言えなくとも要人の一族です。后妃の中では一番羽振りがいい実家ですし、何より年貴妃は雍正帝の一番の寵愛を得ていたようです。まぁ…年貴妃は病気で早世してしまいますし、兄の年羹堯はそれからまもなく失脚してしまうんですが…。
 また、ニオフル氏は開国の功臣であるエイドゥの一族ですが、熹妃の実家はエイドゥ嫡流ではなく、その傍流だったようです。
 と、公文書にはこうあるんですが、鈴木センセの論文では更に突っ込んで確認を続けます。乾隆年間には鑲黄旗に移旗される熹妃ニオフル氏の実家は、複数の家譜を確認するに雍正帝即位前の管轄旗である鑲白旗ボーイ・ニルであったことが分かります。ボーイ・ニルは罪人や罪人に連座したものが落とされることもありますが、雍正帝生母の出身もそうであったように、決して身分は高くはないものの、皇位継承を憚られるような被差別的な集団ではなかったようです。
 では何故熹妃ニオフル氏の出自を伏せなければならなかったのか?熹妃ニオフル氏は、ボーイ・ニル出身とはいえマンジュ出身ではなく、漢族出身、かつ名族ではなくどちらかと言えば身分の低い家柄だったのではないか?と鈴木センセは続けます。《愛新覺羅宗譜》を活用して乾隆帝即位を画期として、熹妃の実家の人々は錢佳氏錢氏からニオフル氏に改称されていることを突き止めます。

 さらに、ここにきて官選史料…しかも一次資料に近い史料の中に、この説を補強する史料を紹介されています。

《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻

《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻

   雍正元年二月十四日奉
 上諭遵
太后聖母諭㫖側福金年氏封為貴妃側福金李氏封
  為齋妃格格錢氏封為熹妃格格宋氏封為裕嬪
  格格耿氏封為懋嬪該部知道viii

 と、雍正朝の諭旨から《永憲錄》と同じ記述が見つかったんですよね。熹妃錢氏宋氏裕嬪耿氏懋嬪…と言うわけで、図らずも宋氏耿氏の封号も《実録》ではなく《永憲錄》の記述の方が正しかったことが証明されてしまいました。しかも、他の箇所では訂正が入っている箇所もあるようですが、ここに至ってはスルーです。官選史料で間違いなしと判断されてるって事ですね。すくなくとも、雍正帝治世ではこれで問題はなかったと言うことになります。

 つまりまぁ…。雍正帝崩御段階では生母の家格が最も高く、康熙帝も目をかけていた四阿哥 宝親王・弘暦が衆望を得て即位した…という前提は、母親の家格が崩れることによって宝親王弘暦が決定的な皇位継承候補でもなかった事が判明し、そもそも康熙帝の評価というのは同時代史料で確認できない以上は後付けなのでは?と言うコトになるわけです。清朝皇帝の中でも最も波乱のない皇位継承と言われる雍正乾隆も他の皇位継承と変わりなく、四阿哥・弘暦は他の皇位継承候補者と比較して圧倒的なアドバンテージがなかったわけです。この時点なら、むしろ年貴妃所生の八阿哥福慧阿哥(弘晟)の地位が抜きんでて高いことになります。

 ともあれ、乾隆帝は即位後に己の生母の出自について改竄を行い、身分の低い漢軍ボーイ・ニル錢氏もしくは錢佳氏出身であったのに、マンジュ名族ニオフル氏として記録には残した…と言うことになるかと。
 鈴木センセは書いてませんけど、このあたりから錢qián氏陳Chén氏と混同され、果ては乾隆帝漢人である浙江省杭州府海寧陳氏の出身である…という伝説の元になったんじゃないか…という感じにはなるんですかねぇ…。
 で、海寧陳氏伝説と言えば、ご存じ金庸の代表作の一つ《書剣恩仇録》の主人公陳家洛なわけですが、海寧陳氏伝説は事実ではないにしても、何らかの事実に即していた可能性はあるわけですねぇ…。

 まぁ、正直自分は書剣はあんまり好きじゃないんですけどねぇ…。

参考文献:
鈴木真「雍正帝の后妃とその一族」⇒『史境』71号 歴史人類学会
《清実録》中華書局
《雍正朝汉文谕旨汇编》1巻 広西师范大学出版社

  1. 『史境』71号 歴史人類学会
  2. 《清史稿》巻二百十四 列傳一 后妃 世宗孝聖憲皇后
  3. 《永憲錄》巻二
  4. 《永憲錄》巻二
  5. 《清世宗憲皇帝實錄》巻四
  6. 《清世宗憲皇帝實錄》巻十四
  7. 《清世宗憲皇帝實錄》巻十四
  8. 《雍正朝汉文谕旨汇编》

大紅綾本、小紅綾本、小黄綾本

$
0
0

 実録の資料を読んでいると、割とサラッと大紅綾本小紅綾本…あと小黄綾本という版本に関する用語が出てきます。常識みたいな感じであんまり説明もないんで、いや、それ何よ…と、思って調べてみました。結構時間かかりましたが…。簡単に言うと、この大紅綾本小黄綾本…という版本の違いは正本副本の差ですね…。あと、収蔵場所も違いますが。

小黄綾本漢文聖祖仁皇帝實録

小黄綾本漢文聖祖仁皇帝實録i


 まず、実録館で実録の編纂が完成すると、皇帝の審査を受けます。この時に進呈されるエディションを定稿本というのですが、この時の版本が”黄綾本”です。サイズ的には後述の小紅綾本と同じくらいだからどうやら小黄綾本とも言われるようです。小黄綾本が有るからと言って大黄綾本はないみたいです。いや、昔はあったという説もないこともないみたいですが、基本的には確認のための本なのであまり大きいのは読みにくいからって言うのでこういうサイズだったのかしらと…。まぁ、あんまりサイズについては書いてる史料見当たりませんが。ほぼこれで決定稿なのですが、中には誤字脱字や事実関係の錯誤なんかが皇帝によって指摘されることがまれにあったようです。実録も大部ですし乾隆帝の《高宗純皇帝実録》は1500巻もあります。嘉慶帝は実録を読むのを結構好きでやってたみたいですが、それでも確認までに3年かかったようです。なので、小黄綾本は正本ではあるものの他の版本と文字の異同がある可能性はあります。小黄綾本の正文の写真とか見ると、訂正箇所は黄色い付箋を貼って直したようです。ちなみに、小黄綾本の保管場所は本によっては上書房にあったとか、乾清宮にあったとか、内閣大庫にあったとか説がまちまちデス。現在の収蔵場所も中國第一歴史檔案館に有るんだか故宮博物院圖書館に有るのか物の本によっては違いますので、よく分かりません…。そもそも、揃ってるんだかどうかすらよく分かりませんしねぇ。
大紅綾本(皇史宬)漢文高宗純皇帝實録

大紅綾本(皇史宬)漢文高宗純皇帝實録ii


 で、内容に問題が無いことが確認されると、吉日を選んで実録の告成…まぁ完成が宣言されます。雍正年間からは乾清宮で式典を行って実録を奉納するようになったようです。基本的に正本は二組作成されます。正本のことを”大紅綾本”と称します。明代実録の様式に則ったサイズで作成されているようです。ちなみに大紅綾本一組三言語(満漢蒙)は皇史宬に尊蔵されます。通称:皇史宬本です。これが今中國第一歴史檔案館に保管されている《実録》です。
 もうワンセットの正本大紅綾本一組二言語(満漢)は盛京崇謨閣に尊蔵されます。通称:盛京本乾隆年間までは鳳凰樓に保管されていたようですが、容量を超えてしまったために《玉牒》と歴朝《実録》を崇謨閣に移したようです。内藤湖南が調査したことで《満文老檔》や《五體清文鑑》が”発見”された宮殿ですね。《満洲実録》も同時に発見されていますから、そういう場所だったと言うことですね。こちらは遼寧省檔案館に保管されています。ちなみにいわゆる満州国で出版された《大清歴朝実録》の底本はすべてこの版本です。
小紅綾本(内閣本)漢文世宗憲皇帝實録

小紅綾本(内閣本)漢文世宗憲皇帝實録iii


 更に副本は”小紅綾本”と呼ばれます。これも満漢蒙の三言語版有ります。内閣実録庫に保管されます。通称:内閣本。現在は台北故宮…つまり國立故宮博物院に保管されています。更に《清史列傳》や《滿漢名臣傳》が編纂された国史館でこの内閣本を複製したようです。 …が、この版本の現在の行方はどこにも書いてませんでした。
 で、もうワンセットの副本?小紅綾本乾清宮に保管されていました。通称:大内本嘉慶帝の頃までは西暖閣にのみ保管されていたようですが、何せ乾隆帝の《高宗純皇帝実録》は1500巻の大部ですから、場所が足りなくなってしまったので、太祖・太宗・世祖・聖祖・世宗の五朝実録を乾清宮東暖閣に保管し、それ以降を西暖閣に保管したようです。乾清宮東西暖閣とか《日下旧聞考》にも記載ないんで、昭仁殿弘徳殿のことかなと思ったら、《清宮述聞》に記事が有ったので、どうやら乾清宮内に東暖閣西暖閣という場所もあるのかなと…。昭仁殿弘徳殿とは明らかに別の場所という感じの記述ですし。ともあれ、こっちの小紅綾本は皇帝が閲覧に使用していたみたいで、小黄綾本よりは乾清宮に保管されている小紅綾本大内本の方が皇帝所用という感じですね。で、こちらは故宮博物院圖書館に収蔵されているようです。

 つまり、纏めてみると…実録には三種類の装丁が有って五カ所⇒六カ所に保管していた模様。まず皇帝審査用の稿本最終稿:小黄綾本。それに、保存用の正本:大紅綾本×2部⇒盛京崇謨閣盛京本)と皇城内の皇史宬皇史宬本)で保管、更に副本:小紅綾本×2部⇒紫禁城内の乾清宮東暖閣西暖閣大内本)と内閣閲覧用に内閣実録庫内閣本)で保管。で、後に内閣本の複製である国史館本。基本的には満漢蒙三言語のワンセットが基本だけど、盛京本だけが満漢二言語のワンセットになっている…で、そもそも国史館本漢語以外写したのかどうかすらよく分からない…という感じですかね。
 と、折角なので中華書局版の《清實録》の底本一覧が影印説明にあったのでサラッと纏めてみます。

實録名称首巻巻数巻数底本元収蔵場所現収蔵所
満洲實録8巻小黄綾本上書房中國第一歷史檔案館
太祖高皇帝實録3巻10巻首巻3巻小黄綾本上書房中國第一歷史檔案館
巻1~4,巻8~10大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻5~7大紅綾本盛京崇謨閣遼寧省檔案館
太宗文皇帝實録3巻65巻首巻3巻、巻1~30小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻31~48大紅綾本盛京崇謨閣遼寧省檔案館
巻49~65大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
世祖章皇帝實録3巻144巻小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
聖祖仁皇帝實録3巻300巻首巻3巻、巻1~150大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻151~198小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻199~201大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻202~300小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
世宗憲皇帝實録3巻159巻大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
高宗純皇帝實録5巻1500巻首巻5巻、巻1~695大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻696~701小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻702~757大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻758~763小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻764~787大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻788~798小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻796~1500大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
仁宗睿皇帝實録4巻374巻大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
宣宗成皇帝實録5巻476巻大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
文宗顕皇帝實録4巻356巻首巻4巻、巻1~339大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
巻340~347小紅綾本乾清宮故宮博物院圖書館
巻348~356大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
穆宗毅皇帝實録4巻374巻大紅綾本皇史宬中國第一歷史檔案館
徳宗景皇帝實録4巻597巻北大定稿本清室旧蔵北京大學圖書館
宣統政紀1巻70巻北大定稿本清室旧蔵北京大學圖書館

 で、実は紅綾本とか黄綾本とかの話は《清實録》影印説明に手際よくまとまってますので引用します。

太祖至穆宗十朝實録
 這十朝実録究竟繕寫幾部、歷來説法不一。一九二五年故宮博物院成立後、開始清點實録、所見太祖・太宗・世祖(以上三朝實録爲雍正・乾隆間校訂本)・聖祖・世宗・高宗・仁宗・宣宗・文宗・穆宗十朝實録滿・漢・蒙文本各四部。另外、盛京崇謨閣藏有十朝實録滿・漢文本各一部、共計滿・漢文本實録各五部、蒙文本實録各四部。這五部漢文本實録習慣上按裝潢和開本大小、被稱爲大紅綾本・小紅綾本・小黄綾本。大紅綾本兩部、一部收藏在皇史宬、現藏於中國第一歴史檔案館、一部收藏在盛京崇謨閣、現藏於遼寧省檔案館。小紅綾本兩部、一部收藏乾清宮、現藏於故宮博物院圖書館、一部收藏在内閣實録庫。小黄綾本一部、收藏在内閣實録庫、現藏于中國第一歴史档案館。iv

 《徳宗景皇帝実録》と《宣統政紀》は編纂過程がややこしいので別口なんですよね…。まぁ、溥儀といわゆる満州国絡みで面倒なんですよね…。と、サックリ《大清歴朝實録》の底本の本も書いておきます。まぁ、ほとんど盛京本なんですけど。

實録名称首巻巻数底本元収蔵場所現収蔵所
満洲實録8巻大紅綾本盛京崇謨閣遼寧省檔案館
太祖高皇帝實録3巻10巻
太宗文皇帝實録3巻65巻
世祖章皇帝實録3巻144巻
聖祖仁皇帝實録3巻300巻
世宗憲皇帝實録3巻159巻
高宗純皇帝實録5巻1500巻
仁宗睿皇帝實録4巻374巻
宣宗成皇帝實録5巻476巻
文宗顕皇帝實録4巻356巻
穆宗毅皇帝實録4巻374巻
徳宗景皇帝實録4巻597巻小紅綾本溥儀旧蔵
宣統政紀1巻70巻大黄綾本溥儀旧蔵

 ちなみに臺灣華文書局本は《大清歴朝實録》の海賊…ゲフン、縮刷影印版なので、こちらも底本は《大清歴朝實録》とおなじと言うことになります。

  各版本のサイズについてはあまり解説自体無いんですが、《清實録》影印説明には下のような感じで説明があります。

 大紅綾本、書用涇縣榜紙、畫朱絲欄、胡蝶装、毎半葉九行、行十八字。毎巻前面均有勅修大臣名単(《徳宗景皇帝實録》毎巻前無勅修大臣名単)。小紅綾本、書用涇縣榜紙、畫朱絲欄、一般線装、毎半葉十行、行二十四字。小黄綾本、一般線装、毎半葉八行、行十九字。v

 まぁサイズというよりは版下の説明という感じですが…。後、大紅綾本胡蝶装なのに、小紅綾本小黄綾本線装なんですねぇ…。うむ、これは知りませんでした。入関前には公文書に使われるのは高麗紙が多かったのに、涇縣榜紙が使用されている…というのも、何とも感慨深いですねぇ…。裏紙使ってませんし…。

 で、おまけですが、実録にはこだわりがある嘉慶帝がゴチャゴチャと文句言うところですね…。

(嘉慶九年五月)戊戌(中略)又諭。據御史邱勲奏。請将實錄館纂進之紅綾本。添派勤慎人員。細心覈對期與黄綾本。一律完善等語、所奏甚是。該館毎日進呈黄綾本、經朕敬謹恭閲。偶遇字畫訛舛、即随時指示更正。足以昭垂永久、其尊蔵各處之紅綾本。字經數寫、巻帙較多、難保無偶失檢覈之處、将來全書告成後、朕毎日恭閲、即係紅綾本。若看出繕寫錯誤、再将職司校勘人員交議。巳不免有改換篇頁之事、自應趁此全書未竣、校閲各員尚多。從容覈對、務臻精善、著該館總裁。遴派勤慎之員、将現辦紅綾本。即以經進之黄綾本為準本、詳細恭校、不可稍有忽略。vi

 国立民族学博物館図書室で《清實録》のテキストを全文検索をしてみたんですが、黄綾本という名称は他の実録でも出てきますが、紅綾本という単語は嘉慶帝のこの箇所にしかでヒットしませんでした…。内容としては…まぁ、黄綾本で審査している時にまれに誤字脱字や誤解に基づく記述があると。で、それを紅綾本に書き写す時に写し損ねてはよろしくないから、まじめで細かいことに向いた人間を実録館に増員すべきだと…まぁ、そんなことでが書いてあります。なんだかめんどくさいですよねぇ…。

 と言うところで、清代の収蔵場所と現在の収蔵場所を纏めてます。日本にあるのも間違いではないんですが、又の機会に触れます。

参考文献:
谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社
清實録》中華書局
章乃炜等 编《清宫述闻》故宫出版社

  1. 故宮博物院(北京故宮)蔵《清史図典》第五冊P.48
  2. 中國第一歴史檔案館蔵《清實錄》1巻 図録P.2
  3. 國立故宮博物院(台北故宮)蔵《清雍正文物大典》國立故宮博物院 P.41
  4. 《清實録》影印説明 P.2
  5. 《清實録》影印説明 P.9
  6. 《仁宗睿皇帝實録》巻百二十九

清の実録館

$
0
0

 と言うわけで、《清实录研究》に実録の編纂場所……つまり、実録館の位置が載っていたので比定してみました。位置については……正直自信有りません…。と言うのも、実録館は常設の役所ではなく、皇帝代替わりの実録編纂時期にのみ官員が任命される性質の役所なので位置がころころ変わるんですね…。雍正~乾隆にかけての実録館は実録の告成後しばらく放置されたようですが、乾隆30年頃に国史館(《清史列傳》などを編纂した)に転用されたように、その時々の空いている場所を転々としたようです。
 しかし、実録の簡易版を《東華録》と称したように、概ね東華門近くに設置されたようです。まぁ咸豐年間以降はほぼ場所は固定されたようですが…。この辺、紫禁城に関する本を見ても今ひとつ詳しく載ってないんですよね…。ただ、Wikipediaの日本語版紫禁城の項には実録館の満文=yargiyan kooli bithei kurenも載っているので何かしら詳しい本があるんでしょうけど…って、これ咸安宮に付随する形で載ってますから、嘉慶年間の実録館ですかね。
 

 《清实录研究》では《日下旧聞考》だけでなく《國朝宮史》、《國朝宮史續編》、《清宫述闻》《清会典》などなどを駆使して各実録館を比定しています。正直、こんなに場所分かるんだとびっくりしました。

実録略称編纂巻数実録館の場所編纂開始草稿完成実録告成告成式典編纂年月
太祖太后実録崇徳初纂8巻?i盛京国史院?天聰6(1632)年11月28日崇徳元(1636)年11月15日(乙卯)4年
太祖武皇帝実録順治重修東華門橋東迤北ii順治6(1649)年正月8日(丁卯)iii
4巻iv東華門橋東迤北v順治9(1652)年正月29日(辛丑)順治12(1655)年2月12日(丁卯)順治12(1655)年4月29日(癸未)?3年
太祖高皇帝実録康熙三修10巻vi内館:午門西、外館:東華門外小南城vii康熙21(1682)年10月18日(辛卯)viii康熙23(1684)年9月11日康熙25(1686)年2月20日(甲辰)康熙25(1686)年10月27日4年
乾隆四修10巻首3巻ix三朝実録館:東華門橋東迤北x雍正12(1734)年11月29日(庚子)乾隆4(1739)年12月10日?xi5年
太宗文皇帝実録順治初纂65巻xii東華門橋東迤北xiii順治9(1652)年正月29日(辛丑)順治12(1655)年2月12日(丁卯)順治12(1655)年4月29日(癸未)?6年
康熙重修内館:午門西xiv、外館:東華門外小南城xv康熙12(1673)年7月15日(壬午)xvi康熙21(1682)年9月22日(丙寅)康熙21(1682)年9月22日(丙寅)9年
乾隆三修65巻首3巻xvii三朝実録館:東華門橋東迤北xviii雍正12(1734)年11月29日(庚子)乾隆4(1739)年12月10日?xix5年
世祖章皇帝実録康熙初纂内館:午門西xx、外館:東華門外小南城xxi康熙6(1667)年9月5日(丙午)xxii康熙8(1669)年3月1日康熙11(1672)年5月20日(乙丑)康熙11(1672)年5月20日(乙丑)5年
乾隆重修144巻首3巻xxiii三朝実録館:東華門橋東迤北xxiv雍正12(1734)年11月29日(庚子)xxv乾隆4(1739)年12月10日?xxvi5年
聖祖仁皇帝実録雍正勅纂300巻首3巻xxvii東華門橋東迤北xxviii康熙61(1722)年12月19日(庚午)xxixxxx雍正9(1731)年12月20日(乙酉)雍正9(1731)年12月20日(乙酉)xxxi9年
世宗憲皇帝実録乾隆勅纂159巻首3巻xxxii東華門橋東迤北?xxxiii雍正13(1735)年10月3日(戊辰)xxxiv乾隆6(1741)年12月11日(壬寅)乾隆6(1741)年12月11日(壬寅)6年
高宗純皇帝実録嘉慶勅纂1500巻首5巻xxxv咸安宮後清字経館xxxvi嘉慶4(1799)年2月9日(丁酉)嘉慶8(1803)年9月12日(甲辰)xxxvii嘉慶11(1806)年3月4日(壬午)嘉慶12(1807)年正月11日(癸丑)7年
仁宗睿皇帝実録道光勅纂374巻首4巻xxxviii鷹狗処xxxix嘉慶25(1820)年9月7日(庚申)xlxli道光4(1824)年3月30日(壬巳)道光4(1824)年4月20日(癸丑)4年
宣宗成皇帝実録咸豐勅纂476巻首5巻xlii東西両所房間xliii道光30(1850)年2月20日(癸未)xliv咸豐6(1856)年10月1日(乙酉)咸豐6(1856)年11月1日(乙卯)6年
文宗顕皇帝実録同治勅纂356巻首4巻xlv東西両所房間xlvi咸豐11(1861)年10月26日(辛未)xlvii同治2(1863)年9月26日(庚午)xlviii同治5(1866)年11月22日(丁丑)同治5(1866)年12月8日(癸巳)5年
穆宗毅皇帝実録光緒勅纂374巻首4巻xlix東西両所房間l光緒元(1875)年2月2日(庚午)li光緒2(1876)年11月25日(壬午)lii光緒5(1879)年11月7日(丙子)光緒6(1880)年3月20日(乙亥)4年
徳宗景皇帝実録清室私纂597巻首4巻liii東西両所房間liv⇒民国成立後に移転宣統元(1909)年2月2日(壬子)宣統4=民国2(1913)年12月19日宣統19=中華民国16(1927)年lv18年?
宣統政紀清室私纂70巻首1巻lvi東西両所房間lvii⇒民国成立後に移転宣統5=中華民国3(1914)年正月19日宣統5=中華民国3(1914)年2月1934年?lviii1ヶ月?

 ついでなので、各実録の編纂開始と告成の時期、分かれば稿本の成立時期と告成式典の時期も表にしてみました。康熙から乾隆の三朝実録の編纂にかかった時間が割と長いような気がします…。まぁ、清朝滅亡後に完成した《穆宗景皇帝実録》とかは比較するのは難しい気はします。
 あと、《清实录研究》では《世宗章皇帝実録》を小南城で編纂したと言うことが書かれているわけですが、小南城は清初には睿親王府が置かれて康煕年間に嗎噶喇廟に改装されたlix…と言うことはウルトラ丸ごとスルーなのが気になりました。しかし、ドルゴン全体ブッ殺すマンであった順治帝の記録をドルゴン旧宅で編纂するって言うのはなんというか、皮肉なことするなぁ…と。

参考文献:
谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社
《清實録》1巻 影印説明 中華書局
『紫禁城宮殿』講談社
赵广超《紫禁城100》故宫出版社
于敏中 等《日下旧聞考》北京古籍出版社
オルタイ・張廷玉 等《國朝宮史》北京古籍出版社
慶桂 等《國朝宮史續編》北京古籍出版社
章乃炜《清宫述闻》故宫出版社

  1. 『明清史論考』P.320
  2. 《清実録研究》P.46
  3. ※ドルゴン薨去、ガリン処刑につき中断
  4. 『對校 大淸太祖實錄』P.4
  5. 《清実録研究》P.46
  6. 『對校 大淸太祖實錄』P.4
  7. 《清実録研究》には康熙三修太祖高皇帝実録の実録館に記述はないが、直前に告成した康熙重修太宗文皇帝実録の実録館と康熙初修世祖章皇帝実録の実録館と同じ場所ではないか?
  8. 後に太祖の諡号が改称されたため、康熙22(1683)年2月4日に再度編纂を命じている
  9. 《清實録》影印説明
  10. 《清実録研究》P.47
  11. 《清実録》太祖高皇帝実録 首巻3
  12. 『明清史論考』P.340
  13. 《清実録研究》P.46
  14. 起居注館の向かいだったという。起居注館は太和門西撫の熙和門にあったので、午門内の西部といえば確かにそうなる。
  15. 《清実録研究》P.46
  16. 実録館の開館は8月壬戌
  17. 《清實録》影印説明
  18. 《清実録研究》P.47
  19. 《清実録》太宗文皇帝実録 首巻3
  20. 起居注館の向かいだったという。起居注館は太和門西撫の熙和門にあったので、午門内の西部といえば確かにそうなる。
  21. 《清実録研究》P.46
  22. 実録館開館は20日。また、康熙2(1663)年説も?
  23. 《清實録》影印説明
  24. 《清実録研究》P.47
  25. 実録館の人事は12月16日だが、実際に開館したのは雍正13年11月1日
  26. 《清実録》世祖章皇帝実録 序文
  27. 《清實録》影印説明
  28. 《清実録研究》に記述はないが、三朝実録館と同じ場所か?
  29. 実録館の開館は雍正元(1723)年正月8日
  30. 編纂の終わった巻から審査している。少なくとも雍正元年3月に首巻2冊を進呈、雍正4年段階で康熙47年の実録をチェックしている。雍正5年段階で雍正6年には完成予定であった。
  31. 乾隆6年3月24日日付の乾隆帝による序文あり。
  32. 《清實録》影印説明
  33. 三朝実録館と同居?《清実録研究》P.48
  34. 実録館開館は11月1日
  35. 《清實録》影印説明
  36. 《清実録研究》P.47
  37. 但し、それ以前にも嘉慶6年5月には乾隆10年迄の稿本、嘉慶7年12月26日には乾隆20年までの稿本が進呈されている
  38. 《清實録》影印説明
  39. 東華門稍南文華殿東北石橋三座門内⇒《清実録研究》P.50
  40. 実録館開館は10月12日
  41. 道光2年7月24日段階で嘉慶十五年迄進呈
  42. 《清實録》影印説明
  43. 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52
  44. 咸豐2年4月5日段階で道光十五年迄進呈
  45. 《清實録》影印説明
  46. 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52
  47. 同治帝は幼少であったので、当然慈禧太后=西太后らが実録館開館と共に実録纂修を命じている
  48. 同治帝が幼少であったため恵親王・綿愉、醇群王・奕訢らが代行して審査した。
  49. 《清實録》影印説明
  50. 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52
  51. 光緒帝は幼少であったので、当然慈禧太后=西太后らが実録纂修を命じている
  52. 光緒帝は幼年であったため、 慶親王・奕劻らが代行して審査した。
  53. 《清實録》影印説明
  54. 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52
  55. 盛京小紅綾本の成書。皇史宬大紅綾本には宣統13=中華民国11(1922)年12月の日付がある。ちなみに中華書局版《清實録》は北京大學図書館蔵の定稿本であってこのどちらでもない。
  56. 《清實録》影印説明
  57. 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52
  58. 《大清歴朝實録》出版。底本は盛京小黄綾本。それまでに異同のあった可能性もあり。ちなみに中華書局版《清實録》では北京大學図書館蔵の定稿本を使用している。
  59. この辺の事情は普渡寺=睿親王府を参照。

東洋文庫収蔵 皇史宬旧蔵紅綾本《大清聖祖仁皇帝實録》漢文本について

$
0
0

 去年くらいからにわかに《清実録》の事が気になっていたので、ちくちく検索をしていたところ、こんな記事を見つけました。

初公開!『大清聖祖仁皇帝実録』の楽しみ方

 2014年2月10日付の記事ですが、どうやら東洋文庫ミュージアムで《大清世祖仁皇帝実録》が展示されていたと言う内容のようです。この記事ではこの実録の収蔵先がよく分かりませんが、基本的に東洋文庫ミュージアム東洋文庫の収蔵品のみを展示しているはずです。色々知りたいことはあるものの情報量が少なすぎて何とも言えません。しかし、この記事を見かけて自分は…え?日本に大紅綾本なんてあるの?それって瀋陽本なの?皇史宬本なの?と、一人で舞い上がってしまいましたが、とりあえずこれ以上の情報が検索しても出てこなかったので、悶々としていました。

 で、清実録のことを腰入れて調べようとして、谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社 を購入してパラパラめくっていると、こんな記事にぶつかりました。

(5)东洋文库所蔵红绫本《圣祖实录》和《徳宗实录》部分卷册
 位于东京都文京区的东洋文库、是日本最大的亚洲研究图书馆、以中国图书与文化作为主要収蔵和研究对象、是着名的汉学研究重镇、1948年成为日本国立国会图书馆的分馆。它所蔵的《清实录》、主要是圣宗、徳宗两部大红绫本《实录》的部分卷帙。其中《圣祖实录》有50函、150卷、始于第51函、第151卷康熙三十年四月、迄于第100函、第300卷康熙六十一年十一月;《徳宗实录》有80函、357卷、始于第1函、第1卷同治十三年十二月、迄于第80函、第357卷光绪二十年十二月。红绫封皮、胡蝶装、半页九行、行十八字。东洋文库所蔵的这两部实录卷帙、占《清实录》分部卷帙的八分之一强。
 这两部大红绫本《实录》是原皇史宬所蔵正本《清实录》的部分卷帙、民国时期流落到日本、为东洋文库所蔵。原所蔵皇史宬的《清实录》正本、少部分被运至台湾、蔵台北”故宫博物院”,绝大部分现蔵于北京中国第一历史档案馆。王瑞来发现、中华书局影印《圣祖实录》时以第一历史档案馆所蔵皇史宬大红绫本为主、但卷151卷至卷198和卷202至卷300则用的是现蔵故宫的小红绫本、”而这部分大红绫本所缼、正为东洋文库所蔵”。至于《徳宗实录》、在第一历史档案馆现蔵本中”已缼同治十三年十二月至光绪二十年九月部分”、”而这部分也正为东洋文库所蔵”、仪缼光绪二十一年正月至九月这一部分。”这一事实并不是巧合。它说明东洋文库収蔵《清实录》大红绫本、正是原皇史宬残蔵本”。原蔵皇史宬、现蔵第一历史档案馆的大红绫本、其版式也是”半页9行、行18个字”、”在装帧上、大红绫本为胡蝶装”、显然与东洋文库本的版式一样。i

 おお…ほんまかいな…。《清實録影印説明読んだにも、《大清聖祖仁皇帝実録》の後ろ半分を何で皇史宬本から影印されていなかったのかと言う疑問はあったんですが、これで謎は氷解しました。《大清聖祖仁皇帝実録》の後ろ半分…具体的には巻151~巻300は東洋文庫に収蔵されていたわけです。時期は《清实录研究》によると民国に入ってからのようです。おそらくは民間に流出したものを三菱財閥が入手して、そのまま東洋文庫に移管されたんでしょうけど、この辺は想像するしか有りませんねぇ…。

貴重書 XI-3-B-36 大淸聖祖合天弘運文武睿哲恭儉寛裕孝敬誠信中和功德大成仁皇帝實録三百卷 闕卷第一至第百五十淸内府朱絲欄鈔本 用卷第百九十九至第二百一別鈔本補配 150册 皇史宬舊藏本

 これ、東洋文庫のオンライン検索でビダっと検索できなかったんですが、多分、自分が検索した文字に異同があったんでしょうねぇ…。ともあれ、請求番号とかで検索するとガシッと出てきました。皇史宬旧蔵本の記述もあります。巻199~巻201は別の抄本で補っている旨もキチンと表記があります(後述)。こちらは自分も閲覧してきました。

 《大清徳宗景皇帝実録》については経緯が複雑なのでアレですが(清朝崩壊後に成立した上に、最終稿が提出されてから決定稿までに時間がかかっていて、おまけに日本の記事がいくらか書き直されているのが発見されているため、かの大陸では結構版本について神経質に扱われる)、ともあれ皇史宬本の597巻首巻4の内の1巻~357巻まではどうやら東洋文庫に収蔵されているようです。

貴重書 XI-3-B-37 大清德宗同天崇運大中至正經文緯武仁孝睿智端儉寬勤景皇帝實録三百五十七卷淸内府鈔本 80册

 こちらは皇史宬旧蔵本とは明記されていないので、まだまだ謎は深まります。また、《清实录研究》では1~80函という表記ですが、東洋文庫に登録されている80冊と言う表記には微妙に差異があるので引っかかりますね…。こちらもいずれは実物を閲覧してみようかと思います。

 で、いてもたってもいられなかったので、自分は東洋文庫に直接行って《大清聖祖仁皇帝実録》については、貸出窓口で申請書を提出した上で後日閲覧してきました(貴重書は申請後閲覧なので、それなりに期間は必要です。その際の記事は後日上げようと思っています)。その際に《大清聖祖仁皇帝実録》について紹介されている出版物がある旨ご教授頂いたので、併せて載せておきます。『記録された記憶』という東洋文庫収蔵図書について紹介したムック本です。

 清朝の実録は、太祖から光緒帝まで一一代あり、光緒帝の実録を除き、漢文のほか満洲語とモンゴル語が併記されています。実録の編纂は、いずれも皇帝の死後まもなく始められ、正・副の鈔本五部(大紅綾本二部、小紅綾本二部、小黄綾本一部)が作られました。とりわけ紅色の雲鳳紋綾で装幀された皇史宬の大紅綾本は、金匱(龍紋の浮き彫りのある金銅板を張った楠の箱)に入れられて、大切に保管されていました。東洋文庫が収蔵する『大清世祖仁皇帝実録』(全三〇〇巻のうち巻一五一~一九八、巻二〇二~三〇〇を収蔵)は、皇史宬旧蔵の大紅綾本です。なお、首三巻、巻一~一五〇、巻一九九~二〇一は、北京にある中国歴史第一歴史檔案館に収蔵されています。ii

 まぁ…実物見ましたけど、マンジュモンゴルは併記されてませんよね…(《満洲實録》と混同していると思われ…詳しくはこの記事を参照)。あと、特記されている巻199~巻201の皇史宬本は、中華書局版《清實録》の底本になっていてこの記事でも触れたとおり、現在は中国第一歴史档案館に収蔵されています。しかし、《清实录研究》によると、東洋文庫に収蔵されている補巻はそれなりに由緒がある鈔本のようです。

 値得一提的是、东洋文库所蔵《圣祖实录》第199卷至第201卷共三卷、并非大红绫本原本、而是补配本、其函套为紫绫、书的封皮亦为紫绫、内分用纸亦为泾县榜纸、画朱絲栏、装帧亦胡蝶装、行格亦为半页九行、行十八字。据方甦生指出、八国联合军攻下北京后、”皇史宬所蔵实录颇有散亡”、事后”于内阁设修书处、稽其阙佚而补善之。今皇史宬实录中、绫衣作纬紫色者皆是。阁库亦有修书处档案可考”。然而、东洋文库所蔵《圣祖实录》补配的这三卷(紫绫装)、其实并未真亡、只是当时找不着时补配的、后来这三卷汲然存在、中华书局影印《清实录・圣祖实录》的、底本恰恰”用的是原皇史宬的大红绫本”。iii

 要するに、義和団事件に端を発する八ヶ国連合軍による北京占領(いわゆる北支事変)での混乱の最中に失われた…と思われた部分を補填した部分の様です。まぁ、実際にはこの時には紛失していなかった様ですが、当時は探し出せなかったので補ったと有ります。この補巻、実物を見ましたけど、お世辞にも質の高い補修ではなかったですね…。他の巻と比べると、すべてに於いて…一言で言うと雑な印象を受けました(詳しくは後日纏めようと思います)。

 更に、《大清徳宗景皇帝実録》を調べたところ、義和団事件からの混乱時期に皇史宬が荒らされ、実録聖訓がいくらか紛失したらしいこと、その実態を調査したこと、欠けた部分を補ったこと等の記述があります。前に《清実録》のテキストを”皇史宬“で全文検索した時に、この辺がヒットしたので何じゃこりゃ?とは思っていたんですが、ようやく話がつながりました。

(光緒二十七年七月)癸酉。全權大臣大學士李鴻章奏、查皇史宬尊藏實錄聖訓。暨金匱內外物件遺失大概情形。得旨著即派員敬謹清查。將應用各物制備齊全所需經費。核實開報。iv
(光緒二十七年十月)庚子。大學士榮祿等奏、查明皇史宬遺失書數。並派員修補依議行。v
(光緒二十九年八月)以補修皇史宬實錄聖訓竣事賞總辦外務部左丞紹昌頭品頂戴。予總辦內閣侍讀潤昌、總校侍讀恩佑等、滿蒙漢謄錄兼詳校侍讀紹明中書麟春、阮惟和、供事孫汝權等、升敘有差。vi

 何でもかんでも李鴻章に任せるのはどうかと思いますよねぇ…。それに、李鴻章光緒27年11月に他界していますから、苦労かけすぎたんでは…って気になりますね。もっとも、李鴻章が責任者として名前を挙げなければ成らない程、清朝に於ける実録の意味合いが重かったとも言えるんでしょうけど。

谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社
東洋文庫[編]『記録された記憶 ─東洋文庫の書物からひもとく世界の歴史─』山川出版社

  1. 《清实录研究》P.370~371
  2. 『記録された記憶』P.102
  3. 《清实录研究》P.371
  4. 《大清徳宗景皇帝》巻四百八十五
  5. 《大清徳宗景皇帝》巻四百八十八
  6. 《大清徳宗景皇帝》巻五百二十

ドドの逸話

$
0
0

 再三自分は白旗三王の中ではアジゲの狂人ぶりをいつも喧伝しているワケですが、比較的常識人というかおとなしいと言われるドドも大概だよなぁ…。と言う記事がいくつか出てきたので、メモ代わりに。

tere inenggi han munggatu daru hendume sini eruke Cugehur Beile etuku mahala fiyan encu: efiyen sebjen de dosifi ice jihe monggo nikan de u sailan ujirakū: tere gisun de munggatu jabume ere gisun be beile de alaci omobio seme jabuha : han henbume si ume alara: bi jai šolo bahade elheken ambasa be isabufi hendure sehe :
(天聰五年十一月)同日、HanがMunggatuに向かって言うには、「汝のErke Cugehur Beile は衣服や帽子、風体が異様だ。遊興に耽って新来の蒙古人や漢人をよく養わない。」この言に対してMunggatuが答えるには、「この言をBeileに告げてよいか」と答えた。Hanが言うには、「汝は告げるな。我があらためて暇のあるときに、おもむろに大臣らを集めて言う」と言った。i

 東洋文庫に行ってようやく都市伝説ではないことが確認できた『内国史院檔 天聰五年』をパラパラ読んでいてこんな記事にぶつかりました。どうも、hanホンタイジErke Cugehur Beileドドが、麾下の旗人を養うというベイレとしての責務を全うしないのに、傾き者みたいな格好してどんちゃん騒ぎを送っていることを快く思っていないようです。ここで、正白旗人であるムンガトゥにあれどうなっとるんや?と聞くのは、旗人旗王を補佐し、時に教導する役目を期待されていたからです。なので、ムンガトゥはこの事を旗王であるドドに報告していいかどうかホンタイジに聞いているわけです。ムンガトゥはこの年決められた六部の人事で工部承政となっているので、ホンタイジよりの旗人で…もっと踏み込んで言うとスパイ的な役割を期待されていたんですけど。

(崇徳四年五月辛巳)爾兄睿親王、輿諸貝子大臣、及出征将士、皆有遠行。朕雖避痘、猶出送之。爾乃假托避爲詞、竟不一送、私攜妓女。絃管歡歌、披優人之衣。ii

 で、それから10年近くたって、ホンタイジドドを叱責するのですが、直接的にはドルゴンが遠征するというのに、天然痘が流行しているのでドドが外出を恐れて見送りに参加しなかったからです。ただ、この時はホンタイジすら天然痘に罹患する危険を冒して遠征するドルゴンらを送っているのにおまえと来たら結局は見送らなかったばかりか、こっそりと妓女と一緒に優人の服に着替えてどんちゃん騒ぎをしてたそうじゃないか!と、やっぱり最終的にはホンタイジの常識から逸脱したドドのファッションについても追求しています。ドドは質実剛健な当時の清朝にあってはセンスが尖りすぎたのかもしれません。

(崇徳八年十月戊子)多羅豫郡王多鐸、謀奪大學士範文程妻。事覺、下諸王・貝勒・大臣鞫訊。得狀。多鐸、罰銀一千兩。竝奪十五牛彔。和碩肅親王豪格、坐知其事不發。罰銀三千兩。iii

 ただ、ドドというとこの記事が有名なのですが、ホンタイジが崩御して二ヶ月という時期に、范文程の妻を誘拐しようとして発覚してます。この時期はドルゴンジルガランの二巨頭体制の時期です。ドドの処罰はドルゴン派の勢力を削ぐ意図が有るのか?と思いたいところですが、この時は誘拐計画を知りながら通報しなかった…と言う罪状でホーゲが罰を受けています。ドルゴンはこの事件を機に自身の鑲白旗ドド正白旗を入れ替えていますから(八旗の序列的に正白旗の方が鑲白旗よりも地位が高いのです)、順治帝即位のいざこざで一時期ホーゲに接近したドドを処罰した主体はドルゴンだと考えられます。裏切られるとまでは行ってないんでしょうけど、白旗三王が一枚板ではなかったことの証左としてよく引き合いに出される記事です。
 にしても、アジゲにしろドドにしろ精力が有り余る感じの逸話も多いので、ドルゴンの気苦労を思うと何とも痛ましいです。幾ら正妻の喪が明けないうちにホーゲ未亡人であるその妹と婚儀上げたり、同時期に朝鮮からの貢女を求めたりしても、ドルゴンは随分ストイックで周りに当てにできる親族がいなかったんだな…と、応援したい気持ちになります。

  1. 『内国史院檔 天聰五年 2』P.320~321
  2. 《太宗文皇帝實録》巻46
  3. 《世祖章皇帝実録》巻2

アジゲの末路について

$
0
0

 と、図書館に行った時に《清史列傳》をパラパラめくるとこんな記事に遭遇しました。

清史列傳⇒八年正月、攝政王薨於喀喇河屯、王赴喪次、即歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私遣人至京召其第五子郡王勞親以兵迎脅摂政王所属人附己。詐言摂政王悔以多爾博爲子、曾取勞親入正白旗、又怨摂政王不令豫親王子多尼詣己、詰責豫親王舊属阿爾津、僧格、且諷端重親王博洛等速推己摂政。至石門、上迎喪、王不去佩刀、勞親兵至、王張纛與合隊、左右座舉動甚悖。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等首其欲爲乱、鄭親王等即於路監守之。至京、鞫實、議削爵、幽禁、降勞親貝子。閏二月、以初議阿濟格罪尚輕、下諸王大臣再議、移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。三月、阿濟格於獄中私藏兵器事覺、諸王大臣復議「阿濟格前犯重罪、皇上従寛免死、復加恩養、給三百婦女役使及童僕、牲畜、金銀、什物、乃伋起亂刀四口、欲暗掘地道與其子及親腹人約期出獄、罪何可貸?應裁減一切、止給婦女十口及随身服用、餘均追出、取入官。」。十月、監者告阿濟格謀於獄中舉火、於是論死、賜自盡、爵除。 (中略 乾隆)四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微勞、究不足以抵其罪、黜爵實由自取。至其子孫前此降爲庻人、削其宗籍(後略)」i


 ドルゴン死亡時にアジゲがクーデターを企てた事が書かれてます。まず、順治8年1月、ドルゴンの遺体が京師に入る前に、アジゲが息子である郡王ロウチンドルゴンの旧臣の元に送っった事が書かれてます。この際にロウチンは、ドルゴンは生前ドルポを養子としたことを悔やんでいたとか、ロウチン正白旗に編入された際にもドドが息子であるドニを挨拶に寄こさなかったことを愚痴っていたなどど言って、ドド旧臣であるアルチンソンゲを難詰したり、端重親王ボロロウチンを摂政に推薦しなかった事をあげつらったと…。いやに具体的です。その後、アジゲロウチンの引き連れた兵と合流して帯刀したまま、葬列を迎えに行った順治帝王公と対峙します。ドルゴン旧臣のエクチンウバイスバイらもアジゲにつきますが、鄭親王ジルガラン順治帝を守り通します。これだけ決定的なタイミングで叛乱起こしたのなら、何で討ち漏らしたのか謎ですから、アジゲ摂政王を継ぐことが既定路線だったのを、順治帝ジルガランが結託してアジゲ一派を些細な事を理由に排除した…とも考えられそうですが、清朝の公式見解ではアジゲが叛乱を起こそうとして失敗したという事になります。権力闘争が激しい割に武力衝突にまで発展しない清朝の皇族間の抗争らしいと言えばらしいですね。ともあれ、ここでアジゲは捕縛されて、議政王大臣会議の審議を経て幽閉され、アジゲは幽閉、ロウチンベイセに降格されます。
 その後、閏二月、罪の重さに比して罰が軽すぎると、再び議政王大臣会議が開かれて、アジゲの幽閉場所を移し財産を没収し、ロウチンはじめとした息子たちは皇籍を剥奪されました。アジゲはこれまで幽閉されていただけで、ここであえて別室に繋がれるとされているのは、もしかすると自宅謹慎程度で済まされてたのが、牢獄に移されたんですかね…。すると翌三月、アジゲが牢獄に刀四振りを隠し持っていたことが発覚し、また議政王大臣会議にかけられます。ここで、アジゲは死罪に処されるような重罪を犯したのに死を免じられただけでなく、獄中で不自由がないように婦女や童僕合計300人、牧畜、金銀や食器が支給されたのも関わらず、刀を隠し持っていた上に、密かにトンネルを掘って家族や腹心を脱獄計画を練っていたようです。この際支給された婦女童僕は召使いとか身の回りの世話をする人たちでしょうけど、300人はいかにも多いでしょうし、牢獄というイメージから想像できない生活してそうです。更に脱獄計画を練るとか、他の皇族には見られない破天荒ぶりです。流石に一切の支給を打ち切り、婦女10人を身の回りの世話に残して、他は没収して国庫に戻したようです。
 10月、今度は牢獄からアジゲが牢獄に放火しようとしたと報告があります。議政王大臣会議では流石に死罪とされ、アジゲは死を賜わって自尽します。なんだかんだ、アジゲは叛意を明らかにしたというのに、死一等を免じられた上、獄中で大尽生活を送ったあげく、脱獄計画とか放火計画とかを練って…と好き放題しないと、死罪には問えなかった…と言うことでしょうか。妥協しない順治帝にしては悠長なことしているイメージですねぇ…。案外アジゲの処断については順治帝をしても慎重になる案件だったんですかね。
 で、時は流れて乾隆43年正月に、《世祖章皇帝実録》を読んだ乾隆帝は「アジゲは流賊を追跡すれば李自成は死んだと虚報を流し、辺境に行けば勝手に馬を放牧するし、公事を巡撫に任せたりと、ろくでもないことばかり目立つ。わずかな功績があったとしても、結局罪を相殺するには足りないので、皇籍を剥奪されたのは当然だろう。その子孫は庶民に落とされ皇籍を剥奪されている。」と、まぁ乾隆帝アジゲは散々な評価を下されていますね。

 あらら~?と思ったのは《清史稿》ではこの辺の詳しいことはスッ飛ばされているからですね。

清史稿⇒(順治)八年正月,多爾袞薨于喀喇城,阿濟格赴喪次,諸王夜臨,獨不至,召其子郡王勞親以兵脅多爾袞所屬使附己。喪還,上出迎, 阿濟格 不去佩刀。勞親兵至, 阿濟格張纛與合軍。多爾袞左右訐阿濟格欲為亂,鄭親王濟爾哈朗等遣人于路監之。還京師,議削爵,幽禁。逾月,復議繫別室,籍其家,諸子皆黜為庶人。十月,監守者告阿濟格將于繫所舉火,賜死。(中略)乾隆四十三年,命阿濟格之裔皆復宗籍。ii

 実に簡潔すぎて面白いところが抜け落ちてます。

 で、折角なので乾隆年間編纂の《欽定王公宗室功績表傳》を確認して見ました。ちなみにこれは《四庫全書》収録の《欽定王公宗室功績表傳》です。

欽定王公宗室功績表傳⇒(順治)八年正月、攝政王薨於喀喇河屯。王赴喪次即歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私召其第五子郡王勞親。上迎䘮、王又不去佩刀。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等發其意圖攝政事。鄭親王等即于路監守之。至京、議削爵、幽禁。降勞親貝子。閏二月、以初議阿濟格罪尚輕、下諸王大臣復議。因移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。十月、監者告、阿濟格欲于獄中舉火論死。賜自盡爵除。乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微功、究不足以抵其罪黜爵實由自取。至其子孫前俱降為庶人、削其宗籍(後略)」iii

 こちらも《清史稿》とあんまり変わらないですね…。乾隆帝のあたりは《清史列傳》と全く変わりませんが。

 更に《八旗通志》初集を確認して見ました。

八旗通志初集⇒(順治)八年正月、睿王多爾袞薨、阿濟格計圖攝政。世祖従衆議幽禁之、併革所管牛彔。十月、欲於獄中舉火、衆議當正法。得旨、「賜令自盡。」iv

 もっと簡潔ですね…。

 ついでに《欽定八旗通志》も確認して見ました。

欽定八旗通志⇒(順治)八年正月、攝政王多爾袞薨於喀喇河屯。王赴䘮次即急歸、夜又不至、而私召其子勞親。上迎䘮王、又不去佩刀。攝政王近侍額克親、呉拜等、發其計圖攝政。鄭親王等、即於路監守之。至京、議削爵、幽禁。降子勞親貝子。革所管佐領。閏二月、復議移繫別室、籍其家子、勞親等黜宗室。十月、監者告、其欲於獄中舉火。衆議當正法得、㫖賜自儘爵除。乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微功、不足以抵其罪黜爵實由自取。至其子孫前此降為庻人、削其宗籍(後略)」v

 ちょっと《清史列傳》に似た文章出てきますが、簡潔ですね…。

 で、《清史列傳》の元ネタの一つとされる《國朝耆獻類徴初編》を確認して見ました。

國朝耆獻類徴初編⇒八年正月、攝政王薨於喀喇河屯、王赴喪次、卽歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私遣人至京召其第五子郡王勞親以兵迎脅摂政王所属人附己。詐言摂政王悔以多爾博爲子、曾取勞親入正白旗、又怨摂政王不令豫親王子多尼詣己、詰責豫親王舊属阿爾津、僧格、且諷端重親王博洛等速推己摂政。至石門、上迎喪、王不去佩刀、勞親兵至、王張纛與合隊、左右座舉動甚悖。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等首其欲爲亂、鄭親王等卽於路監守之。至京、鞫實、議削爵、幽禁、降勞親貝子。閏二月、以初議罪尚輕、下諸王大臣再議、移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。三月、阿濟格於獄中私藏兵器事覺、諸王大臣復議「阿濟格前犯重罪、皇上従寛免死、復加恩養、給三百婦女役使及童僕、牲畜、金銀、什物、乃伋起亂心蔵刀四口、欲暗掘地道與其子及心腹人約期出獄、罪何可貸?應裁減一切、止給婦女十口及随身服用、餘均追出、取入官。」。十月、監者復告阿濟格謀於獄中舉火、於是論死、賜自盡、爵除。(中略)乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫嘱託公事、過跡昭著、雖前此亦有微勞、究不足以抵其罪、黜爵實由自取。至其子孫前俱降為庶人、削其宗籍(後略)vi

 おお…ビンゴ。文字の異同はちょっとずつありますが、ほぼほぼ同じ文章ですね…。しかし、《國朝耆獻類徴初編》は元ネタも記載しているのですが、これは《欽定宗室王公功績表傳》所収と書かれているんですよね…。《四庫全書》と違うエディションなんですがこれは…。実際には《王公宗室功績表傳》も何個かエディションあって、立伝されている王公の順序も少しずつ違うんですよね…。と言うわけで、『中国史籍解題辞典』の「宗室王公表伝」の項目を引いてみると…。

そうしつおうこうひょうでん 宗室王公表伝 12巻 巻首1巻 清・和碩誠親王允秘等奉勅撰。漢文本及び満文本あり。清朝の宗室の爵位と襲次表とその伝。乾隆帝の命により編纂され、乾隆29年殿版として刊行。『国朝耆獻類徴初編』(巻首)所収のものは「重編」で、嘉慶10年(1805)までの記述である。又この「重編」は『清史列伝』(巻1~3)にも収められている。vii

 うーん…《四庫全書》自体も成立は乾隆年間なので、これは初編本が《四庫全書》に収録されたんでしょうね。ただ、その重編本の確認が取れないので何とも言えませんが、おそらくは《宗室王公表傳》初集⇒《國朝耆獻類徴初編》⇒《清史列傳》という転載の仕方みたいですね。
 と言うわけで、実は實録も確認したんですがちょっと分量多いので、今回はこれまで。

  1. 《清史列傳》巻一 宗室王公傳一 阿濟格
  2. 《清史稿》卷二百十七 列傳四 諸王三 太祖諸子二 阿濟格
  3. 《欽定王公宗室功績表伝》巻三
  4. 《八旗通志初集》巻一百四十 宗室王公列傳十二
  5. 《欽定八旗通志》卷一百三十一 人物志十一
  6. 《國朝耆獻類徴初編》巻首之三 欽定宗室王公功績表傳巻三 傳一 親王
  7. 『中国史籍解題辞典』P.213

ドルゴンの対モンゴル政策 その1 テンギス事件の巻

$
0
0

 たびたび、ドルゴンの対モンゴル外交については比重の大きさは感じていたものの今ひとつ流れを捉え切れていなかったのでメモ。
 まず、ドルゴンモンゴル外交の経緯を追っていくと…

①:順治3年5月⇒”騰機思”の離反
②:同年7月⇒ドドによる”騰機思”遠征
③:~順治4年5月迄⇒”二楚虎爾”の清朝との敵対
④:~順治5年8月迄⇒”騰機思”の投降
⑤:順治5年12月⇒大同総兵姜瓖の叛乱⇒ドルゴン2度(順治6年2月と7月)遠征
⑥:順治6年10月⇒大同総兵姜瓖の叛乱平定
⑦:順治6年10月⇒ドルゴンの”二楚虎爾”遠征
⑧:順治7年7月⇒ハラ・ホトン離宮建造の奏上
⑨:順治7年12月⇒ドルゴンハラ・ホトンで狩猟中に薨去

 と言うことになります。順治3年からこっち、順治7年に死没するまで、ドルゴンは毎年モンゴル関係で忙殺されていた事になるかと思います。特に姜瓖二楚虎爾については、ドルゴン本人が軍を率いて遠征してます。ドドホーゲが他界し、アジゲが信用ならない状況下では他に選択肢はなかったんでしょうけど、少なくとも漢土南明以上にモンゴル情勢は重視していたと考えられます。
 なんですが、そもそも、騰機思とか二楚虎爾って何やねんって所からですよね…。
 書いてたら長くなったので、今回はまず、①と②、④のテンギス(Tengis 騰機思)について見ていきましょう。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の蘇尼特部總傳から。

 元太祖十六世孫圖嚕博羅特、再傳至庫克齊圖 墨爾根 台吉、號其部曰蘇尼特 。(中略)初皆服屬於察哈爾。以林丹汗不道、徙牧瀚海北、依喀爾喀
天聰九年、綽爾袞素塞喀爾喀 車臣汗 碩壘遣使貢方物。i

 スニト部はチンギス・ハンの16世の孫、トルボロト?(圖嚕博羅特)から引き継いだクコチト?(庫克齊圖)メルゲン タイシの代にスニト部と号したと。チンギス・ハンの系譜に連なる由緒正しき部族ですよと。
 で、元々スニト部はチャハル部に所属していたのですが、天聰9(1635)年、リンダン・ハーンが無道だったので…というかリンダン・ハーンが病死してチャハル部が崩壊したからですね、漠北に逃げてハルハ部のチェチェン・ハーン(Sečen Qaγan 車臣汗) ショロイ(碩雷 Šoloi)に帰順したと。なので、スニト部はハルハ部生え抜きというわけじゃなくて、むしろチャハル部遺衆と言った方が良さそうです。
 と、余談ですが、チェチェン・ハーンというのが一般的な呼称ですが、綴り的にはSečen Qaγan…まぁセチェン・ハーンですよね。他の称号よりもセチェン・ハーンは扱いが重く、大元ウルスクビライの尊称ですから、この名前を名乗ること自体がチャハル部を引き継いで大元の正統を継ぐ印象を与えます。どの時期からショロイがこのハーン号を使用したのかは分かりませんが、チャハル部遺衆を接収して同じく大元の正統を継いだと称してモンゴル王公セチェン・ハーンと呼ばせたホンタイジと発想が丸かぶりです。ホンタイジショロイ北元の後継として真っ向から対立すると立ち位置だったと言うコトになるかと思います。以後見ていく《世祖章皇帝實録》では、ショロイは必ず碩雷汗なり碩壘汗と記述されていて、車臣汗となっていないので違和感があったんですが、清朝としては順治年間テンギス事件の時点では、ショロイチェチェン・ハーンなりセチェン・ハーンというハーン号を認めるわけには行かなかったんだと思います。テンギス事件が解決を見た時点で《世祖章皇帝實録》でも車臣汗になってますから、もしかしたらその程度なのかもしれませんがwともあれ、時代が降って乾隆になって、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》が編纂されるくらいの時期には、ハルハ部のハーン号がチェチェンだろうとセチェンだとろうと意に介さないくらいには主従関係が確定され、かつハーン号を変更することなく世襲させるに至ったのではないかと思います。
 ともあれ、テンギス事件当時は、清朝にとってハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイはいずれは打倒しなくてはならない潜在的敵対勢力の一つではあったようです。

蘇尼特部總傳崇德二年,塔巴海達爾漢和碩齊騰機思騰機特莽古岱哈爾呼喇台吉偉徵等,各遣使來朝,賜朝鮮貢物。(中略)
四年(中略)冬、騰機思叟塞各率屬自喀爾喀來歸、入覲、獻駝馬。
五年正月、賜叟塞騰機思騰機特莽古岱哈爾呼喇台吉 佈達什希布阿玉什噶爾瑪 色稜額爾克辰寶茂海伊勒畢斯等甲冑、銀幣。
十月、台吉 烏班岱棟果爾鄂爾齊博希沙津等來貢馬,賚冠服、鞍轡。
六年、授騰機思 扎薩克多羅郡王。七年、授素塞 扎薩克多羅杜稜郡王。以騰機思掌左翼、素塞掌右翼。ii

騰機思列傳⇒原封扎薩克 多羅 郡王 騰機思列傳
騰機思蘇尼特部人。姓博爾濟吉特元太祖二十世孫。初號墨爾根 台吉
崇徳二年、表貢駝馬。賜其使阿巴圖布幣。
三年五月、復遣阿巴圖來朝。
十二月、遣塔布囊 巴克察爾、鄂齊爾等貢駝馬。賚銀幣。
四年、率子弟及部衆來歸。賜宴。
五年正月、以阿巴圖往來勤力。賜號達爾漢
九月、騰機思、尚郡主。授和碩額駙iii

 で、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》ではテンギスの事績はスニト部総傳原封ジャサクドロ郡王テンギス列傳にそれぞれ乗っているので、それぞれ紹介していきます。原封ジャサクドロ郡王テンギス列傳によると、テンギスメルゲン・タイジという称号があったようですね。
 で、崇徳2(1637)年にテンギスは弟のテンギトとその他のタイジと共に清朝に使者を送り、崇徳4(1639)年冬にテンギススニト部のもう一方の有力者であるソーサイ?(叟塞)が入朝して、スニト部はテンギスソーサイ?それぞれに率いられてハルハ部を離脱して清朝に帰順しました。
 で、その後たびたび朝貢に訪れて、郡主清朝公主を下賜され、更に崇徳6(1641)年にはジャサク・ドロ郡王に封じられ、翌年にはソーサイ?ジャサク・ドロ・トゥリン郡王に封じられて、それぞれスニト部の左翼右翼を管轄したと…要するにスニト部を二分してテンギスソーサイ?に分治させた…というか、実情に合わせて王号を授けたってとこですかね。
 實録見ていきましょう。

(崇徳二年四月乙酉)蘇尼特部落騰機思 墨爾根 台吉。特遣使臣。跪進馬二十匹。iv

 まず、崇徳2年4月にスニト部を代表して、テンギス メルゲン・タイジが使節を清朝に送って馬を献上してきています。

(崇徳四年十月)庚寅。蘇尼特墨爾根 台吉 騰機思騰機徳叟塞 濟農等、率大小諸貝勒、阿霸垓部額齊格 諾顏達爾漢 諾顏等、各率部衆、自喀爾喀來歸。v
(崇徳四年十二月)壬寅。(中略)蘇尼特墨爾根 台吉 騰機思巴圖魯 叟塞 濟農等至。命和碩親王以下、大臣以上、迎於演武場、宴之。vi

 で、2年後にはスニト部は清朝に帰順します。弟のテンギトと、スニト部のもう一方の有力者であるソーサイ?も引き連れてきたようです。で、ここを見ると、ソーサイ?にはバートル・ジノンという称号があったようです。というか、後の王号であるトゥリンは名乗ってなかったんですね。

(崇徳五年正月)丁巳。召蘇尼特墨爾根 台吉 騰機思下百有十四人、濟農 叟塞下六十七人、進宮。賜宴。vii
(崇徳五年正月)辛未、以多羅郡王 阿達禮妹、許配蘇尼特墨爾根 台吉 騰機思。是日、初行聘禮。設宴。和碩親王以下、牛彔章京以上各官倶集崇政殿御座。騰機思三跪九叩頭禮。復詣皇后前。行三跪九叩頭禮。獻甲、冑、雕鞍、馬、駱、酌納之。倶賜阿達禮viii
(崇徳五年八月壬辰)以多羅郡王 阿達禮妹、下嫁蘇尼特墨爾根 台吉 騰機思、命和碩親王和碩福金固倫公主以下、固山額眞承政以上、倶朝服赴宴。騰機思具九九牲畜獻上。酌納之。以其餘賜阿達禮ix

 で、翌年崇徳5年正月には、テンギスソーサイは部下を引き連れてホンタイジに謁見して宴会に招かれています。この席で何らか話があったものか、テンギス郡王・アダリの妹xと結納を交わし、同年8月には実際に婚儀を行っています。
 アダリサハリヤンの子でその王位を継承していますから、清朝内でも序列は相当高い皇族です。テンギス皇族を娶って清朝の婿になりますから、以後、エフ(額駙)と呼ばれます。また、テンギス列傳では郡主と称されているので、おそらくはテンギス郡王に封じられたタイミングで、アダリ妹はジャサクドロ郡主に封じられたものと思います。この辺、モンゴル王公正夫人も夫の封爵に応じた爵位を与えられてますが、無条件に与えられたわけではないようです。まぁ、アダリ妹の場合は問題ないでしょうけどね。

(崇徳6年正月丁丑)外藩十三旗(中略)蘇尼特部落額駙 騰機思等、以慶賀元旦、獻貂裘、貂皮、駱馬等物。酌納之。xi
(崇徳六年十月壬子)蘇尼特部落騰機思 額駙、(中略)來朝。貢馬。xii
(崇徳六年十月)壬申。冊封蘇尼特部落墨爾根 台吉 騰機思多羅墨爾根郡王xiii

 で、テンギス・エフはその後もしばしば来朝して献上品を届けてた様ですが、崇徳6年10月に《欽定外藩蒙古回部王公表傳》にあるとおり、郡王に封じられます。封号はタイジ時代のままでドロ メルゲン郡王に封じられたようです。崇徳6年の元旦慶賀の序列を見ると、テンギスは皇族の婿殿にしては序列が紹介されている中では最下位になっていますが、テンギスホンタイジには優遇されていたと言うことになるかと思います。

六年正月、來朝。
十月、封扎薩克多羅郡王。留墨爾根號。詔世襲罔替。弟騰機特多羅貝勒莽古岱哈爾呼喇二等台吉騰機思長子額琳辰騰機特長子博木布三等台吉。諸子各授四等台吉xiv

 で、実はこの辺は《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の方が詳しいですね…。ジャサクドロ郡王テンギス一代の封爵ではなく、子々孫々テンギスの子孫はこの爵位を継承することを認められてますね。更にテンギスの弟達もこの時に封爵されています。テンギトドロ ベイレに、マングルタイアルフラ?が二等タイジテンギスの長子・エリンチェン?とテンギトの長子・ボムブ?が三等タイジ、他の諸子が四等タイジに封爵されています。タイジに等級なんてあるんだ!って思いましたが、ここは大筋に関係ないのでスルーしておきます。

 順風満帆に思われる清朝内でのテンギスの待遇ですが、清朝入関後、様子が変わります。一旦《欽定外藩蒙古回部王公表傳》に戻ります。

スニト部総傳⇒順治三年、騰機思車臣汗 碩壘誘叛率弟騰機特台吉 烏班岱多爾濟斯喀等逃喀爾喀遣師偕外藩軍由克嚕倫追剿至諤特克山圖拉河騰機思騰機特遁、獲其孥。烏班岱多爾濟斯喀四子部落軍陣斬。師旋以烏班岱從子託濟弗從叛、且隨剿、賜所俘。xv
テンギス列傳⇒順治元年、率台吉 阿喇海來朝。賜宴及雕鞍、弓、矢、皮幣。
先是、騰機思喀爾喀 車臣汗 碩壘、後來歸受封。碩壘忌之誘。仍附已。
三年、騰機思騰機特台吉 烏班岱叛、將奔附碩壘牧。豫親王 多鐸奉命、徴外藩兵。㑹剿至盈阿爾察克山、偵賊屯衮噶嚕。即分兵扼險。騰機思遁。擊之諤特克山。迎郡主。還大軍由圖拉、追剿至布爾哈圖。斬台吉 茂海騰機特多爾濟 巴圖舍津騰機思噶爾瑪特穆徳博音圖等。碩壘遣子本巴、約土謝圖汗 衮布兵來援。我軍迎擊於扎濟布拉克大敗之。騰機思色楞額河。xvi

 順治3(1646)年、突然テンギスは、弟テンギトはじめとしたスニト部のタイジを誘って一時身を寄せていたハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイを頼って逃げます。テンギス列傳によると、元々自分の麾下にあったテンギス清朝から封爵を受けたことを快く思わないショロイテンギスに誘いをかけていたって事なんでしょうかね。知らせを聞いた清朝は討伐軍を派遣して追撃しますが、テンギステンギト兄弟は被害を出しながら逃げおおせます。
 補足すると、チェチェン・ハーン ショロイハルハ右翼の実質的な指導者です。この時代のハルハ部左翼ジャサクト・ハーン(Jasaγ-tu Qaγan 扎薩克圖汗) スバンダイ(Subandai 素班第)、右翼チェチェン・ハーン ショロイトゥシェート・ハーン(Tüsiyetü Qaγan 土謝圖汗) グムブ(Gümbü 袞布)の三巨頭態勢でした。

 この辺、細かく實録で見直していきましょう。

(順治元年十一月辛丑)歸化城土默特部落章京 古祿格等、鄂爾多斯部落濟農 薄博等、喀爾喀部落塞臣 綽爾濟蘇尼特部落騰機思 阿喇海等、以賀遷都、各貢貂皮、駝馬等物。酌納之。賜宴。并賜雕鞍、弓、矢、皮幣等物。xvii

 まず、順治元(1644)年から遡ってみると、トゥメト部、オルドス部、ハルハ部と共にスニト部のテンギス北京遷都の祝賀挨拶に貂皮や駱駝などの献上品を贈ってます。この頃はスニト部というかテンギスハルハ部と共に清朝に朝貢を行っているわけで、清朝との対立は見て取れませんね。

(順治三年五月)丁未。以蘇尼特部落騰機思騰機特吳班代多爾濟思喀布蟒悟思額爾密克石達等、各率所部叛奔喀爾喀xviii

 ところが、順治3(1646)年5月、テンギスは弟のテンギト始め、スニト部の有力者を誘って、清朝治下を離脱してハルハ部に逃げ込んだとの情報が入ります。

 テンギス離反の理由については《世祖章皇帝實録》には書かれていませんが、康熙帝實録の中でこういう風に語っています。

(康熙二十八年九月戊戌)又諭曰、昔太宗文皇帝、以次收定四十九旗蒙古。後欲全收北邊喀爾喀、未及行、而太宗文皇帝賓天。後蘇尼特 騰機思、懷恨睿王、反入喀爾喀喀爾喀欲殺騰機思所尚我國公主騰機思喀爾喀哭云、我如何負太宗文皇帝仁恩、殺我妻耶。爾等欲殺我妻、將我一並加戮。如此堅執。故我國公主、未曾遇害。xix

 これは康熙帝が当時のスニト部の治安の悪さに関する話題の中で、過去のテンギスについての挿話を語る場面です…。なので、ドルゴンと同時代の人物であるテンギスについての記事が《聖祖仁皇帝實録》に収録されているわけです。
 かつて、ホンタイジハルハ部併呑の野望を持ちながら崩御しました。後にスニト部のテンギスドルゴンに恨みを抱いて、清朝に背いてハルハ部に奔りました。ハルハ部はテンギスに投降の条件として、テンギスの妻である清朝公主の殺害を提示しますが、ホンタイジからの恩義を理由にテンギスはそれを拒みます。最終的に康熙帝はこういうことがあって、藩部に降嫁した公主は酷い目に遭ったことがないと〆てます。

 ここで触れられているテンギスの嫁こと清朝公主アダリの妹でしょう。
 テンギスドルゴンを恨みに思う契機は史料上からは分かりません。しかし、崇徳8(1643)年、順治帝の即位に不満を抱いたアダリドルゴンに即位を促しますが、ドルゴンには拒否され、祖父であるダイシャンに告発されて、ドルゴンの認可を得てアダリは処刑されています。康熙帝が言うにはテンギスは愛妻家だったようですから、義兄を処刑したドルゴンに恨みを抱いて…というか後ろ盾として期待したアダリが処刑されたことで身の危険を感じて、ちょうど折良く投降を誘ってきたチェチェン・ハーンに乗ったと言うことでしょうかね。

 世祖實録に戻りましょう。テンギス離反の報を受けて、清朝は素早く動きます。

諭集外藩諸蒙古兵於克魯倫河、命和碩德豫親王 多鐸、爲揚威大將軍、同多羅承澤郡王 碩塞等、率內外大兵征之。賜之敕曰。茲命爾和碩德豫親王 多鐸、爲揚威大將軍、統領內外大兵往征背叛蒙古 蘇尼特等部落。爾受命御衆。凡行軍之事、必同諸將商確、以圖萬全。勿謂已能而違衆。勿恃將勇兵強而輕敵。隊伍營寨、瞭望聽靜、一切慎防。勿得怠惰。信賞必罰。相度機宜、乘其不備而破之。我將士有首先陷陳、破敵立功者。及臨陣敗走、惑亂軍心、干犯重刑者。可同衆定議奏聞。其各官所犯小過、及護軍校驍、騎校以下、犯罪應斬者。同衆商確。即行發落。祗承勿怠。爾其慎之。  
攝政王 多爾袞諸王大臣。出安定門。送和碩德豫親王 多鐸行。誡之曰。聞騰機思騰機特等、已奔喀爾喀部落碩雷。果爾、即將碩雷一併取之。至於臨陣。將帥皆宜躬先破敵。勿得退後、以冒虛名。儻敵人敗入杭崖。可即班師。再行整兵征討。務盡根株。xx

 順治帝…という名目で実際にはドルゴンでしょうけど、モンゴル諸部に対してケルレン河(Kherlen 克魯倫河)での兵の招集をかけ、和碩徳豫親王ドド揚威大將軍に任命し、多羅承澤郡王ショセ始め内外の大軍を付けてテンギス討伐を命じました。その後、ドルゴンは見送りに際してドドに、テンギステンギトらは既にハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイの元に去ったのだから、おまえはショロイの衆も併呑するつもりで事に当たれ云々と言ったとあります。もうちょっと、テンギスショロイに事情を聞くとかありそうですが、はじめからこういう指示出してるんですよね。

 で、その2ヶ月後、順治3(1646)年7月にはドドから戦勝報告が入ります。

(順治三年七月丁巳)揚威大將軍 和碩德豫親王 多鐸等、師至營噶爾察克山。聞騰機思等、屯於袞噶魯台地方。隨令蒙古固山額真 庫魯克達爾漢阿賴等、率兵先出遶其後。扼據險隘。大軍繼進。騰機思等、聞風遁去。卽令外藩蒙古 巴圖魯郡王 滿朱習禮、同梅勒章京 明安達禮等、乘夜進追。次日及之於歐特克山。賊迎戰。大破之。斬其台吉 毛害。併迎下嫁騰機思 格格還。我兵渡土喇河。複遣鎮國將軍 瓦克達等、率兵追之。陣斬騰機特多爾濟巴圖舍津騰機思噶爾馬特木德克博音圖、斬首無算。盡獲其家口輜重。次晨、我軍至博兒哈都山。遣貝子 博和托等、率兵與瓦克達等、合軍追剿。斬首千餘級。生擒八百餘。獲駱駝一千四百五十隻。馬一萬九千三百餘匹。牛一萬六千九百餘頭。羊十三萬五千三百餘隻。至是捷聞。xxi

 地理関係まで手が回らなかったのでそのままで適当に訳しますが、揚威大将軍ドドらの軍はガルチャク?(噶爾察克)山で野営し、その際に、テンギスらがコンガルダイ?(袞噶魯台)地方に宿営しているという情報をつかみます。即座にクルク ダルハン アライ?(庫魯克 達爾漢 阿賴)らモンゴル・グサエジェン率いる兵が攻撃しましたが、どうやらテンギスは逃走したようです。すぐさまホルチン部のバートル郡王 マンジュシリメイレン・ジャンギン ミンガンダリらが夜通し追跡し、翌日オトク?(歐特克)山で追いついて撃破しました。テンギスタイジモーハイ?(毛害)を斬り、降嫁していた清朝公主テンギス夫人=アダリ妹を保護しました。更にトーラ(Туул 土喇)河を渡り、鎮国将軍 ワクダらが兵を率いて追跡し、テンギトの子や、テンギスの孫を始め無数の首を斬り、テンギスの部衆や輜重を捕獲しました。翌朝、軍はボルハト?(博兒哈都)山に到り、ベイセ ボホトらはワクダと兵を併せて残党を掃討しました。斬首は千余級、生け捕り八百あまり。家畜は書いてある通りいっぱい捕獲したので、戦勝報告をしたと。
 スニト部はこの際に大打撃を被り、テンギステンギトの親族が斬られたり、清朝皇族出身のテンギス夫人を奪われたり、部衆や家畜、財産を奪われて実質的に清朝の支配下に入ったようですが、テンギステンギト兄弟は逃げ延びたようです。

 ということで、ドドらの追跡は続きます。

(順治三年八月乙酉)揚威大將軍 和碩德豫親王 多鐸等奏報、我師自土勒河西行。於七月十三日、至查濟布喇克地方、喀爾喀部落土謝圖汗兩子、率兵二萬。橫列查濟布喇克上游。我師嚴陣而前。敵來迎戰。我師遂擊敗之。追逐三十餘里。斬殺甚衆。獲駱駝二百七十餘隻。馬千一百餘匹。次日、喀爾喀部落碩雷汗之四子、本霸 巴圖魯 台吉等、率兵三萬。遮查濟布喇克道口而來。我師列陣奮擊敗之。追逐二十餘里。復斬殺甚衆。獲駱駝二百餘隻。馬七百六十餘匹。及問俘卒、言碩雷家口部衆。悉走塞冷格地方。衆議將欲前進、因馬疲乏。於七月十六日、班師還矣。捷聞。下所司察敘。xxii

 ドドト-ラ(Туул 土勒)河を西に進み、7月13日にはジャチプラク?(查濟布喇克)地方に着くと、トゥシェート・ハンの二人の子供が二万の兵を率いてジャチプラク?の川の上流で横陣を構えていました。清軍は陣を堅く組んで前進して応戦し、ついに打ち破りました。30里あまり追撃して、散々に兵を斬り殺し、駱駝を270匹あまり、馬を1,100匹あまり捕獲しました。次の日、ショロイ ハンの四子、ブムバ・バートル・タイジ(Bumba Baγatur tayiji 本霸巴圖魯台吉)らが兵三万を率いて、ジャチプラク?の道を封鎖しました。清軍は陣を構えて撃破し、20里あまり追撃して、また散々に兵を斬り殺し、駱駝200匹あまり、馬760匹あまりを捕獲しました。そして、捕虜を尋問したところ、ショロイらの部族は皆、サイレンゲ?(塞冷格)地方…テンギス列傳ではセレンゲ(Selenge 色楞額)河となってますが、そこに逃げたという情報を得ました。諸将は追撃しようとしましたが、馬が疲れ果てて不可能でした。7月16日に軍を返して、戦勝を報告しました。
 どうやらドドテンギスを追撃する途中にトゥシェート・ハーン2万の軍と、チェチェン・ハーン3万の軍に遭遇するや、問答無用で軍を突っ込んで兵を斬りまくって家畜を奪ったようです。最後通告をして降伏を促すとかありそうなもんですが、会敵するなりいきなり攻撃を仕掛けたようですね。なおも追撃しようとして馬が疲れたので断念したようです。と言うわけで、ハルハ部に打撃を与えることには成功したものの、結局テンギステンギトは取り逃がしてしまったようです。テンギス兄弟のことは割とあっさりあきらめているので、最初からスニト部追撃はハルハ部を攻撃する口実だったかのような印象受けます。

 で、9月になってハルハ部から使者が北京に到着します。

(順治三年九月)己未。遣喀爾喀部落土謝圖汗、所屬額爾德尼 托尹、貢馬使臣歸。諭之曰。爾等速往、各語爾主、草青以前、可將騰機思騰機特擒之以獻。如此、則遣使來朝。否則使來定行覊留。此番兵去、非爲征爾等、不過往追逃叛騰機思騰機特之偏師也。而爾土謝圖碩雷二汗。尚不能支、若不擒獻騰機思騰機特、大軍進發。追亡捕叛。爾尚何所逃耶。xxiii

 ハルハ部のトゥシェート・ハーン傘下のエルデニ・タイン?(額爾德尼 托尹)の使者が馬を献上して帰順を申し出た。順治帝…と言いつつドルゴンは「おまえらは速やかに帰って、おまえらの主人に草原の草が青くなる前にテンギステンギトを捕らえて献上させよ。賊を捕まえずに来朝することは許さず、その場合は使者は拘留する。賊が逃げおおせているのに、おまえらが兵も出さずに、叛徒テンギステンギトの残党を逃がしでもしたら、大軍を発して賊を捕まえるが、おまえらも逃げ場は無いと思え。」と諭された。
 と言うわけで、打撃を与えたハルハ部から使者が来るやテンギステンギトを捕まえて連行しろ!と恫喝したようですね。よく見るとテンギス兄弟を捕らえて寄こせと言っていて、殺せとは言ってません。

(順治三年九月丙寅)攝政王兀藍諾爾、是日、出征和碩德豫親王師至。攝政王出營五里外迎之。率出征內外貝勒貝子等、諸大臣。吹螺拜天。行三跪九叩頭禮畢。至設涼帳所。攝政王坐於金黃涼帳內。出征貝勒貝子等、暨諸大臣。兩翼序立。聽鳴贊官贊行三跪九叩頭禮。衆仍跪。和碩德豫親王土謝圖親王卓禮克圖親王承澤郡王英郡王扎薩克圖郡王等、進前跪、行抱見禮。出征貝勒、傍坐藍涼帳內。貝子以下、章京以上、照各旗坐。大宴之。xxiv

 そして、数日後摂政王ドルゴンウアイノール?(兀藍諾爾)に到着しました。モンゴルの地名についてはよく分からないので、この辺もスッ飛ばします。この日、出征していた豫徳親王ドドの軍も帰ってきたため、摂政王ドルゴンは宿営地から五里以上離れた場所まで遠征軍を出迎えました。そして、出征していた清朝皇族モンゴル王公ベイレベイセらと諸大臣を引き連れて宿営地に戻りました。(ドルゴンは)法螺貝を吹いて天を奉り、三跪九叩頭の礼を行い、テント(涼帳)を張ったところまで来ました。摂政王 ドルゴンは黄金のテントの中に座り、出征していたベイレベイセ諸大臣八旗両翼の序列に従って並び、鳴贊官の掛け声で三跪九叩頭を行い皆跪きました。豫徳親王 ドドトシェート親王xxv オーバジョリクト親王xxvi ウクシャン承澤親王 ショセ英郡王 アジゲジャサクト郡王xxvii バイスガル?(拜斯噶勒)らは前に進んで跪き、抱見礼で挨拶をした。出征していたベイレらは(ドルゴンのテントの)そばにある藍色のテントの中に座り、ベイセ以下ジャンギン以上の者は所属ごとに分かれて座って大宴を催しました。
 三跪九叩頭の礼を実に自然に受けているあたり、ドルゴンは実質的にハンとして皇族モンゴル王公に接していたことが分かりますね。ともあれ、ドドハルハ部との遭遇戦や、テンギステンギトを取り逃がしたことを責められることなく慰労を受けている事から、やはり、当初からテンギステンギトスニト部離反の機を捉えてハルハ部に打撃を加えることが目的だったようですね。少なくともこの段階では、ドルゴンは想定した戦果をドドが短期間で挙げたことで、わざわざ北京を離れて出迎えて慰労しているくらいなので、意に沿わない行為ではなかったはずです。

 しかしながら、スニト部問題はまだ続くようです。

(順治三年九月)癸未。蘇尼特部落台吉 托濟、伊叔吳班代叛逃。托濟率所部、同四子部落達爾漢卓禮克圖、追之。吳班代爲衆兵所戮。以聞。上嘉之。賜以叛犯家口牲畜。其達爾漢卓禮克圖、及有功官兵。并分賜有差。xxviii

 その月の内に、スニト部のトチ?(托濟)とその叔父のウバンダイ(吳班代)も清朝に背いて逃亡しました。トチ?はスニト部以外にも声をかけたようですが、四子部ダルハン・ジョリクト=オムブ?(俄木布)はこれを追撃して、ウバンダイを討ち取りました。清朝はこの知らせを聞いて喜び、捕獲したウバンダイの部衆や家畜などの遺産はダルハン・ジョリクト麾下の兵に論功行賞を行って褒美として分け与えました。
 と言うことで、遠征軍が帰還するやいなや、スニト部の遺衆がまた清朝からの離脱を謀って四子部から攻撃を受けたようです。ここでも主犯格と見なされているトチ?に関しては取り逃がしているようですが、ダルハン・ジョリクトは注意されるでもなく褒美を受けてますから、離反したスニト部の支配層を是が非でも排除しようとか根絶やしにしようとか、そういう意図もないように見えます。

 で、しばらく清朝ハルハ部にテンギスの受け渡しを要求しますが、ノラリクラリと要求を躱して2年が経過します。その間は恐らくハルハ部に保護されていたんだと思います。で、そんなタイミングで突然こんな事件が起こります。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳スニト部総傳を見ましょう。

(順治)五年、騰機思騰機特悔罪乞降。詔宥死、仍襲爵如初。xxix

 順治5年、テンギステンギト清朝を離反した罪を後悔して降伏してきたので、死罪には処さずに爵位は離反前に戻したとあります。一体何があったんでしょうか?

 とりあえず實録を見てみましょう。

(順治五年八月)辛酉。太和殿。受蘇尼特部落騰機特等朝賜宴。
癸酉。出獵。賞蘇尼特部落騰機特等緞疋等物。
丁丑。。(中略)以蘇尼特部落故郡王 騰機思騰機特、襲封。xxx

 経緯はよく分かりませんが、順治5年8月、テンギスの弟であるテンギト清朝に帰順して、北京順治帝に謁見した後、一緒に狩猟を楽しみ、亡きテンギスドロ郡王位を継承しています。
 それはそうと、いきなりテンギトが帰順するのはいいとして、テンギスはどこに行ってしまったのでしょうか。杜家骥センセはテンギス順治4年段階で清朝に降ったものの漠北で病没し、テンギスがその後を受けて北京を訪れたとしていますxxxi
 
 と言うところで、《清初内国史院满文档案译编》を見てみましょう。

(順治4年12月18日)是日。苏尼特部落乌巴希 台吉伊尔毕斯 台吉沙金 台吉鄂林臣 台吉海色 台吉伊斯西特 台吉六人自腾吉斯来归、赐羊皮里二等蠎缎披领各一、缎各二、毛青各一。xxxii

 これによると、順治4年12月中旬、スニト部の有力者6人がテンギスから離反して清朝に下ってます。順治4年もあと2週間という年の瀬の段階でも、まだテンギスは帰順していない事が分かります。

 と、いうところでもう一度《欽定外藩蒙古回部王公表傳》のテンギス列傳を読んでみたら、この辺のこと全部書かれてますね…。

(順治)四年、車臣汗 碩壘土謝圖汗 衮布各遣使謝罪。諭擒獻騰機思
五年、騰機思以我使達徳鄂爾濟圖等、宣諭招撫仍、偕騰機特悔罪降。比至、騰機思病死。詔宥前罪、騰機特襲封扎薩克多羅郡王。除墨爾根號。xxxiii

 順治4年、テンギスが頼ったショロイどころかショロイに協力したゴムブ清朝に謝罪を入れており、その際にテンギステンギトの捕縛を命じられています。テンギスとしては居心地が悪かったんでしょう。順治5年にはテンギス清朝の使者・オルジト?(鄂爾濟圖)に会い、テンギトと共に清朝から離反したことを悔いて、再度清朝に帰順しますが、テンギスはすぐに病死してしまいます。テンギト北京に来るのは順治5年8月ですから、順治5年1月からの8月迄の間ですかね…。で、このオルジト?という人物を検索したら《八旗滿洲氏族通譜》に傳がありました。

鄂爾濟圖
鑲藍旗包衣人。世居科爾沁地方。天聰時来歸。由閒散徃招叛逆蘇尼特 滕吉思。乗夜前徃、宣示上諭蘇尼特 滕吉思、即復歸化。叙功授騎都尉xxxiv

 なんらか、テンギスなりスニト部に縁のある人が送られたのかと思っていたのですが、そういうわけではないんですね。オルジト?は鑲藍旗のボーイで、ホルチン地方の出身。天聰年間に帰順していました。無官のまま上諭でテンギスの元に行って帰順させたとあります。何でこの人が使者に選ばれたんでしょうね…。まぁ、モンゴル問題はモンゴル出身の旗人に処理させるという原理原則を見ることができると言えなくもないですけど、オルジト?は蒙古衙門に所属していたわけでもなさそうですしね…。

 ともあれ、帰順して北京にやって来たテンギトテンギスの元のジャサク ドロ 郡王位を継承したのは先に見たとおりです。ただ、テンギス列傳ではキチンとメルゲン号は除かれた旨明記されています。それに、清朝皇族の婿=エフ(額駙)の地位と、子々孫々の王位の継承を保証した世襲罔替はこの時は復活しなかったようですから、まるまる元通りというわけではなかったと言うことになるかと思います。

 と言うことで、テンギステンギトによるスニト部離反の問題…一括りにとりあえずテンギス事件と仮称しておきましょう、この問題は解決します。念のため、その後、スニト部もちょっとは追っておきましょう。

一次襲、騰機特騰機思弟。
崇徳六年、封多羅貝勒
順治三年、從騰機思叛奔喀爾喀
五年、來降仍賜宴。賚尋、命襲扎薩克多羅郡王
康熙二年、卒。騰機思薩穆扎襲。
二次襲、薩穆扎騰機思第四子。初由三等 台吉多羅貝勒。互見彼傳。xxxv

 と言うわけで、テンギト康熙2(1663)年に薨去し、ジャサク ドロ 郡主位はテンギスの第四子・サムジャ?(薩穆扎)に継承されます。
 折角なので、サムジャ?の列傳も見ましょう。

多羅貝勒 薩穆扎列傳。
薩穆扎、原封郡王騰機思子。
崇徳六年、授三等台吉
順治三年、從父叛奔喀爾喀
五年、來降。
六年、尚郡主、授和碩額駙。尋封多羅貝勒。詔世襲罔替。
康熙三年、其叔父扎薩克郡王 騰機特卒、薩穆扎晉襲爵。xxxvi

 と言うわけで、エフ(額駙)の地位と、世襲罔替の特典は、順治6年段階でテンギスの息子であるサムジャが継承していたようですね。明記されていませんが、もしかするとサムジャ?はアダリ妹の息子だったのかもしれませんね。
 ちなみにサムジャ?のお相手ですが、《清初内国史院满文档案译编》を見ますと…。

(顺治六年正月)初五日、将多罗 顺承郡王之姊配与苏尼特撤玛査 台吉、宰三九牲畜。皇父摄政王内大臣等・尚书 尼堪启心郎 沃赫前往、宴于格格之家。宴前、撤玛査 额驸率其友往皇父摄政王家行三跪九叩礼。xxxvii

 と言うことで、サムジャ?のお相手は順承郡王レクデフンの姉だったようですね。レクデフンサハリヤンの第三子でアダリの弟です。ので、サムジャ?がアダリ妹の息子だったとすると、実の叔母がお相手ということになるんでしょうか…この辺は確証は得られないんですが。ともあれ、国家間の婚姻もある特定の家系に行わせるという原則が守られていたようです。
 ともあれ、順治6年1月5日にサムジャ順承郡王レクデフンの姉との結婚を行い、その場でドルゴンなど清朝の要人の祝福を受けたばかりか、前日には睿親王府に出向いてドルゴンに三跪九叩頭を行っているようですね。
 テンギスドルゴンの確執で発生したスニト部離反問題が、テンギスの後継者であるサムジャ?がドルゴン三跪九叩頭することで終結を見たということになるんですかね…。

おまけ

(順治六年正月)癸酉。封蘇尼特部落騰機思撒瑪查 台吉、為貝勒xxxviii

 ちなみに實録ではサムジャ?のベイレ封爵は記事にしているものの、レクデフン姉との婚儀と世襲罔替は記事にしてませんね…。

おまけ2

(順治六年九月戊午)以蘇尼特部落噶爾麻、於其兄騰機思等遁回時、獨率所部來歸。封為多羅貝勒xxxix

 ちなみに、テンギスに同調しなかった弟・ガルマ?(噶爾麻)も離反に与しなかった事を評価されて封爵されていますが、サムジャ?婚儀の後ですね…。もっと早くに評価できそうなもんですが…。

 で、冒頭で挙げた二楚虎爾姜瓖についてはまた次の機会に…。

  1. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳
  2. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳
  3. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  4. 《太宗文皇帝實録》巻三十五
  5. 《太宗文皇帝實録》巻49
  6. 《太宗文皇帝實録》巻49
  7. 《太宗文皇帝實録》巻50
  8. 《太宗文皇帝實録》巻50
  9. 《太宗文皇帝實録》巻52
  10. 《玉牒》によると頴親王サハリヤン次女らしい⇒杜家骥《清朝滿蒙联姻研究》上巻 P.137
  11. 《太宗文皇帝實録》巻54
  12. 《太宗文皇帝實録》巻58
  13. 《太宗文皇帝實録》巻58
  14. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  15. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳
  16. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  17. 《世祖章皇帝實錄》巻11
  18. 《世祖章皇帝實錄》巻26
  19. 《聖祖仁皇帝實錄》 巻142
  20. 《世祖章皇帝實錄》巻26
  21. 《世祖章皇帝實錄》巻27
  22. 《世祖章皇帝實錄》巻27
  23. 《世祖章皇帝實錄》巻28
  24. 《世祖章皇帝實錄》巻28
  25. ジャサク・ホショ・トシェート・チンワン(扎薩克和碩土謝図親王)
  26. ホショ・ジョリクト・チンワン(和碩卓哩克図親王)
  27. ジャサク・ドロ・ジャサクトギュンワン(扎薩克多羅扎薩克図郡王)
  28. 《世祖章皇帝實錄》巻28
  29. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳
  30. 《世祖章皇帝實錄》巻40
  31. 杜家骥《清朝滿蒙联姻研究》上 P.137
  32. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.428
  33. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  34. 《八旗滿洲氏族通譜》巻六十七 附載滿洲旗分内之䝉古姓氏 彰札爾氏
  35. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  36. 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 附多羅貝勒薩穆扎列傳
  37. 《清初内国史院满文档案译编》下卷 P.2
  38. 《世祖章皇帝實錄》巻42
  39. 《世祖章皇帝實錄》巻46

東洋文庫収蔵 皇史宬旧蔵紅綾本《大清聖祖仁皇帝實録》漢文本の書影

$
0
0

 以前、東洋文庫収蔵 皇史宬旧蔵紅綾本《大清聖祖仁皇帝實録》漢文本についてと言う記事に於いて東洋文庫収蔵の紅綾本について記事を書きましたが、実物を見に行って手続きの上で書影の撮影を依頼できたので(有料)、その画像をこっそりアップです。


 まずは函です。発色がいい巻数を取ってしまったので、函と中身が合ってません。これは第63函ですね…中身は187巻~189巻が入ってます。

 一方、表紙は東洋文庫蔵の最初の巻、151巻です。第51函に入っていたんですが、函の方がちょっとくすんでいたんですよねぇ…。できるだけ保存がいい函の方を優先しちゃいました。一般的に紅綾本と言われている装丁ですが、実物を見たところとても鮮やかで綺麗なオレンジでした。橙綾本ってイメージでしたね。

 折角なので中身も見てみましょう。冒頭巻151です。

 手元の盛京本の影印本の151巻を確認したらこんな感じですね…。むむ…。盛京本皇史宬本は同じ大紅綾本のはずなんですが、何というか行が違いますね…。《清實録》影印説明にはこうあります。

大紅綾本、書用涇縣榜紙、畫朱絲欄、胡蝶装、毎半葉九行、行十八字。i

 うむ…説明は間違ってませんが、盛京本皇史宬本とで巻頭題名の一行あたりの文字数が何故か違うために、一行ずつずれてるんですね…。なるほど。写本する時の担当者のフィーリングでこのあたりは何とでもなったんですかね…。

 で、次に皇帝の諱に関する記述法に関しても確認して見ました。巻187の皇四子 胤禛の記述です。”胤禛“の名前の所には黄色い絹が張られてその上に諱が書かれています。諱を黄色い絹で隠すのかと思ったんですが、實録ではそうしないんですね。

 影印本だとこの辺黒くなってて分からない部分です。これ見るまで、名前の上に何か張って諱を隠してるのかなぁ…と思ってたんですが、むしろ装飾してました。

 で、八ヶ国連合軍北京占領後に損傷した行方不明の實録を補填した…とされている紫綾本についても確認してきました。第67函ですね。

 紅綾本に比べるとなんというか…すべてに於いて雑という印象を受けました。留め具一つとっても気合いの入り方が違う気がします。

 こちらは紫綾本の表紙です。絹の模様なんかも紅綾本と比較するとやっぱり粗いです。

 で、巻199ですが、とにかく粗い…。

 で、中身なんですが…。サイズは同じなのに紙の手触りからしてあれ?って感じです。手触りからして違うんすよね…。

 改行に関しては…盛京本と全く一緒ですね。紫綾本が元にしたのは内閣本のようですから、元になったのは小紅綾本のはずですが…キッチリ合ってますね。困りました。盛京本内閣本は共通で皇史宬本だけが改行が違うって事なんすかねぇ…。

 ついでに後の皇帝の諱についても確認して見ました。巻200です。

 皇四子の後の”胤禛“が抜けてますね…。なんか、後からやればいいやと思っていたら後からやるのがめんどくさくなったみたいな感じです。

 盛京本を確認すると普通に”胤禛“が入っていますから、この巻だけ忌避してるってワケではないでしょうねぇ…。

 と言うわけで、凄い…北京第一歴史档案館北京故宮に行かなくても實録の実物見られるんだ…というだけの記事でした。

  1. 《清實録》影印説明 P.9

清初モンゴル政策メモ

$
0
0

 と言うわけで、自分でよくわからんくなってきたのでメモ。整理用にかなり乱暴に纏めました。

 清朝成立時にはモンゴルは大体3分されていた。

漠南モンゴル⇒ゴビ砂漠より南を遊牧地とするモンゴル(明代に東遷した元朝正統王家であるチャハル部清朝の婚戚ホルチン部等々)
漠北モンゴル⇒ゴビ砂漠より北を遊牧地とするモンゴル(ハルハ部⇒左翼:ジャサクト・ハーン家、右翼:トシェート・ハーン家チェチェン・ハーン家
漠西モンゴル⇒ゴビ砂漠より西を遊牧地とするオイラートホシュート部ジューンガル部等々)

 力関係としては元朝正統のチャハル部ハルハ部は支持し、ハルハ部と戦って散々痛めつけられたオイラートハルハ部に従属している状態。
 狭義のモンゴル漠南モンゴル漠北モンゴルで、漠西モンゴル明代以降オイラートと称されるので、今回は除外した。

■漠南モンゴルと清朝

 清朝成立前から漠南蒙古ジュシェン(女真)と大きく関係しており、チャハル部リンダン・ハーンハダ部スタイ太后を娶っている。スタイ太后は後にチャハル部を継いだエルケ・ホンゴル・エジェイの実母。
 萬暦21(1593)年、ヌルハチ勃興期にジュシェンイェヘ部を中心に9部連合軍がグレ山ヌルハチ率いるマンジュ(建州女真)と会戦して大敗すると、連合軍に参加していたホルチン部ヌルハチと修好した。
 天命元(1616)年にヌルハチアマガ・アイシン・グルン(後金国)を建国し即位すると、ホルチン部等はモンゴル語クンドゥレン・ハーンの尊号を奉った。
 天命4(1619)年、ヌルハチイェヘ部を滅ぼして念願のジュシェン統一を果たすと、チャハル部リンダン・ハーンヌルハチに、チャハル部の交易拠点であった明朝広寧を攻撃しないように手紙を送ったが、ヌルハチはこれを拒否し後金チャハル部は断行するに至っている。
 天命9(1624)年には後金ホルチン部は対チャハル部の攻守同盟を結んでいる。
 ヌルハチ没後、ホンタイジ後金ハンとして即位すると、天聰2(1628)年、チャハル部リンダン・ハーントゥメト部ハラチン部を滅ぼし、明朝との交易拠点となっていたトゥメト部フヘ・ホト(フフホト、帰化城)と、トゥメト部が発見、所有していた玉璽「制誥之宝」を奪った。更にオルドス部を従属させ、ハルハ部の有力者 トゥメンケン・チョクト・ホンタイジリンダン・ハーンに臣従を誓ったので、南北モンゴルリンダン・ハーンの支配下に入った。
 天聰8(1634)年、リンダン・ハーンチベット遠征を企図して青海に入ったところで不意に病没してしまう。リンダン・ハーンモンゴル統一を勧めようとしていたが、当時は同列であった部族もチャハル部の下に置く扱いであったため、モンゴル内では反発も多く、チャハル部から離反して後金に降る者が多かったという。
 漠南モンゴルに生じた権力の空白時期を見逃さず、ホンタイジ睿親王 ドルゴンらを派遣して即座にフヘ・ホト(フフホト 帰化城)を摂取し、リンダン・ハーンの遺児 エルケ・ホンゴル・エジェイは生母スタイ太后と共に後金に降伏した。
 天聰9(1635)年、ドルゴン率いる遠征軍はスタイ太后エジェイを保護して瀋陽に凱旋。玉璽「制誥之宝」とフビライ・ハーンパクパに作らせたというマハー・カーラ像を得て、ホンタイジモンゴルの正統継承者となったことを宣言し、崇徳元(1636)年、国号をダイチン(大清)と改め、二次即位を行った。

■漠北モンゴルと清朝

 漠南モンゴル清朝勢力圏に入ったことにより、清朝漠北モンゴルと直接境界を接することになり、天聰9(1635)年にはハルハ部から清朝に使者が派遣されている。しかし、ハルハ部チェチェン・ハーン ショロイリンダン・ハーン没後にスタイ太后を保護しようと計画したり、リンダン・ハーンの強権を嫌って離反したチャハル部支部のスニト部ウジュムチン部を保護下に置いたりと、チャハル部を摂取してモンゴル内での覇権を確立することに野心があったものと考えられる。
 明朝と交戦していた清朝からは、明朝との交易を控えるよう要請され表向き承諾したものの、実際はフヘ・ホトトゥメト部遺衆を介して明朝と交易を行い、重要な軍需物資である馬を明朝に提供していた。後にトゥメト部ハルハ部明朝の交易を仲介することを後金から厳禁されると、ハルハ部は大同まで赴き明朝と直接交易を始めた。
 崇徳4(1639)年、ハルハ部の保護下にあったスニト部等がチェチェン・ハーン家から離反して清朝に降っている。
 また、清朝を警戒してハルハ部内の有力者とオイラートの有力者を一堂に集め、崇徳5(1640)年、対清朝の攻守同盟を結び、「モンゴル・オイラート法典」を制定する。
 崇徳8(1643)年、ホンタイジが没し、順治帝が即位し、翌順治元(1644)年に清朝が入関すると、翌順治2(1645)年、ハルハ部の有力者は祝賀の使節を送っている。
 しかし、順治3(1646)年にスニト部テンギス清朝から離反し、再びチェチェン・ハーン家を頼って帰投すると一気にハルハ部清朝の関係は悪化する。清朝漠南モンゴルに招集をかけ、豫親王ドド揚威大將軍に任命してテンギスを追跡させ、ついに捕捉して攻撃するも逃走される。更に追跡するとトシェート・ハーン ゴンボ麾下の軍とチェチェン・ハーン ショロイ麾下の軍と遭遇してこれを破った。
 清朝は凱旋したものの、この後トシェート・ハーン ゴンボの一族に当たるエルケ・チュフル(ダンチン・ラマの兄弟)が報復のために清朝麾下のバーリン部を略奪する。
 ハルハ部ジャサクト・ハーン スベデイトシェート・ハーン ゴンボチェチェン・ハーン ショロイら有力者達はあわてて使節を送ったものの、外交文書は清朝ハルハ部を対等として、おれおまえ位の字句で書かれていた。清朝テンギスの引き渡しとバーリン部の賠償をハルハ部に要求し、交易を中止した。
 順治5(1648)年8月、トシェート・ハーンチェチェン・ハーンバーリン部の馬千頭、駱駝百頭を贈って賠償を行い、数日後、スニト部テンギト清朝に再度帰順した(テンギスは既に病没)。これで一時ハルハ部清朝の関係は緩和された。
 しかし、早くも順治5(1648)11月に2チュフル清朝襲来の風説のために、清朝大同に軍を集結させたり、順治5(1648)年末から順治6(1649)初頭にかけて、ジャサクト・ハーン家の有力者 オムブ・エルデニ(バトマ・エルデニ・ホンタイジ)とバルブ・ピントゥフヘ・ホトを襲撃し、トゥメト部を略奪する。2月には大同総兵姜瓖が反乱して、これにチェチェン・ハーンが呼応して南下し、10月にはドルゴン2チュフル遠征に向かうなど、清朝ハルハ部の間は緊張が絶えない状態が続く。ジャサクト・ハーンの侵入を防ぐためドロ郡王・ヨロ宣威大将軍に任命してフヘ・ホトに駐在させた。
 順治7(1650)年10月、トシェート・ハーンチェチェン・ハーンダンチン・ラマジェプツンダンバ・ホトクトらの使節が北京に訪れ、自らを臣下と称する外交文書をもたらした。清朝ハルハ部は対等な関係ではなく、清朝が優位であるとハルハ部が認めた形。しかし、清朝は満足せず、更にバーリン部の賠償とオムブ・エルデニバルブ・ピントゥフヘ・ホト略奪の賠償を求めた。しかし、清朝の意に従って貢納の義務を果たすなら毎年一回の交易を再開するとも通達し、ひとまずハルハ左翼との和平は保たれた。
 順治7(1650)年12月、ドルゴンハラ・ホトンで没して順治帝の親政が始まったが、対モンゴル政策には特に変更は生じた様子はない。
 順治9(1652)年、順治帝ダライ・ラマ五世と会談。順治4年から交渉を始め、順治5年には決定していた会談が実現。
 順治12(1655)年、4月ハルハ左翼トゥシェート・ハーンチェチェン・ハーンダンチン・ラマジェプツンダンバ・ホトクトらは2チュフルによるバーリン部略奪の罪を乞い、歳貢を献上した。5月、清朝ハルハ左翼の謝罪を受け入れ、バーリン部の賠償を免除したが、ハルハ右翼についてはジャサクト・ハーンフヘ・ホト略奪の賠償と謝罪を要求した。そして、12月、安郡王・ヨロハルハ左翼と会盟させた。この時取り決められた朝貢制度が所謂九白之貢
 順治14(1657)年、ハルハ右翼ジャサクト・ハーンが謝罪の使者を送り、順治帝はこれを受け入れ、順治16(1659)年4月、ついにハルハ右翼清朝と会盟し、歳貢=交易を許した。これをもって漠北モンゴルハルハ部清朝帰順は完了とみした。完全に清朝版図に含まれるのはジューンガル部の侵攻後になるが、それはまた別の項で。

 と言うわけで、宣和堂の最近の興味が漠北ハルハに向いているので、そういう感じのまとめになりました。この辺はチャハル部もそうですが、終始一貫して清朝とは交易関係でもめていて、時折テンギス事件や2チュフル事件、帰化城略奪事件が発生して、その謝罪をハルハ部三ハーンに求めてた感じですかね。清朝入関後、テンギス事件以後は漠北モンゴルに対する経済制裁を続けていて、最終的にはハルハ部側が根を上げたってとこでしょうか。この時期、清朝台湾鄭氏勢力に対して遷海令を発令して交易を禁じていましたが、モンゴル方面でもハルハ部に対して交易を禁じてたわけですね…。オイラートというかジューンガル部チベット及びホシュート部とは書簡のやりとりはあったようですけど、交易に関しては盛んだったわけではないでしょうし、漢土の中だけで何とかなったんですかねぇ…。
 ともあれ、漠北モンゴルとの関係が一応の安定を見ていたことは、順治帝を継いだ康熙帝にとってもよき遺産だったはずです。輔政大臣オボイの失脚や三藩の乱モンゴルとの関係が安定していた事が前提でしょうから、順治年間のモンゴル政策は決して軽視できないと思うんですけどねぇ…(日本での先行研究はあんまり多くないのです)。

参考文献:
岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店
岡田英弘『蒙古源流』刀水書房
齐木徳道尔吉〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉 《内蒙古大学学报(人文社会科学版)》 1998(04)
达力扎布〈清太宗和清世祖对漠北喀尔喀部的招抚〉 《历史研究》2011(02)
李凯灿〈多尔衮与清初民族关系〉 《河南师范大学学报(哲学社会科学版)》2003年05期
N.哈斯巴根〈顺治六年多尔衮出兵喀尔喀始末〉 《西部蒙古论坛》2010年01期

その後の「制誥之寶」とマハーカーラ像

$
0
0

 今回は前回の補足です。実録パラパラめくって調べたら結構抜けていたので。
 さて、前回でも検証したように、「制誥之寶」は獲得すれば直ちに帝位に着けるマジックアイテムだ!と、ホンタイジは喧伝したかったようです。

(天聰九年八月)庚辰(三日)。出師和碩墨爾根戴青貝勒多爾袞、貝勒岳託、薩哈廉、豪格等征察哈爾國。獲歷代傳國玉璽。先是相傳茲璽。藏於元朝大內。至順帝為明洪武帝所敗。遂棄都城。攜璽逃至沙漠。後崩於應昌府。璽遂遺失越二百餘年。有牧羊於山岡下者。見一山羊。三日不嚙草。但以蹄跑地。牧者發之。此璽乃見。既而歸於元後裔博碩克圖汗。後博碩克圖為察哈爾林丹汗所侵。國破。璽復歸於林丹汗。林丹汗、亦元裔也。貝勒多爾袞等。聞璽在蘇泰太后福金所。索之。既得。視其文。乃漢篆制誥之寶四字璠璵為質。交龍為紐。光氣煥爛。洵至寶也。多爾袞等喜甚曰皇上洪福非常。天錫至寶。此一統萬年之瑞也。遂收其璽。i

 前回もあげた箇所ですが、「制誥之寶」獲得の報告を聞くなり一統萬年の瑞なりですから、ホンタイジはやっと俺のターンがきた!みたいな意識を持っていたものかと思います。モンゴルっていうならハルハの去就はまだ不確定ですし、モンゴル高原という意味ではオイラトも残ってんじゃないの?って言いたいところですが、ヌルハチの頃から敵対していたチャハルリンダン・ハーンが横死し、その報せを受けて即座にチャハル遺衆を摂取して、明朝モンゴルの交易の要衝であったフヘ・ホト(フフホト、帰化城)まで手に入れたわけですから、まぁ…浮かれたんでしょうね…。実際、チャハル遺衆についてはチェチェン・ハーン・ショロイが、フヘ・ホトについてはジャサクト・ハーン・スブデイがそれぞれ興味を示していましたが、ホンタイジがこれに先んじて動いて無傷で摂取した経緯があります。マゴマゴしてたら手に入らなかったかもしれないわけですから、博打で大当たりしたようなもんです。浮かれもするわけです。

〈制誥之寶〉(《庄妃册文・”制诰之宝”印文》⇒《大清图典》1巻P.225)


 で、浮かれついでに、翌天聰10(1636)年4月にホンタイジは国号を後金から大清に改め、年号を天聰から崇徳に改めて大清皇帝として即位します。

(天聰十年四月)乙酉(十一日)。上以受尊號。祭告天地。受寬溫仁聖皇帝尊號。建國號曰大清。改元爲崇德元年。(中略)讀祝官捧祝文至壇上。北向跪。讀祝文。其文曰。(中略)征服朝鮮。混一蒙古。更獲玉璽。遠拓邊疆。今內外臣民、謬推臣功、合稱尊號、以副天心。臣以明人尚爲敵國。尊號不可遽稱。固辭弗獲、勉徇群情。踐天子位。建國號曰大清。改元為崇德元年。ii

 この時、即位の根拠として朝鮮半島を征服し、モンゴルを統一して玉璽=「制誥之寶」を獲得したことが挙げられています。大層な持ち上げぶりですが、《清實録》ではこの後「制誥之寶」がどこでどう使われていたのかについては触れられていません。実際には档案に捺印されている寶璽を確認すると順治年間の前半では使用が認められるというのは前回に触れたとおりです。では、その後どこに行ってしまったのか?

 結構な期間が空きますが、雍正帝が「傳國璽」について発言している箇所を発見しました。

(雍正七年十二月丁酉=二十七日)土司冉元齡、又有川省姦徒楊承勳等結黨一案。(中略)夫民間所謂金鑲玉印。即歷代傳國璽也。當日元順帝將此璽攜歸沙漠。是以明代求之未獲。我太宗文皇帝天聰九年。察哈爾林丹汗之母。將此寶進獻。至今藏於大內iii

 四川省の反乱勢力が「金鑲玉印」を所有していた…という事件に際して、雍正帝が発言した箇所です。リンダン・ハーンの母親が献上したことになってますが、元順帝が沙漠=ゴビ砂漠に持ち帰り明朝が手にすることができなかったけど、ホンタイジが獲得した「傳國璽」ですから、「制誥之寶」で間違いないでしょう。そいつなら俺の横で寝てるぜ?くらいの軽さで、今は大内紫禁城に保管してあるんだけどな、と発言しています。少なくとも雍正7(1729)年までは、使用してはいないものの「制誥之寶」は大内に保管されていたことが判明しました。…まぁ、雍正帝が宮中に保管していたのは順治年間に使用されていた満漢合璧の「hese wasimbure boobai/制誥之寶」であった可能性は捨てきれませんが…。

〈hese wasimbure boobai/制誥之寶〉(《顺治帝颁给四世班禅的谕旨》⇒大清图典》2巻P.201)

 で、有名な乾隆帝による玉璽制度の改訂があるわけです。この際、康熙朝では29寶だった寶璽が徐々に増え、乾隆11(1746)年には35寶に増えていたため、乾隆帝が25寶に整理したというアレです。ちなみに25寶に絞ったのは《周易》の大衍天数に因んでのことだそうです。乾隆帝らしいっちゃ乾隆帝らしいですね。
 で、この時整理された寶璽は《大清會典》にまとめっています。各寶璽の頭には筆者:宣和堂が確認の意味で番号振ってます。

御寳、先期知㑹內務府、轉行宮殿監。至期學士率典籍官、赴乾清門驗用如遇。行幸駐驆以內務府總管一人監視之。交泰殿御寳二十有五
①「大清受命之寳」以章皇序(白玉、方四寸四分、厚一寸。盤龍紐、髙二寸。)、
②「皇帝奉天之寳」以章奉若(碧玉、方四寸四分、厚一寸一分。盤龍紐、髙三寸五分。)、
③「大清嗣天子寳」以章繼繩(金、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸七分。)、
④「皇帝之寳」以布詔赦(青玉、方三寸九分、厚一寸。交龍紐、髙二寸一分。)、
⑤「皇帝之寳」以肅法駕(栴檀香木、方四寸八分、厚一寸八分。盤龍紐、髙三寸五分。)、
⑥「天子之寳」以祀百神(白玉、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸三分。)、
⑦「皇帝尊親之寳」以薦徽號(白玉、方二寸一分、厚七分。盤龍紐、髙一寸三分。)、
⑧「皇帝親親之寳」以展宗盟(白玉、方二寸二分、厚一寸二分。交龍紐、髙一寸二分。)、
⑨「皇帝行寳」以頒錫賚(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸五分。)、
⑩「皇帝信寳」以徴戎伍(白玉、方三寸三分、厚六分。交龍紐、髙一寸六分。)、
⑪「天子行寳」以册外蠻(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸三分。)、
⑫「天子信寳」以命殊方(青玉、方三寸八分、厚一寸三分。交龍紐、髙一寸七分。)、
⑬「敬天勤民之寳」以飭覲吏(白玉、方三寸一分、厚一寸五分。交龍紐、髙一寸七分。)、
⑭「制誥之寳」以諭臣僚(青玉、方四寸、厚二寸。交龍紐、髙二寸七分。)、
⑮「勅命之寳」以鈐誥勅(碧玉、方三寸五分、厚一寸三分。交龍紐、髙一寸八分。)、
⑯「垂訓之寳」以揚國憲(碧玉、方四寸、厚一寸五分。交龍紐、髙二寸。)、
⑰「命徳之寳」以奬忠良(青玉、方四寸、厚一寸四分。交龍紐、髙二寸一分。)、
⑱「欽文之璽」以重文教(墨玉、方三寸六分、厚一寸五分。交龍紐、髙一寸六分。)、
⑲「表章經史之寳」以崇古訓(碧玉、方四寸七分、厚二寸一分。交龍紐、髙二寸二分。)、
⑳「廵狩天下之寳」以從省方(青玉、方四寸七分、厚二寸。交龍紐、髙二寸五分。)、
㉑「討罪安民之寳」以張征伐(青玉、方四寸八分、厚二寸。交龍紐、髙二寸五分。)、
㉒「制馭六師之寳」以整戎行(墨玉、方五寸三分、厚一寸四分。交龍紐、髙二寸二分。)、
㉓「勅正萬邦之寳」以誥外國(青玉、方三寸八分、厚一寸五分。盤龍紐、髙二寸三分。)、
㉔「勅正萬民之寳」以誥四方(青玉、方四寸一分、厚一寸五分。交龍紐、髙二寸。)、
㉕「廣運之寳」以謹封識(墨玉、方六寸、厚二寸一分。交龍紐、髙二寸。)iv
盛京尊藏御寳十
①「大清受命之寳」(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸四分。)、
②「皇帝之寳」(青玉、方四寸八分、厚一寸九分。交龍紐、髙二寸七分)、
③「皇帝之寳」(碧玉、方五寸、厚一寸八分。盤龍紐、髙三寸)、
④「皇帝之寳」(栴檀香木、方三寸八分、厚六分。素紐、髙五分。)、
⑤「奉天之寳」(金、方三寸七分、厚九分。交龍紐、髙二寸。)、
⑥「天子之寳」(金、方三寸七分、厚九分。交龍紐、髙二寸。)、
⑦「奉天法祖親賢愛民」(碧玉、方四寸九分、厚一十五分。交龍紐、髙二寸。)、
⑧「丹符出騐四方」(青玉、方四寸七分、厚二寸。交龍紐、髙二寸二分)、
⑨「勅命之寳」(青玉、方三寸七分、厚一寸八分。交龍紐、髙二寸五分。)、
⑩「廣運之寳」(金、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸五分)。v

 
 今回の主題である「制誥之寶」は交泰殿二十五寶に含まれていて、14番目にリストアップされています。なんとも微妙な順位ですね…vi

〈han i boohai/皇帝之寶〉(《皇父摄政王以疾上宾哀诏》⇒《大清图典》2巻P.161)


 で、交泰殿二十五寶乾隆11(1746)年に制定された後に、乾隆13(1748)年に印文の様式を整えて刷新されています。

(乾隆十三年九月癸亥=十二日)伏讀〈御製盛京賦〉。(中略)唯篆體雖舊有之。而未詳備。寶璽印章。尚用本字。朕稽古之暇。指授臣工。肇爲各體篆文。儒臣廣搜載籍。援据古法。成三十二類。vii

 乾隆帝乾隆13(1748)年、〈盛京賦〉という賦を詠んだ時に、なんだか思いついてしまったようですね。清文満文の書体を篆書にすることを何やら思いついて32種類も制定してしまったようです。ほとんど〈御製盛京賦〉にしか使用されなかったようですが…viii。ついでに、今使ってる寶璽があんまりかっこよくないので、この際かっこいいのを作り直そう!ってことになったようです。

番号玉璽漢印文玉璽満印文材質1辺厚さ紐式高さ使用分野
1大清受命之寶abkai hesei aliha daicing gurun i boobai白玉4.4寸1.0寸蟠龍紐2.0寸皇序を章らかにする
2皇帝奉天之寶han i abaka de jafara boobai碧玉4.4寸1.1寸蟠龍紐3.5寸奉若を章らかにする
3大清嗣天子寶daicing gugun I siraha abkai jui boobai2.4寸0.8寸交龍紐1.7寸継縄を章らかにする
4皇帝之寶han i boobai青玉3.9寸1.0寸交龍紐2.1寸詔勅を布く
5皇帝之寶han i boobai栴檀香木4.8寸1.7寸蟠龍紐3.5寸法駕を粛しむ
6天子之寶abkai jui i boobai白玉2.4寸0.6寸交龍紐1.3寸百神を祀る
7皇帝尊親之寶han i niyaman be wesihulere boobai白玉2.1寸0.6寸蟠龍紐1.3寸徴号を薦める
8皇帝親親之寶han i niyaman be niyamalara boobai白玉2.2寸1.1寸交龍紐1.2寸宗盟を展べる
9皇帝行寶han i yabubure boobai碧玉4.8寸1.8寸蹲龍紐2.5寸錫賚を頒する
10皇帝信寶han i akdun boobai白玉3.3寸0.5寸交龍紐1.6寸戎伍を徴する
11天子行寶abkai jui i yabubure boobai碧玉4.8寸1.8寸交龍紐2.3寸外蛮を冊する
12天子信寶abkai jui i akbun boobai青玉3.3寸1.2寸交龍紐1.7寸殊方を命ずる
13敬天勤民之寶abka de ginggulere irgen be gosire boobai白玉3.1寸1.4寸交龍紐1.7寸覲吏を飭する
14制誥之寶hese wasimbure boobai青玉4.0寸1.9寸交龍紐2.7寸臣僚を諭す
15敕命之寶hesei tacibure boobai碧玉3.5寸1.1寸交龍紐1.8寸誥敕を鈐す
16垂訓之寶tacibure be wesire boobai碧玉4.0寸1.4寸交龍紐2.0寸国憲を揚げる
17命德之寶hesebuhe erdemui boobai青玉4.0寸1.3寸交龍紐2.1寸忠良を獎める
18欽文之璽bithe be ginggulere boobai墨玉3.6寸1.4寸交龍紐1.6寸文教を重じる
19表章經史之寶nomun suduri be temgetulere boobai碧玉4.7寸2.0寸交龍紐2.2寸古訓を崇める
20巡狩天下之寶abkai rejergi be šurdeme baicara boobai青玉4.7寸1.9寸交龍紐2.5寸省方を従える
21討罪安民之寶weilengge be dailara irgen be elhe obure boobai青玉4.8寸1.9寸交龍紐2.5寸征伐を張る
22制馭六師之寶gubcingge cooha be uheri kabalara boobai墨玉5.3寸1.3寸交龍紐2.2寸戎行を整える
23敕正萬邦之寶tumen gurun be tacibume tob obure boobai青玉4.1寸1.4寸蟠龍紐2.3寸外国を誥する
24敕正萬民之寶tumen irgen be tacibume tob obure boobai青玉3.9寸1.4寸交龍紐2.0寸四方を誥する
25廣運之寶forgen be badarambure boobai墨玉6.0寸2.0寸蟠龍紐3.0寸封識を謹むix

 で、思い立ったが吉日で、その6日後には寶璽についての諭旨を出しています。

(乾隆十三年九月己巳=十八日)諭、國朝寶璽。朕依次排定。其數二十有五。印文向兼清漢。漢文皆用篆體。清文則有專用篆體者。亦有即用本字者。今國書經朕指授篆法。宜用之於國寶。內青玉皇帝之寶。本係清字篆文。乃太宗時所貽。自是以上四寶。均先代相承。傳為世守者。不宜輕易。其檀香皇帝之寶以下二十一寶。則朝儀綸綍所常用者。宜從新定清文篆體。一律改鐫。該衙門知道。x

 玉璽の印文は上四つの「大清受命之寳」、「皇帝奉天之寳」、「大清嗣天子寳」、青玉製の「皇帝之寳」はそのままにして、その他の21寶璽については満漢合璧で統一され、清文満文については乾隆帝直々の”指導”を経た篆刻で作成されたようですxi。で、寶璽が一律刷新されたことを関連省庁に伝達した…と言うことで、元の寶璽はこのときに棄却でもされたモノか、行方はわからないようですね。

番号玉璽漢印文書体材質1辺厚さ紐式高さ
1大清受命之寳〔満楷書体〕碧玉4.8寸1.9寸蹲龍紐2.4寸
2皇帝之寳〔満璽書体〕青玉4.8寸1.9寸交龍紐2.7寸
3皇帝之寳〔満璽書体〕碧玉5.0寸1.8寸交龍紐3.0寸
4皇帝之寳満璽書体栴檀香木3.8寸0.6寸交龍紐0.5寸
5奉天之寳満璽書体3.7寸0.9寸交龍紐2.0寸
6天子之寳満璽書体3.7寸0.9寸素龍紐2.0寸
7奉天法祖親賢愛民満楷・漢篆碧玉4.9寸1.5寸交龍紐2.0寸
8丹符出驗四方満楷・漢篆青玉4.7寸2.0寸交龍紐2.2寸
9敕命之寶満楷・漢篆青玉3.7寸1.8寸交龍紐2.5寸
10廣運之寶漢篆書体2.4寸0.8寸交龍紐1.5寸 xii

 で、漢語Wikipediaの清朝玉玺传国玺と言う項やその他ネット記事xiiiによると、「大元伝国の璽」である「制誥之寶」は、これ以前に乾隆帝によって贋作と認定されて、この交泰殿二十五寶からは漏れていたとされています。で、二十五寶の選から漏れた、旧来使われていた寶璽については盛京に送られた…とされています。
 後々、交泰殿二十五寶に含まれていた「制誥之寶」は盛京十寶の「丹符出騐四方」と入れ替わって、以後「制誥之寶」は盛京十寶に含まれる…とあるんですが、自分が確認した範囲ではそういう事実はなさそうですね…。
 嘉慶11(1806)年に完成した《國朝宮史續編》巻23 典禮17 冊寶1に挙げられている御定交泰殿二十五寶は《乾隆會典》と内容に変更はありませんxiv。《清史稿》巻104志79輿服3 皇帝御寶も確認しましたが、内容については《乾隆會典》と変わりがありません(漢字の異同があるくらい)…ので、ちょっと根拠がわかりませんねぇ。
 どっちにしろ、交泰殿二十五寶盛京十寶の制定以降「制誥之寶」オリジナルの行方はわからなくなるようです…。

 ちなみに、ネット記事ではその後、義和団事件からの八カ国聯合軍北京進駐の際に、東北三省ロシア軍が進駐したので盛京十寶避暑山荘に移され、民国成立後に古物陳列所(故宮博物院の前身。咸安殿跡地の武英殿近辺にあった)に移送されたことになっています。イヤに具体的なのでちょっと気になりますねぇ。


 と、ここでもう一つの崇徳マジックアイテムマハーカーラ像についてです。

(天聰八年十二月丁酉= 十五日)是日、墨爾根喇嘛、載護法嘛哈噶喇佛像至。初元世祖時、有帕斯八喇嘛、用千金、鑄護法嘛哈噶喇像、奉祀於五臺山。後請移於蒙古薩思遐地方。又有沙爾巴胡土克圖喇嘛、復移於元裔察哈爾國祀之。墨爾根喇嘛、見皇上威德遐敷。臣服諸國。旌旗西指。察哈爾汗不戰自遁。知天運已歸我國。於是載佛像來歸。上遣畢禮克圖囊蘇、迎至盛京。xv

 と言うことで、實録検索すると、マハーカーラ像については天聰8(1634)年に記述があります。シャルマ・ホトクト・ラマによってチャハルに招来されたマハーカーラ像を、メルゲン・ラマと言う人がホンタイジに献上した…と言う記事デス。
 「制誥之寶」獲得より9ヶ月前の記事ですが、メルゲン・ラマが「天運が清朝に帰した」ことを知って、マーハーカーラ像を献上しに来たようです。順番としてはマハーカーラ像⇒「制誥之寶」ですが、即位時の比重は「制誥之寶」>マハーカーラ像だったんではないでしょうか…。

 と、その翌々年、天聰10(1636)年、ようやっとマハーカーラ像を安置する仏寺の創建が命じられます。同時にリンダン・ハーンが敬ったという、故シャルマ・ホトクト・ラマの骸も寺中に奉納したようですから、リンダン・ハーンの慰霊でもしているようですね。

( 天聰十年正月壬子=六日)上命備陳諸祭物、祀嘛哈噶喇佛於佛寺內。又以已故沙爾巴胡土克圖、自孟庫地方送佛像至。命造銀塔一座、塗以金、藏其骸骨於塔中。置佛殿左側。禮祀之。時奉佛之鞏格林臣喇嘛、阿木出特喇嘛、獻駝馬。俱卻之。xvi

 で、その2年後の崇徳3(1638)年、マハーカーラ像奉納のために作られた、実勝寺が落成します。

(崇德三年八月)壬寅(十二日)。實勝寺工成。先是上征察哈爾國時。察哈爾汗懼、出奔圖白忒部落。至打草灘而卒。其國人咸來歸順。有墨爾根喇嘛、載古帕斯八喇嘛所供嘛哈噶喇佛至。上命於盛京城西三里外、建寺供之。至是告成。賜名實勝寺。鑄鐘、重千觔。懸於寺內。東西建石碑二。東一碑、前鐫滿洲字。後鐫漢字。西一碑、前鐫蒙古字。後鐫圖白忒字。碑文云。

「幽谷無私、有至斯響。洪鐘虛受、無來不應。而况於法身圓對、規矩冥立。一音稱物、宮商潛運。故如來利見迦維。託生王室。憑五衍之軾、拯溺逝川。開八正之門、大庇交喪。於是元關幽鍵、感而遂通。遙源濬波、酌而不竭。既而方廣東被、教肄南移。周魯二莊、同昭夜景之鑒。漢晉兩明、並勒丹青之飾。自茲遺文間出。列剎相望。其來蓋亦遠矣。至大元世祖時。有喇嘛帕斯八。用千金鑄護法嘛哈噶喇、奉祀於五臺山。後請移於沙漠。又有喇嘛沙爾巴胡土克圖、復移於大元裔察哈爾林丹汗國。祀之。我大清國寬溫仁聖皇帝、征破其國。人民咸歸。時有喇嘛墨爾根、載佛像而來。上聞之、乃命眾喇嘛往迎、以禮舁至盛京西郊。因曰。有護法、不可無大聖。猶之乎有大聖、不可無護法也。乃命工部、卜地建寺於城西三里許。搆大殿五楹。裝塑西方佛像三尊。左右列阿難、迦葉、無量壽、蓮華生、八大菩薩。十八羅漢。繪四怛的喇佛城於棚廠。又陳設尊勝塔。菩薩塔。供佛金華嚴世界。具上嵌東珠。又有須彌山七寶八物。及金壺金鐘金銀器皿俱全。東西廡各三楹。東藏如來一百八龕託生畫像。并諸品經卷。西供嘛哈噶喇。前天王殿三楹。外山門三楹。至於僧寮、禪寶、廚舍、鐘鼓音樂之類、悉為之備。營於崇德元年丙子歲孟秋、至崇德三年戊寅歲告成。名曰。蓮華淨土實勝寺。殿宇弘麗。塑像巍峩。層軒延袤。永奉神居。豈惟寒暑調、雨暘若、受一時之福利。將世彌積而功宣。身逾遠而名劭。行將垂示於無窮矣。大清崇德三年戊寅秋八月吉旦立。國史院大學士剛林撰滿文。學士羅繡錦譯漢文。弘文院大學士希福譯蒙古文。道木藏古式譯圖白忒文。筆帖式赫德書。」

上率內外諸王、貝勒、貝子、文武眾官、出懷遠門、幸實勝寺xvii

 碑文の内容についてはリンダン・ハーンというか同時代のチャハルと比較して、チベット仏教への理解度が低いと『清朝とチベット仏教』では指摘されていますがxviii、ともあれ実勝寺が創建されて、マハーカーラ像が奉納されます。


 と、その後のマハーカーラ像ですが、やはり清朝を通じて盛京こと瀋陽実勝寺から動かなかったようです。かつ、1946年までは同地に安置されていたことが、漢語Wikipedia实胜寺の項から確認できます。これによると、1946年、国民党政権時代にマハーカーラ像は盗難され、続いて発生した火災によって、少なくとも大殿嘛哈噶喇樓は焼失したようです。と言うわけで、現在残っている瑪哈噶喇樓は1984年までに再建された建築のようです。
 また、検索すると、去年1月にマハーカーラの金仏が作られてxix、更に今月奉納祭りが再現されたようですxx。ネットの記事を読むに、”2016年,在信众襄助下,按照历史原样重塑了玛哈噶喇金佛,重六十四斤二两的珍贵金佛在西藏大昭寺等寺院举行加持、开光、装藏等仪式后,于2016年1月10日,被重新供奉在实胜寺。”とありますが、按照历史原样重塑了玛哈噶喇金佛と言うのがどの程度残っていた史料があるのか、どんな史料を元に再現したのかも…については記述がありませんね…ちょっと謎です。しかし、勝手にマハーカーラ像は等身大仏像だと思い込んでいた自分にとっては、このサイズ感はなかなか衝撃的でした。なるほど、これならチャハルから逃げてきても携帯できそうですね…。

实胜寺玛哈噶喇楼(《大清图典》1巻P.226)


 と言うわけで、リンダン・ハーンの遺産たるホンタイジのマジックアイテムは「制誥之寶」もマハーカーラ像も現在までに行方不明になっていると言うことがわかった次第です。

参考文献:
片岡一忠『中国官印制度研究』東方書店
石濱裕美子『早稲田大学学術叢書 清朝とチベット仏教 ─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部

  1. 《大清太宗文皇帝實録》巻24
  2. 《大清太宗文皇帝實録》巻28
  3. 《大清世宗憲皇帝實録》巻89
  4. 漢文満文の有無など詳しいことは国家清史纂修工程 中華文史網交泰殿二十五玺参照。また、印文の画像は同サイトのこちらの記事を参照のこと⇒清二十五宝玺(一) 清二十五宝玺(二) 清二十五宝玺(三)
  5. 《四庫全書》本 乾隆《大清會典》巻2
  6. 「制誥之寶」の信憑性についてはこんな記事も⇒皇太极所得“传国玉玺”考绎
  7. 《高宗純皇帝實録》巻324
  8. ⇒この辺は《皇朝通志》巻12 六書畧2 清篆を参照のこと。
  9. 交泰殿二十五寶:『中国官印制度研究』P.289~291
  10. 《高宗純皇帝實録》巻325
  11. ちなみに、親王以下の印璽についてもこの時に刷新された模様⇒(乾隆十三年十一月戊寅=二十八日)大學士等奏。寶印改刻清篆。臣等業遵篆法、擬文呈覽。已蒙訓定。查親王金寶。郡王金印。惟在各府尊奉。向無鈐用之處。交該衙門、行令諸王、各將寶印送禮部、照式改刻。朝鮮國金印。應襲封時、另換鑄給。內外文武衙門印信。請先改鑄內部、院、領侍衛內大臣、八旗都統、外督、撫、藩、臬、將軍、都統、提、鎮。餘依次改鑄。從之。←《高宗純皇帝實録》巻329
  12. 盛京十寶:『中国官印制度研究』P.288
  13. 盛京十寶與晚清禦寶(圖)
  14. ②「皇帝奉天之寶」が「皇帝奉命之寶」になっているくらい
  15. 《太宗文皇帝實録》巻21
  16. 《太宗文皇帝實録》巻27
  17. 《太宗文皇帝實録》巻43
  18. 『清朝とチベット仏教』P.34
  19. 遗失国宝级“大黑天”金佛像重铸再现沈阳实胜寺
  20. 风直播|难得一见!沈阳皇寺玛哈噶喇金刚法舞第二届沈阳皇寺抬佛节启幕:玛哈噶喇金佛驾临

ハルハの8ジャサク

$
0
0

 さて、こないだまとめたハルハに関する文章でスッカリ忘れ去っていたのが8ジャサクです。8ジャサクってなんじゃろかい…と調べてみると、順治12(1655)年に定められたとされる、ハルハ部清朝の交渉窓口とされたハルハの8人の王公です。

(順治十二年十一月)辛丑(二十一日)。喀爾喀部落土謝圖汗下、喇嘛塔爾、達爾漢諾顏等。遣使貢馬宴賚如例。初定例。喀爾喀部落土謝圖汗車臣汗丹津喇嘛墨爾根諾顏畢席勒爾圖汗魯卜藏諾顏車臣濟農坤都倫陀音、此八札薩克每歲進貢白駝各一。白馬各八謂之九白年貢我朝賞每札薩克、銀茶筒各一重三十兩。銀盆各一。緞各三十。青布各七十。以答之。至是土謝圖汗、丹津喇嘛、車臣汗、墨爾根諾顏、各遣使遵例進貢賞賚如例並賜宴。i

 と言うわけで、モンゴルでは割と数字はキリのいい数字だったりして内実が伴わない場合が多いようですが(四天王とか二十八将の類い)、8ジャサクについては上に引用したように実録に記述があります。数えていきますと…

①:トゥシェート・ハーン
②:セツェン(チェチェン)・ハーン
③:ダンチン・ラマ、④:メルゲン・ノヤン
⑤:ビシルレト・ハーン(=ジャサクト・ハーン)
⑥:ロブサン・ノヤン(=エリチン・ロブサン・タイジ)
⑦:セツェン(チェチェン)・ノヤン
⑧:フンドゥレン(クンドゥレン)・トイン

…ということになります。
 この辺誰が誰やら…と言うことになりますので、最近読んだ論文を元に整理します。
 まず、外ハルハ七旗ハルハと呼ばれる集団はモンゴルを再編したダヤン・ハーンの第十一子・ゲレセンジュの子孫です。7人の嫡子がそれぞれ部族を従えたので、7旗ハルハ7ホショーハルハの別名があります。実際にはゲレセンジュの第五子・ダライは無嗣断絶していますが、その後も大体7つの集団に分かれていたようです。
 まず、七つに分かれながら緩やかに連合していたハルハは大きく右翼左翼に分かれますが、右翼(西側)には長子・アシハイ、次子・ノヤンダラ、五子・ダライ、六子・ダルダン、七子・サモの子孫、左翼(東側)には三子・ノーノホ、四子・アミン・ドラールの子孫が配されます。各当主の麾下には当然モンゴル以外の部族もいますし、モンゴルの中でもボルジキン氏族だけではないわけですが、政治的な決定権を持つ支配層はゲレセンジュの子孫の家系図に収まってしまうってことですね。

 まず右翼です。右翼左翼の放牧地は、基本的に右翼が西、左翼が東なので、清朝との関わりは左翼より後になります。
 1:右翼ハーン家左翼アバタイ・ハーンがハーンを称した後、アシハイの孫であるライホル・ハーン右翼内のまとめ役としてハーンを名乗って白樺法典制定の会盟を主催しました。この家系は代々ハーンを排出して、ジャサクト・ハーン家となります。8ジャサク選定の時には④:ビシルレト・ハーンこと、ジャサクト・ハーン・ノルブの代になっています。
 2:右翼ホンタイジ家⇒この時代のハルハは左右翼に分かれ、それぞれハーン家ホンタイジ家ジノン家が重層的な権威を主張していたようです。ホンタイジ号ハーン号よりは権威が劣りますが、漢語皇太子が語源にもかかわらず、ハーンを補佐する副王の意味で使われます。ハルハ右翼ハーンジャサクト・ハーン家ですが、アシハイの子孫のなかでハーン家とはまた別の枝族がホンタイジ家になります。8ジャサクの任命以前、ホンタイジ家からはウバシ・ホンタイジが出てオイラトを制圧し、オイラトハーンとしてアルタン・ハーン(トゥメト部のアルタン・ハーンとは別のハルハのアルタン・ハーン)と名乗ったようで、オイラトと交流のあったロシアに残っている文書にはアルタン・ツァーリとして記されているようです。つまり、ややこしいことに、ハルハの王公としてはホンタイジですが、オイラトに対してはハーンとして君臨したようです。ウバシ・ホンタイジは結局オイラトの反抗にあって打たれますが、子のバトマ・エルデニ・ホンタイジ清朝の記録ではオムブ・エルデニテンギス事件ではハルハ右翼の交渉窓口として記録に頻出します。8ジャサクの時代はオムブ・エルデニの子である⑥:エリチン・ロブサン・タイジの代です。が、後にジャサクト・ハーンを殺害してオイラトに逃げ、また戻った後に追放されたりと、複雑な動きをする家です。
 3:右翼ジノン家ゲレセンジュの第二子・ノヤンタイの家系です。この家がハーン家ホンタイジ家に次ぐハルハ右翼ジノン家です。8ジャサクの時代は⑦:セツェン・ジノン(セツェン・ノヤン)・ドルジの代です。ジノン号は直系子孫に世襲されずに、本家セツェン・ジノン家と分家エルデニ・ジノン家で交互に交代して就位したようです。
 4:更に、セレゲンジュの第六子の家系の⑧:フンドゥレン(クンドゥレン)・トイン・ダムバ8ジャサクに選ばれています。

 続いて左翼ですね。チャハルの滅亡から清朝と使節を交わしますが、順治年間に入ってテンギス事件から本格的に清朝と交渉を開始する…と言ったイメージでしょうかね。
 5:まず、左翼の本家ハーン家です。ゲレセンジュ第三子のノーノホ長子のアバタイチベット仏教…というかゲルク派ダライ・ラマ3世に帰依して、オチル・ハーンの称号を与えられます。チンギス嫡流の名乗るハーン号ではなく、ダライ・ラマ承認のハーン号ハルハ部で初めて称したのが、このアバタイ・ハーンです(理屈はトゥメトのアルタン・ハーンと同じ)。以後、この家系は代々ハーンを名乗り、トゥシェート・ハーン家となります。8ジャサクの時代は①:トゥシェート・ハーン・チャホンドルジの代です。
 6:で、左翼についてはホンタイジ家についてはよくわかりませんが、ゲレセンジュ第四子アミン・ドラールの家系…つまり、セツェン・ハーン家は元々はジノンだったようです。と言うのも、セツェン・ハーン・ショロイは元々はダライ・ジノンと呼ばれており、チャハル滅亡後にその遺衆を摂取した際、ハーン即位を薦める者がいて、トゥシェート・ハーンの承認を得た上でハーン位についたようです。どこかで聞いたような話ですね…清朝ホンタイジが即位した状況とよく似ています。更にホンタイジ天聰年間はスレ・ハンモンゴル語セツェン・ハーンと名乗っていますから、やり口からハーン号まで丸かぶりです。と、清朝と色々因縁があった家ですが、8ジャサクの時代はショロイの子、②:セツェン・ハーン・バボの代です。
 7:ゲレセンジュ第三子ノーノホ第二子の家系がメルゲン・ノヤン号を代々受け継ぎ、8ジャサクの時代は④:メルゲン・ノヤン・ソノムの代になります。
 8:ゲレセンジュ第三子ノーノホ第四子の家系は後のサイン・ノヤン家となりますが、8ジャサクの時代は③:ダンチン・ラマの代です。この人もテンギス事件の時に良く名前が出てきます。

 と、言うわけで、乱暴にまとめると右翼ゲレセンジュ長子・次子の子孫を中心とするグループ、左翼ゲレセンジュ三子・四子の子孫を中心とするグループと言えると思います。順治年間清朝ハルハとの交渉ではこの八家…というか右翼トゥシェート・ハーン・グムブセツェン・ハーン・ショロイダンチン・ラマ左翼ジャサクト・ハーン・スバンタイオムブ・エルデニと、印象の薄いメルゲン・ノヤンの6名の名前が繰り返し出てきます。ひとまずは、ハルハの支配層を交渉窓口・8ジャサクとして清朝が承認した…というのは
 ともあれ、左右翼に分裂しているにせよ、ダヤン・ハーンの時代に分枝した他部族よりはハルハとして緩やかにまとまっている印象は受けます。しかし、清朝との交渉の経緯などを見るに、いざというときは3ハーンを中心にしたグループがそれぞれバラバラに個別の窓口と交渉しているような印象があります。セツェン・ハーンと話がついたと思ったらトゥシェート・ハーン麾下が問題を起こし、ハルハ左翼と話がついたと思ったらハルハ右翼が問題を起こすといった具合ですね。
 ともあれ、8ジャサクの任命を清朝によるハルハ支配の端緒とする論調はちょっと違うんじゃないかと思った次第。多分、3ハーン家から推挙のあった交渉窓口を清朝が追認したに過ぎないんじゃないかと。やはり、ジューンガルの侵攻でハルハが瓦解するまでは、まだまだハルハは独自性が高いってことですね。
 と言うわけで、自分の関心が清朝初期の対ハルハ政策にあったり、そもそも残っている史料が清朝側の分量が圧倒的に多い状況なので、ハルハ目線の記事にはなっていませんので、その辺はご注意を。

 文章だけだとわかりにくかったので、勝手にまとめた系図です。多分勘違いがあると思いますが、とりあえず参考までに置いておきます。

8ジャサク系図

◇参考文献◇
前野利衣「ジノンの地位とその継承過程からみた17世紀ハルハ右翼の三核構造」『内陸アジア史研究』第32号
岡洋樹『清代モンゴル盟旗制度の研究』東方書店
二木博史「白樺法典について」『アジア・アフリカ言語文化研究 (Journal of Asian and African Studies)』21号

  1. 《大清世祖章皇帝實録》巻95

喇嘛の奇薬

$
0
0

 と言うわけで、中野江漢『北京繁昌記』東方書店 をパラパラ捲っていたら、なんだか酷い内容だけど面白い記事を見つけたのでメモ。


 と言うわけで、まずは引用です。

 清朝に興国の淫婦と亡国の妖婦とがあり、清は淫に興り淫に終わったといってもよい。亡国の妖婦はかの西太后で、興国の淫婦とは、太宗〔清朝第二代の皇帝、ホンタイジ。在位一六二七~四三年〕の后、順治帝の母、博爾済〔フルチ〕氏即ち孝荘文皇后である。后は天成の妖艶に加え巧笑柔媚〔こびるように笑い、なまめかしい〕以て鬼神を魅するに足り、肌膚玉のごとかりしとて、宮中にては「玉妃」の称があった。明の洪承疇(明朝北部総司令官で、崇徳二年〔一六三七年〕盛京松山の戦いに敗れて捕虜となり、獄中において絶食して不屈の決心を示していた)を閨中に説いて清に降らしめ、愛新覚羅氏〔清朝の皇室〕のために三百年の運命を開拓したスタートとなったことは、清朝興亡史を繙く者の誰も知っていることである。伝うるところによれば、玉妃には「蟲術」という術があって、毎夜よく十男を御せられたという。太宗皇太極〔ホンタイジ〕が兵を外に用いて不在がちなるを幸い、玉妃は布囲いの車に美少年を載せて宮中に引き入れたということである。晋の賈后〔?~三〇〇年。恵帝の皇后〕、日本の吉田御殿〔徳川秀忠の長女、千姫の故事〕を合わせた好三幅の乱行である。i

 この記事の前に中野江漢も『雑書を漁って』と書いてますけど、まぁゴシップばっかりで酷いですね…。孝荘文皇后ホルチン出身のボルジギト氏…清朝の刊行物では博爾濟吉特氏ですから、基本情報からして信用度がガタ落ちなんですがこれは…。
 あと、孝荘文皇后の通称を玉妃としていますが、孝荘文皇后の本名を大玉兒としていた《清宮十三朝演義》は民国15(1925)年で、中野江漢が『北京繁昌記』を書いたのは大正11(1922)年なので、《清宮十三朝演義》が成立する前から孝荘文皇后を玉なんとかという名前だとする説があったようですね。こういうのも興味深いです。
 あと、洪承疇孝荘文皇后に色仕掛けで籠絡されたというのは何が元ネタなんですかねぇ…。《清宮十三朝演義》をちょっと見てみましょう。
 捕虜にされた洪承疇をなんとか投降させようとしますが、金品では洪承疇は釣れません。それどころか、洪承疇は投降を拒んで絶食に入ります。ドドが彼の書童を自宅に招いて侍女を使って聞き出したところ、洪承疇は他のことでは動かないモノの好色という弱みがあることが判明します。ホンタイジはこれを聞くと早速漢人の美人を四人選んで洪承疇の元に送りますが、洪承疇は見ようともせず追い返します。孝荘文皇后は婢を何人連れて行ったところで洪承疇の眼鏡には適わないだろうとして、自分が洪承疇を直接説得することを提案します。ホンタイジは秘密が守れるのであれば手段は問わないと許可を出します。
 絶食を開始して五日経った時、洪承疇が幽閉されている屋敷に一人の女人が現れます。訝って目も開けない洪承疇に、女人は死にたいなら楽に死ねるように毒をさし上げましょうと持ちかけます。毒と聞いてようやく目を開いた洪承疇は女人の持つ毒酒を奪って飲み干したものの、女人に床に寝かされて家族構成について質問され、死んだら家族はどうなる?と諭されると洪承疇は声を上げて泣き出します。女人は「毒薬を飲んだのに何で死なないとお思いで?」と笑いかけ、実は絶食している洪承疇の養生のために朝鮮人参のスープを飲ませたと明かします。女人は洪承疇にここで死ぬよりは清朝に投降した方が良い理由を理路整然と説明しますが、洪承疇は女人を追い払おうとします。そこで、女人が持参した満漢合璧の印璽を洪承疇に見せると、満文の横に漢字で「永福宮之寶璽」と掘ってありました。ようやく、洪承疇は女人が関外一の美人と名高い孝荘文皇后であることを知って恐れ入って非礼を詫びて…で、なんか急に接近した二人は朝チュンしてるんですね…。翌朝洪承疇が起きると昨日の女人は床から消えていました。ついに洪承疇は先にホンタイジから送られた四美女の用意した水で顔を洗って、同じく用意した朝食のお粥を平らげ、やってきた諸王の説得を受けて辮髪を結ってホンタイジに帰順した…と、大体そんな感じの話が書いてあります。孝荘文皇后洪承疇を色仕掛けで籠絡したという逸話は、この頃には形成されていたってことでしょうね。それはそうと、洪承疇の牢獄に美男子が送られて籠絡されたっていうバージョンもどこが元ネタなんですかねぇ…。
 引用を続けます。

 当時太宗の母弟に睿親王多爾袞〔ドルゴン。一六一二~五〇年〕という人があった。排行〔一族の同一世代における年齢による序列〕第九番目に当たるので、九王とも称する。太宗の突如たる崩御とともに皇位継承問題が起こった時、九王は第一候補者であったが、孝荘文皇后の色仕掛けに遭い、閨帳裏〔ねやのうち〕の夢の間に、当年六歳の福臨王(順治帝)が皇位を嗣いだ。九王はその後摂政となりてますます醜聞あり、ついには「皇太后降嫁」の詔が発せらるるに至った。太后といえば天子の母である。天子の母が降嫁せられたということは、中国史上未曾有の破例である。この詔書は明の降臣で詩人銭謙益の筆になり、実に典麗荘重を極めたものである。その略に曰く、

朕天下を以て養うと雖も、而も太后春秋鼎盛〔人生真盛り〕なり、孑焉〔孤独なさま〕として偶〔配偶者〕なくんば、春花秋月悄然として怡こばざらむ。今以うに、皇叔摂政王は、周室の懿親〔近親〕、元勲の貴冑〔高貴な子孫〕なり、克く徽音〔名誉〕に配せば、永く休美〔幸福〕を承けむ。(云々)

 爾来九王は「皇父」と尊称せられた。玉妃、大詔により天下晴れて降嫁し、九王はその限り寵眷に浴し、一人を以て独りその衝に当たり、精力を竭くして玉妃に媚び、余勇を鼓しまた私かに宮女を漁した。さしもの九王も荒淫度なかりしため三十六、七になってから力支うること能わず、人参、鹿茸〔鹿の角を干したもの〕、膃肭臍等のあらゆる捕剤を用いたが著しき効果もなく、日一日と衰弱して行くばかりであった。ii

 ドルゴンの通称を九王というのは、『韃靼漂流記』にも見えますから(正確には”キウワンス”ですが)、当時ドルゴンはこう呼ばれていたようです。この辺がなんだかこの記事面白いんですよね。
 で、孝荘文皇后に籠絡されて皇位を諦めたドルゴン皇后降嫁をのんだと言うことになっているわけですが…。まぁ自分は状況から見て皇后降嫁はなかったと思いますので、この辺はスルーします。で、銭謙益皇太后降嫁の詔書を書いたことになっていて、もっともらしい詔書本文が挙げられているモノの…いや、銭謙益って順治3~5年の間は清朝に帰順していたようですけど、詔書起草できるような地位にいたんでしょうか。それに、その本文を検索してもそれらしい文章が出てきませんね…。この辺は大嘘でしょう。
 ただ、ドルゴンの体力が衰えてたのは好色の故で…というのも、額面通りに受け取れないモノの最晩年になってもホーゲの未亡人娶ったり、朝鮮から子女を娶ったりという状況を考えると、宮女漁りしていたとかなんとかはともかく、当時そういう噂があったとしてもおかしくないでしょうね。この辺モデルになった史実がありそうで侮れないですね…。まぁ、元々ドルゴンは病気がちだったようで、体力が衰えたというのも30後半から始まったことではないでしょうけど。
 引用続けます。

この時に当たって王に一策を献じた好事者があった。「喇嘛西番に在り、さきに興奮薬を以てその術を神にす。今聞くその嚢中に奇薬多し」という意味を白して、これを索めて効験があると薦めた。九王は直ちに使を派し喇嘛僧に向かってこの旨を述ぶると、喇嘛はまず皇父が喇嘛教に帰依し親しくこれを祭るにあらずば、この薬はとうてい求むることができぬと、巧みに持ち掛けたので、九王は直ちに壇を宮中に設けて淫殺の神を祭るようになった。
 この奇薬を得るまでにがなかなか手数を要する。まず壇を設けて牲牢〔いけにえ〕、樽俎〔さかだると供物の台〕、金台、銀盞〔銀のさかずき〕等、つぶさに豊腆〔豊かで手厚い〕を極め、終日鐘、太湖その他の楽器を打ち鳴らして囃し立てる。夜に入ると、神燈を星のごとく輝かし、参列する喇嘛百八人、これが一斉に経を誦して壇を繞る。その間は唱経の声と、楽音とが混和して屋根裏も抜けんばかりである。かくのごとくすること三日三夜、はじめて壇の中央に浄瓶一を置く。瓶の大きさ牛胆のごとく、膠皮紙を以てその口を封固し、紙上に符籙状を載せておく。かくのごとくして喇嘛は経を誦しながら壇を繞ることやや久しくして、柱錫を持って身構えをなし、「イヤッ!」と一声気合いをかけると、色赤くして丹砂〔水銀と硫黄の化合物〕に似たる小粒が二つ現るる。それが喇嘛の奇薬で、名づけて「子母丸」、または「阿肌蔵丸」ともいうもので、昔達頼第一世の座牀の時、この丸を以て金瓶の中に置いてこれを第二世に伝え、その後世々伝わっている天下の珍薬である。
 喇嘛はこの薬を九王に示していうには、「この薬はおのずから生息して永久不変である。大功徳の仏縁ある者が経壇を設けて誦呪すること三日、かくて浄瓶の中にこの丸を納め、また謹んで祝すること七日、更に浄室の中に移置すること三七日、かくして初めてその封を啓くと薬が必ず中に満ちている。この丸霊験異常、量を計って用うればいかなる難症もたちどころに全癒する。とうてい人力の配製すべきところでない」と。九王唯々としてその言のごとくにした。そして浄室の内外は日夜厳重に侍臣に守護させ、喇嘛はもちろんのこと、断じて人の出入りと禁じた。かくて期到ると、アナ不思議や丸薬瓶に満ち満ちてその数百余粒に増していた。九王が試みにこれを用ゆるに神采煥発、精力大いに振るったので悦ぶことはなはだしく、半歳ならずしてことごとく飲み尽くしてしまった。それより後一月を経るとまたたちまちにして委頓(衰弱)したので喇嘛を呼んで更にこれを求めんとしたが、今度は喇嘛は断乎として拒絶した。
 その断った理由というのは、この霊薬は「子母」と名づく。母があってこそ始めて子を得ることができる。母までも飲み尽くしてしまえばいかに壇を設け法をなすといえども効なし。その母薬は今一個西藏なる達頼法王の庫内にあるのみである。西藏までの往復は一年を要するからとうてい間に合わぬといった。九王は強いて喇嘛を出発させたが、その帰らざるうちに身体とみに衰弱してついに馬より墜ちて死んでしまった。iii

 と言うわけで、伝奇小説のような喇嘛の奇薬こと歴代ダライ・ラマ相伝の、何故か勝手に増えるバイアグラの製薬方法の記述が延々と続いています。ドラえもんのバイバインの様に増えすぎてしまって困るオチじゃなくて、増えるよりも早く飲み尽くしてしまった…ってオチなんですね。なんだか、いつの間にか話が孝荘文皇后の乱行からドルゴンの回春話にシフトしてますね…孝荘文皇后はこの薬のことを知っていたのか気になりますが、残念ながら記述はありません。
 あと、ダライ・ラマラマを派遣という話も、順治元年~3年くらいの話なら《世祖章皇帝實録》に記述があるんですよね…。

(順治元年正月10日)遣使偕喇嘛伊拉古克三胡土克圖、往迎達賴喇嘛。仍以書諭厄魯特部落顧實汗知之。iv
(順治3年8月)戊戌(25日)。前遣往達賴喇嘛察罕喇嘛還。達賴喇嘛厄魯特顧實汗等。遣班第達喇嘛達爾漢喇嘛等同來。v

 と言うわけで、バイアグラ欲しさと言うわけではないでしょうけど、ラマは派遣しています。派遣したラマの名前が違うのは、イラグサン・ホトクト順治3年くらいに亡くなったようなので、チャガン・ラマがその後を継いだものと思われます。いずれもチベット文献にも名前が残っているゲルク派の高僧です。それにしても、順治元年正月段階でムクデン(瀋陽)にダライ・ラマ呼ぼうとしてたんすな…。時期を順治6~7年のこととするとしてしまうと嘘になりますが、ドルゴンラマダライ・ラマに派遣した…と言う内容は史実ではあるんですよね…。
 更に言えば、ドルゴンの死因を体が衰弱して落馬したとしていますけど、これも概ね史実通りですね。
 と言うわけで、かなり不正確な情報を元に書かれている割に全くの想像で書いてるわけでもなさそうなのがタチ悪いですね…。それにしても、中野江漢には、これがどの本に載ってたのかちゃんと書いて欲しかったと言うのが素直な感想ですねぇ…。

  1. 『北京繁昌記』P.72~73
  2. 『北京繁昌記』P.73
  3. 『北京繁盛記』P.73~75
  4. 《世祖章皇帝實録》巻3
  5. 《世祖章皇帝實録》巻27

順治元年4月、ドルゴンの入関遠征の経緯

$
0
0

 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 は読んでいて刺激が多く、特に外交面で興味深い本だったのですが、読んでいて一カ所引っかかる部分があったので、今回調べてみました。具体的には下に引用した文章です。

明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京に戻して首都の防衛に当たらせる。しかし間に合わなかった。(中略)長城東端の要衝、山海関にはドルゴン率いる清軍が迫っていた。呉三桂は前方に李自成、後方に清朝と挟まれる形になって、窮地に立たされる。(中略)そこで呉三桂は、敵対する清軍に密使を送って、援軍を要請する。(中略)ドルゴンは思いがけず、敵軍の前線の司令官から密使が来たばかりか、その君主の最期まで告げられて、さぞかし驚いたに違いない。(中略)『東華録』という清朝の年代記にみえるこのやりとりは、互いの立場と知略をよくあらわしている。呉三桂はあくまでも前線を守る明朝の将軍として、対峙する敵国の清朝に援助を求めたにすぎない。(中略)ドルゴンは高圧的な態度に出て、あくまで呉三桂の降伏・帰順を強いた。i

 この文章を見るに、
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要
…と言う時系列で岡本センセは理解しているようです。自分の記憶とかなり時系列が違うので驚きました。まぁ、岡本センセも清末の外交関係がご専門だからか、参考にした《東華録》にそんなことでも書いてあったのかしら…と思いながらなんか引っかかっていたんですが、昨日、別の調べ物をしていたところ、似たような文章に出くわしました。

1644 順治元年(崇禎17年) 4 ドルゴン、呉三桂の投降を受け出征し、山海関で李自成を撃破。ii

 山川出版の『世界歴史大系 中国史4』の年表にもこう書かれると、自分の記憶が不安になってきましたので、今回、《明史》と《大清世祖章皇帝實録》で確認して見ました。

 


 まず、明朝の滅亡を時系列で追っていきましょう。崇禎年間実録が編纂されていないので、とりあえず《明史》を見てみましょう。まずは本紀から。

(崇禎十七年三月)乙巳(十七日),賊犯京師,京營兵潰。
丙午(十八日),日晡,外城陷。是夕,皇后周氏崩。
丁未(十九日),昧爽,內城陷。帝崩於萬歲山,王承恩從死。御書衣襟曰:「朕涼德藐躬,上干天咎,然皆諸臣誤朕。朕死無面目見祖宗,自去冠冕,以髮覆面。任賊分裂,無傷百姓一人。」(中略)明亡。iii

 時系列をまとめやすいように自分が日ごとに改行しています。イヤに簡潔な文章ですね。まず、それまでの過程はすっ飛ばしますが、崇禎17=順治元(1644)年3月17日に李自成軍は北京攻略を開始します。次いで18日に北京外城が陥落、19日早朝には内城が陥落し、崇禎帝万歳山景山で崩御します。
 ついでなので、李自成の伝でも確認しましょう。

(崇禎十七年三月)十七日,帝召問羣臣,莫對,有泣者。俄頃賊環攻九門,門外先設三大營,悉降賊。京師久乏餉,乘陴者少,益以內侍。內侍專守城事,百司不敢問。
十八日,賊攻益急,自成駐彰義門外,遣降賊太監杜勳縋入見帝,求禪位。帝怒,叱之下,詔親征。日暝,太監曹化淳啟彰義門,賊盡入。帝出宮,登煤山,望烽火徹天,歎息曰:「苦我民耳。」徘徊久之,歸乾清宮,令送太子及永王、定王於戚臣周奎、田弘遇第,劍擊長公主,趣皇后自盡。
十九日丁未,天未明,皇城不守,鳴鐘集百官,無至者。乃復登煤山,書衣襟為遺詔,以帛自縊於山亭,帝遂崩。太監王承恩縊於側。iv

 同じく日ごとに改行しました。本紀とソースが違うのか、こちらの方が記述が詳しいですね。時系列は変わりませんが、3月17日段階で李自成軍が北京を包囲して攻撃を始めると、汚職で給金の滞っていた門外の警備兵はことごとく李自成に降ったとか、18日には彰義門v外にまで侵攻して、李自成に降った宦官が崇禎帝に譲位を迫ると崇禎帝が激怒して親征すると言い出したとか、日が暮れてから彰義門が中から開かれて李自成軍が侵攻し、崇禎帝煤山景山に登って北京のそこら中から烽火が上がっているのに絶望し、乾清宮に戻って二皇子を外戚の周奎田弘遇の邸宅に逃がし、金庸の小説でおなじみの長公主を剣で斬りつけ、周皇后に自害させたとか、19日明け方には皇城も防ぎきれず、また崇禎帝煤山景山に登って衣服に遺詔をしたためて自縊したとか、いやに具体的です。
 ともあれ、崇禎帝の死と明朝の滅亡は3月19日明け方だったと言うことです。

 で、清朝がこの情報をいつ知ったのかについては、実は《世祖章皇帝實録》には記述がありません。ただ、月が変わって4月1日にこのような記事から始まります。

順治元年。甲申。夏四月。戊午朔(一日)。先是、固山額真何洛會等、訐告和碩肅親王豪格。(中略)特訐告於攝政和碩睿親王和碩鄭親王諸王貝勒貝子、公、及內大臣、會鞫俱實。遂幽和碩肅親王。既而以其罪過多端、豈能悉數。姑置不究。遂釋之。奪所屬七牛彔人員。罰銀五千兩。廢為庶人。vi

 これより先、とあるので少なくとも3月時点から話には出ていたようですが、この時期のドルゴンにとって最も手強い政敵である粛親王・ホーゲが、部下である正藍旗グサ・エジェンであるホロホイの讒言を受けて失脚しています。審議の結果、所属ニルを剥奪されて罰金を課され、幽閉の上爵位も剥奪されて、ホーゲ派の有力旗人も処刑されています。滅亡から10日あまり経過していますから、宣和堂はこの事件を入関と全くの無関係の事件とはみることはできません。少なくとも判決に関しては、入関作戦を睨んだ結果となっているはずだと考えています。

 そして、滅亡から2週間あまりたった4月4日になって、范文程の奏上があります。

(順治元年四月)辛酉(四日)。大學士范文程、上攝政王啟曰。「迺者有明、流寇踞於西土。水陸諸寇、環於南服。兵民煽亂於北陲。我師燮伐其東鄙。四面受敵。其君若臣、安能相保耶。顧雖天數使然、良由我先皇帝憂勤肇造。諸王大臣、祇承先帝成業。夾輔冲主、忠孝格於蒼穹。上帝潛為啟佑。此正欲攝政諸王、建功立業之會也。竊惟成丕業以垂休萬禩者此時。失機會而貽悔將來者亦此時。何以言之。中原百姓、蹇罹喪亂。荼若已極。黔首無依。思擇令主、以圖樂業。雖間有一二嬰城負固者、不過自為身家計。非為君効死也。是則明之受病種種、已不可治。河北一帶、定屬他人。其土地人民、不患不得。患得而不為我有耳。蓋明之勁敵、惟在我國。而流寇復蹂躪中原。正如秦失其鹿、楚漢逐之。我國雖與明爭天下、實與流寇角也。為今日計。我當任賢以撫衆。使近悅遠來。蠢茲流孽、亦將進而臣屬於我。彼明之君。知我規模非復往昔。言歸於好。亦未可知。儻不此之務。是徒勞我國之力。反為流寇驅民也。夫舉已成之局而置之。後乃與流寇爭非長策矣。曩者棄遵化、屠永平、兩經深入而返。彼地官民、必以我為無大志。縱來歸附、未必撫恤。因懷攜貳、蓋有之矣。然而有已服者。有未服宜撫者。是當申嚴紀律。秋毫勿犯。復宣諭以昔日不守內地之由。及今進取中原之意。而官仍其職。民復其業。錄其賢能。恤其無告。將見密邇者綏輯。逖聽者風聲。自翕然而向順矣。夫如是。則大河以北、可傳檄而定也。河北一定。可令各城官吏、移其妻子、避患於我軍。因以為質。又拔其德譽素著者、置之班行。俾各朝夕獻納、以資輔翼。王於衆論中、擇善酌行。則聞見可廣、而政事有時措之宜矣。此行或直趨燕京。或相機攻取。要當於入邊之後、山海長城以西、擇一堅城、頓兵而守。以為門戶。我師往來、斯為甚便。惟攝政諸王察之。」vii

 長々と書いていますが、「此正欲攝政諸王、建功立業之會也。竊惟成丕業以垂休萬禩者此時。失機會而貽悔將來者亦此時。何以言之。」…諸王が功名を立てるのはまさに今この時、この千載一遇のチャンスを生かさないでどうする!後から後悔してもしょうがない!今でしょ!と、かなり范文程ドルゴン…というか、この時はドルゴンジルガラン両人を指しているのだと思いますけど今出兵しないでどうするんだ!と、せっついています。
 ただ、低いレベルで流寇と張り合って、天聰年間遵化県永平府を占領して放棄したようなやり方をしていては人心を失うので、軍には官民を撫して、規律を守らせ、秋毫も犯させなければ、清朝中原を占領するという意図を人民に知らしめることができ、河北一帯は収まりましょうと、ただ、占領した地区の民衆の妻子は我が軍から離れたところに隔離して、軍には朝な夕なに下女を届けさせて、問題の発生を未然に防ぎましょう…問題ズバリですね。アジゲみたいな人が好き勝手やって占領地で評判下げるのを見越してます。というか、この段は范文程によるホンタイジ華北侵入に対する全面的なダメ出しなんですが、いいんですかねぇ…。ともあれ、この時点では范文程河北省なり黄河以北なりを占領することを想定しているだけで、旧領全域を一気に占領してしまうような構想ではなかったようですね。
 で、このまま北京に直行して、機会があればこれを攻め取ってしまえばいいし、漢土に入った後に山海関の西にある要衝をどこか押さえて兵を入れれば、山海関を無力化できるとしているので、この時点では呉三桂からの申し出はかけらもなかったことがわかりますし、呉三桂が敵対しようとしまいと北京を攻め落とすつもりだったことがわかります。
 范文程の上奏があったため4月4日のこととして記録が残っていますが、おそらくは滅亡の報が入ってから清朝としてどうすべきか話し合って来たのではないでしょうか。ただ、北京陥落を知っていたのかは微妙な文章になってますね。中原に鹿追うとか、李自成軍が中原を蹂躙している今の状況は末に楚漢が競った状況と似ているとか、の滅亡を念頭に置いたようなこと言っていますが、が滅亡したとか北京が陥落したとか言う内容のことを直接書いているわけではありません。
 それに、《清史稿》では、これを滅亡の報告に接する前の上奏だとしているんですよね。

世祖即位,命隸鑲黃旗。睿親王多爾袞帥師伐明,文程上書言:「中原百姓蹇離喪亂,備極荼毒,思擇令主,以圖樂業。曩者棄遵化,屠永平,兩次深入而復返。彼必以我為無大志,惟金帛子女是圖,因懷疑貳。今當申嚴紀律,秋毫勿犯,宣諭進取中原之意:官仍其職,民復其業,錄賢能,恤無告。大河以北,可傳檄定也。」及流賊李自成破明都,報至,文程方養疴蓋州湯泉,驛召決策,文程曰:「闖寇塗炭中原,戕厥君后,此必討之賊也。雖擁眾百萬,橫行無憚,其敗道有三:逼殞其主,天怒矣;刑辱搢紳,拷劫財貨,士忿矣;掠人貲,淫人婦,火人廬舍,民恨矣。備此三敗,行之以驕,可一戰破也。我國上下同心,兵甲選練,聲罪以臨之,卹其士夫,拯其黎庶。兵以義動,何功不成?」又曰:「好生者天之德也,古未有嗜殺而得天下者。國家止欲帝關東則已,若將統一區夏,非乂安百姓不可。」翌日,馳赴軍中草檄,諭明吏民言:「義師為爾復君父仇,非殺爾百姓,今所誅者惟闖賊。吏來歸,復其位;民來歸,復其業。師行以律,必不汝害。」檄皆署文程官階、姓氏。viii

 范文程はこの上奏の後、李自成北京を陥落させたという報せを、療養のために訪れていた蓋州ixの温泉で聞いて、すぐさまムクデン盛京に引き返して李自成撃つべし!と再度上奏したことになっています。
 は?温泉?!と、温泉に注意が引かれますが、それはさておき、そもそもドルゴンが軍勢集めたのは李自成の勢力が増しての勢力が衰退したのを見て計画したことで、北京陥落とかの滅亡とは何の関係もないことになりますね…。温泉云々のことは《清史列傳》の范文程の伝には記載がないのでソースがわかりません。それに、4月4日の范文程の上奏からドルゴン出征の4月9日までは5日しかありませんし、《世祖章皇帝實録》を読むに范文程は遠征軍に随行して後に北京で活動していますから、これから遠征に出ようっていうブレーンが出征の5日前から療養のために温泉地に出かけるかっていうのは違和感あります。自分は現時点では、范文程が温泉地に行っていたとしても4月4日以前の話ではないかと思っています。

”hese be aliha amba cooha i ejen”印=奉命大将軍印

 で、3日後の4月7日にはドルゴン奉命大将軍印が下賜され…つまり奉命大将軍に任命されます。

乙丑(七日)。上御篤恭殿。賜攝政和碩睿親王多爾袞大將軍敕印。敕曰。「我皇祖肇造丕基。皇考底定宏業。重大之任。付於眇躬。今蒙古、朝鮮、俱已歸服。漢人城郭土地、雖漸攻克。猶多抗拒。念當此創業垂統之時。征討之舉、所關甚重。朕年冲幼、未能親履戎行。特命爾攝政和碩睿親王多爾袞、代統大軍。往定中原。用加殊禮。錫以御用纛蓋等物。特授奉命大將軍印。一切賞罰、俱便宜從事。至攻取方略、爾王欽承皇考聖訓。諒已素諳。其諸王、貝勒、貝子、公、大臣等、事大將軍、當如事朕。同心協力、以圖進取。庶祖考英靈、為之欣慰矣。尚其欽哉。」王受印敕。行三跪九叩頭禮。x

 かいつまんで訳すと、順治帝…まぁ、当時10歳にもならない順治帝がこんなこと言うわけないので、孝荘文皇后ともう一人の摂政王・ジルガランが代行したんでしょうけど、「本来は朕が親征すべき所だが、まだまだ幼いので軍務を全うすることができない。特になんじ摂政和碩睿親王ドルゴンに大軍の統帥権を代行させるので、もって中原を平定しろ。特に奉命大将軍印を授けて、一切の賞罰を任せ、外征中の指揮を一任する。諸ベイレベイセ大臣らは奉命大将軍には朕に仕えるのと同じように仕えること。」と、詔勅を下し、ドルゴンは印勅を受けて三跪九叩頭礼を行った。と言うことで、ドルゴンはほぼ皇帝と同じ権力を有する全権委任を受けて奉命大将軍印を授かり出征することになったようです。これが形だけの権力ではないことはすぐに分かります。
 ちなみに、元々武功が薄かったジルガランは、ホンタイジ崩御後は寧遠あたりに遠征に出ていたのですが、この時は留守番を買って出ているようです。博打みたいな遠征ですし、華北侵攻の方面軍を統帥した経験もあり、その他の戦功も申し分ないドルゴンに頼るしかなかったんでしょう。

 更に2日後、ついに入関遠征軍は出征したようです。

(九日)是日、攝政和碩睿親王多爾衮、同多羅豫郡王多鐸、多羅武英郡王阿濟格、恭順王孔有德、懷順王耿仲明、智順王尚可喜、多羅貝勒羅洛宏、固山貝子尼堪、博洛、輔國公滿達海、吞齊喀、博和託、和託、續順公沈志祥、朝鮮世子李●xi、暨八旗固山額真、梅勒章京、詣堂子。奏樂。行禮。又陳列八纛。向天行禮畢。統領滿洲蒙古兵三之二、及漢軍、恭順等三王、續順公兵、聲礮起行。xii

 ズラズラ人名が並んで堂子詣をしたって何のこっちゃと思いますが、《清初内国史院满文档案譯编》には

四月初九日。摄政和硕睿亲王率大军征西明国xiii

と、ありますので、これが入関作戦の戦勝祈願のためのお参りだったことがわかります。なので、ココに見えてる人たちが入関作戦に従軍した人たちですね。白旗三王三順王ロロホン(鑲紅旗ヨト系)、ニカン(鑲紅旗チュイェン系)、ボロ(正藍旗アバタイ系)、マンダハイ(正紅旗ダイシャン系)、トゥンチハ(鑲藍旗アミン系)、ボホト(正藍旗アバタイ系)、ホト(鑲白旗アジゲ系)らが上がっています。後の理政三王(ニカン、ボロ、マンダハイ)はじめ、ドルゴン期の政治軍事で活躍した人物が多いんですが、やっぱりこの作戦に加わって戦功を立てたって言うのが後々の抜擢に繋がるようですね。ウラナラ閥に偏るでもなく、八旗の左右翼に偏るでもないバランスの取れた配置です。従軍して同じ釜の飯を食って、成功体験を共有する人たちをドルゴンは閨閥よりも優遇したということになるんではないでしょうか。なかなかに面白いと思います。
 あと、入関出征軍マンジュモンゴル八旗兵の2/3+漢軍(=ウジェン・チョーハ・重火器部隊)+三順王続順公の降将漢人部隊。ついでに朝鮮世子と書かれてますけど、恐らく朝鮮国部隊は従軍していないでしょう。谷井陽子先生の説xivに従えば、この頃の八旗の総員兵力は2万前後ですから、その他の軍がどれくらいなのかわかりませんけど、2万を超さない程度の軍勢だったのではないかと。

洪承疇

 で、進軍を開始した遠征軍が遼河地方に駐屯したところで、洪承疇に軍事についての諮問を行ったところ、范文程と同じようなことを繰り返しつつ、李自成鎮圧に功績があった洪承疇ならではの具体的な献策を行っています。

庚午(十三日)。攝政和碩睿親王師次遼河地方。以軍事諮洪承疇。承疇上啟曰。「我兵之強、天下無敵。將帥同心。步伍整肅。流寇可一戰而除。宇內可計日而定矣。今宜先遣官宣布王令。示以此行。特掃除亂逆、期於滅賊。有抗拒者、必加誅戮。不屠人民、不焚廬舍、不掠財物之意、仍布告各府州縣、有開門歸降者、官則加陞。軍民秋毫無犯。若抗拒不服者、城下之日、官吏誅。百姓仍予安全。有首倡內應、立大功者、則破格封賞。法在必行。此要務也。況流寇初起時、遇弱則戰。遇強則遁。今得京城、財足志驕。已無固志。一旦聞我軍至、必焚其宮殿府庫。遁而西行。賊之騾馬、不下三十餘萬。晝夜兼程、可二三百里。及我兵抵京、賊已遠去。財物悉空。逆惡不得除。士卒無所獲。亦大可惜也。今宜計道里。限時日。輜重在後。精兵在前。出其不意。從薊州密雲近京處、疾行而前。賊走、則即行追剿。儻仍坐據京城以拒、我則伐之更易。如此庶逆賊撲滅、而神人之怒可回。更收其財畜、以賞士卒。殊有益也。初明之守邊者、兵弱馬疲。猶可輕入。今恐賊遣精銳、伏於山谷狹處、以步兵扼路。我國騎兵、不能履險。宜於騎兵內選作步兵。從高處覘其埋伏。俾步兵在前。騎兵在後。比及入邊、則步兵皆騎兵也。孰能禦之。若沿邊仍復空虛、則接踵而進。不勞餘力。抵京之日、我兵連營城外。偵探勿絕。庶可斷陝西宣府大同眞保諸路、以備來攻。則馬首所至、計日功成矣。流寇十餘年來、用兵已久。雖不能與大軍相拒。亦未可以昔日漢兵輕視之也。」xv

 かいつまんで訳すと、「清軍は強くて、天下無敵。将帥の意思疎通も取れているし兵卒の訓練も行き届いています。流寇と戦えば一戦で決着がつくはずです。先に令を布告して、逆賊に示しておけば短期間で賊は滅びます。抵抗する者たちは誅戮すべきですが、虐殺や焼き討ち、略奪を禁じる旨を各府州県に布告すべきです。そして、開城して投降した官吏は官位を上げ、民を秋毫も犯してはなりません。もし、抵抗する者があれば官吏は誅殺すべきですが、民衆は保護すべきです。内応して功績を立てた者には破格の報償を与えるべきです。法を厳格に適用するのはこの作戦の要となります。
 流寇が勃興したころ、弱い軍がいれば戦い、強い軍に見つかれば逃げました。今、北京を獲得したことで、流寇は財を得て驕っているので、すでに確固としたビジョンはありません。一旦、我が軍が来たと聞けば、必ず宮殿や府庫に火をかけて西に逃げることでしょう。賊の軍勢は30万を降りませんが、昼夜兼行すれば2~300里は進軍できます。その後、我が軍が北京を確保しても、賊がすでに去った後では府庫は空で、士卒への報償もありません。
 そこで、今から北京までの距離から換算した行軍スケジュールを決めて、輜重(補給)を置いて精鋭を先行させ、賊軍の不意を突きます。薊州密州雲州あたりから長城を越えて一気に北京を攻撃すれば、賊は逃走しますから追いかけて掃討すればいいのです。もし、一部が北京に居座って抵抗するようなら容易く討ち取れますし、蓄財を摂取して士卒の報償に当てることができます。
 以前、国境地帯は弱兵を配置して馬も疲れていたため侵入も簡単でしたが、今は賊を恐れて精鋭を派遣しています。その歩兵が山谷の隘路に根を張って街道を守っています。我が軍の騎兵ではこれを攻撃することは難しいので、騎兵の中から兵を選んで歩兵として高所から偵察して伏兵を探り、歩兵を騎兵に先行させて拠点を攻め取った後は、歩兵を騎兵に戻せば防御できます。もし、国境地帯がもぬけの空になっていれば、摂取して進軍すればいいのです。
 もし、賊が北京に籠城するなら、我が軍は城外に野営して賊の外部との連絡を絶ち、陝西大同などとの要路を遮断して援軍に備えれば数日で北京は陥落します。
 ただ、流寇は挙兵して十余年が経過していて、大軍と戦闘したことがないとは言え、過去の漢兵のように軽視できる存在でもありません。」
 と、まあ流石に李自成軍と軍双方と対峙した軍人だけに、具体的かつ、的確な指摘が多いですね。しかし、漢人官僚が口をそろえて、もし清軍李自成軍とが戦えば一戦して勝つと信じて疑わないのはなんか凄いですね。実際に一戦して負けた後の李自成軍の行動にしても、宮殿と府庫を焼いて西の本拠地に逃げ帰るとこまで、洪承疇は正確に予想しています。ホンタイジは降伏した洪承疇鑲黄旗漢軍に配して厚遇したという話ですが、《清史稿》にあるように、その後官職を得たわけではありません。入関作戦に従軍したことで洪承疇の才覚は清朝治下で発揮されるわけですが、故国の首都を占領した後、財貨をどう分配するかを上奏するあたりなんだかゲスい感じはしますね…。
 あと、サラッと書いてますが、《世祖章皇帝實録》の中でようやく北京陥落についての言及がされています。少なくとも4月13日までには清朝北京陥落についての情報を得ていたわけで、後に触れる呉三桂の書簡によって知らされたわけではないようです。
 で、入関作戦軍が出征を開始した後でも、洪承疇は「從薊州密雲近京處」としていて、山海関から入関するという発想がないようです。むしろ、「明之守邊者」とか「沿邊」あたりは山海関を想定しているようにも取れます。ともあれ、進軍を開始した4月13日の段階では、山海関を無視して入関する予定だったようです。

呉三桂

 で、その二日後、皆様お待ちかねの呉三桂からの打診があります。

壬申(十五日)。攝政和碩睿親王師次翁後。明平西伯吳三桂、遣副將楊珅、遊擊郭雲龍、自山海關來致書曰。「三桂初蒙我先帝拔擢、以蚊負之身、荷遼東總兵重任。王之威望、素所深慕。但春秋之義、交不越境。是以未敢通名。人臣之誼諒、王亦知之。今我國以寧遠右偏孤立之故、令三桂棄寧遠而鎮山海。思欲堅守東陲而鞏固京師也。不意流寇逆天犯闕。以彼狗偷烏合之衆、何能成事。但京城人心不固。姦黨開門納款。先帝不幸。九廟灰燼。今賊首僭稱尊號。擄掠婦女財帛。罪惡已極。誠赤眉綠林黃巢祿山之流。天人共憤。衆志已離。其敗可立而待也。我國積德累仁。謳思未泯。各省宗室、如晉文公漢光武之中興者、容或有之。遠近已起義兵。羽檄交馳。山左江北、密如星布。三桂受國厚恩。憫斯民之罹難。拒守邊門。欲興師問罪、以慰人心。奈京東地小、兵力未集。特泣血求助。我國與北朝通好、二百餘年。今無故而遭國難。北朝應惻然念之。而亂臣賊子、亦非北朝所宜容也。夫除暴剪惡、大順也。拯危扶顛、大義也。出民水火、大仁也。興滅繼絕、大名也。取威定霸、大功也。況流寇所聚金帛子女、不可勝數。義兵一至、皆為王有。此又大利也。王以蓋世英雄。值此摧枯拉朽之會。誠難再得之時也。乞念亡國孤臣忠義之言。速選精兵、直入中協西協。三桂自率所部、合兵以抵都門。滅流寇於宮廷。示大義於中國。則我朝之報北朝者、豈惟財帛。將裂地以酧。不敢食言。本宜上疏於北朝皇帝。但未悉北朝之禮、不敢輕瀆聖聰。乞王轉奏。」王得書。即遣學士詹霸、來袞往錦州。諭漢軍齎紅衣礮向山海關進發。xvi

 さて、摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍が翁後?という場所に駐屯したところ、平西伯呉三桂副将楊珅遊撃郭雲龍山海関から派遣して書簡を届けに来た。「三桂は先帝の抜擢によって過分にも遼東総兵という重責を担うことになりました。平素よりの威望を深くお慕いしていたものの、国境を越えて誼を通じることができませんでした。今、我が国では寧遠は孤立しているために、三桂寧遠を棄てて山海関を防衛するように命じました。東方を堅守して北京の守りを強固とするためだったのでしょう。ところが流寇が不意に宮闕を犯してしまいました。あの狗偷烏合の衆が何をかなすことができるでしょう。しかし、北京に人々は動揺して、姦人が中から門を開けてしまい、先帝は不幸に見舞われ、九廟は灰燼に帰しました。今、賊の頭目は尊号を僭称し、婦女・財帛を略奪しており、罪悪はここに極まりました。赤眉緑林黄巣安禄山もかくやの有様に、天も人も憤って民心もすでに離れています。我が国は恩徳を積んで参りましたので、すでに各省では宗室晋・文公後漢・光武帝のような中興の祖が蜂起して、遠近から義勇兵が集っています。三桂は国から大恩を受けておりますし民衆の苦難にも同情しますが、辺境防備の任があります。しかし、罪を承知で救国の軍を起こし、人心を安堵させようとしましたが、このような辺境では兵が思うように集まりません。そこで、我が国と北朝の200余年の誼を頼って、折り入ってお願い申し上げます。今、我が国は理由もなく国難に遭っています。北朝とて乱臣賊子は許容できるモノではないでしょう。これを平定するのは大義です。また、賊は婦女・財帛を際限なく集めています。は蓋世の英雄ですからこの千載一遇の期の価値を知っているはずです。亡国孤臣として忠義を全うするため、三桂は部下の精兵を選び、お借りした兵と併せて北京を攻めて内応を誘い、逆賊を討滅して中国の大義を示します。我が朝が北朝に謝礼としてお渡しするのは金品だけではありません。領地の割譲もお約束いたします。北朝皇帝に上疏いたします。当方、北朝の義礼には疎いため、ご無礼の段はご容赦下さい。に転奏を乞います。」ドルゴンはこの書を得ると、学士・ジャンパ?(詹霸)、ライゴン?(來袞)を錦州に派遣し、漢軍(ウジェン・チョーハ?)に紅衣砲山海関に向けて運搬するように命じた。
 と言うことで、この辺は最初に出した岡本センセの解釈通りですが、呉三桂清朝に兵を借りて北京を救援するのを目的としていて、端から清朝に降伏を申し出ているわけではありません。まぁ、一方面軍の指揮官が援軍の報償として金品はともかく、領土の割譲を約束しているのはどうかと思いますが…。手紙の内容から、呉三桂ドルゴン清軍を率いて南下したことは情報をつかんでいたようにも読めますが、幼帝が即位して摂政王が補佐しているという情報だけで書いているようにも読み取れます。また、宗室諸王の元に義勇兵が雲霞の如く集まっていると言う割には、具体的な固有名称は出していない上、手持ちの兵が集まらないなど矛盾した内容が書かれています。更に、「婦女財帛」、「金帛子女」を繰り返すなど、後世の人間からすると「衝冠一怒為紅顏」というフレーズをつい思い浮かべてしまうような、余裕のなさも感じ取れてしまいます。でも、袁崇煥ヌルハチなりホンタイジと書簡を交わしていたので、ドルゴン呉三桂もそれなりに面識があったと勝手に解釈していたんですが、この時がファーストコンタクトなんですね…。
 それにしても、范文程洪承疇呉三桂漢人が口を揃えて、秋毫も犯さないことを成功の条件として上げているのは、よほどホンタイジ時期の華北侵攻が悪い意味で印象に残ってたんでしょうね…。ドルゴンもこの辺は心得て、実際に北京に侵攻するまでに略奪を我慢出来なかった将兵を罰しています。
 ともあれ、今回、何より注目したいのは、この書簡を受けてドルゴン紅衣砲…つまり攻城兵器を山海関に運搬するように指示しているところですね。洪承疇の献策にもあるとおり、呉三桂の書簡が来るまでは清軍山海関以外の場所から入関して、騎馬による強襲で北京を攻め取る作戦でした。しかし、呉三桂から書簡が来たことによって山海関から入関できる可能性が高くなったため、急遽予定を変更して後続の重火器部隊に進路変更の指示を出したってことです。つまり、呉三桂の降伏を受けてからドルゴンが進軍を開始したわけではなく、進軍をすでに始めていたドルゴン呉三桂の書簡を受けて進路を変えわけです。そもそも、ドルゴンは出発時点では山海関を通過することすら考えていなかったわけですから、この時点で紅衣砲の進路を変更しているのです。強調しておきますが、ドルゴンは最初から山海関を目指して進軍していたわけではありません。

 で、翌4月16日ドルゴン呉三桂に即座に返事を送ります。

癸酉(十六日)。攝政和碩睿親王師次西拉塔拉。報吳三桂書曰。「向欲與明修好。屢行致書。明國君臣不計國家喪亂。軍民死亡。曾無一言相答。是以我國三次進兵攻略。蓋示意於明國官吏軍民。欲明國之君、熟籌而通好也。若今日則不復出此。惟有底定國家、與民休息而已。予聞流寇攻陷京師、明主慘亡。不勝髮指、用是率仁義之師。沉舟破釜。誓不返旌。期必滅賊、出民水火。及伯遣使致書、深為喜悅。遂統兵前進。夫伯思報主恩。與流賊不共戴天。誠忠臣之義也。伯雖向守遼東、與我為敵。今亦勿因前故、尚復懐疑。昔管仲射桓公中鉤。後桓公用為仲父、以成霸業。今伯若率衆來歸。必封以故土。晉為藩王。一則國仇得報。一則身家可保。世世子孫。長享富貴。如河山之永也。」xvii

 摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍がシラタラ?(西拉塔拉)に駐屯した。この時、呉三桂に書面をもってこう伝えた。「に対しては何度も書簡を送ったが、内乱状態のためかかつて一度も返答をもらったことがない。仕方なく我が国は三度遠征を行って、国の官吏軍民に我が国はと通好をしたい意を示したが、国家と民衆の安寧のために出兵は控えていた。しかし、予は流寇北京を陥落させ、主がむごたらしい最期を迎えたと聞いた。義憤を押さえることができず、我が国は仁義の軍を率いて、賊を滅亡させて民衆を救出するまで軍を返さぬと誓った。平西伯の使者が書簡を持ってきたことを大変喜ばしく思ったので、ついに軍を前進させた。平西伯の旧主への恩を思えば、流賊とともに天を戴くなどあり得ないこと言うのも分かる。まことに忠臣の鏡である。平西伯遼東防御のために我が国とは敵対関係にあったが、今後は前歴をもって疑うことはない。その昔、管仲斉・桓公に矢を射かけたが、後に桓公管仲を登用して覇業をなした。今、平西伯が部下を引き連れて投降するというのなら、必ずや旧領を安堵して藩王への昇格を約束しよう。一つは故国の仇敵を打つため、一つは家名と己の身の安全のため、子々孫々永きにわたる富貴を約束しよう。」
 と言うわけで、李自成崇禎帝をむごたらしく討ち滅ぼしたと聞いて、の仇討ちのために遠征を決意したのだ!と、すでにこの時からこのロジックで押し通してますね。この書簡を見ると、遠征自体は北京の陥落という情報を得てから企画されたようですね。
 で、呉三桂からは兵を貸してくれたら金品と領土を割譲しましょう!という申し出に対して、ドルゴンは投降するなら身の安全を保証して爵位も上げてやろう…と返答しているので、この辺は岡本センセの言うとおりですね。書面からも取り付く島もない様子が見て取れます。ちなみに、ドルゴンxviii呉三桂xix万暦39(1611)年生まれの同い年なんですが、何というか格が違うというか圧倒されてますね。
 あと、ドルゴンは敵国の将軍から機密性の高い書簡を得ながら、順治帝なりその代行者である孝荘文皇后や、同格の同僚であるジルガランにお伺いを立てたり、反応を待ったりせずに、ノータイムで結論を出して呉三桂に返信をキメてます。奉命大将軍の全権委任は伊達じゃないことが、任命から10日も経たないうちに証明されています。何周ループしたらこんなに鮮やかに決断できるんだ?ってくらい、的確な判断だと思います。
 話を戻しますが、援兵要請に対する齟齬には恐らく呉三桂はすぐに気がついたハズで、李自成につくと言う選択肢と両天秤にかけて悩んだハズです。
 で、その4日後の4月20日、ようやく呉三桂からの使者がドルゴンの元に来ます。

丁丑(二十日)。攝政和碩睿親王軍次連山。吳三桂復遣郭雲龍、孫文煥來致書曰。「接王來書、知大軍已至寧遠。救民伐暴。扶弱除強。義聲震天地。其所以相助者、實爲我先帝。而三桂之感戴、猶其小也。三桂承王諭、即發精銳於山海以西要處、誘賊速來。今賊親率黨羽。蟻聚永平一帶。此乃自投陷阱。而天意從可知矣。今三桂已悉簡精銳、以圖相機剿滅。幸王速整虎旅、直入山海。首尾夾攻。逆賊可擒。京東西可傅檄而定也。又仁義之師、首重安民。所發檄文、最爲嚴切。更祈令大軍秋毫無犯。則民心服而財土亦得。何事不成哉。」王得書。即星夜進發。踰寧遠。次於沙河地方。xx

 摂政和碩睿親王・ドルゴンの遠征軍は連山に駐屯した。呉三桂はまた郭雲龍孫文煥を派遣して書簡を送ってきた。「の書簡で大軍がすでに寧遠に到達していたことを知りました。ご助力のほど、歓喜に耐えません。三桂の諭旨を承けて、すぐに山海関以西の要衝に精鋭を発して賊を誘い込んだので、賊は永平一帯に集結しています。これは自ら落とし穴に入ってきたようなモノです。今、三桂はすでに精兵を選抜し終え、機に乗じて賊を討滅する計画を練っています。は早急に精鋭を整備して、まっすぐに山海関にご入城下さい。賊を両面から挟み撃ちにすれば、生け捕りにもできましょう。北京近辺に檄を飛ばして、の軍が仁義の軍であることを知らしめれば、民衆は安堵しましょう。また、の大軍が秋毫も犯すことなければ、民衆は心服してその財貨と領土も得ることができましょう。」摂政王・ドルゴンは書簡を受け取ると、夜間にもかかわらず軍を出発させ、寧遠を通過して沙河地方に駐屯した。
 と言うわけで、呉三桂は降伏を受託したとは言明はしていないものの、清軍の先鋒になって李自成軍と当たることを既定事実としています。ここで、注目したいのは嘘か真か判別しがたいところですが、呉三桂ドルゴンが進軍していることも、寧遠近辺に駐屯していることも書簡が来るまで知らなかったと言うことです。知らないモノは圧迫を感じようもありませんから、李自成清朝の軍に挟まれた呉三桂が進退窮まって清朝に援助を要請した…というのもちょっと事実とは異なるのかもしれません。盛京にいるドルゴンに援助要請をするのと、遠征途中で大軍を率いて接近中のドルゴンに援助要請するのとでは逼迫感が違います。
 呉三桂の申告通りなら、呉三桂の使者が偶然遠征中のドルゴンと接触が取れたことで、李自成山海関に進軍するまでに援軍が間に合ったということになりますから、清朝の遠征のタイミングが遅くても早くても使者と遠征軍が行き違いになる可能性が増しますし、そもそも李自成軍が山海関に到着した後に清軍が到着しても時すでに遅しって所でしょうから、その後の歴史は我々が知っているモノと違うものになったのかもしれません。
 また、呉三桂は賊を誘い込んだ!と言っていますが、恐らく何らかの条件を提示して李自成軍を永平府に誘導したんでしょうから、李自成側にも援兵の要請や帰順を持ちかけていたのかもしれません。ドルゴンの書簡から得た情報を李自成側に流がして、清軍山海関に接近しているので援軍を要請する!とか、胡虜を山海関におびき出したので協力して討滅しよう!とかなんとか掛け合った可能性もありますよね。呉三桂にもそれくらいのしたたかさはあってもおかしくないと思います。想像するに、呉三桂はどちらの陣営に味方するか確固たる意思がないまま双方にいい顔をしてたところ、清軍の方がタッチの差で李自成軍より先に山海関に到着したので味方したとか、その程度だったんじゃないでしょうか。

 つまり、まとめると…
①:滅亡、呉三桂北京を陥落させた李自成と、北方から押し寄せる清朝に挟まれる⇒状況としては間違っていないが、呉三桂清軍の進軍を知らなかった。
②:清朝ドルゴンの滅亡を知らずに山海関まで進軍⇒ドルゴンの滅亡を知って遠征軍を編成し、山海関を無視して入関して直接北京を攻撃しようとしていた。
③:進退窮まった呉三桂清朝に援軍の要請のため密使を送る⇒清軍李自成軍の双方に使者を出した可能性が濃厚。
④:の滅亡を初めて知ったドルゴンは驚くが、呉三桂に降伏・帰順を強要⇒ドルゴンはすでにの滅亡を知っていたが、無視するつもりだった山海関から入関出来る可能性が高まったので、即日計画を変更。
 と言うことで、この辺は實録を確認したところ、事実誤認なんではないかという結論を得ました。調べてみると面白いですね…。この辺は本当は満文檔案なり漢文書簡を調べた方が面白いんでしょうけどねぇ…。
 もう一つあるんですが、それは項を改めます。

◇参考文献◇
岡本隆司『叢書「東アジアの近現代史」 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』講談社
世界歴史大系 中国史4 明~清』山川出版社
谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.43~45
  2. 『中国史4』年表P.70
  3. 《明史》巻24 本紀第24 莊烈帝 朱由檢 二
  4. 《明史》巻309 列傳第197 流賊 李自成
  5. =廣寧門。北京外城西側の城門。後に道光帝の本名・晏寧の偏諱を受けて廣安門に改称。
  6. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  7. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  8. 《清史稿》巻232 列傳19 范文程
  9. 現在の遼寧省営口市蓋州市。
  10. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  11. 当時人質として盛京に滞在していた昭顕世子・李(湍-而+王)
  12. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  13. 《清初内国史院满文档案譯编》P.1
  14. ①「中核となるべき満洲・蒙古旗の兵は、天聰三~四年の動員数に従えば1万以下、成人男子全体の3分の1を動員したとして約2万、仮に2分の1まで動員率を引き上げたとしても約3万である。」⇒『八旗制度の研究』P.234~235 ②「しかし、明への攻勢が進むにつれて大規模な戦いを余儀なくされるのに対し、元々決して多くなかった八旗の兵力はむしろ消耗していた。そのため、新附の満洲・モンゴル人で八旗の兵を補い、外藩モンゴルから招集した兵を直接指揮下に入れるなど、強引に兵力を増して対明侵攻を進めていった。」⇒『八旗制度の研究』P.238 とあるのを併せて考えると、天聰年間から八旗の総動員兵数はあまり変わらず、崇徳年間は自転車操業的に戦争で生じた不足分を新附の軍勢を当てたと宣和堂は考える。
  15. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  16. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  17. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  18. (順治七年)十二月薨於喀喇河屯年三十有九⇒《欽定宗室王公功績表傳》巻4 傳2 親王 和碩睿親王多爾衮傳
  19. (康熙十七年)是歲、三桂年六十有七⇒《清史列傳》巻80 逆臣傳 吴三桂
  20. 《大清世祖章皇帝實録》巻4

ホンタイジのモンゴルかぶれ

$
0
0

 図書館で見つけた、内藤虎次郎 等輯『満蒙叢書 第9巻 瀋陽日記』満蒙叢書刊行会 をペラペラ捲っていたところ

この日記の如きは實に其史料中最も正確に、且つ重要なるものにして、之によりて淸實錄の記事の正確なることを證するに足り、時としては其の失載せる事實を明にすべきものあり。試みにその一二の例を舉ぐれば、淸實錄順治元年四月朔日の條に、粛親王豪格の爵を削りしことを載せ、その由來をも詳かに記せるも、然もこの日記の前月二十九日及び四月四日の記事を見れば、この事の始末に於いて相發明するに足るものあり。殊に淸軍の李自成と山海關に於ける交戰の如きは、睿親王が行軍の途に於いて吳三桂の使に接せしことより山海關外に於ける戰狀に至るまで、淸實錄とこの日記とは其月日は符合し、其記事は相輔けて、當日の實情を明白ならしむるものあり、聖武記の記事が月日、事實に於いて並びに正確を缺くのに比にあらず。i

などと興味深い事が冒頭の「瀋陽日記 解題」に書いてあり、うっひょー!入関時期の同時代史料や!と、ワクワクしながらページを何度もめくったのですが、お目当ての順治元年の記事になかなかたどり着きませんでした。

 もう一度解題に戻って横のページをよく見ると…

第九巻書目 瀋陽日記 自丙子十二月至壬午十二月

とあります。何というか、内藤の方のコナン君に一杯食わされましたかね…。これ、崇徳元年12月から崇徳7年12月までしか記事がないってことです。探しても見つからないわけです。
 ともあれ、『瀋陽日記ii』は三田渡で城下の盟を交わして瀋陽に人質として滞在した昭顕世子の侍官の日記ですから、貴重な同時代史料には違いありません。

 気を取り直して、その他の記事をペラペラ捲ってみました。

(丁丑=崇徳二年七月)二十一日丁亥 晴。
世子留瀋陽舘所。虎皮者、音所二博士、以其皇帝之命、持蒙書二巻。而來請世子大君之學之。世子曰「皇帝欲教之意、誠爲感激。但語音不通。不可猝然學得。若先教年少從官。則余亦漸次暁解矣。」博士曰「俺等只承往教之命。宜令朴[竹/魯]將此意往通於禮部。」朴[竹/魯]往言之。禮部還持蒙書而去。

 丁丑年、つまり崇徳2(1637)年七月二十一日、瀋陽館に居た昭顕世子の所に、虎皮者、音所という二人のバクシ皇帝の命令として、モンゴル語の書物を2巻持ってきた。この辺、マンジュの人名は半島の記録は清朝謹製の書物とは同じ漢字は使わないので注意が必要ですが、ここで誰かに比定するのは控えておきます。皇帝世子大君(昭顕世子の弟の鳳林大君=後の孝宗も瀋陽に滞在していた)にこれを学ぶように要請した。どうやら、ホンタイジモンゴル文化を摂取しようと躍起だったのは、よく指摘されます。恐らく、マンジュより漢文化に馴染んでいた朝鮮王家に対するコンプレックス混じりに、これからはモンゴルだよ!モンゴルの本を読みなよ!と、お節介にも言ってきているわけです。マイブーム押しつけてくる上司みたいだと思えばわかりやすいですかね…。世子は「皇帝からのモンゴル語教授のご厚意、誠に痛み入ります。しかし、モンゴル語はどのように読めば良いのか分からず、にわかに学んだとて物にはならないでしょう。もし、先に年少の随官に先にお教えいただき、しかる後にその者に私が習えば、ようやく理解出来るのではないでしょうか。」ということで、語学学習使用って人に何の注釈もないテキスト投げつけるというのも至極不親切なんですが、ああ…ホンタイジならそういうとこあるかなぁ…という感じですね。基本的には田舎のブラック中小企業の社長みたいなメンタリティーの人なので…。昭顕世子も半年しか経っていない割には、身の処し方を十分理解しているように見えます。
 話を戻しましょう。こう聞いてバクシ達は「我々はただ、教えよという主命を受けてここに来たに過ぎない。朴[竹/魯](随員の一人)に命じてこの意を礼部に伝えなさい。」と言ったので、早速礼部にやってこの事を伝えたところ、礼部モンゴルの書物を持ち帰った。うーん…モンゴル語の本を投げつけて終わらせようとしたら、教えてくれとか言う話になってめんどくさくなったんですかね…。ともあれ、昭顕世子の方も手元にモンゴル語の本があったままでは、教えてやろうとわざわざ貸してやったのに、何故手もつけていないのだ!と、叱責を買うのは目に見えそうですしね…。巧い返しだと思います。
 ともあれ、ホンタイジモンゴルかぶれに関する記事があったんでメモでした。

  1. 『満蒙叢書 第9巻』瀋陽日記 解題P.3
  2. 同名の日記が何件かあるので、特に《昭顕世子瀋陽日記》と区別することもある…というか、検索する時はこちらの方がヒット率がいい。

順治元年入関前夜

$
0
0

 少し間が空きましたが、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 とまぁ、兵法三十六計以逸待労を以てドルゴン李自成を破ったと言うことになっているんですが、はてそうだっけ?と言うのが今回のお話です。


 時系列で追っていきましょう。まずは、崇禎17=順治元(16287)年3月からです。

三月(中略)癸巳(四日),封總兵官吳三桂、左良玉、唐通、黃得功俱為伯。
甲午(六日),徵諸鎮兵入援。ii

と言うわけで、《明史莊烈帝本紀 を見ると、まず、3/4に崇禎帝呉三桂はじめ左良玉唐通黄得功を封爵しています。いよいよ李自成が迫ってきたので地位で忠誠を買おうとしたんでしょうね。この中で左良玉黄得功李自成軍に降ることなく南明福王弘光政権に加わって清朝に抵抗して没していますから、ある程度効果はあったみたいです。もっとも、呉三桂清朝に降り、唐通李自成に降った後に清朝に降りますが…。
 で、3/6に兵を移動…具体的には北京の守備にシフトした配置にし直します。寧遠にいた呉三桂はひとまず山海関に移動します。

順治元年(中略)莊烈帝封三桂平西伯,並起襄提督京營,徵三桂入衛。寧遠兵號五十萬,三桂簡閱步騎遣入關,而留精銳自將為殿。
三月甲辰(十六日),入關iii
戊申(二十日),次豐潤iv
而自成已以乙巳(十七日)破明都,遣降將唐通、白廣恩將兵東攻灤州。三桂擊破之,降其兵八千,引兵還保山海關vvi

 今度は《清史稿呉三桂伝の記事デス。次いで、呉三桂は3/16には山海関に入り、3/20には豐潤県に進軍しますが、そこで始めて3/17にすでに北京が陥落したことを知ります。この文章を読むに、呉三桂寧遠から山海関に配置換えになったわけではなく、北京に向かう途中に山海関を通過した…と言うコトみたいですね。そして、(《明季北略》では3/27に)かつての同僚である唐通白広恩が先鋒となって李自成軍は灤州にまで攻めてきます。呉三桂はこの軍勢を打ち破り、八千の兵が呉三桂に降りますが、呉三桂山海関に引き返して始めてここを拠点とするわけです。

 一方、清朝の方ではの滅亡については知らなかったようですが、国境地帯の異変を察知しています。

(三月)甲辰(十六日)。防守錦州鎮國公艾度禮等、所解逃人稟稱、大兵既下前屯等城。寧遠一帶。人心震恐。聞風而遁。隨下令修整軍器。儲糗秣馬。俟四月初旬、大舉進討。vii

 3/16に錦州防衛の任についていた鑲藍旗グサ・エジェン 鎮国公アイドゥリから、寧遠一帯がもぬけの空になっていて、噂によると兵が逃げたらしいという報告が入ります。呉三桂寧遠から移動したのは3/6以降ですが、3/16までには移動は完了していたようです。ともあれ、呉三桂山海関に入った日付と同じタイミングでアイドゥリ寧遠がもぬけの空になっていることに気がついたようですね。この報告を受けて、ただならぬ雰囲気を察した清朝…というかドルゴンは4月初旬を目標に入関作戦を計画したようです。

 ちなみにアイドゥリはこの年の2月に錦州駐防の当番のために赴任して1ヶ月目にこの事件に対峙してます。

(順治元年二月二十二日)辛巳。命固山額真鎮國公艾度禮同梅勒章京伊爾德等更番駐防錦州。viii

 その後他の武将が当番に赴いた記録は見当たりませんでしたが、以前記事にした通り、アイドゥリはこの年の6月に鄭親王ジルガランによって処刑されています。

(順治元年六月二十七日)癸未。鎮國公固山額真艾度禮於誓期前日、私言二王迫脅盟誓。(中略)艾度禮及妻、並其子海達禮及醫者並棄市。家產及所屬人口、俱交與和碩鄭親王。ix

 おそらくはドルゴンの入関には従わずに錦州に留まって、その後瀋陽に帰還したんでしょうね。
 この後の展開も含めて、この時期の錦州に居たアイドゥリの功績は相当高い物になったはずです。何しろ、入関作戦そのものがアイドゥリの報告から企画されています。どうも、ジルガランの手で裁いたというあたり、ウラナラ閥と孝荘文皇后派の対立とか(アイドゥリの嫡フジンはウラナラ氏ブジャンタイの娘)、鑲藍旗内での権力闘争(アイドゥリは四大ベイレ・アミンの第二子でジルガランの甥)の線が強そうですが、その辺は今回は脇に置いておきます。

 で、本当にこの報告だけで入関作戦を決意したのかなぁ?と、宣和堂は半信半疑だったのですが、朝鮮王朝側の資料見ると、どうやら3月後半の時点で入関作戦はすでに決定事項とされていたようですね。

(三月)二十六日 甲寅 陰
(中略)皇帝前禮單呈送。朝食後、龍將・噶林博氏率鄭譯、來詣館所。世子出迎于中門外、入坐內書筵廳。辟左右、輔德・司書入侍、還卽出來。移時而罷。下令曰、宰臣・講院引接。賓客・輔養官・輔德・文學・司書并入侍。世子歷言龍將問答說話、蓋右議政李敬輿事及西行事也。(中略)龍將(中略)又曰、今番西征時、世子從九王當行、鳳林大君出去、元孫・諸孫去留、任意爲之。世子答曰、數千里往還之餘、一身勞悴、固不敢言、而今又離此遠去、則彼此消息亦不得通。國王未寧之中、必多慮念、以此爲悶云。則龍將曰、每事任意爲之、則何以來在此地耶云云矣。x

 と、朝鮮王朝の人質として瀋陽に駐在している昭顕世子の随員の記録である《昭顕世子瀋陽日記》によると、昭顕世子イングルダイ(龍将=龍骨大)とガリン(噶林博氏xi)…を通してドルゴンから、3/26時点で入関作戦時にはドルゴンの指揮下に入って従軍するよう指示を受けています。今回の記事はほとんど同時代資料たる朝鮮王朝瀋陽館の記録である《昭顕世子瀋陽日記》と入関作戦の従軍記録である《西行日記》によるものです。

 折角なので《朝鮮王朝実録》の方でほぼ同じ内容があるので、こちらで確認しておきましょう。

(四月)丁卯(十日)/輔養官金堉、賓客任絖等馳啓曰: “兩宮 【世子與嬪。】 前月二十四日到瀋陽。二十六日,龍骨大及加麟博氏率鄭譯, 來詣館所,(中略)龍將(中略)云。 四月初九日, 九王將西犯, 世子當從焉。 元孫、諸孫去留, 使之任意, 而麟坪則留瀋, 鳳林則近當出送矣。 以收用五臣之故, 大致詰責, 將順付勑書於鳳林之行云。 且聞涉河、寧遠自潰, 皇城又爲流賊所圍, 諸鎭皆入援, 故九王將乘虛直擣云。”xii

 《朝鮮王朝実録》を見ると、昭顕世子は一時帰国して3/24に瀋陽に着いた翌々日にさっきの話を聞いたようですね。内容はこっちの方が若干詳しいので、《昭顕世子瀋陽日記》の引用ではほったらかしの部分も訳します。
 で、イングルダイガリン昭顕世子に対して言うには、4/9にドルゴンの入関作戦の進軍が開始するので、世子は当然従軍すること。ただし、世子の子供たちについては瀋陽に留め置くこと。三弟・麟坪大君瀋陽で留守番、二弟・鳳林大君(後の孝宗)は近々帰国するように…と。で、帰国した鳳林大君に持たせた手紙には、遼西走廊沙河鎮寧遠県は放棄され、北京李自成軍の包囲を受けており、の地方軍は皆救援に向かっているが、ドルゴンは機に乗じて北京を直撃するといっている…とあったようですね。李自成北京を包囲しているこの機会を逸することなく、北京を攻撃してしまおうというドルゴンの決断は朝鮮王朝側にも伝わっていたようです。3月下旬には出兵の期日まで決定していたことが分かります。
 しかしまぁ、内向きの記録とはいえ”九王將西犯”とか明贔屓が隠れてませんねぇ…w

 一方、この頃、呉三桂はどうしていたのでしょうか。

自成脅襄以書招之,令通以銀四萬犒師,遣別將率二萬人代三桂守關。三桂引兵西,至灤州,聞其妾陳為自成將劉宗敏掠去,怒,還擊破自成所遣守關將;遣副將楊珅、游擊郭雲龍上書睿親王乞師。xiii

 《清史稿》の呉三桂伝では、期日は書いてませんがこういう記述が続きます。李自成呉三桂の父親である呉襄に手紙を書かせ、(呉三桂の元同僚で李自成に寝返った)唐通に銀四万両と一緒に持たせて呉三桂の元に送りました。他の将軍に二万の軍勢を率いて呉三桂に替わって山海関を守るべく移動させました。呉三桂は軍を率いて西に向かって灤州まで来ます。ここで陳圓圓劉宗敏に掠め取られたと聞いて怒って…(このあたりは自分は懐疑的ですが一応ここではそうしておきます)李自成軍を撃破し、山海関の守将に使いを送り、副将・楊珅、遊撃・郭雲龍ドルゴンに派遣します。
 他に比較する記事がないので《明季北略》を確認すると、唐通呉襄の手紙と銀四万両を持って呉三桂を訪れたのは3/29のこととしていますxiv。更に《明季北略》では、呉三桂皇太子を連れてくれば投降すると公言して、李自成皇太子の弟である定王を身代わりにすることを計画して唐通の陣に定王を送り込んだことになっています…。ただ、呉三桂崇禎帝皇子に関する《明季北略》の記述はイマイチ信用度がおけないのでこの辺はスルーしましょう。
 次いで《明季北略》では4/4に唐通から定王を迎えた呉三桂は、皇太子が来れば投降すると表明しますが、書簡では李自成を散々罵り、4/9に北京に届いたその書簡を読んだ李自成はカンカンに怒ったとしています。定王皇太子の件は眉唾にしても、呉三桂李自成の交渉が不首尾に終わったことは事実だと思われます。

 一方、清朝では着々と入関作戦軍出発の準備をしています。

乙丑(七日)。上御篤恭殿。賜攝政和碩睿親王多爾袞大將軍敕印。敕曰。「我皇祖肇造丕基。皇考底定宏業。重大之任。付於眇躬。今蒙古、朝鮮、俱已歸服。漢人城郭土地、雖漸攻克。猶多抗拒。念當此創業垂統之時。征討之舉、所關甚重。朕年冲幼、未能親履戎行。特命爾攝政和碩睿親王多爾袞、代統大軍。往定中原。用加殊禮。錫以御用纛蓋等物。特授奉命大將軍印。一切賞罰、俱便宜從事。至攻取方略、爾王欽承皇考聖訓。諒已素諳。其諸王、貝勒、貝子、公、大臣等、事大將軍、當如事朕。同心協力、以圖進取。庶祖考英靈、為之欣慰矣。尚其欽哉。」王受印敕。行三跪九叩頭禮。xv

 この辺は前回も訳したのでスルーするとして、要するに4/7にドルゴンが入関作戦の総司令官に就任したわけです。

 更に翌日儀式が行われたようです。

初八日 乙丑 晴夜少雨
 (中略)辰時、舉動率兩大君、進參大衙門之會。諸王・諸將咸集於大衙門中庭。東庭九王作頭、十王以下諸將序立。西庭右眞王及大王作頭、孔・耿兩將小吏阿口序立、世子立於小吏之左。左右排立畢、皇帝乘黃轎、陳軍樂、至八角殿上坐、九王前進、跪于下階、帝賜帽・靴・衣服・毛具・弓矢凡九種物、王受之、拜叩而退、其次十王以下諸從征者、皆跪於庭下、各賜錦衣襲。世子則具鞍馬一匹。行茶禮、徧及從者而罷。蓋以明日出師、九王專征。故有此受命之舉也。(後略)xvi

 《世祖章皇帝實録》にはない4/8の記事が《昭顕世子瀋陽日記》にあったので載せておきます。大衙門大政殿の前廷で東はドルゴン(九王)、ドド(十王)をはじめとした諸将が階位に従って並び、西にはジルガラン(右眞王)とダイシャン(大王)を始め孔有徳耿仲明両将軍が並び、昭顕世子もその末席に並びました。皆が並び終わると、軍楽が演奏される中、順治帝が乗った黄轎が入場して八角殿大政殿で黄轎から降りて玉座に座りました。ドルゴンは前に進み出て階下で跪き、順治帝はおよそ九種の礼物を下賜し、ドルゴンは拝跪してこれを受け取って退出しました。ドドらもそれに続き、出征する者は順繰りに皆跪き、各々錦衣を下賜されました。世子も鞍と馬を下賜されました。祭祀を行い、明日からの出兵の儀式を終えます。一連の行事はドルゴンが入関作戦の総司令官に就任する儀式だったようです。

 《世祖章皇帝實録》では更に翌日、又お祭りを…。というか、この記事は内容的には《昭顕世子瀋陽日記》と変わりませんから、日付間違えたんですかねぇ。儀式に参加したメンバーも同じですし、昭顕世子の名前も入っていますから、間違いないでしょう。

(九日)是日、攝政和碩睿親王多爾衮、同多羅豫郡王多鐸、多羅武英郡王阿濟格、恭順王孔有德、懷順王耿仲明、智順王尚可喜、多羅貝勒羅洛宏、固山貝子尼堪、博洛、輔國公滿達海、吞齊喀、博和託、和託、續順公沈志祥、朝鮮世子李●xvii、暨八旗固山額真、梅勒章京、詣堂子。奏樂。行禮。又陳列八纛。向天行禮畢。統領滿洲蒙古兵三之二、及漢軍、恭順等三王、續順公兵、聲礮起行。xviii

 こちらの方が参加者については詳しいですね。以前の記事にでも触れましたが、後のドルゴン政権を担う人材が勢揃いです(精々、謙郡王ワクダ、順承郡王レクデフンあたりが抜けてるくらい)。
 一方、《昭顕世子瀋陽日記》の同日付の記述は出発時の様子です。

初九日 丙寅 晴大風晦冥
 世子巳時、自瀋陽館所離發西行。(中略)朝、皇帝送酒餞若干物種於館所。世子親受於中門外。(中略)世子出坐大門外、兩大君亦同坐、待諸王騎馬、同時發行。由東門而出、隨諸王往城隍堂、行祭後、因出北秫門外、結陣處駐駕。(中略)世子座於大門之時、龍將與所謂戸判者、來謁世子前、辟左右、相語而罷、未知爲某事也。世子出往北門之後、鄭譯言、今番勅書、初欲順付於大君之行、今聞本國有逆變、欲爲詳問。且向化刷還事、永爲蕩滌。故勅書亦當持去。爲此三件事、上使於士介博氏・副使鄭自行定、於再明與大君一時出往云云。發行臨時、賜文學襦衣一領、他餘治行諸事及陪從員役夫馬容入之數。詳見西行日記。xix

 昭顕世子大門(ムクデン皇宮正門の大清門?)に座して、二弟・鳳林大君、三弟・麟坪大君も並んで座っていたと。諸王は騎馬で待機して、同時に東門を経由して出発し、城隍堂に立ち寄って祭祀を行って北秫門?より外に出て進駐しました。調べたところ、この頃のムクデンには北秫門という名前の門はありませんので、実際にはどこから出たのかは分かりません。出発に際してイングルダイグルマフン(鄭訳)が挨拶に来てますね。この辺案外面倒見いいんでは?とか思ってしまいますが、グルマフンは相変わらず恩着せがましいですね…。
 さて、《昭顕世子瀋陽日記》は瀋陽世子居館の随員の記録なので、瀋陽に入ってきた情報しか書かれてないのですが、最期に「詳見西行日記」とある通り、《昭顕世子瀋陽日記》には昭顕世子に従って入関軍に従軍した随員の記録も付録としてついています。清朝の入関作戦に関する同時代、一次史料ですし、かなり詳しいので重宝します。

 と、今回は長くなってしまったので、ドルゴン以逸待労の検証はまた次回に持ち越しです。

参考文献:

岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46
  2. 《明史》卷24 本紀第24 莊烈帝 朱由檢 二 崇禎十七年
  3. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 にも”十六日入關。”とある。
  4. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 にも”二十(日)抵豐潤,京師陷矣。三桂聞變,頓兵山海。”とある。
  5. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末 には”三月廿七(日),將自成守邊兵二萬,盡行砍殺,止餘三十二人。賊將負重傷逃歸。三桂遂據山海關。報至,自成遣叛將唐通,統兵往禦,又遣叛將白廣恩,統兵往永平救援。”とあり、李自成側と呉三桂の小競り合いがあった後に山海関に戻り、唐通と白広恩を派遣して永平府を守らせたとあるので、《清史稿》とは若干時系列が異なる。
  6. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂
  7. 《大清世祖章皇帝實録》巻3
  8. 《世祖章皇帝實錄》巻3
  9. 《世祖章皇帝實錄》巻3
  10. 《昭顕世子瀋陽日記》甲申年
  11. 内藤虎次郎=湖南『満蒙叢書 第9巻 瀋陽日記』の序文にある「唯書中滿洲の地名・人名等を記するに朝鮮字音を用ひらる爲めに之を清朝の記錄と對照するに頗る困難を感ずるものあり。例えば(中略)剛林を加隣若しくは葛林と記し(後略)」という説に従った。
  12. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 仁祖22年4月10日
  13. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂
  14. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末⇒”二十九日,自成使唐通與文武二人犒師銀四萬,賚吳襄手書,招三桂(中略)遂佯喜曰:「願一見東宮而即降。」報書復命,賊計以定王往,既日遣賊將挈定王赴唐通營。”
  15. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  16. 《昭顕世子瀋陽日記》甲申年
  17. 昭顕世子・李(湍-而+王)
  18. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  19. 《昭顕世子瀋陽日記》甲申年
Viewing all 63 articles
Browse latest View live