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順治元年入関前夜2

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 前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでいてもう一つ引っかかった部分をネタにします。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 ドルゴンが兵法三十六計以逸待労を以て李自成をいてこましたんやで!と言うことになってるけど、そうだっけ?と言うお話です。

 まずは、前回ようやっと4/9にムクデン盛京瀋陽を出発した入関作戦軍ですが、今回は呉三桂の使者と遭遇するまでの進路について確認して見ました。もうすでに以逸待労まで行かないこと確定です。悲しい…。
 で、まずは勢い込んで《大清世祖実録》を確認したんですが、あまり手がかりがありません。

(四月)庚午(十三日)。攝政和碩睿親王師次遼河地方。ii
(四月)壬申(十五日)。攝政和碩睿親王師次翁後。iii

 とりあえず、遼河地方を経由して翁後という場所に進軍したことは分かりますが、翁後という場所が分からない以上なんともなりません。

 仕方がないので、《清初内国史院满文档案譯编》を確認して見たのですが…。

 四月初九日。(中略)是日、帅次定丘。
 初十日、帅次六哈。
 十一日、帅次杨柽木。
 十二日、帅次张郭台口。
 十三日、帅次辽河地方。(中略)
 十四日、帅次卓所。
 十五日、帅次翁后。(中略)iv

 定丘六哈張郭臺口卓所については不明です。楊檉木については《皇朝文獻通考》、《廣寧縣志》でヒットはしたものの、牧場があると言うことが分かるだけで、具体的な場所については分かりませんでした。

 ここで暗礁に乗り上げかけたのですが、《昭顕世子瀋陽日記》を確認したところ、かなり具体的でその行程が記述されています。長いですが、ちょっと引用しましょう。

甲申 四月 初九日 丙寅 大風
 世子瀋陽離發西行。(中略)出西門外十里許射場前。祇送。○是日未時、至永安橋西邊止宿。去九王陣。纔數里許。蓋九王使之常近行陣中也。v

 と、こんな感じで毎日記述がある上にかなり具体的です。まず、昭顕世子一行は4/9はムクデン瀋陽西門から出発し、昼過ぎ(未時)には瀋陽西方にある永安橋に到達して、橋を渡りきって西側に来た段階で宿営しています。また、日記を読むと世子はこの日に限らず、ドルゴン九王の陣営のほど近くに居たようですから、この日記を追っていけば概ねドルゴンの進軍行程が分かりそうですね。

初十日 丁卯 大風
 (中略)○卯時、離發、在九王陣中、前進西出古長城。卽遼・蒙交界也。九王暫時駐兵、世子亦下馬少歇。申時、止宿于遼河東邊。去永安六十里也。vi

 次いで4/10には朝方(卯時)には出発し、長城を西に前進しています。この時代ほとんど用をなさなくなっていた古長城遼東鎮長城を越えて南モンゴル方面に進軍しているようですね。日記も遼・蒙の境界としています。昼過ぎ(申時)には遼河の東側に到着して宿営してます。この日の行軍は永安橋から60里程度の行程だったようです。この後も概ね一日60里のスピードを維持しているようです。

十一日 戊辰 晴
 (中略)○卯時、到遼河。水深盈丈、夫馬則卸鞍泅渉、輜重卜物、以船載之、而船隻鮮少、未易得濟。世子馬、久坐河邊、九王先渡、遣兩博氏、使之護涉、且送小船一隻、世子率陪從人員、安穩渡河、入見九王於陣中。因卽前進、去遼河二十里許、止宿。地名、則清人謂之狼胥山、而大野中了無山形、必是清人之訛傳也。vii

 翌4/11、この日も朝方(卯時)には出発して遼河に到達しますが、水深が深かったために行軍が難渋したようです。船を使って渡河したようですが、準備不足でそもそも船が明らかに足りていなかったようです。世子の馬は川辺に座ってしまい動かなかったので、ドルゴンが先に渡河してしまい、後になってドルゴンバクシ二名を派遣して船を用立てて世子一行が問題なく渡河出来るように手配しています。至れり尽くせりですね。渡りきったところで世子ドルゴンに挨拶に行ってます。そのまま20里ほど進軍して狼胥山と言うところで宿営したようです。これがどこなのかは不明ですが、この日記の記録者も山なんてどこにもないから清人の訛伝ではないかとしています。《清初内国史院满文档案譯编》では4/11には楊檉木に宿営したことになっていますから、あるいは楊檉木の事なのかもしれませんが、なんとも言えませんね。

十二日 已巳 朝乍雨晝晴夜雨
 (中略)○當午、九王駐兵、世子亦少歇于陣中。陪從人員、分賜羊肉・蜜果。世子往見九王於陣中、只率譯官徐尚賢輩數人而已、餘不得從焉。○申時、到豆乙非、止宿、去狼胥山、四十里許矣。○九王送二雉於世子前。viii

 4/12は朝から雨で行軍に難渋したようですが、昼頃には雨もやんだようで、お昼(當午)には兵を休めて、世子一行にはドルゴンから羊肉や蜜果が配られます。世子は通訳のみを連れてドルゴンの陣を訪れています。他の随員が同行出来なかったと言うことは密談でもしたんでしょうか?ともあれ、昼過ぎ(申時)には豆乙非という場所に着き、宿営したようです。この地名も場所が不明です。《清初内国史院满文档案譯编》では4/12には張郭臺口と言う場所に宿営したとありますが、これもなんだか違いそうですね…。この日は雨のため進軍が遅れて狼胥山からは40里しか進軍出来なかったようです。この日、ドルゴンは雉を二羽、世子に届けたようですね。結構面倒見がいいように感じます。

十三日 庚午 晴
 (中略)○卯時、發行(中略)。九王駐兵、坐於丘陵上、世子亦少歇于陣外。陪從人員、分賜羊肉・蜜果。○申時、行到地名愁乙古。(中略)則錦州衛所管屯所、而南去錦州三日程云矣。(中略)去豆乙非六十里許矣。ix

 4/13はまた朝方(卯時)には出発して、途中ドルゴンが丘の上で休憩して、また世子一行に羊肉と蜜果が配られます。この頃はわりに折に触れて羊肉と蜜果が配られてますね。昼過ぎ(申時)には愁乙古に到着して宿営したようです。この地名も場所が比定出来ないんですが、《大清世祖實録》及び《清初内国史院满文档案譯编》では4/13には遼河地方に到達したことになっています。ご覧のように《昭顕世子瀋陽日記》の記述とは日程が2日ほどズレていますが、この辺のズレはどう考えるかですね。ともあれ、愁乙古錦州衛管轄の屯所があり、錦州からは3日の旅程だそうです。1日60里計算だと180里でしょうか。この日は豆乙非から60里進軍したようです。

十四日 辛未 風
 (中略)○卯時、發行、前進出柵門外、始見蒙人之居。或氈車、或蘆幕、五六成屯、處處居焉。葛林博氏於中路、以九王之言來傳於世子前曰、明日欲為行獵、世子亦抄率善騎射者從焉。世子曰、山乎、野乎。博氏曰、明日所經、一面有山、而所稱多獸、故王欲與世子行獵耳。世子曰、敢不惟命。葛林卽還本陣。○是日、行六十里、許蒙古村止宿陣。x

 4/14もまた朝方(卯時)には出発し、柵門?を出たとあります。ここで世子一行は始めてモンゴル人の居住する場所を見たと記しています。長城を越えても柵門?を越えるまでは漢人の居住地だったみたいですね。途中、ガリン・バクシ=葛林博氏が世子ドルゴンからの伝言を伝えに来ます。曰く、明日猟を行いたいので、世子は騎射が巧みな者を選んで随行させるように、と。世子が山に行くのか野で行うのかガリンに問うと、明日行く場所は山があって野生の獣が多いという話なので、ドルゴン世子と猟をしたいとのことだ…と言うので山に行って猟に行く予定だったようです。従軍中にしては暢気な気もしますが、巻き狩りが軍事演習の意味を持つといいますし、士気を上げる意味もあったのでしょう。世子が必ずや命に従いますと返答するとガリンは本陣に帰っていったようです。この日も60里の行軍を行ったものの、モンゴルの村落と言うだけで地名を記していません。《清初内国史院满文档案譯编》では4/14は卓所と言う場所に宿営したとあります。

十五日 壬申 風
 (中略)○卯時、行軍五里之許、九王駐兵不進、未知其由。俄聞有俘獲漢人之說。世子使譯官徐尚賢、微探于陣中。則范文程密言曰、山海總兵吳三桂、遣副總一人・游擊一人來言、西流賊春初、犯圍皇城。三月、皇城見陷、皇帝兵逼自縊、后妃亦皆自焚、國事至此、已無可爲。賊鋒東指、列郡瓦解、唯有山海關獨存、而力弱兵單、勢難抵當。今聞大王業已出兵、若及此時、促兵來救、則當開山海關門、以迎大王。大王一入關門、則北京指日可定、願速進兵。九王欲探其言之虛實、見其妻弟拜然、與漢將一人、偕往山海關、漢將一人、則方留在軍中云云、而軍機甚密、末能詳知矣。○夕時、衙譯李李芿叱石、以九王分付、來言曰、自明日、當為倍程(中略)xi

 4/15も朝方(卯時)には出発しますが、前日約束した猟を行ったわけでもなく、出発して5里のところでドルゴンは進軍を止めてしまいます。世子一行も理由が分からず混乱したようですが、その内、漢人を捕らえたという噂話を耳にしたようです。世子が通訳に命じてドルゴンの陣中に探りを入れさせたところ、范文程からこっそり教えて貰ったところ、山海関総兵(実際には山海関を実効支配しているに過ぎないのだけど)呉三桂から副総1名と遊撃1名が派遣されてきたようだと。その二人が言うには、李自成軍が春先に皇城北京を包囲し、3月には陥落してしまった。皇帝陛下は李自成軍が迫ってきたので自縊し、后妃はみな自ら火を放ってしまった。明朝もことここに至ってはなすすべもなかった。李自成軍が東に進むと、各地の軍は瓦解してしまって山海関を残すのみとなってしまった。しかし、山海関の兵は弱い上に少なく、単独では李自成に対抗出来ない。そこで、今、大王=ドルゴンが大業を興すために兵を挙げ他と聞いた。もしこの好機に援軍を出していただけるのであれば、山海関の門を開いて大王をお迎えしましょう。大王が一度山海関の門を潜れば、北京は程なく制圧出来ましょう。願わくは疾く兵を進めて下さい…とのことであった。呉三桂が3月終わりに派遣した副将楊珅、遊撃郭雲龍ドルゴンの本陣に到着したと言うことでしょうね。范文程は軍機をこんなにペラペラ話していいのか心配になりますが、お陰でドルゴンにとっては北京の陥落との滅亡は全くの寝耳の水であったことと、呉三桂の使者が想定しないタイミングでやってきたことが分かります。ともあれ、まずは話を続けます。
 ドルゴンは使者のもたらした情報の虚実を知るため、義弟(妻の弟?)拜然?と漢人将軍一人を山海関に遣って、(拜然はすぐに引き返させて?)漢人将軍はそのまま山海関に留めようとしたとかなんとか、軍機なので秘匿性が高くこれ以上の詳細は分からなかった…と書かれてますが、十分なんじゃないかとw夕方(夕時)、通訳からドルゴンの命令として、明日からは倍の行程を進軍を行う旨伝達された。
 と言うわけで、《昭顕世子瀋陽日記》には呉三桂の使者と遭遇した場所の地名は記録していませんが、《大清世祖實録》及び《清初内国史院满文档案譯编》では、翁後と言う場所であったと記されています。宮寶利《順治事典》遠流出版公司 では翁後遼寧阜新xiiとしています。おそらくは翁後遼寧省阜新市に比定しているんでしょうけど、根拠が書かれていません。しかし、元々ドルゴン遼東鎮長城を越えて後の承徳あたりを経由、喜峯口あたりから薊鎮長城を越えて薊州経由で、若しくは古北口あたりから薊鎮長城を越えて密雲県を経由して北京を攻撃するつもりだったようです。当然、ドルゴン瀋陽から西行して医巫閭山の北を進軍し、その後の進軍から考えるとおそらくは遼寧省阜新市近辺を行軍していた時に呉三桂の使者と遭遇したと考えるのは妥当です。もう一つ根拠が欲しいところですが、自分も基本的には翁後阜新市近辺と言う説には同意します。
 しかし、呉三桂山海関から使者を派遣した3月後半は、まだドルゴンは入関作戦の軍を出発してすらいない時期ですから、当然、使者はムクデン瀋陽に向けて出発したはずです。通常、山海関から瀋陽に向かおうとすれば遼西走廊を素直に東行して医巫閭山の南を通るはずです。となるならば、彼ら自身が「今聞大王業已出兵」と言うように、道中ドルゴンが進軍していることを人から聞いたと言うことになります。では誰が使者にドルゴンの進軍ルートを教えたのかというと、史書にはどこにも書かれていませんが、遼西走廊の要衝・錦州衛を鎮守していたアイドゥリが関係していたと思われます。4/13の愁乙古での記述にあるとおり、この時点ではドルゴン錦州衛の管轄区間を進軍していたわけです。使者は錦州アイドゥリからドルゴンの遠征を知らされて、東行して直接瀋陽に行くのをやめて、錦州から北行して義州を経由して翁後に至ったのだと考えなければ、使者が都合良く遠回りしてドルゴンに遭遇したなんて幸運が発生した理屈がつきません。《大清世祖実録》をサラッと見るとこの頃の錦州防衛は各旗のグサ・エジェンが二ヶ月ごとに交代しているようなので、2月後半に赴任したアイドゥリは少なくとも4月後半までは錦州には居たはずです。この使者が4/15段階でドルゴンに遭遇しなければ、その日はドルゴン世子らと楽しく巻き狩りしてそのまま承徳方面に西行していたはずで、そうこうしているうちに呉三桂李自成に制圧され、清軍長城を越えて北京をついたとしても持久戦に持ち込まれて、負けないまでも撤退に追い込まれた可能性もあります(そもそも南モンゴル経由だと兵站線が細すぎて補給が維持出来ないので、最終的には略奪に走るしかなくなるのはホンタイジ時代の華北侵入の顛末を見ると明らか)。アイドゥリの功績は下手をすると、鑲藍旗旗王であるジルガランを凌駕する可能性もありますから、6月にジルガランの独断で刑死したのはいさかタイミングが良すぎる気もするんですよね(個人の感想です)…。

 と、《大清世祖実録》、《清初内国史院满文档案譯编》、《昭顕世子瀋陽日記》はともに呉三桂の使者とドルゴンが遭遇したのは4/15であったとするのですが、これとまた違う主張をする史料があるので一応紹介しておきます。

(仁祖二十二年五月七日)淸國付勑書于譯官之出來者, 有曰:
四月十三日, 有明總兵官吳三桂, 差副將楊新、遊擊柯遇隆, 至軍請降言: “流賊已尅北京, 崇禎皇帝及后俱自縊。 賊酋(李志誠)〔李自成〕 , 三月二十三日卽位稱帝, 國號大順, 建元永昌。 屢差人招吳揔兵, 吳揔兵不從, 率家屬及寧遠兵民, 堅守山海關, 欲附淸國, 以報故主之仇。” 云。 九王答書付來官, 許以裂土封王, 遂兼程前進。xiii

 このように、呉三桂に関する記述が若干漂白されている気がしますが、清朝から朝鮮王朝への国書には呉三桂からの使者である副將楊新(楊珅)と遊擊柯遇隆(郭雲龍)がドルゴンと遭遇したのは4/13である!と、書かれていたとあります。固有名詞が結構いい加減なのは、李自成すらそうなので気にしないことにするとしても、やはり2日ズレています。これだけならマンジュ朝鮮への翻訳時の書き間違いかな?と思うのですが、もう一つありまして…。

(順治元年)五月初一日。皇帝勅谕朝鲜国王李倧曰。朕命摄政和硕睿亲王持奉命大将军之印、率大军西征明国。摄政和硕睿亲王于四月二十八日奏曰、四月十三日、明总兵吴三桂遣副将杨珅、游击郭云龙来禀、流贼已陥燕京、崇祯帝后自缢。贼主李自成于三月二十二日僭称帝、国号大顺、改元永昌、又遣人招降吴三桂。三桂不从、遂自宁远取其家口、率军民自永平府返据山海关、欲来投、为崇祯帝报仇。遂谕其使曰。若来降、即裂地封王。谕毕、令赉书而去。xiv

 ほぼ同じ内容ですね…。《清初内国史院满文档案譯编》が満文漢訳する時に《朝鮮實録》に引きずられた可能性はあるんですが、遼河到着あたりで《大清世祖實録》、《清初内国史院满文档案譯编》と《昭顕世子瀋陽日記》にも2日のズレはあったので元になった史料にそうあるのかは謎なんですが、とりあえず日付に信憑性のある日記の方を信じて呉三桂の使者とドルゴンの遭遇は4/15としておきます。
 それはそれとして、《大清世祖實録》にある4/13の洪承疇の献策は謎と言うことになりますね…。遼河地方での献策と言うし本当に謎です。

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:

岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46
  2. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  3. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  4. 《清初内国史院满文档案譯编》P.1~3
  5. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記(訳註 昭顯瀋陽日記4』では北行日記としているが、『影印 昭顯瀋陽日記』を確認したところ、元々この従軍記にはタイトルがない。《瀋陽日記》本文では西行日記としていることからこれに従った。)
  6. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  7. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  8. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  9. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  10. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  11. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  12. 《順治事典》P.72
  13. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 巻45
  14. 《清初内国史院满文档案譯编》P.12

順治元年入関前夜3

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 前回と同じく、岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社 を読んでて引っかかった部分のネタです。

 まもなく第一の試練が訪れた。「流賊」李自成みずから率いる大軍が、呉三桂軍打倒のため、山海関に押し寄せてきたのである。清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。一大会戦である。満洲騎兵が大きな威力を発揮して、李自成軍は敗退、清軍は一挙に北京へなだれ込んだ。i

 ドルゴンが以逸待労の計で李自成をコテンパンにしたことになってますが、本当にそうだっけ?と言うお話です。


 まずは、前回ようやっと呉三桂の使者とドルゴン率いる清軍が遭遇した所まででしたが、今回は山海関に到着するまでの経路について確認して見ました。
 で、今回もまずは《大清世祖実録》を確認したんですが、やっぱりあまり手がかりがありません。

(四月)癸酉(十六日)。攝政和碩睿親王師次西拉塔拉。ii
(四月)丁丑(二十日)。攝政和碩睿親王軍次連山。iii
(四月)戊寅(二十一日)。師距山海關十里外。iv
(四月)己卯(二十二日)。師至山海關。v

 翁後呉三桂の使者と遭遇した清軍はその虚実を疑いながらも、4/16には西拉塔拉(現在地未詳)、次いで4/20には連山驛(辽宁省葫芦岛市连山区)に到着。遼西走廊に突入していますね。そして4/21には山海関から10里あまり離れた地点、4/22には山海関に到着しています。4/22は李自成軍と合戦した日ですから、少なくとも清軍は合戦当日朝まで行軍しています。4/16に翁後を出発して4/22に山海関に到着するまで7日かかってます。
 また、呉三桂の使者と清軍が遭遇した翁後辽宁省阜新市に比定すると、山海関までの直線距離は約280kmですが、実際の進軍は遼西走廊沿いに進みますので、Google Earthのルート検索を使うと約300kmになります。日本史上で強行軍というと誰もが思い浮かべる羽柴秀吉の中国大返しは約10日間で約200kmの行軍と言われていますが、清軍は一週間で翁後から山海関まで約300kmの行軍しています。距離は1.5倍ですが単純計算すると、中国大返しが1日約20kmに対して入関作戦は1日約43Kmです。歩兵か騎兵かの違いがあるので当然単純比較は出来ませんし、行軍速度についての優劣をつけるのがこの項の目的ではありませんが、この時の清軍中国大返しの倍以上のスピードの行軍を強行しているわけで、これを指して「十分に休息し、英気を養った」というのは流石に事実誤認ではないでしょうか?むしろ、清軍は常軌を逸した行軍スピードでヘトヘトになってろくに休息も取らずに、北京を陥落させて士気も高まる李自成の精鋭含める大軍と対峙したと認識した方が良さそうです。むしろなんで勝てたのかさっぱり分かりません。何故、清軍では戦えば必ず勝つと誰もが信じているのかもよく分からないんですが…。

 と、ある程度結論は出てしまったのですが、もうちょっと細かく行軍経路を確認するため、《清初内国史院满文档案譯编》も確認して見ましょう。

 十六日。进发山海关、师次西拉塔拉。(中略)
 十七日。师次团山堡。
 十八日。师次基扎堡。
 十九日。师次鄂新河。
 二十日。立营于连山。(中略)
 二十一日。师距山海关十里外李霞山台驻跸。(中略)
 二十二日。师至山海关。vi

 實録では4/16からどこに向かうつもりだったのか今ひとつよく分からないのですが、こちらではちゃんと山海関に向けて出発して、西拉塔拉に到着した…と書かれてます。先にも書いたように西拉塔拉と言う地名をどこに比定するのかは分かりません。團山堡については《九邊圖說》の遼東鎮部分地図の廣寧府(辽宁省锦州市北镇市)の上に地名がありますが、翁後遼寧省阜新市に比定すると、その後の進軍経路から考えるに廣寧府付近を通過すると結構な遠回りになります。また、基扎堡鄂新河についても現在地を特定出来ません。連山驛は比定出来ますが、山海関から十里の李霞山台と言うのも現在地を比定出来ませんでした。

 と、ここで終わると結局どこ行軍したんだよ…と、モヤモヤするのですが、我らが昭顕世子一行が詳細な行軍経路を記録していますので、《昭顕瀋陽日記》を見てみましょう。

十六日 癸酉 晴
 (中略)○卯時、發行。世子往見九王於行陣、迤南而行五十里許、少歇于丘陵上、又行六十里許、止宿。南去古長城、十五里也。所經多沮洳之地。至一渠、蒲柳甚密、見之無異平陸、而泥土沒馬、清人先行者、多見陷溺、僅得拔馬而出、至如騾驢之屬、顛斃於泥中者、頗多。(後略)vii

 四月十六日晴れ、朝方(卯時)出発。世子九王ドルゴンの陣に挨拶に行った。と言いますから、ドルゴン昭顕世子と同様に進軍していたと考えて良いでしょう。で、今まで西行していた進行方向を南に転じて50里行軍し、そこで休憩とってまた60里行軍して遼東鎮長城まで15里北の場所で宿営した。額面通りに受け取れば、この日の行程は110里で前々日の60里のほぼ倍ですから、前日通達された「自明日、當為倍程」という言葉も嘘ではないようですね。と、行軍中は晴れてようですが、途中菖蒲や柳が密集している水路があって、一見平地に見えるものの、落ちると馬が泥土に取られて溺れてしまったようです。ロバやラバぐらいの大きさの馬はなんとか引き出せたようですが、並以上の馬は水路から抜け出せずに死んでしまったようで、昭顕世子一行より先行していた清軍の中には結構な被害が出たと記録されています。初っぱなから落とし穴が待ってる行軍だった割にかなり進んでますね…。

十七日 庚戌 晴
 (中略)○卯時、發行、踰古長城、卽中原地界也。至臨寧城西、少歇。九王送一獐于世子前、卽受之叩謝。申時、至義州衛南二十里許、止宿。是日、行八十里。(後略)viii

 四月十七日晴れ。朝方(卯時)から出発し、遼東鎮長城を越えた。臨寧城の西に到着。…とありますが、臨寧城の現在の所在地は分かりませんでした。もしかして廣寧府城?とも思ったんですが、『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記』の方を確認しても、ちょっと筆運びがクチャクチャしている箇所で多分臨かなぁ?という感じで判別がつきません。それに、廣寧府の西となると自分が想定したルートからは外れてしまうので、やはり違うとは思うのですが、比定には到りませんでした。ただ、《清初内国史院满文档案譯编》の4/17の項では團山堡とあり、《九邊圖》では廣寧府の西北に團山堡とあるので、あるいは自分が想定している翁後の場所の比定自体が間違っているのかもしれませんが…。続けます。
 九王ドルゴン臨寧城の西で休憩を取り、世子に獐=ノロジカ一頭を下賜した。世子は叩頭して謝意を述べてノロジカを拝領した。夕方(申時)、義州衛(辽宁省锦州市义县义州镇)の南20里の場所に到着し、ここで宿営した。この日の行軍は80里。流石に倍速行軍は長続きしなかったようですが、翁後までの一日平均60里に比べると3割増しの行軍ですね。

十八日 乙亥 晴
 (中略)○卯時。發行。申時、到地名雙曷之、止宿。是日行八十里。(後略)。ix

 四月十八日晴れ。朝方(卯時)出発し、夕方(申時)に雙曷之という場所に到着して宿営。雙曷之の現在地は不明ですが、《清初内国史院满文档案譯编》では基扎堡ですね…。どちらにせよよく分かりません。この日の行軍も80里。

十九日 丙子 晴
 (中略)○卯時、發行。午時到錦州衛、大軍從北門入城中、軍馬紛沓、不成行伍矣。城內閭閻櫛比、而兵燹之後、居民鮮少。世子過祖大壽・祖大樂舊居、范文程亦偕往、周覽兩人家、其結構宏傑、甲於城中、重門複室、金碧炫耀、甃磚石砌、雕刻奇形、文垣粉牆、窮極華麗、而大壽之家、尤爲侈奢、或云、中原巨室之家、過於此者、多矣、而我國則雖至尊之居、不能如是。其華奢其黷貨取怨、以致覆敗之說、殆不虛矣。世子因過我國軍兵留屯之處、領兵將朴翰男、率軍兵五百五十四名、已往寧遠衛、只有五六名留在、死於染病者、二十餘名云矣。○未時、世子從西門出、行二十里許、止宿、出門之際、陪從相失、禁軍輩不得隨行、講院請罪、各決棍五度。(後略)x

 四月十九日晴れ。この日も朝方(卯時)から出発、夕方(午時)には錦州衛(辽宁省锦州市)に到着。清軍は北門から入場したが、軍馬が殺到して隊列を成さなかった。城内の建物が櫛の歯のように歯抜けになっていて、兵が(建物を壊して作った薪を)燃やした後は、住民が明らかに少なくなっていた。と、ここで世子はブラブラと祖大寿一族の旧家を見学したようですが、范文程も一緒に行ったようですね。本筋とは関係ないので訳出しませんが、面白いので原文は削らずにおいておきます。
 で、昼過ぎ(未時)には世子錦州衛の西門から出発して20里行軍して宿営。ここでまた進軍方向が南から西へ変わってますす。門から出発する際には世子は従者とはぐれ、禁軍は随行することが出来なかったた。と、かなり混乱していたようですね。混乱のためか、この日は延べ行軍距離が書かれていません。

二十日 丁丑 晴
 (中略)○卯時、發行、行三十里許、九王設幕下坐、請世子言曰、俺當少歇而行、世子先往止宿處、世子先行、至連山驛、城東清兵先陣、已圍布帳矣。九王追到、世子往見、俄而吳三桂、又遣將官于九王曰、賊兵已迫、朝夕且急、願如約促兵以救、九王卽發馳行、促令世子只率輕騎、上下顛倒、單騎趕行、卜駄則使司禦朴宗寧、領率追來、一行皆未及打火矣。達夜疾馳、人馬飢渴、黃埃漲天、夜色如漆、人莫開眼、咫尺不辨。至寧遠城下、夜已三更矣。不分城堞之遠近、而只見城中火暈、始知城下過去矣。過城底坑塹、出沒上下、如發山入井、魚貫跋涉、僅免顛沛、曉頭、至沙河所城外、九王駐兵小歇、世子露坐田疇間、陪從之人、各持纏牽、困頓相枕、露氣沾濕、塵沙蒙冪、顏面衣冠、變如他人。xi

 四月二十日晴れ。朝方(卯時)から出発、30里行軍したところで九王ドルゴンは陣営を張って座し、世子に先行して宿営地を設置するように命令した。世子は命令通り先行して連山驛(辽宁省葫芦岛市连山区)に到着したが、城東ではすでに先行した清兵が陣を設営しており、まさに陣幕を張っているところだった。当初、ドルゴンはこの日は連山驛で宿営するつもりだったようですが、呉三桂の使者が到着してから予定が変わります。
 ドルゴンが追いつくと世子は謁見に行った。すると、呉三桂の派遣した将官がまたやってきて、ドルゴンに「賊兵はすでに我が陣に肉薄しています。とにかく急いでください。約束通り救援が来ることを願います」と伝えました。前回の紹介部分ではドルゴンの義弟・拜然が同行していたハズですが、今回訳出した部分では特に記述はありません。また、《清史呉三桂伝を見ると、

越四日(四月二十日),王進次連山,三桂又遣雲龍齎書趣進兵。師夜發,踰寧遠,次沙河。xii

とあるので、4/15段階で使者として派遣された、副将・楊珅、遊撃・郭雲龍のうち楊珅が人質として清軍に留まったであろう事が推測出来ます。郭雲龍も超特急で往復してますね。訳に戻ります。
 ドルゴンは使者の報告を聞くや行軍を急ぎ、世子にも軽騎のみを引き連れて来るように指示した。しかし、装備のある従者が揃わなかったので、世子は単騎で先行して従者は後から追うことになった。一行は皆この日はまだ(炊事をするための)火をおこしてす暇すらなかった。…と言うことで、かなりドタバタした様子がうかがえます。
 夜になっても騎行したため、人馬ともに飢えて渇き、土煙は舞い、月や星は出ていなかったようで夜空は漆のように暗く、目を開けて行軍している人間などいない様な有様だった。寧遠城(辽宁省葫芦岛市兴城市)下についたのは、すでに夜中(三更)となっていた。城壁の遠近の判別が出来なかったので、ただ城中のかがり火を見て始めて城下を通り過ぎていると知った。とあります。で、寧遠でも足を止めることなく更に進軍します。
 沙河城(辽宁省葫芦岛市绥中县沙河镇)外に到着すると、ドルゴンは行軍を止めて休憩したので、世子は従者とともに道端のあぜ道にそのまま座った。露とほこりにまみれながら雑魚寝したので、世子も皆と同じように泥だらけになった。世子も人質とは言え旗王に次ぐ地位を認められていますから、ドルゴンを始め、従軍した旗王も似たり寄ったりの状況だったと思われます。
 連山驛で宿泊するつもりが寧遠衛を通過して沙河驛に来てようやく休憩して一眠りと言った状況ですかね…。錦州衛から沙河驛までザッと80kmですから尋常じゃない距離を一日で行軍しています。当然てんやわんやでこの日の行軍距離も記載されていません。

二十一日 戊寅 晴風
 (中略)○黎明、行軍、至四十里許、少駐卽即發。我行員役、或食或飢、過中後所・前屯衛・中前所、至關外十五里許。日已昏黑、屯兵不進、一晝夜之間、行二百里矣。供帳卜物、唯數駄隨行、而是夕、則亦不能得達、世子露坐路邊、陪從之人、借得清人軍幕、鋪排糖竹、世子入歇。經夜夕供、終不得進、一行之飢餒困頓、可知矣。○清兵披甲戒嚴、夜半移陣、駢闃之聲、四面沓至、關上砲聲、夜深不止。(後略)xiii

 四月二十一日晴れ、風あり。黎明から出発して40里行軍し、少し休憩してすぐにまた出発。世子一行は飢えを感じたら食べつつ行軍した。中後所前屯衛中前所を通過し、山海関から十五里の所に到着した。日はすでに暮れ、兵は一歩も歩けず進軍できなかった。一昼夜の間に200里行軍した。
 と言うことで、中後所前屯衛中前所は現在の辽宁省葫芦岛市绥中县にあったようです。いずれも明軍遼東に於ける軍駐屯地ですが、ここでは寧遠から山海関の間にある拠点という理解でいいかと思います。
 従者も物資もほぼ置き去りにして進軍していたので、この日の晩は世子は道端の地べたに直接座った。従者は清人から軍幕を借りて糖竹?を並べて寝床を作り、世子はそこで休んだ。夜通し歩きつめたためついに進めなくなって、一行は腹は減り喉は渇き疲れ果ててしまった。しかし、清兵は鎧を着けたまま厳戒態勢のまま、夜半には声を殺して陣形を崩さずに軍を移動させた。四方から靴音が響き、関上から砲声が鳴り響いたが、夜が更けても止まなかった。

 誰とどこで戦ってたんや!って話ですが、世子一行はこれを記していません。しかし、《清史稿呉三桂伝を見ると、詳しいことが書いてあったりします。

明日(四月二十一日),距山海關十里。三桂遣邏卒報自成將唐通出邊立營,王遣兵攻之,戰於一片石,通敗走。xiv

 山海関から15里だったのが10里になってる気がしますが、ともかくこの日、世子一行は気が付かなかった様ですが、また呉三桂から使者が来たようですね。李自成に降った定西伯唐通長城線を越えて宿営している旨報告があった。ドルゴンは報告を聞いて唐通を攻め、山海関の隣の関門・一片石(辽宁省葫芦岛市九门口)で合戦に及び、唐通は敗走した。
 よくまぁ、明け方から行軍続けて食うや食わずで、昭顕世子一行はもう一歩も前に進めない!と言う状態にあったのに、清軍よりは地理にも明るかったはずの唐通軍を鎧袖一触で敗走させています。清軍のタフさ加減に驚きますね。というか、これなんで当然のように勝ってるんですかねぇ…。相手と比較するまでもなくヘロヘロに疲れてる軍なんですが…。

 同時代資料で一片石という地名が確認出来ず、《清史稿》だけではいささか不安なのでもう一種上げておきます。

二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬(中略)欲降三桂。三桂不,賊恐奔投我國,差僞摠兵官唐通 ,率兵數百,從一片石出,要截其路。是晩遇我前鋒,殺死百餘, 唐通夜遁入關。xv

 《朝鮮王朝實録》の仁祖22年5月7日の条に、瀋陽から帰国した鳳林大君一行が携えた昭顕世子からの報告を伝える…という体でこの記事があります。李自成李志誠になってますが、まぁ、朝鮮側の李自成の認識はこんなもんなんです。
 李自成は歩馬二十万を引き連れて山海関に4/21に到着し、呉三桂に投降を呼びかけた。しかし、呉三桂はこれに従わなかったため、李自成呉三桂清朝に投降することを恐れて総兵官唐通に兵数百を付けて一片石から長城を越えさせ、進路を防ごうとした。その晩に清朝の先鋒と遭遇戦になり、唐通は百余の損害を出したので、夜長城を越えて逃げた。
 内容的には《清史稿》とは矛盾しません。とはいえ、一片石山海関は関門としては隣で距離も15km程度とそう離れていないものの、遼西回廊から山海関へ行軍するには遠回りになります。一刻も早く山海関に行きたいのであれば矛盾するように思いますが、ここでは呉三桂の要請を受けてドルゴンはやや遠回りをして山海関に向かったと解釈しておきます。しかし、割とドルゴンも律儀に呉三桂の要請を聞き入れてますよね。
 で、ようやく翌日四月二十二日には一行は山海関にたどり着きます。

 と言うわけで長くなるので次回に続くのです。 

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:

岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ ─朝鮮出兵から日露戦争へ─』講談社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. 『清朝の興亡と中華のゆくえ』P.46
  2. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  3. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  4. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  5. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  6. 《清初内国史院满文档案譯编》P.4~5
  7. 《昭顕瀋陽日記》西行日記
  8. 《昭顕世子瀋陽日記》西行日記
  9. 《昭顕瀋陽日記》西行日記
  10. 《昭顕瀋陽日記》西行日記
  11. 《昭顕瀋陽日記》西行日記
  12. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂
  13. 《昭顕瀋陽日記》西行日記
  14. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂
  15. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 22年5月7日条

決戦、山海関─昭顕世子の見た入関

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 所定の目的は達成しましたが、折角なので続けて山海関の戦いのあたりを訳していきます。と言うわけで、山海関の戦いの当日です。

二十二日 己卯 晴風
 (中略)○平明、清兵進迫關門五里許、煙塵下、炮聲大發、俄而吳三桂、率諸將十數員・甲軍數百騎、出城迎降。九王受拜禮於陣中、進兵城下數里許、下馬而坐。漢人・清人、頻數往來、清兵左右陣、一時馳入關門、竪白旗於城上然後、九王繼之入關。

 四月二十二日、晴、風あり。明け方から清軍は軍を進め、山海関から五里に迫ったところで行軍を止めた。煙塵立ち籠め砲声鳴り響く中、にわかに呉三桂は将十数人、兵数百騎を率いて山海関の城塞から出て降伏のため清軍を出迎えた。九王ドルゴンは陣中で呉三桂の拝礼を受け、兵を城下数里の場所に移動させ、下馬してそこに座した。呉三桂側=漢人ドルゴン側=清人の間で頻りに使者が往来した後、清軍の先遣隊が山海関の中に入った。しばらくして、白旗山海関城門に立てられたのを見て、ドルゴンはようやくこれに続いて入関した。
 山海関に到着した後もドルゴン呉三桂の欺し討ちを用心していたって言うことでしょうか。先遣隊をやって山海関の城門を偵察の上、敵意がないことを確認して白旗を城門上に立てたと…この白旗って鑲白旗なり正白旗白旗ですかね…。

 ついでなので実録も確認して見ましょう。

(順治元年四月)己卯(二十二日)。師至山海關。吳三桂率衆出迎。王大喜。設儀仗。吹螺。同三桂向天行禮畢。三桂率所屬各官謁王。王謂三桂曰。爾回、可令爾兵各以白布系肩為號。不然、同係漢人、以何爲辨。恐致誤殺。語畢、令之先行。遂入關。i

 と言うわけで、こちらを確認すると、城下で呉三桂が降伏するに際してワザワザ儀仗を設けたり天に対して祭礼を受けた事になってますが、昭顕瀋陽日記では拝礼程度になっていますね。なので、いくらか略式だった事が予想出来ます。まぁ、そんな大がかりな儀礼をやってたら、いまにも攻め殺されちゃうよー!と何度も使者を送ってきた呉三桂にしては余裕あるな…って事になりますしね。個人的には、ドルゴン呉三桂に、殺されたくなかったら兵に目印のために白い布を肩に巻いておけ!と指示を出しているのも、ちょっとイラッとしたニュアンス感じます。実際、明軍の降兵同士が対戦する局面なので(実際、この一日前に清軍は李自成の勢力下にある明の降兵・唐通軍と交戦している)、同じ装備の漢人だと見分けが付かないので同士討ちになる可能性があるというのは確かにそうでしょう。とまぁ、山海関に到着した時点で行き交った使者がこういった条件を伝えたんですかねぇ…。で、呉三桂に先行することを命じてようやく入関するわけです。

蓋吳將、與流賊交兵而出城矣。兩陣酣戰于城內數里許廟堂前、飛丸亂射于城門。世子倚城底菜圃中牆壁而坐、九王所駐處、纔隔五六家矣。九王請世子。世子卽就入見、坐未定、九王便起上馬曰、世子亦當隨往戰所。

 呉三桂は流賊=李自成軍と交戦するため出陣した。両陣営は城内から数里離れた廟前で激しくぶつかり、流れ弾や砲弾が城門に当たった。世子は城内にある菜園?の牆壁で休んだが、九王ドルゴンがいる場所から五~六家ほど離れた場所だった。ドルゴン世子を呼んだので、世子はすぐ謁見に行ったものの座る暇もなく、ドルゴンは馬に乗ると世子に従軍して戦場に赴くよう指示を出した。
 …と言うことで、清軍が出陣する前に呉三桂が単独で李自成軍と合戦していたようですね。お廟の前で合戦に及んだ…というのは妙に具体的で説得力あります。恐らくこの後、呉三桂軍は一時退却して清軍と合流したのだと思われます。自分は最初、《清実録》読んだ時に昭顕世子の従軍すら疑ったんですが山海関に実際行っていたようです。失礼致しました。ともあれ、この辺は実録には全く記述のない部分ですから貴重な記録です。まぁ、降伏した軍はまずは矢面に立たされますから、そういう意味だとは思いますが、まだまだドルゴン呉三桂の事を信じ切れていなかったとも取れますかね…。

 更に続けます。

世子不得己黽勉隨行、躬擐甲胄、立於矢石之所、禁軍披甲者、只四人、其餘陪從之人、皆戰服而已、炮聲如電、矢集如雨。清兵三吹角三吶喊、一時衝突賊陣、發矢數三巡、劍光閃爍。

 世子はすでに気力が尽きていて、自分一人で甲冑を纏って矢石の飛び交う場所に出陣出来そうになかったので、禁軍の甲冑を着ている者を四人だけを出陣させた。その他の従者は従軍しなかった。砲撃は雷のように響き、矢は雨のように降り注いだ。清兵は三度角笛を吹いて三度突撃し、一気に敵陣に突っ込んで矢を三度射かけ、剣光は爛々と閃いた。
 と、修辞はともかくとして、世子自身は精魂尽き果てて出陣は出来なかったようですが、禁軍四名を出陣させて李自成軍への攻撃に加わったようです。しかし、肝心の山海関の戦いの経過が、バーンと行ってドーンと当たったら敵がガーッと散った程度のことしか書いてませんね…。まぁ山海関の戦いに戦況についてはどの記録見ても大同小異なんですが、清軍が突入して短時間のうちに李自成の大軍を打ち破ったという点だけは一致しています。

 もっと続けましょう。

是時、風勢大作、一陣黃埃、自近而遠、始知賊兵之敗北也、一食之頃、戰場空虛、積屍相枕、彌滿大野、騎賊之奔北者、追逐二十里、至城東海口、盡爲斬殺、其投水溺死者、亦不知其幾矣。初更、九王還陣于關門五里許戰場近處、世子隋還、陣外止宿。我國砲手一百三十五名、自寧遠衛入來、而方戰之時、未及用焉。(後略)

 この時、強風が吹いて一陣の黄塵が自陣から敵陣に向けて吹き抜け、始めて敵軍が敗北したことを世子一行は知った。食事を取る頃には戦場は閑散として、見渡す限り屍が互いを枕にして積み重なっていた。騎行して20里ほど掃討戦を行ったものの、山海関の東側(実際には南側)は海となっていたため、追撃を避けて逃げ惑って溺死する李自成軍の兵士が数知れずいた。初更(夜19~20時頃)、ドルゴンは軍を引き返して山海関から5里離れた戦場近くに宿営し、世子ドルゴンに従って帰陣し、陣の外に宿営した。朝鮮国の砲手135名を寧遠衛から引き連れて来たが、山海関の戦いでは投入されなかった。
 と言うわけで、山海関の戦いの際に強風が吹いたことは《清實録》にも見えますが、《昭顕瀋陽日記》でも確認が取れるわけです。《清実録》を確認するに、李自成軍は数を頼りに横陣を敷いて呉三桂軍の殲滅を図ったようですが、強風が止んだ瞬間を捉えて清軍が突撃するや一気に陣が崩れ、高みの見物を決め込んでいた李自成は戦況を見て慌てて逃亡したようです。

 ともあれ、ドルゴン率いる清軍は途中恐らく脱落者を出しつつ昼夜休まず200里進軍した翌日、明け方から進軍して午前中に山海関に到着、さして休憩も取らずに昼過ぎには李自成軍と対陣して戦闘を行いこれを大破、追撃戦を展開して残党を散々追い回して夜になってようやく山海関外に宿営した…と言うコトになりますね。《昭顕瀋陽日記》を読む限りでは、「清軍は十分に休息し、英気を養ったのちに、城門を開いて打って出た。」という主張は事実と認めるわけには行きません。まぁ、山海関に到着してから出陣するまで十分に休息して英気をやしなっとるがな!と言う方もおられるかもしれませんが…。

 この辺、念のため《清実録》、《清史列傳》と《清史稿》の呉三桂伝の該当箇所を抜き出してみるとこんな感じです。

《清実録》⇒(順治元年四月)己卯(二十二日)。(中略)時賊首李自成、率馬步兵二十餘萬、自北山橫亘至海、列陣以待。是日、大風迅作。塵沙蔽天。咫尺莫辨。我軍對賊布陣、不能橫列及海。攝政和碩睿親王、集諸王・貝勒・貝子・公及諸大臣等、謂曰。爾等毋得越伍躁進。此兵不可輕擊。須各努力。破此則大業成矣。我兵可向海對賊陣尾。鱗次布列。吳三桂兵、分列右翼之末。號令畢。諸軍齊列。及進兵。令軍士呼噪者再。風遂止。各對陣奮擊。大敗賊衆。追殺至四十里。ii

《清史列伝》⇒明日(四月二十二日)、(中略)自成營北山、横亙至海。大兵對賊布陣、三桂居右翼末、悉出精鋭搏戰。時大風揚沙、戰良久、未決、大兵呼聲再振、風止、從三桂陣右衝賊中堅、騰躍合撃、大破賊、追奔四十里。iii

《清史稿》又明日(四月二十二日),(中略)自成 兵橫亙山海間,列陣以待。王令諸軍向自成兵而陣,三桂兵列右翼之末。陣定,三桂先與自成兵戰,力鬥數十合。及午,大風塵起,咫尺莫能辨,師噪風止。武英郡王阿濟格、豫郡王多鐸以二萬騎自三桂陣右突入,騰躍摧陷。自成方立馬高岡觀戰,詫曰:「此滿洲兵也!」策馬下岡走,自成兵奪氣,奔潰。逐北四十里,即日王承制進三桂爵平西王,分馬步兵各萬隸焉,令前驅逐自成。iv

 と言うわけで、軍事情報が一番詳しいのが《実録》ですね。簡潔なのが《清史列傳》で《清史稿》はちょっと眉唾な情報も入ってます。
 ここから分かることは①李自成山海関東側の北山に本陣を置いて横陣を敷いて山海関を包囲して陣は海にまで達していたこと、②呉三桂右翼の端に配置されたこと、③砂嵐が吹いたこと、④砂嵐が止んだ瞬間に清軍李自成軍に殺到して打ち破ったこと、⑤追撃戦を40里ほど行ったこと…あたりですかね。詳細についてはそれぞれ異同がありますが、大筋では矛盾はない感じだと思います。ただ、《実録》⇒《清史列傳》⇒《清史稿》の順に筆が細かくなり、《清史列傳》からは、右翼の端に配置された呉三桂軍がまず単独で李自成軍と戦い決着が付かなかったところ、砂嵐が吹いて止んだ後に更に右側から清軍が突撃して李自成軍の陣が崩れたことになって、《清史稿》ではその軍を率いたのがアジゲドドだったことになっています。この辺は眉唾ですね。
 《昭顕瀋陽日記》の記事を整理すると、入関後に清軍が休憩中、呉三桂軍が単独で李自成軍と戦闘、その後で清軍が出陣して砂嵐が止んだ後に勝負が付いたといった感じですもんね。あと、《昭顕瀋陽日記》では20里だった追撃戦が他の資料では軒並み40里になっているのはなんだか盛ってる感じしますかね。片道の距離と往復の距離の差ですかね…。

 続けます。

二十三日 庚辰 朝晴晩雨
(中略)○卯時、行軍十里許、止宿。○午後、風雨大作、一行皆露處沾濕、柴草俱乏、不得打火、人馬飢困、枵腹而待明。○清人擒斬中朝兵部尚書尚時弼于軍中。時弼在北京、爲賊內應、開門引入、與賊東來、賊敗之後、被擒斬之、群情快之。

 四月二十三日、晴のち雨。朝方(卯時)から10里行軍して宿営。午後、風雨が酷くなり一行はみな屋外で雨露を凌いだ。芝草が乏しく火を起こせず、人馬は空きっ腹を抱えて朝を待った。清人兵部尚書尚時弼を軍中で捉えたためこれを斬った。尚時弼北京在任時に李自成に内応して門を開けて軍を引き入れ、その後李自成の遠征に加わり敗戦後に捕まり斬られた。民衆はこれを快挙として喜んだ。
 ここで元・明朝兵部尚書として尚時弼と言う人物が出てきます。この人物、《朝鮮王朝実録》にも記述があります。

上曰:“淸人擒兵部尙書云,何許人耶?”對曰:“擒兵部尙書尙時弼等十二人,駐軍半日,梟首軍前,此乃明朝之尙書,而爲流賊內應者也。v

 兵部尚書でありながら李自成に内応したとして、軍前にさらし首にしたようですね。ただ、この人物、清朝側の史料では出てこないんですよね…。ただ、同じ時期に斬首された李自成陣営の兵部尚書が居たようなんですが…。

(四月)庚辰(二十三日)。初賊首李自成、遣王則堯來招降吳三桂。三桂羈留之。至是送於王。王斬之。則堯、山西人。明密雲巡撫。降賊。賊授爲兵政府尚書。vi

 《清実録》によると、この日処刑されたのは李自成により呉三桂投降のための使節として派遣された王則堯のようです。この人物は明朝では密雲巡撫で、李自成政権で兵部尚書に抜擢されたようです。何か情報の混乱があって兵部尚書と間違えられたんですかね…。いずれにせよ尙時弼という人物は清朝側の史書では検索してもヒットしませんでした。

明日(四月十六日)(中略)自成聞三桂兵起,自將二十萬人以東,執襄置軍中;復遣所置兵政部尚書王則堯招三桂,三桂留不遣。(中略)
又明日(四月二十二日)(中略)三桂執則堯送王所,命斬之。vii

 まぁ、《清史稿》によると、王則堯は使者として呉三桂に派遣されてそのまま抑留されていたのを、山海関での戦勝後にドルゴンの前に引き出されて斬刑に処せられたと言うことなので、戦場で捕虜にされたらしい尙時弼とは履歴が若干異なります。もしかしたら王則堯尙時弼の二人が斬られたという可能性も無くはないんですけどね…。と言うわけで、《昭顕瀋陽日記》も絶対ではないのかもしれないという事例です。

 続けます。

○九王始稱攝政王、令諭關民、使軍兵毋得侵掠。吳將以下、盡為剃頭、吳將領率騎兵數萬、令清人一時西行。○是日、清人有出瀋者、一行形止、狀啟付送。

 九王ドルゴンは始めて摂政王と称して山海関の民衆に対して命令を下し、清軍に略奪を禁じた。呉三桂以下の将兵は皆頭を剃って辮髪にし、呉三桂率いる騎兵数万は入関作戦に加わることになった。この日、瀋陽に帰る清人が居たので報告書を預けた。
 と言うことで、興味深い事にこれまで九王で通していたドルゴン入関後に始めて摂政王を称したと書かれてますね。摂政王にはすでに崇徳8年段階で封じられていますが、この時期の公文書には奉命大将軍印(hese be aliha amba coohai ejen)を押してます。それまでは名誉職的な称号に過ぎず、自称もしてこなかった摂政王という称号を、入関後に意識的に使い始めた!って事でしょうかね…。入関翌日には摂政王として旨諭を発布していることを《昭顕瀋陽日記》は報告しています。よほど印象的だったのか、その文章を丸々転載しているので、引用しておきましょう。

攝政王令旨諭、官兵人等知道。曩者、三次往征明朝、俱俘掠而行。今者大舉、不似先番、蒙天眷佑、要當定國安民、以希大業、入邊之日、凡有歸順城池、不許殺害、除剃頭以外、秋毫毋犯、其鄉屯散居人民、亦不許妄加殺害、不許擅掠爲奴、不許跣剝衣服、不許折毀房舍、不許妄取民間器用。其攻取之城、法不可赦者、殺之、可以爲俘者、留養爲奴。其中一應財貨、摠收公用、其城屯不論攻取投順、房舍俱不許焚燒。犯此令者、殺以儆衆。其固山額眞・梅勒章京・纛章京・不申諭所屬者、罪及之。若固山額眞・梅勒章京・纛章京、已行申諭、而甲喇章京、怠惰不行申諭者、罪坐甲喇章京。若固山額眞・梅勒章京・纛章京・甲喇章京、俱已申諭、而軍人有犯者、本管牛彔章京及封得撥什庫・小撥什庫等、視所犯情、由之大小定罪。若係擺牙喇及擺牙喇之牽馬人役有犯者、罪坐本官。甲喇章京及壯達、若取粮草、須聽領去大人指揮後取。如有犯令、因便妄取民間一物者、其領去之大人及甲喇章京・牛彔章京・撥什庫等、一體問罪。若至帳房、不能發覺者、罪坐本官・牛彔章京及撥什庫等。若係擺牙喇、罪在本官・甲喇章京及壯達。凡我將祐於所屬官軍人等、當三令五申、務使通曉、特諭。

 清軍内に配られた旨諭のようですね。官・兵は皆知るべきである。過去三度明朝遠征を行いいずれも捕虜の略奪を行ったが、今回は今までと違い大義を奉じた軍である。入関した日から帰順した都市では降伏して辮髪にした者を殺害することは許されない。いかなる住民からも略奪してはいけない。妄りに殺害すること、妄りに人狩りを行うこと、妄りに衣服を剥ぎ取ること、妄りに住居を壊すこと、妄りに住民の財産を奪うことは許さない。もし清朝に反抗して攻め落とした城の住民で赦免されていない者は、殺しても捕虜にしても奴隷にしても構わないが、彼らの財貨は総て公收する。しかし、もし清朝に降伏して帰順した都市に対しては、官庁を焼き討ちにしてはいけない。もしこの禁令を犯す者があれば連帯責任とする。その後、連帯責任に関する記述が続くので訳は省きます。
 錦州で薪にされた住居について思い出せば、これまでこの法令は存在しなかったんでしょうね。李自成に打ち勝ったことで、急に義軍として振る舞うことになったみたいです。失敗したらその辺略奪して帰るつもりだったんじゃないかと思うんですが…。
 ともあれ、北京を奪取するまでは清軍の行軍は続きます。と言うわけで続きは次回以降になります。

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社
  1. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  2. 《大清世祖章皇帝實錄》卷4
  3. 《清史列傳》巻80 逆臣傳 吴三桂
  4. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂
  5. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 巻45 22年 8月23日条
  6. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  7. 《清史稿》卷474 列傳261 呉三桂

決戦、山海関─《明季北略》吳三桂請兵始末より─

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 と、ここで昭顕世子一行の山海関から北京までの行程を追う前にドルゴンが余裕綽々で李自成を迎え撃ったとする根拠となったと思われる記事をちょっと見てみましょう。

度々出している《明季北略》からです。

十七(日)甲戌,自成大隊至永平。三桂兵頗少,與自成對陣,日昃不遑暇食,遂結虛營于關外,使民詭爲軍士,多執旗鼓守之,私易士卒,入城飲食。頃之,自成薄外營,將營中老弱,盡行殺死,長驅城下,圍之數匝。又從門西一片石出口東,突外城,薄關內。三桂見自成勢大難與爭鋒,先已請兵滿洲。至是,趨之至。大清之九王,既攝政王也,已與英王、裕王,發兵十萬,將欲入塞。途遇三桂,使者疑之。與英、裕兩王計曰:「豈三桂知我南來,故設此誘耶?且吾嘗三圍彼,都不能遽克,自成一舉破之,其智勇必有大過人者。今統大衆親至,志不在小,得毋乘戰勝精甲,有窺遼之意乎?不如分兵固守,以覘動靜。」i

 順治元年3月17日、李自成永平府に到り、呉三桂李自成軍と対峙した。しかし、呉三桂軍は兵も少なければ糧食も足りなかった。
 そもそも、北京防備の任務に就くはずだった呉三桂の手元には兵は少なく備えもなかった上に、寧遠あたりから山海関までの遼西走廊に居た住民を引き連れていたのですから、糧食も足りなくなるでしょう。
 ついに呉三桂は偽装した陣営を山海関外に作り、住民を駆り出して兵に見せかけ、旗や太鼓を持たせて兵と交代させて、ようやく兵を山海関内に入れて食事を取らせた。
 現地では食料出せないけど、山海関内では出せるという状況がよく飲み込めないんですが、そういうこと書いてあります。
 そのうち、李自成は軍を進めて呉三桂軍の宿営が老人や弱者ばかりと知ると襲来してこれを殺し尽くし、長駆して山海関を何重にも包囲した。また、別働隊を山海関の西にある一片石(辽宁省葫芦岛市九门口)に送り、長城の外側から山海関に迫ろうとした。
 一片石山海関の北にある山海関のお隣の関門です。今は九門口の方が通りがいいようですね。続けます。
 呉三桂李自成軍の勢いを見て、まともにやり合っては勝つのは難しいと見て、まずは清朝に援軍を要請した。清朝九王ドルゴン摂政王に就任し、英王裕王(?)とともに兵十万を率いてまさに入関しようとしていた所だった。その進軍中に呉三桂の使者と遭遇したのでこれを疑った。英王裕王(?)は「どうして呉三桂は我らが南下してきたことを知っているのか。策略があってこのような誘いをかけてくるのではないか?かつて我らはヤツの軍を包囲したことがあるが勝つには到らなかった。ところが、李自成はヤツを一撃で破った。李自成は知勇にすぐれた人物なのだろう。今、大軍を率いて親征してきたとすれば、志が小さいはずはない。勝ちに乗じて精兵を率いて大清の隙をうかがう意図があるのではないか?兵を分けて守備に徹し、動静を伺うにべきだろう。」と、意見した。
 要するに呉三桂がすでに李自成に屈しており、援軍要請自体が李自成の策なのではないかと疑ったって事ですかね。突然、呉三桂からの都合のいい申し出に清朝側がその虚実を疑ったのかもしれませんが、この辺は昭顕世子一行が日記で記すように「而軍機甚密、末能詳知矣。」としておいた方が良さそうですね。流石にココまで来ると小説です。かつ、《明季北略》では清軍李自成を恐れたようなことが書いてありますが、彼らは李自成軍など一回合戦すれば撃破出来ると自信を持っており、この点は上下あげての共通認識だったように思います。范文程呉三桂はともかく、実際に清軍と対峙して敗北し、かつ李自成軍と追い詰めたことがある洪承疇李自成軍との戦い方は誰よりも詳しかったでしょうに、全く憂慮している様子もありません。むしろ、李自成軍は弱い相手にはめっぽう強いだけで清朝が当たれば一撃で潰滅出来ると断言しています。この辺の自信の根拠はなんなのか気になるところですが、とにかく清朝李自成軍など烏合の衆で、戦えば必ず勝てると信じています。この辺は《明季北略》が李自成軍の動向を記述の対象としているところから来る贔屓目なんでしょうかね…。

遂頓兵不進。駐營于歡喜嶺,高張旗幟,休息士卒,遣使往三桂營覘之。三桂復遣使往請,九王猶未信,請之者三,九王始信,而兵猶未既行。三桂遣使者相望于道,凡往返八次,而全軍始至。共十四萬騎。三桂知大清兵已在關外,遂突圍出外城,馳入大清壁中,見九王,稱臣,遂髠其首。以白馬祭天,鳥牛祭地揰血斬圧折箭爲誓,三桂爲前鋒,九王總重兵居後隊,英王張左翼,統二萬騎從西水關入,裕王張右翼,亦統二萬騎從東水關入。於是,三桂復入關,盡髠其民,開關延敵。然迫于戰期,兵尚未盡薙髮,恐無以辨。ii

 呉三桂からの援軍要請を受けて清軍は虚実を確かめるために行軍をやめて歡喜嶺?に宿営した。旗を大いに掲げて士卒に休息を与え、使者を派遣して呉三桂の兵営の様子を探らせた。
 まぁ、昭顕世子一行が残した記録を見ると、そんな局面は一切なかったようですけどね。そもそも歡喜嶺ってどこよって話なんですけどね…(検索ではそれらしい場所は発見出来ませんでした。ご存じの方、ご教授求むです。)。清朝入関に関してこの地名が出てくる本は、清朝朝鮮側の記録にはなく《明季北略》ベースの記述だと思って間違いなさそうです。続けます。
 呉三桂は再度使者を派遣して援軍を要請したが、ドルゴンはなおもこれを疑い、使者が三回来てようやく信じたものの、進軍しようとはしなかった。呉三桂は使者が道ですれ違うほど何度も送り、およそ八回往復したところでようやく全十四万騎の軍が進発を始めた。
 って、三顧の礼なんですかね…。《清実録》を見るに、呉三桂の使者が清軍を訪れたのは4/15翁後、4/20連山、4/21山海関から10里の地点の三度のみですから8回も往復するほど時間的余裕はなかったように思います。あと、清軍十四万騎というのはどこから沸いてきた数字なのやら…。
 呉三桂清軍が関外に到着したのを知ると、山海関の包囲網を破って清軍に馳せ参じ、九王と謁見して臣と称して頭を剃って辮髪にした。
 ……再三言っていますが、呉三桂辮髪にしたのは山海関での戦勝後ですから、このあたりも《明季北略》発の誤解ですね…。かつ、山海関の東側に包囲網が出来てたかどうかは他の史料では確認出来ません。清軍山海関に入城する前に、呉三桂は将兵を引き連れてドルゴンを出迎えたことは他の史料でも確認出来ますが、わざわざ包囲網を破って遠方まで出迎えたという話ではありません。これも脚色ですね…。
 呉三桂は臣下の誓いを立てると、呉三桂が先行し、ドルゴンは重兵を統率して後詰めに、英王は左翼二万騎を率いて西水関?より入関し、裕王(?)は右翼二万騎を率いて東水関?より入関した。
 このあたりは《清実録》にも似たような記述ありますね…。

次日、我大軍直薄山海關三桂開門迎降。我軍遂從南水門北水門關中門入。iii

 4/22に清軍山海関に迫ると呉三桂は門を開いて帰順し、清軍はついに南水門北水門関中門から中に入った。
 …と言うわけで《清実録》では南水門北水門から入ったとあります。《九邊圖》では山海關の南北に南水關北水關が描かれています。この辺似たようで少し違うあたりが《明季北略》ですね…。

 呉三桂山海関に再び入城すると、住民をことごとく辮髪にさせて、山海関を開けてかつての敵を引き入れた。合戦が差し迫ったこの時期においても、兵の中には敗戦を恐れてまだ髪を剃らない者もいた。
 もう、このあたり一々突っ込むのもアレなので先に進みます。

夜半,密令軍士以白布裂爲三幅,闊如三指,纏之于身,以爲暗記,然布不能猝辨,既以褁足布裂用之。約大清兵見三指布者,既勿殺。蓋三數與白色者,取三桂及長白兵縞素之意也。然九王多謀,不肯先與自成輕戰。
十九日丙子,使三桂爲前鋒,與自成大戰于關內一片石,一以觀三桂之誠偽,一以覘自成之強弱,欲坐收漁人之利。日暮戰罷,九王始信。
二十日丁丑,三桂、自成兩軍復合戰,戰方酣,九王使鐵騎數萬,以白標爲號,繞出吳兵之右,銳不可當。自成隨數十騎,挾太子登廟岡觀戰。有僧進曰:「此非吳兵,必東兵也。宜急避之。」已而見白標軍,如風發潮湧,所到之處,無不披靡。闖兵大敗。自成狼狽遁,雖劉宗敏勇冠三軍,亦中流矢,負重傷而回。時闖兵入都,恣意淫掠,身各懷重貲,無有闘志,故爾大敗。屍橫八十餘里,馬無置足處,所棄輜重,不可勝計。然吳兵檢賊屍内,有數十金,猶可私取,若百金以外,則不敢匿,必獻之于師。恐懷金既多,則不肯力戰,而思逃也。iv

 夜半、密かに兵に白い布を裂いて三本にして、三本指のようにして身体に巻き付けさせた。これを目印にして清軍にはこの三本線を巻いた者は殺さないように命令を下した。三本線と白は呉三桂長白軍?にとっては喪服の意味もあった。ドルゴン李自成と軽々しく戦闘する事を許さなかった。
 確かにドルゴン呉三桂軍に白い布を肩に巻かせたたようですが、甲冑を着けた状態で敵味方の識別を付けるためなので、三本に裂いたとか白は喪服の意味があったとかはおそらく後付けです。ただ、細かいディティールはさておき、呉三桂軍が識別のために白い布を巻き付けたのは《清實録》でも確認出来るので、このあたりが《明季北略》の侮れないポイントではあります。続けます。
 十九日丙子、呉三桂を先鋒として、李自成一片石で大いに戦った。一つには呉三桂の降伏の真偽を確かめるため、一つには李自成軍の強弱を伺うため、座して漁夫の利を得るため(ドルゴンはあえて動かなかった)。日が暮れて戦闘が終わると、ドルゴンは始めて呉三桂の降伏を信じた。
 と言うことで、日付からしてあり得ませんね。昭顕世子一行はこの日、まだ錦州衛にいて祖大寿の旧居を范文程と見学してます。一片石の戦いが呉三桂降伏の試金石だったと言うことにしてますが…。多分、呉三桂軍は兵力にそんな余裕なかったんじゃないかなぁ…。
 二十日丁丑、呉三桂李自成の両軍はまた合戦した。戦況が佳境に入った時、ドルゴンは鉄騎数万に白色を目印とさせて呉三桂の軍の右から突入させた。李自成軍は鋭鋒を避けることが出来なかった。李自成は数十騎を従えて、(崇禎帝の?)皇太子を抱えて廟のある丘に登って観戦していた。ある僧が「これは呉三桂の軍ではありません。必ずや東兵(清軍)でしょう。早くお逃げ下さい。」と進言したが、すでに白色を目印にした軍が視界に入り、縦横無尽に戦場を駆け巡って闖軍李自成軍を打ち負かしていた。李自成は狼狽して逃走した。劉宗敏は三軍一の勇者であったが、流れ矢に当たって重傷を負った。
 と、呉三桂李自成の軍と合戦している時に横合いから清軍が突入してきて、勝敗が決まった…という話はよく聞きますが、元ネタは《明季北略》なんですねぇ…。実際には日にちも含めて全然あてにならないんですね…。

日付干支明季北略(本文)明季北略( 吳 三桂請兵始末)
3月06日甲午始棄寧遠
3月16日甲辰賊圍京入關
3月17日乙巳申刻:外城陷
3月18日丙午帝崩煤山
3月19日丁未
3月20日戊申抵豐潤
3月21日己酉
3月22日庚戌
3月23日辛亥
3月24日壬子
3月25日癸丑
3月26日甲寅
3月27日乙卯吳 三桂挾大清騎叩山海關三桂遂據山海關
3月28日丙辰
3月29日丁巳自成使唐通 三桂遂往乞師
4月01日戊午
4月02日己未
4月03日庚申
4月04日辛酉三桂破山海關、唐通迎降
4月05日壬戌
4月06日癸亥
4月07日甲子
4月08日乙丑
4月09日丙寅自成(中略)下令親征
4月10日丁卯
4月11日戊辰
4月12日己巳自成東行
4月13日庚午(李自成)出京往戰
4月14日辛未
4月15日壬申李自成至密雲自成至密雲
4月16日癸酉
4月17日甲戌李自成至永平自成大隊至永平
九王(中略)駐營于歡喜嶺
4月18日乙亥
4月19日丙子使三桂爲前鋒、與自成大戰于關 內 一片石
4月20日丁丑三桂・自成兩軍復合戰
4月21日戊寅自成駐兵永平
4月22日己卯
4月23日庚辰
4月24日辛巳
4月25日壬午
4月26日癸未自成回京
4月27日甲申三桂傳帖至京
4月28日乙酉
4月29日丙戌
4月30日丁亥自成西奔
5月01日戊子
5月02日己丑三桂兵追至定州、清水河下岸

 ただ、崇禎帝皇太子が拘束されていて、戦場を李自成と観戦したという情報がこの下りには記録されていますが…。またまたそんなことあるわけナイでしょ…と高をくくっていたら、その話の元ネタっぽい話が《清実録》にもありまして…。

(四月)辛巳(二十四日)。師次新河驛。攝政和碩睿親王多爾袞、以進山海關敗賊兵捷音奏聞。(中略)臣即星夜前往、於四月二十一日、抵山海關。值賊首李自成、親率馬步兵二十餘萬、挾崇禎帝太子、第三子定王、第四子、及宗室晉王、秦王、漢王、郡王等、并三桂父襄、與俱來。復遣人招三桂降。三桂不從。(中略)陣獲晉王朱審煊(後略)。v

 4/24段階でドルゴンムクデン盛京山海関の戦勝報告の文章が掲載されてます。ちょっと時系列が混乱していたのでこの記事自分読んでませんでしたわ…先に挙げた一片石に関する記述もあるので、訂正しときましたわ…。
 ドルゴンが星の明かりを頼りに夜間行軍している頃、4/21に李自成は自ら兵馬20万余りを率いて、崇禎帝皇太子、第三子・定王、第四子、及び宗室の晋王秦王漢王や郡王ら、呉三桂の父・呉襄を人質に呉三桂に降伏を迫ったが、呉三桂は従わなかった。(山海関の戦いの後)晋王朱審煊を捕虜にした。

 同様の記事が《朝鮮王朝実録》にもあります。恐らく上の報告が瀋陽経由で朝鮮王朝にもたらされたのでしょう。

(仁祖二十二年五月)甲午(7日)。鳳林大君還自瀋陽。(中略)文學李䅘馳啓曰: “(中略)二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬,執崇禎太子朱慈照、竝其第二、第四子及太原府晋王、潞安府瀋王,西安府秦王、平凉府韓王,又有西德王、襄陵王、山陰王及吳三桂之父吳襄於陣前,欲降三桂。(中略)晋王被我所獲。(後略)”vi

 5月7日、瀋陽から帰還した鳳林大君一行が持ち帰った昭顕世子からの状啓の内容を仁祖に披露する段で、「21日に賊酋・李自成が兵馬20万余りを引き連れて山海関に到り、崇禎帝皇太子朱慈照、並びに第二皇子、第四皇子、他にも太原府晋王潞安府瀋王西安府秦王平凉府韓王、それに西德王襄陵王山陰王呉三桂の父・呉襄を軍前に並ばせて呉三桂に降伏を迫った。(中略)晋王清軍が保護した。」
 ほぼ内容に変わりはありませんが、何故か《朝鮮王朝実録》の方が人名等が詳しかったりします。《明史》卷102 表第3 諸王世表3によると西德襄陵韓王家の分家で、《明史》卷101 表第2 諸王世表2によると山陰代王家の分家のようです。まぁ、《明史諸王世表晋王家には朱審煊の名前はないので、これはこれでなかなか謎なんですが…。

 で、状況はかなり異なりますが、《明季北略》にも李自成明皇族を引き連れて山海関にやってきたという記述はあります。

二十九日,(中略)賊計以定王往,即日遣賊將挈定王赴唐通營。(中略)
四月初四辛酉,三桂破山海關,唐通迎降。定王已至三桂軍,三桂檄自成云,必得太子而後止兵。(中略)
二十丁丑,三桂、自成兩軍復合戰,戰方酣,九王使鐵騎數萬,以白標為號,繞出吳兵之右,銳不可當。自成隨數十騎,挾太子登廟岡觀戰(中略)
二十一戊寅,自成駐兵永平,三桂使人議和,並請太子。自成命張若麒奉太子赴三桂軍中,請各止戰。三桂允之,約自成回軍,速離京城,吾將奉太子即位。(中略)
二十六日癸未,自成回京,三桂棄定王於永平,專擁太子(中略)
五月戊子朔,(中略)三桂請護太子入都,帥不許,三桂夜送太子於高起潛所,或云潛逸於民間,陰道之入皇姑寺,西江米巷諸商,合貲為三桂家發喪,每棺衣衾各費百兩。(中略)vii

 なんだか、《明季北略》の呉三桂明皇族の保護に拘り、李自成に降伏条件として崇禎帝皇太子の身柄を要求し、李自成は代わりに皇三子・定王呉三桂に送り込みます。山海関の戦いの後、永平府李自成呉三桂に使者を送り、皇太子の身柄の引き渡しを条件に講和を求め、呉三桂李自成北京離脱を認め、皇太子を即位を約束したそうです。で、皇太子を得た呉三桂永平府定王を置き去りにして北京に向かいますが、清朝皇太子北京入城を断られると、特に抵抗もせずに皇太子を逃がします。色々フォローしてますが、都合が悪くなったので定王と同じく捨て去ったわけですよね…。《明季北略》の呉三桂もかなり酷い人物として描かれてますねw
 《清実録》を検索すると、晋王朱審煊順治元年9月段階までは記事がありますので、どうやら晋王の捕獲は確実だと考えて良いようです。しかし、皇太子皇三子定王皇四子については山海関に連れてこられたという情報が当時からあったようですが、その後の行方は分からない…というのが史料的には正確だと思います。まぁ、こういう話があるので、その後何度か現れる崇禎帝皇太子朱三太子の話は、それなりに信憑性がある話だと受け止められたでしょうねぇ…。

 という感じで、どうやら事実と思われる記述もそこそこあるものの、大筋ではあんまり信用出来ない《明季北略》ですが、割と概説書でも清朝入関あたりの状況をこの本ベースで平気で書てたりするんですよね。

このときドルゴンはすでに山海関近くの歓喜嶺に到着していた。(中略)ドルゴンは戦局を静観した。農民軍の実力を知らされていた彼は、戦いを急いで思わぬ痛手を被ることを恐れた。このたびは出動可能な国内の兵力をすべて率いてきた。ここで負けては李自成に主導権を奪われることは必至である。ドルゴンが慎重になるのも当然であった。
 (中略)二十二日の夜明け前から呉三桂は数百騎に親衛隊を連れて歓喜嶺に向かった。ドルゴンと会見し、連合の盟約を交わすためである。恭順の意を示すため、呉三桂の頭髪はすでに剃り落とされていた。viii

 《明季北略》でおなじみの歓喜嶺が出てくる時点で嗚呼…ってなります。って、この本2003年初版ですね…。
 思いのほか長くなりましたね…。次回は《昭顕瀋陽日記》に戻ります。

参考文献
計六奇《明季北略》下 中華書局
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』講談社現代新書
岡本隆司『「東アジアの近現代史」第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』講談社

  1. 《明季北略》巻20 吳三桂請兵始末
  2. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末
  3. 《世祖章皇帝實録》巻4
  4. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末
  5. 《大清世祖章皇帝實録》巻4
  6. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 仁祖22年5月7日条
  7. 《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末
  8. 『万里の長城 攻防三千年史』P.247~248

順治元年、北京までの道─昭顕世子の見た入関

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 さて、折角なので改めて昭顕世子の見た入関、山海関北京の行程を見てみましょう。今回も主に《昭顕瀋陽日記》の付録、〈西行日記〉を読んでいきます。

二十四日 辛巳 晴風
(中略)○卯時、行軍四十里、至深河驛、止宿。

 4/24、晴、風あり。朝方(卯時)出発して40里行軍して深河駅(河北省秦皇岛市抚宁区深河乡)に到着して宿営した。
 山海関を下して2日目にして、前日の雨も上がった様なので本格的に進軍を開始します。日に40里ですから、駆け足行進を始める前の速度に戻っています。24日の到達地点である深河駅は《大清世祖章皇帝實録(以下《清実録》)》iや《清初内国史院满文档案譯编(以下《内国史院档》)》iiでは新河駅となっていますが、現在の地名から考えると誤記でしょうねぇ…。

二十五日 壬午 晴風
(中略)○卯時、行軍六十里、至撫寧縣城北、止宿。城中人數百、迎詣軍前、皆慰諭遣之。問其知縣、則聞變勤王、不知去處云矣。永平府、亦迎遣降書、問其知府、則亦勤王不還云、而未知其言之眞的也。禁軍廉益儉、率行中瘦病夫馬、落後追行。
○是日大風、黃埃滿目、人不堪其苦。

 4/25、晴、風あり。朝方(卯時)出発して60里行軍して撫寧県城(河北省秦皇岛市抚宁区)の北に到着して宿営した。城中の人たち数百が軍を出迎えたので、皆は彼ら慰撫して(摂政王の)諭旨を伝えた。彼らに県知事の所在を聞いたところ、崇禎帝をお守りするために出発したが、いずこに去ったのかは知らないと言う。また、永平府から使者が来て書をもって降伏の意を伝えに来たが、府知事の所在を問いただしたところ、やはり崇禎帝を守りに出て戻らず、その言が真実であったかどうかは分からないという。(清朝の?)禁軍は倹約を旨としたので、軍内の飢えてやせ衰えたり病気になった者や馬は捨て置いて後を追わせた。
 この日は風が酷く、黄塵で目を開けられないほどたった。
 と、どうやら、出発に先立って呉三桂が道中の州県に書状を送って降伏を促していたようでiii、それが功を奏したようで、撫寧県は城を挙げて降伏したという事のようです。清軍は自軍が略奪することを恐れて撫寧県城内には入らず、県城の北に宿営しています。
 《清実録ivや《内国史院档vでもこの日は撫寧県を通過したことは裏が取れます。
 この日から後の記事によく出てきますが、知県事なり知府事なりが勤王のためと称して出撃して任地不在のため、住民が清軍に降伏を申し出ています。知県事なり知府事なりは本当に勤王軍を指揮して李自成に攻撃されたか、勤王を口実にしていずこかに逃げたのかは住民にも判断が付かなかったと。
 ここでは李自成山海関を攻撃する前に軍を集結した拠点である永平府がいち早く降伏を申し出ていますね。ただ、この後の行軍経路を見るに、清軍はあまり永平府に立ち寄ることをよしとはしなかったようです。《朝鮮王朝実録》によると、永平府に通じる道…永平大路を通らなかったのは、李自成軍が通った後はぺんぺん草も生えない状況だったため、馬の食料確保のために少々遠回りになるものの、永平大路を避けたようですvi。ちょっと言い訳がましく聞こえてしまいますが…。

二十六日 癸未 晴
(中略)○卯時、行軍、孔・耿兩將四萬騎、領率大炮車子、由大路直行、九王大陣迤南、而並行七十里、至昌黎城南、止宿。知縣徐姓人、持犒饋之物、出降軍前、九王不受所獻、剃頭而送。

 4/26、晴。朝方(卯時)出発した。孔有徳耿仲明の両将軍に率いられた四万騎が車に積んだ大砲を携えて幹線経由で(北京に?)直行し、九王ドルゴンの本陣は進路を南に転じて70里進んで昌黎城の南に到着し、ここで宿営した。徐と言う県知事が貢ぎ物をもって軍前に来て降伏したが、ドルゴンは貢ぎ物を受け取らず、知事を辮髪にして返した。
 と言うわけで、行軍速度が日に日に上がってきてる気がしますが、ドルゴン撫寧県から西進して永平府に向かう道は選ばず、南に転じて昌黎県(河北省秦皇岛市昌黎县)に向かっています。この辺も《清実録viiと《内国史院档viiiでも確認が取れます。しかし、孔有徳耿仲明の漢人砲兵部隊4万騎はそのまま西進した様ですから、なんか理由があったんでしょうけどよく分かりません。ホンタイジ時代に永平府を占領したような失敗を犯してはならない…と言うのが清朝首脳部の共通認識としてあったようなので、無用な混乱を避けるために清軍主力は因縁の地・永平府を避けたのかもしれません。李自成の残存兵力が永平府に残って居る可能性を鑑みて避けたのかとも思いましたけど、前日に永平府からの降伏の使者が来てますしその線はなさそうですね。

二十七日 甲申 晴
(中略)○卯時、行軍、西行八十里、至灤河邊、止宿、北去灤州十里云。

 4/27、晴。朝方(卯時)出発。進路を西に転じて80里進み、灤河の川辺に到着して、宿営した。灤州(河北省唐山市滦县)の北十里の地点と言うことだ。
 この辺、《清実録》では灤州ix、《内国史院档》では滦州河x、《朝鮮王朝実録》では灤河下流灤州之南xiで若干記述に揺らぎはあるものの、灤州灤河に近接しているのでほぼ同じ地区を指します。そして、昌黎県から進路を西に転じて灤河なり灤州に行ったとしてやはり、城外で宿営してるわけですね。それにしても、進軍速度が順調に上がってますね…。

二十八日 乙酉 晴
(中略)○卯時、行軍、至關平城西十里許、止宿。是日、行百十里矣。人馬多不能得達者、驅人龍川李有病甚、不能運身。留置村舍而行。關平知縣、不知其姓名、而卽流賊所署者、清人執斬之。

 4/28、晴。朝方(卯時)に出発。開平城(河北省唐山市开平区)の西10里の地点に到着し、宿営した。この日、行軍距離は100里に及んだ。この行軍スピードについてこれない人馬は多く、(昭顕世子一行の?)龍川出身の李有(?)も病状が酷く動くことが出来なかったので、村舎に留めて先行した。開平県知事についてはその姓氏も知らないが、流賊(李自成)が任命した者であったので、清人はこの者を捕らえて斬った。
 原文では関平城となっていますが、《清実録xiiと《内国史院档xiii、及び《朝鮮王朝実録xivでは開平衛となっていますから、ここは開平衛城と言うことでいいでしょう。と言うことで、4/25時点でも記述がありますが、グングン行軍スピードが上がるために脱落者が出始めて、ついに昭顕世子一行からも、行軍スピードについてこれない脱落者を置き去りにして強行軍を継続する様子が書かれています。出発時には一日60里ペースだったのが、この日にはついに100里に及んでいます。そもそも、山海関到着前でも結構な強行軍なのに更に強行軍を強いられているわけです。山海関合戦の勝利も北京占領までの通過点で、全く以て清軍は気を抜いていません。というか、軍事行動としてちょっと常軌を逸しているような気がしますが…。

二十九日 丙戌 晴風
(中略)○卯時、行軍百餘里、止宿玉田。自灤河以西、村居稠密、棗梨成林、必宜於土地、而居民以此利食也。

 4/29、晴、風あり。朝方(卯時)から出発。行軍100里あまりで玉田(河北省唐山市玉田县)に到着して宿営した。灤河から西に入ると村落の密度が高くなり、棗や梨が林立していた。住民はこれを食べて生活しているようだった。
 この日も100里オーバー行軍して玉田県に到着しています。流石に無茶かと思いますが、李自成を圧倒して北京を押さえるにはスピード勝負だと考えていたんでしょうね。《清実録xvでも《内国史院档xvi及び、《朝鮮王朝実録xviiでもこの辺は裏が取れます。

三十日 丁亥 晴
(中略)○卯時、行軍七十里、至薊州南二十里漁陽橋下流邊、方欲止宿、九王聞流賊在通州、備禦江邊、欲爲逆戰之報、猝發前進。我行顚倒莫甚、僅辦水剌以進、員役以下、未及糊口、蒼黃隨後。夜行二十里許、止宿。朴宗寧、領卜在後、夜深相失、不及止宿處、上下人員、皆不得打火。

 4/30、朝方(卯時)出発。70里行軍して薊州(天津市蓟州区)の南20里の地点にある漁陽橋の下流にある川辺に宿営しようとしたが、九王ドルゴン流賊李自成通州にいると聞いて川辺に防衛戦を引いたものの、かえってこれを迎え撃とうと軍を動かした。昭顕世子一行にはそれほど転倒する者はいなかったが、わずかに水をかき分けて進むくらいだった。員役より下位の者は皆食事にありつけず、顔色の悪い者達が後に続いた。夜になって20里ほど行軍して宿営した。一行のうちの朴宗寧は後発していたが、深夜になってはぐれてしまい、宿営地に辿り着けなかった。一行は上下隔たりなくみな食事にありつけなかった。
 《清実録xviiiおよび《内国史院档xixでは公羅店となっていますが、《朝鮮王朝実録》では薊州之南二十里xxとあります。公羅店がどこの地名か判別出来ませんので、ここは地名として調べの付く薊州の南20里としておきます。
 と、このあたりから炊事をしていないとか、食事にありつく暇もないと言った記録が目に付くようになります。李自成の敗退が決定的なものなら堂々行軍しても良さそうなものですが、どうも清軍の方では速度を落とすわけには行かない事情があったように感じます。《朝鮮王朝実録》によると、この頃、清朝は降伏してきた李自成残党から李自成本隊はすでに北京から逃亡した旨情報を得ていたようですがxxi、それでも行軍スピードを落とさなかったと言うことは、あまり降伏してきた兵の言葉を信用してなかったのか、他の勢力に空になった北京を掠め取られたくなかったのか…。いずれにしろ、清軍は行軍速度を緩めずむしろ上げていきます。

五月初一日 戊子 晴夜陰
(中略)○卯時、發行。清陣先已先進矣、疾馳行六十餘里、至三河縣夏店。日氣甚熱、人馬飢困、世子少歇于路上關王廟(中略)廟在夏店、東門外左右、店舍櫛比、盡爲空虛。流賊偵探者五騎、隱匿於店舍、爲清人所獲、斬之。
○午時、過店。此去通州四十里也。至通州江邊、則十王率精騎先行、城中居民、開門迎入、十王已慰諭居民而過去矣。

 5/1、晴、夜から曇り。朝方(卯時)出発。清軍はすでに先行しており、60里を疾駆して、三河県夏店(河北省廊坊市三河市)に到着した。この日は暑い上に人馬は飢えていたので、世子は道端の関帝廟で休憩を取った。(中略)廟は夏店東門外にあったが、その左右の役所の建物は壊されて伽藍堂になっていた。流賊李自成の偵察部隊5騎が夏店の役所に隠れ潜んでいたので、清人がこれを捕まえて斬った。
  昼(午時)、夏店を通過した。ここは通州から40里離れた地点である。通州の川辺に到着すると、十王ドドが精鋭を率いて先行したが、通州城中の民衆は門を開けて清軍を迎え入れたので、ドドは民衆を慰撫して通州を通過した。
 と言うことで、五月に入りましたが一行はまだまだ進軍を続けており、三河県を通過して李自成が待ち構えていると噂のあった通州に到着したものの、すでに李自成軍は退却した後のようで通州は開門して城を挙げて清軍に降ったと言うことですね。この日、清軍通州を通過したことは《清実録xxiiと《朝鮮王朝実録xxiiiでも裏が取れます。三河県については記述がないんですけど、薊州から通州への通り道ですし通過はしたんでしょう。
 通州北京は目と鼻の先ですし、途中の三河県では李自成の斥候とも遭遇しています。また、通州李自成が防衛戦を張っていると噂のあった場所ですから、当然ドドが精鋭を率いて先行するなど清軍もやる気満々ですが、城中から民衆が出迎えるなど、なかなか肩すかしな展開ですね。でも、清軍の内実としては強行軍に次ぐ強行軍で疲労は蓄積してますし、当然輜重隊を置き去りにして先行している上に略奪行為を厳禁してますから、当然この時の清軍はヘトヘトの腹ペコ軍団ですから、いくら兵は迅速を尊ぶと言ったって限度はあろうに…と思ってしまいますが、北京を早急に押さえる事がどうも急務だったようです。これでこの日の午後までですから、続けて夕方からの記事デス。

○酉時、大軍渡江、而久旱水淺、不用船隻騎而渡涉、僅纔沒膝。城外舟楫、一望迷津、皆商船・賈舶也。我行蹔駐、未及打火。清陣遽發。世子下令曰、罔夜疾馳、人馬飢乏、今日前進爲難、而大軍已行、日勢且暮、到此危懼之境、尤不可孤單落後、令速起馬。行廚蒼黃、僅辦水剌以進、其艱楚莫甚。一行顚倒發行、日沒後渡江、行過城底、出沒坑塹、軍馬紛沓、其奔馳顚沛之狀、不可形容去。城西十里許、雷電大作、風雨暴至。世子只設幕於田中、陪從皆露處冒雨、倚馬經夜、清兵亦不爲前進、待晴而發。

 夕方(酉時)、清軍は江(通州江?)を渡った。日照りが続いたため水深が浅かったので、舟を使わずに騎行や歩行で渡河が可能だった。城外の舟を一望したところ、渡りに残っていたのはみな(軍船ではなく)商船であった。昭顕世子一行がここに留まる間、食事のための火を起こさなかった。清軍が慌ただしく出発すると、世子は「連夜の強行軍で人馬は窮乏し、今日は前進が難しいかもしれないが、清軍はすでに行軍を始め、日が暮れてきた。これが生死の境目と心得て、脱落者を出すな。」とご下命を下されると、すぐに出発を命じられた。顔色の悪い者に弁当を分け与え、わずかに水をかき分けて進んだが、甚だしい困難であった。昭顕世子一行は蹴躓きながら進軍し、日没後に渡河し終わった。(通州の?)城下を通り過ぎると、塹壕が現れ軍馬は行き交い、駆けづり回って蹴躓くような体で形容しがたい状況であった。(北京?)城の西10里まで来たところで、雷が落ち暴風が起きた。世子だけが田んぼの中に設営した幕営に、従者はみな暴風雨に晒された。連夜馬に寄りかかっていたため、清軍も前進することが出来ず、雨が止むのを待って出発した。
 と言うわけで、夕方には日照りで水量が少なくなっていた河を歩いて渡れたと言うのに、夜には暴風雨で進軍出来ないほどになっていた…というか、北京と目と鼻の先に来ても日が暮れてからの渡河も深夜の行軍も辞めなかったと言うことで、清軍が何に急き立てられてこの強行軍のスピードを保ったのかは興味がありますが、さしあたっての史料がないので想像するしかないですね…。

日付干支世祖實録内国史院檔昭顕世子瀋陽日記瀋陽日記備考
04/09丙寅未時:永安橋西大風
04/10丁卯六哈卯時:前進西出古長城、申時:遼河東邊大風、永安六十里
04/11戊辰杨柽木卯時:遼河、宿:狼胥山晴、遼河二十里
04/12己巳张郭台口申時:豆乙非朝雨昼晴夜雨、狼胥山四十里
04/13庚午遼河地方辽河地方卯時:至城近處、申時:愁乙古(南去錦州三日程)晴、豆乙非六十里
04/14辛未卓所卯時:前進出柵門外、宿:蒙古村風、行六十里
04/15壬申翁後翁后卯時:行軍五里之許、九王駐兵不進風、明日當為倍程
04/16癸酉西拉塔拉西拉塔拉卯時:出発、宿:古長城南十五里晴、迤南行五十里、又行六十里
04/17甲戌团山堡卯時:出発、踰古長城、申時:義州衛南二十里晴、行八十里
04/18乙亥基扎堡卯時:出発、申時:雙曷之晴、行八十里
04/19丙子鄂新河卯時:出発、午時:錦州衛、宿:錦州西二十里
04/20丁丑連山连山卯時:出発、宿:連山驛城東、夜巳三更:寧遠城、暁頭:沙河所城
04/21戊寅山海關十里外山海关十里外李霞山台黎明:出発、過中後所、前屯衛、中前所晴風
04/22己卯山海關山海关平明:出発、入關門、初更:關門五里晴風
04/23庚辰北山山麓卯時:出発朝晴晩雨、行十里
04/24辛巳新河驛新河驿卯時:出発、宿:深河驛晴風、行四十里
04/25壬午撫寧縣抚宁县卯時:出発、宿:撫寧縣城北晴風、行六十里
04/26癸未昌黎縣昌黎县卯時:出発、宿:昌黎城南晴、迤南行七十里
04/27甲申灤州滦州河卯時:出発、宿:灤河邊(灤州北十里)晴、西行八十里
04/28乙酉開平衛开平卫卯時:出発、宿:開平城西十里晴、行百十里
04/29丙戌玉田縣玉田县卯時:出発、宿:玉田自灤河以西村居晴風、行軍百餘里
04/30丁亥公羅店公罗店卯時:出発、宿:漁陽橋下流邊(薊州南二十里)晴、行軍七十里
05/01戊子通州卯時:出発、三河縣夏店、午時:通州江邊、酉時:渡江晴夜陰、行六十餘里
05/02己丑燕京待明:行軍去皇城三十里、辰時:迫城東五里、巳時:朝陽門、武英殿

初二日 乙丑 晴
(中略)○清人待明行軍、我行人馬、飢餒馳行、已兩晝夜矣。世子隨後卽發、而上下飢甚、幾不得行矣。此去皇城三十里、而砲聲遠遠相聞、蓋先陣已入皇城。虛放城上大砲也。

 5/2、晴。清人は夜が明けるのを待って行軍を開始した。昭顕世子一行の人馬はすでに二日間夜を空きっ腹を抱えたまま行軍していたので、世子に従ってすぐに出発したものの上下ともに飢えの極みだったのでまともに行軍出来る者が殆いなかった。皇城から30里の場所を過ぎると砲声が遠くから聞こえてきた。先陣はすでに皇城に入城したようだったので、城壁の上から空しく砲を放っていただけのようだ。
 と言うわけで、運命の5/2です。清軍は空きっ腹を抱えながら夜明けには進軍を開始してます。よほどこの断食が応えたものか、ワザワザ本国にまでこの事を知らせていますxxiv。辛く長い行軍を経てようやくの北京です。瀋陽から出発したのが4/9ですからほぼ一月、山海関からの出発が4/22ですから10日ほどですか…時には1日100里ペースの殺人的な行軍でようやく昭顕世子一行は北京を肉眼で捕らえられる場所にまでやってきたのです。思えば遠くに来たものです。

辰時、清兵進迫城東五里許、都民處處屯聚、以迎軍兵、或持名帖來呈者有之。或門外設瓶花焚香以迎者亦有之矣。因聞山海之戰、流賊騎兵十萬・步兵二十萬出去、而戰敗之後、只餘六千餘騎生還。皇城宮闕公廨、燒毀殆盡、掠取帑藏金帛及宮女。載諸橐駞・騾馬、棄城南走、纔已數日云。八王・十王、因爲追逐。

 朝(辰時)、清兵北京城の東5里の距離に迫ってきた。都民は所々に集まり、ある者は名刺(名帖)を持参し、ある者は門外に花瓶に花を飾って香を焚いて清軍を出迎えた。山海関の戦いで流賊李自成は騎兵10万、歩兵20万で出撃したが、敗戦してただ6千騎が生還しただけであったと皆聞いたからである。皇城宮闕官衙は殆ど焼き尽くされ、宝物財貨に宮女は奪われていた。(李自成達は)略奪品をラクダやラバに載せて北京を棄てて南方に逃走してからすでに数日経ったという。八王アジゲ十王ドド李自成軍を追跡した。
 明け方から行軍を開始した清軍を近隣の都民が歓迎したって記事デスね。李自成の時も同じような光景があったはずですから、この辺は新しい征服者がやってきた時の定例行事でしょう。宮廷の財宝はあらかた李自成に略奪された後だと言うことで、洪承疇あたりは報償のあてを持って行かれて悔しがったでしょうね…。しかし、清軍の行軍スピードもかなりものでしたが、考えて見ると李自成山海関の敗戦後、清軍とほぼ同じルートを敗走して、北京に戻って財宝をかっさらって宮中に火をかけて逃げ出してから数日経ったということは、清軍より遙かに早いスピードで行軍したって事ですよね…。しかも、清軍が騎兵中心なのに対して、李自成軍の中核は歩兵だったハズです。まぁ、戻ってきたのは騎兵中心だったんでしょうけど。《明季北略》によると李自成北京帰還は4/26ですがxxv、6千騎に減ったとは言え、流石に山海関から北京まで4日でかえってくるのは恐らく無理でしょう。一方、《朝鮮王朝実録》では清軍薊州通過前後、つまり4/30前後に李自成残党から得た情報として、李自成は4/29夕方に北京から逃亡したxxviとしています。3日の違いですが、清朝が通らなかった幹線である永平大路を通って、山海関から北京まで6日ならまだあり得そうです(それでも相当な強行軍だと思いますが)。
 となると、清軍の殺人的な行軍スピードは、李自成軍に追いついて北京に籠城させないためだったと考えるのが、多分一番しっくりくるんじゃないかと思います。急いでいるのに永平大路を避けて遠回りしたのは、おそらくはホンタイジ時代の確執から小競り合いなど不測の事態が起きて、却って行軍速度が落ちることを嫌ったのでしょう。それに、後で輜重隊が追いついたとしても、籠城戦をやるとなると兵站線が延びきってちぎれてる上に、当面占領政策として略奪して現地調達もできない清軍は分が悪いですしね…。

○巳時、九王入自城東門【朝陽門也】、世子亦隨行、而只許禁軍・譯官陪從、其餘員役、則清人攔阻不入、皆留置城外。都人盛陳儀仗諸具、以迎清兵。九王乘輦輿、以入闕內、灰燼之中、只有武英殿存焉。九王陞座御榻、受大小漢官之拜禮、慰諭居民、使之安業、流賊餘卒、散匿閭巷者、盡爲搜捕斬之、軍兵之出入民家者、論以斬律、城中避亂者、稍稍還集、宗室稱郡王者、年可二十許人、乃太宗後裔也。世襲王爵、在太原永寧府、爲流賊所執、山海之戰、清人得之、置在軍中。入城之日、都人見之、或有叩馬而流涕者。(後略)

 昼前(巳時)、九王ドルゴン東門朝陽門から北京に入城し、世子もそれに随行した。世子には禁軍と訳官のみが従い、その他の随員は清人に止められて北京城外に留め置かれた。北京の住民達は儀仗を並べ立てて清軍を迎えた。ドルゴンは輿に乗って紫禁城内に入り、灰燼と帰した宮殿の中でただ一つ焼け残った武英殿に向かい、玉座について百官の拝礼を受けた。住民を労って治安を回復するため、北京城内に隠れ潜んでいる流賊李自成残党を見つけ次第これを斬った。北京城中から戦乱を避けて逃げていた者達も次第に戻ってきていた。また、明宗室郡王を称する、年齢20位の人物がいた。明太宗永樂帝の後裔だという。王爵を世襲し、太原永寧府に居たところ李自成軍に捕まり、山海関の戦いで清軍の捕虜となって軍中にいた。北京入城の日、北京の住民はこれを見てある者は馬を叩き、ある者は涙を流した。
 と言うわけで、ようやく昭顕世子一行は北京にたどり着きました。長かった。ここでは特に昭顕世子ドルゴンに随行して北京に入城した旨明記されているので、ドルゴンの見た光景とほぼ変わらない風景が記録されていると考えて良いでしょう。武英殿…自分は北京オリンピック後に武英殿前まで行ったんですが、当時閉館してて中見たことないんですよね…。
 で、李自成の残党狩りを命じつつ、ようやく思い出したように山海関で捕虜になった晋王について記述します。今まででも紹介するタイミングはあったはずですが、北京の民衆が故明皇族清朝の捕虜となって入城したことに対するリアクションを記載するのみです。晋王明朝に対する記述は《朝鮮王朝実録》の記事と比べるとかなりドライな印象受けます。

(仁祖22年5月)甲午(7日)(中略)淸國付勑書于譯官之出來者,有曰(中略)晋王被我所獲。(中略)是時,我國與大明絶,不得相通,及聞此報,雖輿臺下賤,莫不驚駭隕淚。xxvii

 そもそも、山海関の戦いの段階で晋王が清朝の捕虜になったことは、清朝から朝鮮王朝への報告書ですでに触れられています。知っていて昭顕世子一行の随員は晋王について記述する必要がないと判断していた様に思えます。《朝鮮王朝実録》と《昭顕瀋陽日記》の晋王明朝に対する温度差は建前と本音みたいな対比に見えてしまいます。あるいはこの辺が、昭顕世子と後に対立する父親である仁祖に対する考え方が反映されているんでしょうかねぇ…。

 と、5/2の状況については《朝鮮王朝実録》の記事の方が細かかったりするので、長いですけどちょっと引用して見てみましょう。

初二日早發而行,繞出皇城,九王以皇帝前所受黃儀仗前導,乘轎鼓吹而行,入自朝陽門,至闕門近處,則錦衣衛官,以皇帝屋車儀仗迎之。九王乘黃屋轎,排儀仗于前路,入自長安門,到武英殿下轎陞榻,以金瓜、玉節,羅列殿前。臣與九王幕官,列坐東西,招宦官,問賊中形勢、皇城失守之由,則曰:“流賊自二月念間,來圍皇城,以大砲、火箭,攻逼城中,而守城之兵,以累月不給餉米,皆無戰心,散處於外,未及入城,以一人守四五堞,不能抵當,皆棄城而走。賊遂梯城以入,皇帝與皇后自縊,太子及皇子三王被執。都民以皇帝皇后之喪,葬于北鎭山百里地。”云。xxviii

 5/2は早朝から行軍して皇城北京を練り回ったが、九王ドルゴン皇帝として北京城門の前で儀仗の先導を受けた。輿に乗って鼓吹を伴って行進し、朝陽門から入城して宮闕近くまで到ると、錦衣衞の官吏が皇帝用の屋車と儀仗で出迎えた。長安門から武英殿まで来て輿を下ろし、金爪・玉節を殿前に並べた。臣=昭顕世子ドルゴン幕下の官吏と東西に並んで座った。(ドルゴンは)宦官を招き寄せ、賊=李自成支配下の情勢と、北京逃亡の理由を問いただした。すると、「流賊李自成は二月から、皇城を包囲した上で大砲や鉄砲などを使って攻めて城に迫りました。しかるに守備兵たちには毎月の糧食すら滞っており、みな戦意を失っていたので外に居た者はそのまま戻りませんでした。残った者は1人で4~5つの姫垣を守らなければならず、抵抗出来るわけがありませんから、みな城を棄てて逃げ出しました。賊は遂に城壁を越えて北京に入城し、皇帝陛下と皇后陛下は自害され、太子及び皇子三王は捉えられました。北京住民は皇帝皇后の葬儀を行い、北鎮山(不明)百里の地に埋葬しました。」と。

賊旣入城,國號大順,改元永昌,稱皇帝者四十二日,欲收人心,禁止侵掠。及山海關敗歸之後,盡括城中財寶而去,以火藥燒殿宇、諸門,但不害人命。九王入城,都民燃香拱手,至有呼萬歲者。城中大小人員及宦官七八千人,亦皆投帖來拜。宮殿悉皆燒燼,唯武英殿巋然獨存,內外禁川玉石橋,亦宛然無缺。燒屋之燕,差池上下,蔽天而飛,春燕巢林之說,信不虛也。九王處臣于武英殿前廊,地窄人衆,告于九王,得殿東一室,比前稍寬,且有床卓、器仗矣。九王入城之後,使龍將等管門嚴禁,淸人及我國人,毋得出入,故淸人及臣行人馬,皆在城外矣。値淸人回瀋之便,忙遽之中,草草馳啓,不勝惶悚云。xxix

 また、「賊はすでに北京に入城し、国号を大順として永昌と改元し、皇帝を称した42日間は民衆の関心を買うために略奪を禁じました。山海関の敗北から帰ると、城中の財宝をことごとく持ち去り、火薬を使って宮殿や城門を焼きましたが、人命を害することはありませんでした。九王が入城するや民衆は香を焚いて拱手して歓迎し、中には万歳を叫ぶ者まで現れました。」とも応えた。城中に居た大小の官吏や宦官7~8千人は、またもや皆投降して拝跪した。宮殿はみな焼き尽くされて、ただ武英殿のみが焼け残っていた。内外の御河や玉石の橋にも損傷はなかった。(中略)ドルゴン武英殿の前廊で(故明の)諸臣と面会した。狭苦しい場所に人が集まったので、ドルゴン武英殿東の一室に移るように進言する者が居た。場所を移すと、確かに前廊よりはもう少し広い場所で、椅子や机や儀仗も備え付けられていた。ドルゴンが入城した後、龍将イングルダイらに城門の通好を厳しく管理させ、清人朝鮮人は勝手に出入りさせなかったので、他の清軍昭顕太子一行随行員達は皆城外に留まっていた。清人瀋陽への伝令にこの状啓を託す。

 なかなか臨場感ある記録ですね…。朝鮮本国に送った状啓=報告書を元にした記録でしょうね。気になるのは、李自成が皇帝を称した42日間は略奪を禁じていたとか、北京を去る時に財宝を持ち去り、宮殿城門を火薬を使って焼き払ったけど、民衆を殺さなかった…というあたりですかね。《明季北略》の記述と矛盾がある気もしますが、略奪の対象は高官だけだったとか、裁判を行った後に財産を没収したから略奪じゃないなどの解釈は可能かと思います(苦しい解釈だと思いますが)。ただ、李自成が潰走した後の北京で、特に李自成に義理立てする必要もなさそうなタイミングでの発言なので妙に引っかかります。まぁ、この宦官李自成に積極的に協力していたので、被害をわざと過小に評価しているという可能性もなくはないと思いますが。
 あと、北京への道中でも見られましたが、住民との軋轢を回避するために軍を城外に留めて居るあたりですね。ドルゴンが最も信頼するイングルダイをその任に当てているあたり、本気度は高かったんじゃないでしょうか。城内に入れてしまえば清軍は略奪を行い、思わぬ反発を生むのは確実だと思っていたからの処置なんでしょうけど、占領軍の大将がほぼ身一つで占領地のど真ん中に滞在するのってどうなんでしょうかねぇ…。略奪を禁止しても自軍は必ず破るという絶対的自信がこういう不利を受け入れたんでしょうけど、よほど信頼なかったというかなんというか…。
 何にしてもドルゴン北京占領については手際がいいように感じていましたが、実態はかなり行き当たりばったりで、泥臭い行軍の連続なのにも関わらず、どうやら最初からの旧領を本気で統治するつもりで細心に気を遣いながら進軍していた事が、今回の昭顕瀋陽日記朝鮮王朝実録を調べて分かりました。何だろう、この大胆を通り越した博打的な展開と、妙に後々の展開を見据えたように的を射た統治理念の共存は…。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案譯编》中巻 光明日報出版社

  1. (四月)辛巳(二十四日)。師次新河驛。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  2. 二十四日。帅次新河驿。《清初内国史院满文档案譯编》P.8
  3. (仁祖22年5月)庚戌(23日)(中略)九王以下諸陣,大破流賊之後,已得破竹之勢,而且吳三桂先移文帖于前路州縣,使皆迎降。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  4. (四月)壬午(二十五日)。師次撫寧縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  5. 二十五日。(中略)是日。帅次抚宁县。《清初内国史院满文档案譯编》P.9
  6. 翌日早發,不由永平大路,直向縣西下路而行,蓋以流賊往返之後,沿路無寸草,下路雖稍遠,取便喂馬之故也。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  7. (四月)癸未(二十六日)。師次昌黎縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  8. 二十六日。帅次昌黎县。《清初内国史院满文档案譯编》P.9
  9. (四月)甲申(二十七日)。師次灤州。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  10. 二十七日。帅次滦州河。《清初内国史院满文档案譯编》P.9
  11. 二十七日宿永平府灤河下流灤州之南。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  12. (四月)乙酉(二十八日)。師次開平衛。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  13. 二十八日。帅次开平卫。《清初内国史院满文档案譯编》P.10
  14. 二十八日到開平衛城西十里地《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  15. (四月)丙戌(二十九日)。師次玉田縣。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  16. 二十九日。帅次玉田县。《清初内国史院满文档案譯编》P.11
  17. 二十九日到玉田縣前《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  18. (四月)丁亥(三十日)。師次公羅店。《大清世祖章皇帝實録》巻4
  19. 三十日。帅次公罗店(中略)。《清初内国史院满文档案譯编》P.11
  20. 三十日到薊州之南二十里地止宿《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  21. 前在薊州,流賊百餘人來降言:“山海關見敗之後,知淸兵之來追,蒼黃收掠財貨、婦女,二十九日夕,以焇藥燒宮宇城門逃走。”云。仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  22. 順治元年甲申。五月戊子朔。(中略)攝政和碩睿親王多爾袞師至通州。《大清世祖章皇帝實録》巻5
  23. 五月初一日涉通州江淺灘,夕至通州西二十里地止宿《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  24. 臣蓐食而過,講院以下皆闕二日之食。《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  25. (四月)二十六日癸未,自成回京《明季北略》20巻 吳三桂請兵始末
  26. 前在薊州,流賊百餘人來降言:“山海關見敗之後,知淸兵之來追,蒼黃收掠財貨、婦女,二十九日夕,以焇藥燒宮宇城門逃走。”云。仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  27. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  28. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月
  29. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 仁祖二十二年五月

順治元年、清朝北京に入る─昭顕世子の見た北京1

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 時間が空きましたが、《昭顕瀋陽日記》の続きです。いよいよ清軍とともに北京に入城した朝鮮世子昭顕世子一行がどのような生活を送っていたのか見ていきましょう。

初三日 甲寅 晴
 世子留北京。○凡軍兵出入城門者、有九王標旗然後、方得出入、陪從甚爲孤單、而員役之在城外者、不得任意入城、蒭糧罄竭、而閭家出入之禁極嚴、故有些少餘資者。亦不得留換於民間。且城外遠近、野無青色、人馬飢乏之患、到此益加焉。朴宗寧、領工房器具入城、金城軍士王允化、染病身死。

 5月3日。世子北京に滞在。入出城する兵はみな九王(ドルゴン)の許可標旗を提示してようやっと許可された。このため、城外の朝鮮軍は任意に入城出来ないため、世子と随臣は孤立した。糧食や飲料が不足していたが、民家との接触は固く禁じられていたので、持ち合わせがある者でも購入することが出来なかった。なおかつ、城外では草木が枯れ果てていたので、人馬は飢えて病み衰える者が増加した。朴宗寧は工房の器具を携えて入城したが、全城軍士の王允化は病没した。
 と言うわけで、相変わらず検問が敷かれてます。マンジュ騎兵北京住民との余計な摩擦を避ける措置でしょうね。相変わらず食料が不足していることや、略奪はおろか購入さえも厳禁されていたことが強調されています。カタルシスもなんもあったもんじゃないですねぇ…。で、通行証がないと入出城が出来ないと書いたすぐ後ろで朝鮮軍入城の記事があると混乱しますね…。

初四日 辛卯 晴
 世子留北京。○毉官金德立、入城。

 5月4日。世子北京に滞在。医官金德立が入城した。
 ここで随員の医者が追いついたみたいですね。どうやって入城したんでしょうか…。ここでは記述がありませんが、世子瀋陽に帰る清人に託して朝鮮王仁祖状啓(報告書)を送ったようですから、城門なりで直接見かけたのかもしれませんね。状啓の内容については後で触れます。

初五日 壬辰 晴
 世子留北京。○以衙門分付、城外留在員役・軍兵等、移屯于東西門外九王陣近處。○宣傳官李尚敬、內官金希顏、司鑰孫善一、禁軍文大坤・金益堅・田士立・趙宣哲・李光宣、領率卜物、義州地落後追來。領兵將南斗爀入來。○軍兵之徒步蹣跚者、大半、行色甚苦、亦留屯於九王陣邊。監軍二人、衙譯金應立・朴乭屎・李士龍等、護行。

 5月5日、世子北京に滞在。城外に駐屯している兵員は東西の門外にあるドルゴンの陣の近所に移った。宣傳官李尚敬内官金希顏司鑰孫善一禁軍文大坤金益堅田士立趙宣哲李光宣ら行軍中にはぐれた随員や義州兵が追いついき、領兵將南斗爀が入城した。兵員の殆どはよろよろと歩いていて、疲れが色濃かった。また、追いついた兵員もドルゴンの陣近辺に駐屯した。監軍の二人を衙譯金應立朴乭屎李士龍らが護送した。
 と言うわけで、強行軍からはぐれた朝鮮軍が三々五々追いつき、相変わらずドルゴンの陣営にほど近い場所に配置されたようです。というか、ドルゴン軍の一翼を担ったという感じですかね。しかし、兵士の疲労が半端なかったようですね。ヘトヘトに疲弊していたようです。疲労と兵粮不足は朝鮮軍に限った話でもないでしょうから、こんな状態で北京に籠城した李自成軍と対戦していたらどうなった事でしょう。

初六日 癸巳 晴
 世子留北京。○內官金希顏・宣傳官李尚敬・禁軍文大坤等、入城。○衙門送牛四頭于領兵將、使之犒饋軍兵。

 5月6日。世子北京に滞在。内官金希顏宣傳官李尚敬禁軍文大坤らが入城した。衙門から牛4頭が領兵將に送られたので、これを兵員に糧食として支給した。
 先日北京に到着した随員達が北京に入城したのは翌日だったみたいですね…。この辺、北京に到着した日と北京に入城した日にズレが出てくるんですね。と、散々飢えを強調してきましたが、ようやく牛が支給されたようですね。でも、兵員への支給として牛4頭ってどれだけ腹の足しになったんでしょうかねぇ…。

初七日 甲午 晴
 世子留北京。

 5月7日。世子北京に滞在。

初八日 乙未
 世子留在北京。文學李䅘來入城。○世子所館處。卽太子宮前星門外文淵閣東公廨也。太子宮・文淵閣、盡爲燒燬、唯有前星門存焉、卽皇極殿之東也。廊中有設浮圖處、護行清人、入接數日、從胡一人、夜半猝死、人甚怪之。世子逐日進候九王于武英殿。

 5月8日。世子北京に滞在。文学李䅘が入城した。世子の居館は太子宮前星門外で文淵閣の東にある官舎である。太子宮文淵閣も焼き尽くされていたので、ただ前星門があるだけだった。これは皇極殿(=太和殿)の東側である。(官舎にある?)回廊には浮図処(=仏教施設?祭壇?)が設けられていて、清人がこれを護衛していた。寄宿してから数日経ったところ、従者の外国人が一人、夜半に急死してしまい、人々は非常に怪しく思った。世子は日を追って武英殿九王ドルゴンに伺候した。
 と言うわけで、この頃の昭顕世子の居所が紹介されています。太子宮と聞くと、清朝やっていると咸安宮毓慶宮を思い出しますが、両方とも明代にはありません。現在の前星門毓慶宮の正門です。しかし、毓慶宮斎宮奉先殿の間にありますから、皇極殿太和殿の東というより東北って感じです。場所が合いませんね…。ムムムと思って検索したところ、北京故宮のページにヒットしました。このページによると、明代太子宮端本宮と言う場所にあったらしく、南三所のあたりのようです。

南三所位于外朝东路文华殿东北,为一组殿宇的总称。明朝这一带有端敬殿、端本宫,为东宫太子所居。i

 他の紫禁城関係の本を漁ってもこの情報が見当たらないのですが、どっかに何か書いてあるんでしょうね。

太子慈烺,莊烈帝第一子。(中略)(崇禎)十五年(中略)七月改慈慶宮為端本宮。慈慶,懿安皇后所居也。時太子年十四,議明歲選婚,故先為置宮,而移懿安后於仁壽殿。ii

 《明史》を検索すると確かに太子慈烺伝に、崇禎年間慈慶宮を改称して端本宮とするとあります。ただ、これだけじゃ場所が分からないんですけどね…。《明史》志第四十四 輿服四 宮室之制にも慈慶宮やその前身である清寧宮の記述はあるんですがiii場所自体紫禁城の中軸線より西にあったことになるのでつじつまが合いません。決め手には欠けますねぇ…。
 前星門については先のページでは記述はありませんが、《明代北京都城营建丛考》という本では前星橋というキャプションの付いた写真が三座門の写真の次に紹介されていますiv。キャプションだけで中の文章では何も触れてはいないのですが、考えるに、明代では三座門のことを前星門と称していた名残なのではないかと思われます。前星門の前に架かっている橋だから前星橋、と言うのだけが残ったのではないかと。
 念のため、《乾隆京城全図》を確認したところ、前?門という箇所があります。地名検索を使うと…あっさり前星門がヒットしましたが、困ったことに二カ所あります。№1996 前星門の場所を見ると、現在の三座門に相当する場所にあったようです。やっぱり前星門三座門で良さそうですね。ちなみに、もう一カ所の№1556 前星門毓慶宮前の門です。こっちはおなじみのヤツですね。こちらも地図だと判別しにくいです。検索すると、この地図には他にも№1923 三座門があるのですが、どうやら東華門東安門の間にももう一個三座門があったようです。あくまで乾隆年間の話ですが。宮中の宮殿名も調査すると面白いですね。

 と言うわけで、以上の結果から前星門=現在の三座門太子宮端本宮=現在の南三所と比定します。となると、太子宮前星門外は三座門の南側を意味しますから、文淵閣にも隣接します。文淵閣の東にある官舎と言うことは、昭顕世子の居館は、恐らく清代には実録館が、民国に入ってからは清史館があったあたりだと推測されます。
 意外と明確に分かるモンですね。この時期ドルゴンが居館としていたと思われる武英殿とは太和門を挟んで東西に分かれていますが、場所としては徒歩で5~10分もかからない場所を昭顕世子はあてがわれていたようです。貴人が使用するには粗末な官舎のような気もしますが、焼け残った場所を考えれば案外優遇されているように自分は思いました。

初九日 丙申 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○九王送貂裘・貂衾・錦褥各一襲于世子前。

 5月9日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、問題ないとの仰せだった。九王ドルゴン貂皮の服(裘)、貂皮のかけ布団(衾)、錦の敷物(錦褥)各々一つづつを世子に送られた。
 長いこと中断していた講院薬房のご機嫌伺いが復活していますね。ようやく日常が帰ってきたって事でしょうか。で、北京入城から一週間して清軍もいくらか落ち着いたのか、報償を支給したみたいですね。旧暦五月ですから当然毛皮のコートや掛布団が必要な時期ではありませんから、北京の国庫を抑えて整理が出来たと言うことでしょうね。

初十日 丁酉 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。

 5月10日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。

十一日 戊戌 晴
 世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○清人移世子館所、廣仁街西路邊閭家、卽萬曆駙馬萬煒子家也。清人奉世子往見、員役皆陪行。其家舍結構宏麗、而庭除狹隘、我行人馬、決不得容接、故清人還報于九王、改定他家。萬駙馬父子、城陷之日、皆走死于城東云、而未知其真的也。○宣傳官尹廷俊、率城外留屯軍兵一百三十四名、入來。

 5月11日。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、快調だとの仰せだった。清人世子の居館を広仁街西路の入口にある萬暦年間駙馬萬煒の子の屋敷であった。清人が案内するというので世子は従者を伴って下見に向かわれた。その屋敷の建物は宏闊にして壮麗であったが、庭が狭いので人馬の出入りに不便だった。清人にその旨をドルゴンに報告してもらって、他の屋敷と替えて貰うことにした。萬駙馬親子は北京が落城した日に逃げ損ねて北京城の東で戦死したという噂だったが、本当のところは誰も知らない。宣傳官尹廷俊が城外の駐屯兵134名を率いて入城した。
 と言うことで、世子一行は紫禁城の仮住まいからようやくお屋敷を貰って引っ越しすることになったようです。万暦年間駙馬萬煒の息子の屋敷とのことですが、広仁街西路がよく分かりません…。なので、とりあえず萬煒について調べてみました。《神宗顯皇帝實錄》を検索してみると、萬煒万暦13(1585)年に万暦帝の五番目の妹である瑞安公主を娶って駙馬となっていますv。キッチリ出てくるモンですね…。で、《明史》の方で瑞安公主を確認すると、公主列伝穆宗六女の項に萬煒の経歴が載っていました。萬煒太傅宗人府を歴任したようで、《神宗顯皇帝實錄》を検索すると度々太廟北郊で儀式の代行を行っていたようです。平穏無事に過ごすしてきたわけですが、70を越えたところで李自成北京侵攻に遭遇して息子の萬長祚とともに李自成軍に殺されたとあります。長祚の妻である李氏は井戸に身を投げて死んだと言いますが、このお屋敷の井戸でしょうかねぇ…vi
 で、肝心の萬煒のお屋敷の方ですが、北京のガイドブックをいくらか眺めていたら存外有名なお屋敷だったみたいです。

曲水園
 駙馬萬公曲水家園,新寧遠伯之故園也。燕不饒水與竹,而園饒之。水以汲灌,善渟焉,澄且鮮。府第東入,石牆一遭,徑迢迢皆竹。竹盡而西,迢迢皆水。曲廊與水而曲,東則亭,西則臺,水其中央。濱水又廊,廊一再曲,臨水又臺,臺與室間,松化石攸在也。木而化歟?聞松柏槐柳榆楓焉,聞化矣,木尚半焉,化石,非其化也,木歸土而結石也。松千歲爲茯苓,茯苓,土之屬也;又千歲爲琥珀,又千歲爲瑿,琥珀與瑿,石之屬也。夫石亦有形似,不可以化言之,洞壑中,有禽若、獸若者矣,可謂之物化乎?古丈夫仙佛若者矣,人天化乎?樓若、城若、塔若者矣,人所構造以化乎?然石形也松,曰松化石,形性乃見,膚而鱗,質而幹,根拳曲而株婆娑,匪松實化之,不至此。vii

 萬煒のお屋敷は曲水園と称されていて、崇禎年間北京ガイドブックである《帝都景物畧》に紹介されています。元は新寧遠伯の園林だったとあります。明代寧遠伯は二家あって、古い方は正統年間初封の任禮寧遠伯家で二代で断絶してます。問題は新しい方の寧遠伯家ですが、万暦年間初封の李成梁寧遠伯家です。なので、この曲水園李成梁の旧宅だったと紹介されてると考えられます。李成梁万暦10年に下賜された邸宅viii万暦19(1591)年に失脚した時に公收されて、その後萬煒が引っ越してきたんでしょうかね…。
 と、煽っておいて何ですが、色々調べた結果、曲水園李成梁の邸宅ではないようです。と言うのも、どうやら李成梁は罷免されてから病没するまで北京に蟄居してたみたいなんで、お屋敷は公收されていないみたいですix李成梁邸宅の場所は石大人胡同xで、曲水園のあった大興県治所xiとはかなり離れてますから、《帝都景物畧》の記事は何か混同したんでしょうね。ここは新寧伯とするところを間違って新寧遠伯としたんじゃないかとxii新寧伯永楽年間初封の譚忠の家ですが、残念ながら邸宅がどこにあったのかは調べが付きませんでした。
 ともあれ、曲水園は川が園内を巡っていて竹林や松化石を配置して曲廊や東屋も建てられていたようです。ガイドブックにも載るくらい有名なお屋敷だったようですけど、住むには難のある作りだったと言うことでしょうか…。テーマパークとしては良くても住むには不便と言うことはあったのかもしれません。
 ただ、その後、雍正年間にはいくらか遺構は残っていたみたいですがxiii、《乾隆京城全図》の大興県の官舎の東を確認してもそれらしい屋敷は見られません。更に降って、光緒年間の北京のガイドブックである《京師坊巷志稿》によると、曲水園は跡形も残っていなかったみたいですxiv

 ちょっと脱線して長くなったので、今回はここまで。次回に続きます。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社
劉侗・于奕正《帝都景物畧》北京古籍出版社
于敏中《日下舊聞考》北京古籍出版社
京師五城坊巷衚衕集・京師坊巷志稿》北京古籍出版社
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行

  1. 故宫博物院【南三所】
  2. 《明史》卷一百二十 列傳第八 諸王五 莊烈帝諸子 太子慈烺
  3. 《明史》卷六十八 志第四十四 輿服四 宮室之制⇒正北曰乾清門,內為乾清宮,是曰正寢。後曰交泰殿。又後曰坤寧宮,為中宮所居。東曰仁壽宮,西曰清寧宮,以奉太后。 (中略)嘉靖中,於清寧宮後地建慈慶宮,於仁壽宮故基建慈寧宮。
  4. 李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社 P.385 图一三九 前星桥主桥望柱上部
  5. (萬暦13年12月)乙酉(19日)、冊封瑞安公主。上第五妹也。拜萬煒為駙馬都尉尚主。明年春二月出降、勑禮部采舊儀行。⇒《神宗顯皇帝實錄》卷一百六十九
  6. 瑞安公主,神宗同母妹。萬曆十三年下嫁萬煒。崇禎時,主累加大長公主。所產子及庶子長祚、弘祚皆官都督。煒官至太傅,管宗人府印。嘗以親臣侍經筵,每文華進講,佩刀入直。李建泰西征,命煒以太牢告廟,年七十餘矣。國變,同子長祚死於賊。弘祚投水死,長祚妻李氏亦赴井死。⇒《明史》卷一百二十一 列傳第九 公主 穆宗六女
  7. 《帝都景物畧》巻2 城東内外
  8. (萬暦)十年三月,速把亥率弟炒花、子卜言兔入犯義州。成梁禦之鎮夷堡,設伏待之。速把亥入,參將李平胡射中其脅,墜馬,蒼頭李有名前斬之。寇大奔,追馘百餘級。炒花等慟哭去。速把亥為遼左患二十年,至是死。帝大喜,詔賜甲第京師,世廕錦衣指揮使。《明史》 卷二百三十八 列傳第一百二十六 李成梁
  9. 石大人胡同 今爲寧遠伯李成梁賜第。成梁罷鎮還京居之,父子六人俱為大帥,貴震天下。成梁老病死牖下。長子如松戰沒,胄子名世忠襲爵,而頑嚚無賴,資產蕩盡,遂無人肯保任之。今惟正寢亭乃祖靈柩,十年不葬,他屋悉質於人,屠沽囂雜,過者嘆息。《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同
  10. 石大人胡同 今爲寧遠伯李成梁賜第。⇒《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同
  11. 曲水園在大興縣東、明駙馬萬煒建園。石牆一徑、皆竹。竹盡而西、迢迢皆水。曲廊亭台、皆東西濱水。其中有松化石、其半尚存本質。⇒《雍正畿輔通志》巻53
  12. 大興縣署胡同 井一。有坊曰大興縣,詳治所。北小胡同曰臊達子胡同。明曹學佺名勝志:大興縣治在北城教忠坊。帝京景物略:駙馬萬公曲水家園新寧伯之故園也。燕不饒水與竹,而園饒之。畿輔唐志;曲水園在大興縣東,明駙馬萬煒建園,中有松化石。案:園今無考。 ⇒《京師坊巷志稿》巻上 大興縣署胡同
  13. 曲水園在大興縣東、明駙馬萬煒建園。石牆一徑、皆竹。竹盡而西、迢迢皆水。曲廊亭台、皆東西濱水。其中有松化石、其半尚存本質。⇒《雍正畿輔通志》巻53
  14. 燕都游覽志:園亭之在東城者,曰梁氏園、曰楊舍人泌園、曰張氏陛舟園、曰恭順矦吳國華園、曰英國公張園、曰成國公適景園、後歸武清侯李、曰萬駙馬曲水園、冉駙馬宜園。案:泌園見泡子河,適景園見後,餘皆無考。⇒《京師坊巷志稿》巻上 石大人胡同

順治元年、清朝北京に入る─昭顕世子の見た北京2

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 と言うわけで、前回に続いて朝鮮世子昭顕世子日記の北京滞在部分です。今回は後半部分ですね。

十二日 己亥 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、平安。○八王・十王、追流賊、不及而還。

 5月12日。晴。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、問題ないとの仰せだった。八王アジゲ十王ドド流賊李自成を追跡したが、追いつかずに帰還した。
 と言うことで、呉三桂については書かれてませんが、5月12日にアジゲドド北京に帰還したようです。この辺はアジゲドドと名指ししているわけではありませんが、実録でも裏が取れますi

十三日 庚子 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。○午時、移寓于館所。卽隆慶駙馬侯姓人第。亦廣仁街之西也。其宏傑、殆非閭里家所比、牆內有石假山、山上建一小閣、登臨可以俯瞰長安矣。

 5月13日。晴。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。午時=昼時に引っ越しして隆慶帝駙馬姓の人物の邸宅に居館を移した。(前に見た万煒の息子の邸宅と同じく)広仁街の西にあって、甚だ広いお屋敷だったが、周りには殆ど家がなかったii屋敷の造りは大層広く、田舎の家と比べることなど出来なかった。塀の中に築山があってその上に小さな建物があって、登ると長安街を俯瞰することが出来た。
 と言うことで前回保留となっていた世子の邸宅選びの続きです。で、《明史》を見ると、隆慶帝の娘である寿陽公主侯拱辰に降嫁しているのでiii世子侯拱辰の旧宅に移ったようです。朝鮮側でもこの人誰よ?って調べたみたいですが、王世貞の文集に載ってる侯拱辰だ!という事を突き止めたようですiv。まぁ、逆にこれ以外情報がないと言えばなかったみたいですが。
 ただ、寿陽公主万暦帝の妹で万暦9年に侯拱辰に降嫁しているので、万暦13年に降嫁した瑞安公主万煒と条件はほぼ同じなんですが、方や隆慶の駙馬、方や万暦の駙馬とするところがスッキリいきません。《明史》によると瑞安公主のみが万暦帝の同母妹と記述されてるから、その辺を反映したのかしらんと思ったら、ネットで検索すると寿陽公主墓誌銘が発掘されているらしく、そこには寿陽公主万暦帝の同母妹とされているようなんですね。え~っと、やっぱり条件一緒やん!
 と、いくらか脱線しましたが、何でかドルゴン昭顕世子に立て続けに万暦帝の姉妹の嫁ぎ先のお屋敷を手配したことになります。ともあれ、屋敷も広いし眺めはいいしで侯氏のお屋敷は万煒の息子のお屋敷よりは使いやすかったんでしょうね。万煒の息子の屋敷が曲水園だったと仮定した場合、その近所にあると想定される侯拱辰の邸宅からは長安街まで結構な距離があるでしょうから、築山から見えるンだとしたらたら確かに壮観ですね。

十四日 辛丑 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。

 5月14日。晴。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。

十五日 壬寅 晴
世子留北京。○講院・藥房問安。答曰、知道。○清人有出瀋者、狀啟付送。【狀啟、王世子行次、本月初二日、攝政王一時、隨入北京之後、氣候安寧、入城之日、以衙門分付、只令譯官、禁軍陪從臣與他餘員役等、一切攔阻、使不得陪入、置在城外陣中。故初四日、清人出瀋、而末由探得往來、一行多少聞見之事、不得馳啟、極爲惶恐、清人入城之後、軍機甚密、凡干多少處置之舉、未能一一詳聞、大槩漢官之續續投來者、並爲仍舊察任。而亦以清人使之攝察云云。清兵趕逐流賊、至保定府、人馬瘦困、不得逐及、十二日回還入城。流賊騎兵、尚有六七萬、遁向山東、而所掠金銀輕寶。則疾馳搬運、已在軍前、清兵尾擊、只獲宮女百餘人・彩段七萬餘匹、奪來云云。皇子八歲兒一人、被執於流賊・置在軍中、一時率去云云。皇帝・皇后、則遇害之後、都民收厝於去皇城百里許北鎮山、有清人分付後、當爲改葬云云。諸王・諸將、分給家舍、世子所館處、亦爲定給、本月十三日、已爲移寓、而處所狹窄、許多人馬、容接極難、在城外員役・軍兵、纔得入城陪衛、而蒭糧罄竭、人馬俱飢、自衙門若干給料、而名曰老米、陳腐無比、觸手飛屑、糖土居半、人不堪飢乏、一番糊口、則腹痛輒作、病臥相繼、自行中艱難、拮據以救目前之急、而些少行資、亦已竭盡、萬無可繼之路、出還遲速、杳然莫知、前頭之事、極爲悶慮云云。】

 5月15日。晴。世子北京に滞在。講院薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。清人瀋陽に行くという者が居たので、状啓を託した。状啓の内容は以下の通り⇒「王世子は今月2日に摂政王ドルゴンに従って北京に入城した後、衙門の言いつけで翻訳官だけを従えて、禁軍從臣その他の付き人の随行は一切許されず、城外の陣中で待たされた。なので、4日には瀋陽に行く清人が居たが、世子との往来も少なく、一行の得られた少ない情報で状啓は書けなかった。おそらく、清人北京に入城した後は軍事機密の管理が厳重になったようで、細かいことを一々詳しく聞けなくなった。旧の官吏が続々投降し、大体の官吏は前職のまま採用されたが、中には清人の仕事を代行させているとか何とか…。清軍流賊李自成を即座に追撃したが、保定府まで来た所で人馬の体力が尽きたので追い切れずに、12日には北京に帰ってきた。李自成の騎兵はなお6~7万ほどいて、山東方面に退却して、現地で金銀や持ち運べる財宝を略奪している。早く持ち去れるように軍の前に略奪品を運ばせているので、清軍が追撃したが宮女百余人を捕獲し、錦布7万余匹を奪って来ただけだったとか何とか…。八歳児の皇子一人が李自成軍に捉えられており、退却をともにしているとか何とか…。皇帝皇后が自害された後、北京の民衆が亡骸を北京から百里離れた北鎮山に葬ったが、清人から指図を受けて改葬するとか何とか…。諸王諸将は屋敷を支給され、世子の館も支給された。今月13日にすでに引っ越しを終えたが、手狭なので城外に居る從臣禁軍の人馬をすべて受け入れるのは非常に困難で、世子の護衛兵を入城させるのがやっとだった。食料も枯渇しているため、人馬はともに飢えている。衙門から若干の支給はあるものの、触るとクズが舞い散る糠と土が混じったような古米で干からびている。人々は飢えに耐えかね、古米を粥にして空腹を凌ごうとしたが、食べると腹痛を起こしたり、病気で床に伏せる者が続出し、歩けるのがやっとという者ばかり。目先のトラブルに対応するだけで資金も底をついて希望も見いだせないので、早く瀋陽に帰りたいが先のことは全く分からないので、悶々としているとか何とか…。」

 と言うわけで、北京陥落から二週間経とうというタイミングで、ようやく朝鮮本国への報告書である状啓瀋陽に帰る清人に託せたと言うことのようです。
 5月4日云々という言い訳から入るのですが、これだけだと何のこっちゃですが、《朝鮮王朝実録》の同年5月庚戌(23日)の項を見ると、この状啓についてはどうやら従者ではなく世子が自分で筆を執って直接状啓を送っていたようですね。

(仁祖22年5月)庚戌(23日)(中略)世子遣禁軍洪繼立,以手書馳啓曰:v

 世子が直接状啓(報告書)をしたため、禁軍の兵士を派遣して漢城府状啓を送ったわけです。本来は随行の文官の職務である状啓の作成を果たせず、世子の手を煩わせたわけでそりゃまぁ言い訳から入るのもしょうがないですね。この時も5月4日?に出発した洪継立は12日後の5月16日に瀋陽を経由してvi、その7日後の5月23日に漢城府仁祖に報告していますから、この時の北京から漢城までの所要時間は19日ですね。
 でも、5月4日には文官瀋陽に行く清人を見かけただけで、この清人世子状啓を託された訳ではないかもしれませんが、そうそう使者が往復してたわけではないでしょうし、言い訳の文章から入っているので、とりあえず5月4日に状啓を携えた使者が出発したこととしましょう。

 話戻って5月15日に送った状啓漢城府仁祖の元に着いた記事も《朝鮮王朝実録》にあります。

(仁祖22年6月)戊午(2日)文學李䅘馳啓曰:“淸人入北京之後,事機甚密,不能詳知,而槪聞,漢官連續來投者,姑令仍察舊任,而又使淸人摠攝,人民之在城中,盡令剃頭。淸兵之追擊流賊者,至保定府,人馬疲困,不能追及,只得所棄宮女百餘人,彩段數萬匹而還,賊兵尙有六七萬,遁向山西,皇子八歲兒,被執於流賊,留置軍中云。以大家一區,定爲世子所館處,卽隆慶皇帝駙馬侯姓人家也。以五月十三日移寓,諸從者及軍兵等始許入城陪衛,而公私儲積,蕩然無餘,芻糧俱乏,人馬飢餒。自衙門給以若干料米,糠土居半,觸手作屑,不堪糊口,食輒腹痛。蒙古兵則許皆姑還,使之及秋來會,大擧南侵云。所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。”vii

 5月15日に北京から出した状啓が9日後の5月24日に瀋陽を経由してviii、その7日後の6月2日には漢城仁祖の元に着いてます。順治元(1644)年5月は小の月で29日までですから所要日程は16日ですかね。5月4日時点よりは3日短縮されてます。瀋陽漢城間は7日間で安定していますが、北京瀋陽間は混乱があったんでしょうかねぇ…。戦時体制下であることを考えると早いんですかね。で、この状啓は《昭顕瀋陽日記》の5月8日の条に北京に入城したことで名前が見える、文学李䅘がこの状啓の報告者だったようです。と言うことで本来は随行の文官状啓の報告者としての職務をになっていたと言うことです。
 内容については《昭顕瀋陽日記》の当該記事より簡潔になってたりニュアンスが違う気もする部分もありますが、だいたい内容的には大きな違いはないですね。ただ、この時点で北京城内で薙髪令が施行されていたことixモンゴル兵が皆帰還する許可を得たが、秋にはまた従軍、大挙して南方に侵攻する予定だという噂があるとかx昭顕世子があてがわれた屋敷の元の持ち主侯某というのは、王世貞の文集に載っている侯拱辰の事だろうxi等など、日記の方に記述がないことも補足もされてますね。
 状啓に関しては双方正確に記録していない可能性はあるんでしょうけど、一カ所見逃せない食い違いがあります。李自成軍が逃げた先が山東ではなく山西になっている箇所xiiです。李自成が逃げた先が山東山西じゃずいぶんと違います。実際の進路を見ると李自成保定府経由で山西陝西と逃走したので、結果として山西に向かったと言うのが正しいんでしょうけど、山東方面に向かったと言う情報が当時あったのかもしれません。《昭顕瀋陽日記》の影印を確認したところ、当該箇所は確かに山東になっていました。

十六日 癸卯 晴
世子留北京。○領兵將南斗爀、以衙門分付、率軍兵、入屯於玉河館。【是日、有此後勿爲問安之令。】

 5月16日、晴。世子北京に滞在。領兵将南斗爀衙門に割り振られて軍兵を率いて玉河館に駐屯した。この日から問安の令(⇒世子へのご機嫌伺い?)を取りやめた。
 と言うわけで、北京入城してから2週間後にようやく朝鮮軍北京に入城しています。玉河館明代からの朝鮮の外交施設で場所としては現在の東交民巷のあたりにあったようです。別名、朝鮮館高麗館。《乾隆京城全図》で検索するとこの辺です⇒№2680高麗館
 どうやら、玉河館は焼け残っていたようですから、大使館のような外交施設があるなら世子もそこに入ればいいじゃない!と思うんですが、これも高貴な人に粗末な役所を使わせるわけには行かない!って事なんでしょうかね。順治年間にはまだ朝鮮使節が使用していた玉河館ですが、その後ロシア使節に占拠されて追い出されたようですxiii。というか、どうやら清朝玉河館会同館は特定の国に貸し与えて居るわけではなく、派遣された外交使節の滞在施設として共同で貸し与えていたんじゃないかと。比較的人数が多かった朝鮮が慣例で使用していた玉河館を、その後交流が活発になったロシアが多数を占めるようになった…ので、他にも北京に大使館的施設を所有していた朝鮮が追い出された…という感じだったんでしょうね。

十七日 甲辰 晴
世子留北京。○蒙古王弟、來謁辭歸、饋茶果以送。

 5月17日、晴。世子北京に滞在。モンゴル王弟が別れを告げに挨拶に来たので、茶菓を選別に渡した。
 つい先週までは粥で飢えを凌いでいた朝鮮一行も、選別の品を送れるくらい支給を受けていたようですね。と同時に、5月15日段階の朝鮮に着いた状啓に書かれていたモンゴル軍の帰還は割と直近のことだったんですね。

十八日 乙巳 晴夕乍雨
世子留北京。○世子陪衛炮手一百三十四名・領兵所率六百名、九王賞賜有差。【領兵彩段一百疋、偏將四十疋、軍兵各二十疋、錢文則毎名六貫分給。】

 5月18日、晴、夕方から雨。世子北京に滞在。世子砲手134名と600名を連れて九王ドルゴンに謁見し、論功行賞を行った。領兵は錦100疋、偏将は40疋、兵はそれぞれ20疋、銭はそれぞれに6貫が支給された。
 城外に駐屯していた禁軍及び砲兵を引き連れて世子ドルゴンに謁見したようですね。それぞれに下賜された物品をちゃんと記してあるのはありがたい限りです。

十九日 丙午 晴
世子留北京。

 5月19日、晴。世子北京に滞在。

二十日 丁未 晴
世子留北京。

 5月20日、晴。世子北京に滞在。

二十一日 戊申 晴
世子留北京。

 5月20日、晴。世子北京に滞在。
 ここ三日ほど平穏無事だったようですね。ところが翌日から急転直下です。

二十二日 己酉 晴
世子留北京。○世子早朝、往候于武英殿、見龍將。言及出還瀋陽之意。龍將答曰、當報知九王前云。差晚、世子更見、則龍將曰、以分綵軍兵事、無暇報知。明早圖之云云。

 5月22日、世子北京に滞在。世子は早朝、武英殿にご機嫌伺いに行き、龍将イングルダイに謁見し、瀋陽への帰還願いを申し出た。イングルダイ九王ドルゴンに必ずお伝えすると答えた。晩に差し掛かり、世子がもう一度謁見すると、イングルダイは論功行賞に手間取って、知らせる暇がなかったので明朝早い時間にお伝えすると言った。
 北京入城から20日経った段階で、世子からイングルダイを取次にしてドルゴンに対して帰還願いを出したようですね。モンゴルも帰ったし、わし等も瀋陽に返してや!と言うわけでしょう。早朝に武英殿まで行ったのにドルゴンに会えなかった理由が報償の分配に時間を食ったというのはありそうです。先に朝鮮軍に分配していますから、やはり優遇されるように感じます。

二十三日 庚戌 晴
世子留北京。○世子朝進武英殿、見龍將、則龍將曰、九王前、言及世子出瀋之事、九王許令、明日出還、而八月當爲入來云云。

 5月23日、晴。世子北京に滞在。世子は朝から武英殿に行き、イングルダイに謁見した。イングルダイドルゴン世子瀋陽への帰還についてお伺いを立てたところ、ドルゴンは明日瀋陽への出発を許可して、八月にまた帰還するよう指示した。
 帰還申請後翌日に許可が下りてます。え?てっきり何のかんの戦時中で処理が追いつかないとか、そもそもまだ北京の支配が安定したわけではないとか何とか言って引き延ばされるものだと思ってたら即決ですね。判断速すぎでは…。しかも、許可翌日に出発指示とかスピード感ありすぎです。流石に何の記述も無い3日間の間に駆け引きがあったんじゃないかと疑いたくなりますが、史料上は申請翌日に即認可、翌日出発の驚くべきスピード決済です。素晴らしい。
 世子瀋陽への帰還なり、朝鮮への帰国なりは、6月7日時点に漢城府に来た清朝使節に対して要請したようですが、間に入った翻訳官からは時期尚早と諫められてますxiv。実際にはそれよりも2週間以前の5月23日時点で帰還申請が認可されているわけですね…。この段階では一旦瀋陽に帰還した後、8月の遷都に合わせて北京に来るように指示されていますが、最終的には世子は瀋陽に帰り、8月に順治帝の遷都の行列を見送ったもののこれに同行せずに翌年帰国しています。ドルゴンなりの論功行賞だったのではないかと自分は思います。

二十四日 辛亥 晴
世子留北京。○世子朝早、往候武英殿、龍將更稟世子出瀋之意、九王許令、今日出去、八月間皇帝入來時、率嬪宮・大君、一時入來云。○早食後、世子臨發、衙譯來言、一行員役、皆來領賞。世子率陪從、進去衙門、員役三十六人、各給彩段十五匹、拜謝于武英殿門外。【當初、衙門只錄三十六人而去、放給以此數、世子還館所、他員役之不得受者、以此分給有差、至於軍牢輩、俱得參焉。】○午時、世子發行、出自東門。申時、至通州城東十里許江邊、止宿。內官・司禦・宣傳官・禁軍以下落留者、并錄于下。(中略)○皇帝・固山額眞、領率甲軍之還瀋者、世子一時出來、軍兵之數、十餘萬云、而蒙人居多焉。領兵將南斗爀軍兵、亦爲出還、而直向山海關大路而行。

 5月24日、晴。世子北京に滞在。世子は早朝に武英殿に赴いて、イングルダイに再度瀋陽帰還願いを申し出たところドルゴンはこれを許可し、本日出発して八月に皇帝北京入城する際に妻子(嬪宮)や兄弟(大君)を引き連れて来るようにと付け加えた。
 朝食後に世子が出発準備をしていると、衙門付きの翻訳官が来て、一行の役職についている者は皆、衙門に立ち寄って報償を貰うようにと伝言した。世子は随員を引き連れて衙門に行くと、役職についている36名に対して各々錦15疋が支給され、武英殿門外で拝謁して謝意を伝えた。当初は衙門では36名が随員として登録されていたので36名分が支給されたが、世子が居館に帰ると登録から漏れて報償に預かれなかった随員が居たので、俸給に格差が出てしまった。特に軍属の輩は5月18日下賜分と併せて二度も報償を受け取っていた。
 昼頃(午時)、世子一行は東門(朝陽門?)から出発した。
 昼過ぎ(申時)、通州城から東へ10里の川辺に到着したのでここに宿泊することにした。文官、軍属で行軍途中に脱落した者は以下の通り(省略します)。皇帝グサ・エジェンの命令で軍を引き連れて世子のように瀋陽に一時的に帰る兵は十余万と言う噂だ。内訳としてはモンゴル人が多い。領兵將南斗爀が引き連れている軍は山海関大路を直行した。

 と言うことで、世子一行は3週間程度の北京滞在の後、瀋陽に向けて出発しました。報償を受け取れなかった随員は一体どれくらいいたのか気にはなりますが、報償の有無や差が道中のトラブルの種にならなければいいんですがねぇ。で、半日で通州近くまで進み、宿泊します。宿を取ったというよりは野営を張ったという感じでしょうかねぇ。朝鮮軍山海関大路を直行するのを横目に世子一行は別ルートを進むようです。
 と言うわけで、無事世子一行が北京を出発したので、以降は次回に回します。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
李燮平《明代北京都城营建丛考》紫禁城出版社
劉侗・于奕正《帝都景物畧》北京古籍出版社
于敏中《日下舊聞考》北京古籍出版社
京師五城坊巷衚衕集・京師坊巷志稿》北京古籍出版社
大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行

  1. (順治元年五月)○己亥(十二日)(中略)○追擊賊兵之諸王貝勒等還京。遣大學士范文程等、迎勞之。王等入城。謁攝政和碩睿親王。行三跪九叩頭禮。《世祖章皇帝實錄》卷之五
  2. この辺、特に訳に自信ないです⇒遊牧民先生からご指摘あったので訳の参考にしました
  3. 壽陽公主,萬曆九年下嫁侯拱辰。國本議起,拱辰掌宗人府,亦具疏力爭。卒贈太傅,諡榮康。⇒《明史》卷一百二十一 列傳第九 公主 穆宗六女
  4. 以大家一區,定爲世子所館處,卽隆慶皇帝駙馬侯姓人家也。以五月十三日移寓(中略)所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。⇒《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 二十二年 六月
  5. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五
  6. (五月)十六日 癸卯 朝陰午晴(中略)禁軍洪季立、内書・狀啟陪持出来。⇒《昭顕瀋陽日記》甲午年五月[宣和堂註:禁軍の洪繼立が洪季立になっているのが気になるモノの、どちらかが誤記したモノとと考える]
  7. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五 二十二年 六月
  8. (五月)二十四日 辛亥 晴風 衙門招、司書詣通政院、則鄭譯出給行中内書・文學李䅘狀啟、而諸文書皆析見後傳付。⇒《昭顕瀋陽日記》甲午年五月
  9. 人民之在城中,盡令剃頭。
  10. 蒙古兵則許皆姑還,使之及秋來會,大擧南侵云。
  11. 所謂侯姓人,卽王世貞文集所載侯拱辰是也。
  12. 賊兵尙有六七萬,遁向山西
  13. 順治初。設朝鮮使邸于玉河西畔。稱玉河館。後爲鄂羅斯所占。鄂羅斯。所謂大鼻㺚子。最凶悍。淸人不能制。⇒朴趾源《熱河日記》巻4 關関内程史 八月初一日丁未
  14. (仁祖22年6月)癸亥(7日)領議政金瑬、領中樞府事沈悅率百官,將呈文于淸使,請還世子,先使譯官,微通于卞蘭,蘭答曰:“淸人雖得北京,中原猶未底平,宜待事定,別遣大臣以請之。今日發言,恐爲太早計也。且勑使之行,專爲報喜,如此等事,非其所幹也。”蘭遂不出見,諸官不得呈而退。⇒《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷四十五

決戦山海関─モンゴル档案から見た順治元年

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 清初ハルハ部の事を調べいて、《清内秘书院蒙古文档案汇编》という資料集が出ていることを知りました。しかし、モンゴル文の影印版かつ七冊の大部と知って自分の能力を超える明らかなオーバースペックに尻込みしていたところ、《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》というダイジェスト漢訳版が出ていることを知りスルッと購入してみました。で、サラサラ流し読みしていたところ、以下のような記事が目に入ったので、とりあえずメモです。

02-01-04 理藩院以吴三桂降清山海关大捷奉旨晓谕外藩蒙古诸王公台吉等书
顺治元年五月初二日
 钦奉谕旨理藩院晓谕外藩蒙古诸王公台吉等。摄政王、和硕睿亲王多尔衮统率大军伐明,四月二十八日奏报歼敌捷音。臣谨奏:四月十三日,明国总兵官吴三桂派来副将杨新、尤革库、玉龙等言,流贼之兵已经攻占北京。我崇祯帝、大皇后缢死。流贼头目李自成于三月二十二日即帝位,其国号曰大顺,年号曰永昌。曾经常派人招降吴三桂,则吴三桂不从,自宁远领军民、家属、牲畜等从永平府回返留守山海关,并遣人来说今归服尔,为皇上报仇云云。遂让其所遣之人赉书先去。我立即急忙连夜前往。四月二十一日,流贼头目李自成亲率二十余万马歩兵,并强行携领崇祯帝之太子朱司兆、三子定王、四子等三个儿子以及崇祯帝宗族山西所属太原府晋王朱新隽、潞安府秦王、陕西西安府秦王朱孙基、平阳府汉王朱少涛、郡王西德王、尚令王、三音王、吴三桂之父吴襄等,派人去催促吴三桂投降而吴三桂不从。故围攻山海关城墙,投降流贼总兵官唐通率领马歩军自山海关城墙之益边西角而出堵截去路布阵。那夜遇到唐通几百个骑兵,杀死一百来个人。当天夜里唐通之兵卒,由海关城墙进入逃跑。明日我大军至海关城墙,吴三桂即即开城门投降。我军由前水门、后水门及城墙中门进去视看,流贼头目李自成亲率二十余万马歩军,其行伍一头伸张至北面之山,另一头延伸至南边大海布列战阵。又那天刮起飓风,尖土飞扬,看不清任何东西,我军摆好战阵一看,对方士兵延伸至大海,比我们还多。我召集我诸王、贝勒、贝子、台吉纳尔、诸公及诸固山额真、掌管旗帜之诸章京,对他们说:“尔等不得前后侵攻。不得与此兵轻易交战,各自必须谨慎小心。若能战胜此(敌人)则就如同立即开创基业一样。我军与对方延伸至大海之军阵布列看齐,由我右翼兵之边与吴总兵官兵马布列看齐。由于地方太远,故军号音声听不见。从我身旁发喊时尔等越发大声喊。两次齐喊时大家并列让马使颠,各自突击。”如此训话之后,遂派去。遂我军先整齐布列军阵之后,当两度大喊进攻时,大风开始趋于平静,遂各自战胜对方兵马,追击至四十里地之远,杀得他们前迎后合。生擒太原府朱新隽。流贼头目所站地方正好与我整个镶黄旗(军马)所在地正面对峙。当击溃此敌兵时,科尔泌右翼土谢图亲王带有一千个士兵,左翼士兵一百来个,土黙特两旗兵马、固伦公主士兵来迎战。除此之外,其他外藩蒙古兵马未至。今我大军与总兵吴三桂马歩兵军以及取得红衣炮前往北京。为晓谕天佑捷音喜讯而领发此书。i

 と言うわけで、理藩院が作成した山海関の戦捷報告のモンゴル文です。原文はモンゴル語だからか、結構な分量があります。この報告については、《世祖実録》5月1日の条に朝鮮王朝外藩モンゴル…つまり、南モンゴル清朝に帰服した有力者に山海関での戦勝報告を行ったことが記事にありますiiモンゴル文の档案とは日付に1日のズレがあるのは気になりますが、作成を命じたのが5月1日、完成したのが5月2日と考えれば、ほぼほぼ問題はないかなと。

 さて、肝心の内容については、
瀋陽山海関の戦いの報告は4月28日に瀋陽にもたらされた。
呉三桂は一旦永平府まで進軍して北京陥落を知って山海関に引き返した。
唐通山海関の西角(一片石関?)から進入した兵力は数百騎ほどで、内百騎ほどが討ち取られた。
などなど、気になることが書いてあります。
 更に興味深いのが山海関の戦いについての記事デス。ちょっと長めですが訳しましょう。
 明日(4月22日)、我が軍は山海関城壁に到着し、呉三桂は城門を開け放って投降した。我が軍は前水門後水門及び山海関城壁正門から入城したところ、流賊の頭目・李自成は自ら二十余万の騎・歩兵を率いて、北側は山まで隊列を布陣しており、もう一方の南側は大海にまで陣列が伸びていた。また、この日は悪天候で風が強く、砂を巻き上げられて視界が悪かった。我が軍は有利な場所に戦陣を敷けたが、敵軍は南方の海まで布陣が伸びている上に(つまり間断なく包囲されている)、(呉三桂軍と併せても)我が軍よりもまだ兵力が多かった。私(ドルゴン)は諸ベイレベイセタイジノヤン、諸及び諸グサ・エジェン、旗を掌管するジャンギンを召集して「卿等は抜け駆けせず、軽々しく交戦せず、各自軽挙を慎み注意深くするように。もし、敵軍に大勝出来ればこれは創業の大功と同等の戦功である。一方では我が軍も敵軍も布陣が海まで伸びており、我軍の右翼端と呉三桂軍の陣は遠く離れている。それ故に軍令の声は聞こえても何も見えない。まず、我が陣より大声で号令を発するので、卿等はより大声で号令を返し、二度目に号令が聞こえたら各自隊列を乱さずに順次突撃せよ」と指示して、(呼び出した指揮官達を)各自自陣に戻らせた。我が軍は陣形を整え終えると号令を二度返し攻撃を開始した。すると、風が止んで静かになり(視界が開け)各自目前の敵を各々打ち破り、40里も遠方まで追撃して散々に敵軍を屠った。太原府朱新隽(=晋王)を生け捕りにした。流賊の頭目(=李自成)は我が軍の鑲黄旗正面に布陣していた(つまり、皇帝直轄軍が敵本軍を打ち破った)。敵軍を潰滅させた戦闘では、ホルチン右翼のトゥシェート親王の1千騎、左翼1百騎、トゥメト両旗の兵馬、グルン公主の士兵が参戦したが、その他のモンゴルの兵馬は間に合わなかった…。
 という感じの内容です。特に最後の段にモンゴルの援軍の内訳を記しているのは、山海関に援軍を出さなかった有力者へのプレッシャーでしょうね…。ホルチン右翼トゥシェート親王は一代目トシェート親王バタリのことでしょう。ホルチン左翼順治帝の生母である孝荘文皇后の生家のあるジョリクト親王家も属しているのですが、当時の当主で孝荘文皇后の実兄であるウクシャンに言及がないのはどうしたことでしょうかね…。トゥメト部については中期にはこの進軍コースが遊牧テリトリーだったようなので、遊牧地が替わっていなければ兵を出さざるを得ない状況ではあったハズです。
 で、問題のグルン公主(=固伦公主)の兵ですが…候補は2名居ます。順治元年当時に、モンゴルに嫁いだ公主は、アオハンバンダイに嫁いでいたホーゲの12歳年下の同母妹であるアオハン・グルン公主。もう一人が孝端文皇后ジェレの娘でチャハルエジェイに嫁いだマガタです。しかし、アオハン部のバンダイ順治年間ドドテンギス追撃戦に加わっているので、順治元年当時まだ在世中ですから、もしもアオハン部の兵を指すならバンダイの兵と書くはずです。従ってこの兵は、崇徳6年にエジェイが他界して順治2年にエジェイの弟であるアブナイに再嫁するまで未亡人であった固倫温荘長公主マガタ所属のチャハル部の兵力を指していると考えられます。《欽定外藩蒙古回部王公表伝》をパラ見する限り、モンゴルの援軍はこれだけではなささそうなんで、また暇があったら確認します。
 ともあれ、いずれにしろ、瀋陽出発時にモンゴル諸公の名前がないことから、瀋陽に集合する予定はなく、清朝八旗本隊の進軍中にモンゴルの援軍が合流して北京を衝く構想だったと考えた方が自然です。であれば、準備して期日通りに集合場所に居たとしても、モンゴル諸公のなかには清朝本隊合流出来なかった勢力もあっただろうに、恨みがましくおまえ等援軍よこさんかったやろ!と詰問される覚えはないだろうなぁ…と同情してしまいました。この辺、モンゴル諸公は元々の作戦が変更になったことを急に伝えられた関ヶ原合戦の徳川秀忠みたいな立場だったんじゃないかと思います。

 ところで、朝鮮王朝にもこの山海関の戦いの戦勝報告は伝えられたことが確認出来ます。

(仁祖22年5月7日)甲午(中略)
○鳳林大君還自瀋陽。(中略)
○文學李䅘馳啓曰:“世子之行,自發瀋陽,連日作行,十五日早發,隨至山海關。摠兵吳三桂遣將官二人,請兵于九王曰:‘皇城爲流賊所陷,皇帝自縊,后妃以下皆自焚。關內諸城,盡皆見陷,惟山海關獨存,朝暮且急,約與貴國致討。’云。二十日到錦州城西止宿,漢人又來告急,淸兵遂疾馳,二十二日朝,進迫關門,吳將率諸將出城,納降開門迎入,則漢人已與賊兵接戰于關內數里許大野中,淸兵直衝賊陣,一食之頃,僵屍蔽野,賊皆奔北,追殺于海口。至夜還陣關內五里許,二十三日朝,行軍直向北京云。世子則常在九王陣中,交兵之際,亦不得出陣。領兵將朴翰男領錦州軍五百五十四人,到寧遠衛,以九王之令,使軍官金忠壽,先率善放砲手一百人,二十二日已到山海關矣。”
○淸國付勑書于譯官之出來者,有曰:
四月十三日,有明總兵官吳三桂,差副將楊新、遊擊柯遇隆,至軍請降言:“流賊已尅北京,崇禎皇帝及后俱自縊。賊酋李志誠,三月二十三日卽位稱帝,國號大順,建元永昌。屢差人招吳揔兵,吳揔兵不從,率家屬及寧遠兵民,堅守山海關,欲附淸國,以報故主之仇。”云。九王答書付來官,許以裂土封王,遂兼程前進,二十一日至山海,賊酋李志誠,領馬、步兵二十餘萬,執崇禎太子朱慈照、竝其第二、第四子及太原府晋王、潞安府瀋王,西安府秦王、平凉府韓王,又有西德王、襄陵王、山陰王及吳三桂之父吳襄於陣前,欲降三桂。三桂不降,賊恐奔投我國,差僞摠兵官唐通,率兵數百,從一片石出,要截其路。是晩遇我前鋒,殺死百餘,唐通夜遁入關。次日吳三桂開關出降,我兵入關,正値賊兵陣於關前,北至山南至海。時値大風,塵土飛揚,對面不相識。而賊兵多近海,九王向海迎敵,吳揔兵隨右側布陣進兵,大風卽止,不意直抵賊營,敗其兵,追殺四十餘里,橫屍遍野,晋王被我所獲。今大兵帶神威大將軍砲兵及吳揔兵馬、步兵前驅北京,故諭。
是時,我國與大明絶,不得相通,及聞此報,雖輿臺下賤,莫不驚駭隕淚。 iii

 モンゴル档案の漢語訳は《朝鮮実録》と比較すると、固有名詞についてはかなり不安が残りますね…iv。このあたりは翻訳の精度の信用性にも関わりますが…。

 それはさておき、最初、この記事を読んで 鳳林大君瀋陽から勅書昭顕世子のお付きである文学・李䅘からの状啓を携えて漢城に帰還したんだと思ったんですが、《昭顕瀋陽日記》の方を確認すると、勅書は愚か状啓よりも先に鳳林大君が出発していることが判明します。今までネタにしてた昭顕世子の従軍日記は〈西行日記〉として巻末に付された番外編です。瀋陽館の記録の方が実はメインなので、瀋陽の様子を定点観測するには、本文を当たる方が適切です。

(甲申年四月)十一日 戊辰 晴
(中略)○鳳林大君并夫人行次,離發館中,止宿於野坂.v

 ということで、こんな記事があるわけです。鳳林大君は夫人を伴って4月11日に瀋陽を出発して、ゆるゆると5月7日に漢城に到着したようですね。

 一方、山海関の戦勝が瀋陽にもたらされたのは、モンゴル档案にもあったように、4月28日だったようです。

(甲申年四月)二十八日 乙酉 晴
 申時八門撃鼓,留鎭王,會于大衙門.講院因衙譯言,随大君進去,則清人自陣上来傳蒙書一道.所謂博士者釋言,流賊於二月間,已陥皇城,以兵進攻山海關.寧遠總兵呉三桂與清將相約,今月二十二日,開關門引入,遇賊大戰得捷,故送人來狀云.(後略)vi

 これを見ると、瀋陽にもたらされた山海関の戦いの戦勝報告第一報はモンゴル文の文章であったようで、モンゴル語の出来るバクシが訳して、瀋陽で留守番をしていた要人達に披露したようですね。そりゃモンゴル文がオリジナルで、文がその訳出された文章ならモンゴル語の報告書の方が細かいのも納得です。

 で、やはり5月1日にこういう記事があります。

(甲申年)五月初一日 戊子 晴
(中略)○邊難以衙門意來言,西行得捷事,當送勅書,陪持人差出云.禁軍呉孝立・軍牢一名定送内書及宰臣狀啓,文學李䅘狀啓并付送.(後略)vii

 戦勝報告の勅書を送るように清朝から指示があったこと、更に《朝鮮実録》にもあった文學・李䅘状啓の他に瀋陽館からの状啓も使者に持たせた事が書いてあります。案外裏が取れるもんなんすなぁ…。

 と、ここまで来て、なんだか最初に紹介したモンゴル文の訳に似たような文章見たような気がするけどどこだったかなぁ…と思いつつ《清初内国史院满文档案译编》をペラッと捲ったらやっぱり同じ文章ありましたね…。

顺治元年五月
 五月初一日。皇帝钦谕朝鲜国王李宗viii曰:朕命摄政王和硕睿亲王持奉命大将军之印,率大军西征明国。摄政和硕睿亲王于四月二十八日奏曰:四月十三日,明总兵吴三桂遣副将杨珅、游擊郭云龙来禀:流贼已陥燕京,崇祯帝后自缢。贼首李自成于三月二十二日僭称帝,国号大顺,改元永昌,又遣人招降吴三桂。三桂不从,遂自宁远取其家口,率军民自永平府返据山海关,欲来投,为崇祯帝报仇。遂谕其使曰:若来投,即裂地封王。谕毕,今赉书而去。臣即星夜前往,于四月二十一日抵山海关,値贼首李自成亲率马歩兵二十余万,挟崇祯帝太子朱慈烺、第三子定王、第四子等三子、以及崇祯宗室山西太原府晋王朱审煊、潞安府秦王、陕西省西安府秦王朱顺吉、平阳府汉王朱劭道、郡王绥德王、襄陵王、山阴王、并吴三桂父吴襄倶来,招三桂降,三桂不从,贼遂即围山海关。流贼总兵叛将唐通率马歩兵,于山海关外一片石列阵。是晩,遇贼总兵唐通马兵数百余人,唐通兵马遂遁往山海关。次日,大军直薄山海关,吴三桂开门迎降,我军遂从南水门、北水门、关中门入,望见贼首亲率马歩兵二十余万,自北山横亘至南海列阵。是日,大风扬尘,咫尺不见,我军对贼布阵,不能横列及海。臣遂集诸王、贝勒、贝子、公、固山额真、纛章京等,谓之曰:尔等毋越伍躁进,此兵不可轻击,须各自努力,破此则大业可成,我军可向海对贼阵尾,鳞次布列,吴总兵可分列右翼之末,若以吹螺进兵,则路不得闻也,故由王处传呼,俟二次呼噪进兵,风遂止,各对阵奋击,大败贼兵,追杀击至四十里。阵获太原府晋王朱审煊。贼首立足之处,正値我正黄旗立兵之处。现正率大军,与总兵吴三桂马歩兵及红衣炮直捣燕京。奏毕,以天助破贼捷音向尔宣谕。
 是日。皇帝勅谕理藩院、外藩诸王、贝勒、贝子曰:摄政王和硕睿亲王,率大军西征明国,于四月二十八日以破贼捷音启奏曰:四月十三日,明总兵吴三桂遣副将杨珅、游擊郭云龙来禀:流贼已陥燕京,崇祯帝后倶自缢。贼首李自成于三月二十二日僭称帝,国号大顺,改元永昌,又遣人招降吴三桂。三桂不从,遂自宁远取其家口,率军民自永平府返据山海关,欲来投,为崇祯帝报仇。遂谕其使曰:若来投,即裂地封王。谕毕,今赉书而去。臣即星夜前往,于四月二十一日抵山海关,値贼首李自成亲率马歩兵二十余万,挟崇祯帝太子朱慈烺、第三子定王、第四子等三子、以及崇祯宗室山西太原府晋王朱审煊、潞安府秦王、陕西省西安府秦王朱顺吉、平阳府汉王朱劭道、郡王绥德王、襄陵王、山阴王、并吴三桂父吴襄倶来,招三桂降,三桂不从,贼遂即围山海关。流贼总兵叛将唐通率马歩兵,于山海关外一片石列阵。是晩,遇贼总兵唐通马兵数百余人,皆斩之。是夜,唐通兵马遁往山海关。次日,大军直薄山海关。吴三桂开门迎降,我军遂从南水门、北水门、关中门入,望见贼首亲率马歩兵二十余万,自北山横亘至南海列阵。是日,大风扬尘,咫尺不见,我军对贼布阵,不能横列及海。臣遂集诸王、贝勒、贝子、公、固山额真、纛章京等,谓之曰:尔等毋越伍躁进,此兵不可轻击,须各自努力,破此则大业可成。我军可向海对贼阵尾,鳞次布列,吴总兵可分列右翼之末。若以吹螺进兵,则路不得闻也,故由王处传呼,诸军齐列进兵。号令毕,我军齐列,及二次呼噪进兵,风遂止,各对阵奋击,大败贼兵,追杀击至四十里,阵获太原府晋王朱审煊。破此兵时,仪有科尔泌右翼土谢图亲王,并率有兵一千,另有左翼兵一百,土黙特二旗兵、固伦公主兵等,未动用外藩一兵一卒。贼首立足之处,正値我正黄旗立兵之处。现正率大军与总兵三桂马歩兵及红衣炮直捣燕京。奏毕,以天助破贼捷音宣示之。ix

 前半は朝鮮王朝に対しての勅書、後半はモンゴル有力者への勅書ですね。満文档案にある内容と同様の文章が、《朝鮮実録》や蒙文档案でも記述があるので裏が取れたって事になりますかね…。

 前にネタにしたとおり、《昭顕瀋陽日記》や《世祖実録》によると、呉三桂からの使者は4月15日にドルゴンと会見するワケですが、勅書にはすべて4月13日としているからには何らかの事実を反映していると考えるべきだと以前から思っていました。考えられるのは、呉三桂の使者達が錦州寧遠アイドゥリあたりに接触して、呉三桂の意思を始めて清朝に伝えたのが4月13日だと考えれば日程的には何となくしっくり来るのかな…と、ふと考えました。《昭顕瀋陽日記》によると、4月13日段階でドルゴンが駐屯していた愁乙古錦州より3日の距離にあると書かれていて、そこから1日進軍して4月15日朝に翁後呉三桂の使者とドルゴンは会見していますから、2日のタイムラグは何とか説明出来るんじゃないかと。まぁ、この辺は状況証拠しか出揃ってないので、なんとも言えませんが。

参考文献:
希都日古 编译《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》社会科学文献出版社
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
《大清世祖章(順治)皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行

  1. 《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》P.57~58
  2. 順治元年甲申。五月戊子朔(1日)。以破流賊李自成捷音。宣示朝鮮及外藩蒙古諸王貝勒。⇒《清世祖実録》巻5 順治元年五月戊子朔 条
  3. 《朝鮮王朝実録》仁祖実録 巻45
  4. 遊擊柯遇隆⇒尤革库、玉龙、崇禎太子朱慈照⇒崇祯帝之太子朱司兆、潞安府瀋王⇒潞安府秦王、平凉府韓王⇒平阳府汉王、襄陵王⇒尚令王、山陰王⇒三音王等など固有名詞の語訳が多く見られる。
  5. 《昭顕瀋陽日記》甲申年
  6. 《昭顕瀋陽日記》甲申年
  7. 《昭顕瀋陽日記》甲申年
  8. 当時の朝鮮王・仁祖は李”倧”。原文では”宗”だが、編を入れるスペースが不自然に空いているので、にんべんが脱落したと考えられる。
  9. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.12~13

清初、清朝とハルハ左右翼との関係史

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 かーなり時間かかってしまったものの、『満族史研究』第16号の関根知良「順治朝における清朝とハルハの交渉過程───モンゴル語書簡を中心に───」で紹介された清初清朝ハルハ部との事件を時系列に並べ直して、ソースを《内秘書院檔》、《清実録》、《王公表伝》で確認してまとめてみます。年表は論文に依っていますが、その後につけたメモは自分による勝手な解釈です。モンゴルの人名地名は当該論文に依りましたが…やっぱり発音難しいですよな…。

 まずは、清朝ハルハの交渉の開始からです。ホンタイジ期にはすでに交渉が開始しています。

天聰6(1632)年5月⇒後金チャハル勢力下にあった交易拠点である帰化城(フフホト)を占領する。i
天聰8(1634)年閏8月頃⇒チャハルリンダン・ハーンシラ・タラで病没する。ii
天聰9(1635)年5月⇒ハルハ左翼セツェン・ハーン後金に朝貢する。iii
天聰9(1635)年7月⇒チャハルリンダン・ハーンの遺児 エルケ・ホンゴル=エジェイ後金に帰順。iv
天聰9(1635)年⇒スニド部がチャハル部の保護下を離れ、ハルハ左翼セツェン・ハーンに降る。v
天聰10(1636)年4月⇒ホンタイジが帝位に就き、国号を後金から大清に改め、崇徳と改元する。vi
崇徳2(1637)年4月⇒スニド部のメルゲン・タイジテンギスが清朝に献馬する。vii
崇徳2(1637)年⇒ハルハ左翼のセツェン・ハーントシェート・ハーン清朝ダライ・ラマの招聘で共同するよう使者を送る。viii
1638年⇒ハルハ右翼オムボ・エルデニ(ハルハのアルタン・ハーン)がロシアと交渉するも決裂ix
崇徳4(1639)年10月⇒スニド部が清朝に帰順。x
崇徳5(1640)年正月⇒テンギス親王アダリの妹が結婚。xi
庚辰(1640)年8月⇒ハルハ左翼ザサクト・ハーンを盟主として、ハルハ左翼オイラトが同盟を結び、モンゴル・オイラト法典(yeke cāǰiyin bičig?)が成立するxii
1641年1月⇒ロシアハルハ右翼オムボ・エルデニと国交断絶する(オムボ・エルデニ側はこの後1650年頃まで断続的に使者を派遣する)xiii
崇徳6(1641)年10月⇒テンギスザサク・ドロ・メルゲン郡王に封じられる。xiv
崇徳8(1643)年8月⇒ホンタイジ崩御xvアダリドルゴン擁立を図り処刑される。xvi
順治元(1644)年11月⇒テンギス清朝に入関作戦成功祝賀の使者を送る。xvii
順治3(1646)年正月⇒スニドテンギスが元旦朝賀の使者を派遣。xviii
順治3(1646)年5月(2月~3月?)⇒テンギス清朝から離脱してハルハ左翼セツェン・ハーンの元に逃亡。豫親王ドドが追撃するxix
順治3(1646)年7月⇒清朝テンギスを追跡し、ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン及びセツェン・ハーンの軍を撃破。xx
順治3(1646)年9月⇒清朝がトゥシェート・ハーンテンギスの返還を要求。xxi

 と、ここまでがハルハ左翼と清朝の第一段階です。
 まず、チャハル部の崩壊に伴ってスニド部のテンギスハルハ左翼のセツェン・ハーンに降り、更に清朝に降っています。テンギス清朝親王アダリの妹婿(=礼親王・ダイシャンの孫娘の婿)に…つまり、清朝皇族の姻戚となって郡王に封じられました。ホンタイジ治下の清朝では、かなり優遇されていたと言うことでしょう。しかし、ホンタイジが崩御したことによってテンギスの環境は変わっていきます。
 テンギスと元々仲が悪かった…とされるドルゴンが新たに発足した順治帝政権で摂政王となり、その余波でテンギスの義兄であるアダリ処刑されてしまいます。直接的にはどのような影響があったのかは分かりませんが、その3年後にテンギス北モンゴルハルハ左翼のセツェン・ハーンをもう一度頼り、清朝属下を離れます。
 ドルゴンは待ち構えていた様に豫親王ドドに命じてテンギスを追跡させました。一方、テンギスを保護しに出向いてきたハルハ左翼のセツェン・ハーントゥシェート・ハーンの軍勢と交戦し、これを散々に打ち破ります。清朝側は今まで殆ど交渉がなかったものの、チャハル遺衆の併呑を目論んでいたハルハ左翼(特にセツェン・ハーン)は清朝とは利害関係が対立する目障りな存在だったと考えられ、どうも外交的に優位な状態に持って行こうと虎視眈々と機会を伺っていたと思われます。なにせ、テンギスの追跡中にハルハ左翼に対して説明を求めたり、テンギスの身柄を求めたりと言った交渉なしに軍を編成して追撃しています。将軍に任じられたドドにはハルハ左翼と交戦したらあわよくばセツェン・ハーンを討ち滅ぼしてしまえ、くらいの指示を出しています。ハルハ左翼と交戦したドドは大勝利したモノの、テンギスを逃したことで、戦勝後にトゥシェート・ハーンテンギスの身柄を要求していますが、順番が逆なんでは…と思いますよね…。
 ともあれ、遊牧民と交戦する際は軍勢の補足が最も困難ですから、交戦に成功した上に打撃を与えたのは大きな意味があります。第一ラウンドで出会い頭にハルハ左翼にクリーンヒットをかましてマウントを取った清朝は以後、交渉を優位に進めることが出来たわけです。
 と、ここから長いハルハ清朝の抗争が始まります。

この頃?⇒ハルハ左翼のエルへ・ツォーホル(エルケ・チュフル)が清朝保護下のバーリン部を強襲。xxii
順治4(1647)年3月⇒ダライ・ラマパンチェン・ホトクトチベットの僧侶が清朝に礼物を献上する。xxiii
順治4(1647)年4月⇒ハルハ左翼のセツェン・ハーンハルハ右翼のザサクト・ハーンらが清朝に使者を送る。xxiv
順治4(1647)年4月⇒清朝セツェン・ハーンに使者を送り、テンギスの捕獲とスニド部の民の返還或いはセツェン・ハーン自身がテンギスを殺害することを要求した。xxv
順治4(1647)年5月⇒順治帝ハルハ右翼のザサクト・ハーンの信書様式の不敬を詰問し、かつスニド部にもバーリン部にも無関係なザサクト・ハーンが、テンギス事件やバーリン襲撃事件に干渉することを叱責し、テンギスの身柄の確保を命じる勅書を送る。xxvi
順治4(1647)年8月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーン清朝に使者を送る。ザサクト・ハーンハルハ左翼にスニド部やバーリン部の人畜の返還を促すことを約束しつつ、清朝ダライ・ラマの招請を促す。xxvii
順治4(1647)年12月⇒ハルハ左翼のトゥシェート・ハーンセツェン・ハーンが会盟の場から清朝に使者を送り、清朝の要求を受けてバーリン部の人畜の返還を約束した。xxviii
順治5(1648)年5月⇒ハルハ左翼が清朝バーリン部の人畜の損害賠償要求に対して謝罪し、(バーリン部の人畜はもう手元になかったから)他から略奪して清朝に返還する使者が出発した。xxix
順治5(1648)年8月⇒ハルハ左翼の使者が到着。清朝はこの謝罪を受け入れ、ひとまず清朝ハルハ左翼の国交が正常化した。xxx
順治5(1648)年9月⇒テンギス清朝への帰順を申し出て許されるがまもなく病没し、弟のテンギト北京を訪問してテンギスの爵位を継承した。xxxi
ひとまずは清朝ハルハ部の国交が正常化する。

 と、便宜上自分が第二段階に分類したのがこの段です。まず、清朝テンギス追跡時にハルハ左翼を撃破したことに対する報復として、トゥシェート・ハーンの一族であるエルへ・ツォーホルともう一人のツォーホルxxxii清朝麾下のバーリン部を略奪します。清朝はこれに対して直接的な軍事行動には出ませんが、以後、テンギスの身柄とセットで略奪されたバーリン部の人畜の返還をハルハ左翼に要求していきます。
 こうした交渉の中で、ハルハ右翼のザサクト・ハーンが使者を送り、清朝ハルハ左翼の仲裁を試みます。おそらく、清朝よりも目上のチンギス・カンの末裔=黄金氏族(Altan Urag)である全ハルハの首領として属下のハルハ左翼と格下の清朝の抗争を裁定する…という意図だったんでしょうが、清朝とは元々帰化城フフホトの権益で対立していますから、却って清朝はその不敬を詰って逆に支配下のハルハ左翼にテンギスの身柄とバーリン部の人畜の損害賠償の返還を履行させるように強要します。この辺はヤクザ世界や中世武家社会と同じで舐められたらアカン、と言うことですね…。
 そして、漢土を手中にした清朝は、対抗措置としてハルハに対して経済封鎖を行います。清朝ハルハに対して明朝にやられて一番痛かった施策を取ったわけで、効果は絶大だったようです。ハルハ右翼のオムボ・エルデニ=二代目ハルハアルタン・ハーンロシアとの交渉を粘り強く続けたというのも、この経済封鎖がおそらくは原因でしょう。ハルハ左翼は早速音を上げてトゥシェート・ハーンセツェン・ハーンらが清朝と会盟してバーリン部の損害補填を約束し、ハルハ右翼もこれをハルハ左翼に履行させることを約束します。
 清朝ハルハの関係が改善したことにより、テンギスは再度清朝への帰順を申し出ますが、すぐに病没してしまいます。替わって弟のテンギト清朝に帰順して兄の爵位を継承します(しかし、駙馬の栄誉は継承されなかった)。
 ここで、ひとまずは一段落したかに思えたハルハ清朝の関係ですが、ハルハはちっとも屈服したワケではなかったようで、早くも翌年からまたきな臭い事件が頻発します。

順治5(1648)年11月⇒2ツォーホル清朝辺境に侵入し狩猟を行ったため、ドルゴンアジゲ等を大同に配置した。xxxiii
順治5(1648)年12月⇒大同総兵・姜瓖清朝に反旗を翻す。xxxiv
順治5(1648)年末⇒ハルハ右翼のオムボ・エルデニバルブ・ビントトゥメド部属下の帰化城フフホトを略奪。xxxv
順治6(1649)年2月⇒ドルゴンが自ら兵を率いて大同に出発するが、ハルハ左翼のセツェン・ハーン清朝領域に接近したため迎撃に向う。しかし、水不足のため3日後に軍を引き返した。xxxvi
順治6(1649)年8月⇒ハルハ左翼のダンジン・ラマ皇父摂政王順治帝に使者派遣してハルハ左右翼との和睦を求める書状を送る。xxxvii
順治6(1649)年10月⇒清朝オイラトグシ・ハーンハルハ左右翼に対する軍事援助についての書簡を送る。xxxviii
順治6(1649)年10月⇒ドルゴンが2ツォーホル討伐に出征する。xxxix
順治6(1649)年10月⇒清朝ホシェートxlに対ハルハ作戦を持ちかける。xli
順治6(1649)年10月⇒ドルゴンが遠征を取りやめて帰還する。xlii
順治7(1650)年3月⇒清朝ハルハ左右翼のトゥシェート・ハーンダンジン・ラマオムボ・エルデニらに書簡を送り、2ツォーホルバーリン部の損害賠償を命じ、オムブ・エルデニバルブ・ピントゥの罪状を問う。xliii
順治7(1650)年4月⇒清朝オイラトホシェート部のオチルト・タイジに対ハルハ戦の協力を要請。xliv
順治7(1650)年10月⇒ハルハ左翼のトゥシェート・ハーンセツェン・ハーンらの使者が清朝に来朝。xlv
順治7(1650)年11月⇒清朝ハルハ左右翼のザサグト・ハーントゥシェート・ハーンダンジン・ラマオムボ・エルデニらに書簡を送り、清朝に従属するノヤンは毎年駱駝一頭、馬八頭を貢納するよう通達する。xlvi
順治7(1650)年12月⇒ドルゴン死去。xlvii
順治7(1650)年⇒この年、セツェン・ハーンショロイが死去。ハルハ右翼は後継者問題で順治12年にショロイの子・バボセツェン・ハーン位を継承するまで混乱する。xlviii
順治8(1651)年9月⇒トゥシェート・ハーンセツェン・ハーンダンジン・ラマ等が清朝に謝罪し、バーリン部の人畜の補填に馬100頭、駱駝10頭を献上した。清朝バーリン部の人の返還とハルハの主なノヤンの参朝を条件にこれを許した。xlix

 バーリン部の損害補填をハルハ左翼が一部行って一段落したところで、ハルハ左翼のエルへ・ツォーホル等がまた清朝領域に侵入します。交渉の成り行きに納得しなかったと言うことでしょうかね…史料がないので理由は分かりませんが、とにかく、エルへ・ツォーホルが南下してきます。それに対する防御のために英親王アジゲ大同に駐屯し、現地の大同総兵姜瓖と諍いを起こした結果、姜瓖が叛乱を起こしますl大同漢土モンゴル高原の間の要衝ですから、まかり間違ってエルへ・ツォーホルハルハ左翼と連携されると厄介ですから、入関後ほとんど北京から動かなかったドルゴンが親征します。
 大同で叛乱が起きると、ハルハ左翼は大同近辺に出馬、一方、ハルハ右翼は前から欲していた帰化城フフホトに侵攻していますから、清朝が動かなければモンゴル高原の勢力圏を失いかねません。これは緊急性を要する軍事行動だったことは確かです。
 ドルゴンはこの時、セツェン・ハーン接近の情報を得てすぐさま迎撃しようとして逃げられますが、これはドルゴンが焦っていたと言うよりも、清朝初期の軍事行動はいつもの行動様式ではないかと…。現場のトラブルに対しては高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するといった感じの行き当たりばったりなノリが目立ちます。この時は水不足で追跡がままならなかったので、普通に考えて失敗しても当然の博打なんですが、清初の軍事行動は博打的な行動の結果幸運にも成功を収めてきた事が多く、天聰年間華北侵入にしろ入関作戦にしろ、兵站とか計画性と言う発想は清初の人たちは元々持ち合わせていませんから、この時もいつも通りの平常運転だったのではないでしょうか。なんか出来そうな気がしたので、とりあえずやってみた!位のノリですよね…。
 と言うわけで、この時期は軍事衝突こそなかったものの、いつ衝突があってもおかしくない状態が続きます。しかし、軍事的劣勢をひっくり返す機会もなく、経済封鎖でジリジリと締め付けられたハルハ左右翼は再び謝罪の使者を送り、清朝ハルハに対して毎年の貢納を義務づけます。臣従すると言うよりは、同盟の盟主に貢納するイメージでしょうが、清朝優位をハルハに認めさせる要求でしょう。
 しかし、対ハルハ外交でも辣腕を振るったドルゴンが逝去し、続いてテンギス事件の一方の当事者であったセツェン・ハーンショロイも他界します。主要人物の退場によって外交交渉は速度を落とします。

順治9(1652)年12月⇒清朝ダライ・ラマ北京に招請に成功。li
1652年⇒ハルハ右翼のオムボ・エルデニが隠居して子のロブサン・ノヤンアルタン・ハーン位を継承する、と言う伝聞がロシアに伝わる。lii
順治10年2月⇒トゥシェート・ハーン属下のボンタル清朝に帰順し和碩達爾漢親王に封じられる。liii
順治10(1653)年6月⇒トゥシェート・ハーンハルハ左翼、清朝ボンタル属下のバーリン人畜を返還対象に含めるよう要請してliv断られる。lv
順治10(1653)年7月⇒安郡王・ヨロハルハの侵略に備えて宣威将軍を拝命して帰化城フフホトに駐留する。lvi
順治10(1653)年9月⇒トゥシェート・ハーン清朝に馬・駱駝を献上するlvii
順治11(1654)年3月⇒清朝は4ノヤンの参朝がないので前年の貢進を拒絶し、再度4ノヤンの参朝を促した。lviii
順治12(1655)年正月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーンオムボ・エルデニ等が清朝バーリン部略奪に関する謝罪の使者を派遣し、馬・駱駝を献上する。lix
順治12(1655)年2月⇒ハルハ左翼の「主たるノヤン」の子弟が清朝入朝のために張家口に到着。lx
順治12(1655)年2月⇒ハルハ左翼のジェプツンダンパ・ホトクトの使者が馬と貂皮を献上した。lxi
順治12(1655)年4月⇒ハルハ左翼の「主たるノヤン」の子弟が参朝して清朝バーリン略奪の謝罪を行い、馬・駱駝を献上した。lxii
順治12(1655)年5月⇒清朝は前月のハルハ左翼の謝罪を清朝との制約を交わすことを条件に許し、バーリン略奪の返還については宥免した。lxiii
     同月⇒清朝ハルハ右翼に対して、再度フフホト略奪の謝罪と「主たるノヤン」の来朝を要請。lxiv
順治12(1655)年10月⇒トシェート・ハーンセツェン・ハーンダンジン・ラマメルゲン・ノヤン等、ハルハ左翼が清朝との同盟のための会盟を行う。lxv
順治12(1655)年11月⇒清朝ハルハ左右翼の進貢を許可。⇒8ザサクの設置?lxvi
順治12(1655)年12月⇒ハルハ左翼のトゥシェートハーンセツェンハーンダイチンタイジらの使者と安郡王ヨロ宗人府で誓約を交わした。lxvii
順治14(1657)年2月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーンオムボ・エルデニセツェン・ジノンフンドレン・トイン等が子弟を清朝に派遣して謝罪させ、馬・駱駝を献上した。清朝ハルハ右翼がフフホトを略奪した罪を許し、同盟の誓約を要求した。lxviii
順治14(1657)年11月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーンフンドレン・トインセツェン・ジノン(?)の三名はこの時点ですでに清朝と誓約を交わしていたが、オムボ・エルデニのみ交わしていなかったため、清朝に誓約を催促される。lxix
順治16(1659)年4月⇒この頃にはオムブ・エルデニの子、ロブサン・ノヤン清朝と誓約を交わし使者を派遣して進貢して受け入れられた。lxxハルハ右翼全体が清朝と誓約を交わして、国交が正常化する。⇒九白之貢の成立?

 と、ここからが第三段階です。ドルゴンの逝去後すぐに清朝ダライ・ラマの招請に成功しました。これは再三ハルハから要請されていた事案ではありますが、これを機にハルハが雪崩を打って清朝に帰属したというわけでもなさそうですし、ハルハ清朝帰順にどれくらいの効果があったのかは正直よく分かりません。しかしながら、以降は基本的には清朝ハルハの抗争は収束段階に入ります。
 まず、順治12(1655)年にトゥシェート・ハーンセツェン・ハーン(ショロイの子・バボ)、ダンジン・ラマらが率いるハルハ左翼が会盟を行い、安郡王ヨロ宗人府ハルハ左翼の使者と誓約を交わして、朝貢の義務を課されてひとまず清朝と同盟を結びます。
 一方、ハルハ右翼はザサクト・ハーンらは順治14(1657)年には清朝ハルハ左翼と同様の誓約を交わしたようです。しかし、ハルハの第二代アルタン・ハーンであるオムボ・エルデニが代替わりして、第三代のロブサン・ノヤンに権力は委譲されていたことで行き違いはあったものの、順治16(1659)年までにはロブサン・ノヤン清朝と誓約を交わしたようなので、ここにハルハ左翼も清朝の同盟国となった…といった感じでしょうか。所謂「九白之貢」体制が成立成立したのは実際にはこの頃だと考えられます。
 ハルハ清朝の関係はひとまず、朝貢関係…同盟を結んで小康状態となります。しかし、この後、ハルハ右翼のロブサン・ノヤンザサクト・ハーンワンチェクを襲殺して発生した騒乱が原因で、ザサクト・ハーンの属民がトゥシェート・ハーンチャグンドルジに押収されます。属民の帰属を巡ってハルハ左右翼の対立が激化し、仲裁に入った清朝との盟約をトゥシェート・ハーンの不履行をザサクト・ハーンチェングンが糾弾し、オイラトを制したジューン・ガルガルダンに援軍を依頼したことから、第一次清・ジューン・ガル戦が始まります。ジューン・ガル清朝との交戦の結果、ハルハ清朝藩部に組み込まれていきますが、この辺は研究が豊富ですし、自分の興味から外れていくので、とりあえずこのまとめはこれまでです。

関根知良「順治期における清朝とハルハの交渉過程 : モンゴル語書簡の分析を中心に」『満族史研究』第16号
若松寛「アルトゥン─ハーン伝考証」『東洋史論集 : 内田吟風博士頌寿記念』同朋社
宮脇淳子「ガルダン以前のオイラット:若松説再批判」『東洋学報』65巻1・2号
矢沢利彦『西洋人の見た中国皇帝』東方書店
世界歴史大系 中国史4 明▷清』山川出版社
乌云毕力格《五色四藩》上海古籍出版社
齐木徳道尔吉〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉《内蒙古大学学报(人文社会科学版)》 1998(04)

国家清史编纂委员会・档案丛刊《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》社会科学文献出版社
《大清太宗文皇帝實錄》台灣華文書局總發行
《大清世祖章(順治)皇帝實錄》台灣華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案译编》光明日報出版社
欽定外藩蒙古囘部王公表傳

註での略称一覧
《内秘書院檔》⇒《清内秘書院蒙古文档案》
《王公表伝》⇒《欽定外藩蒙古回部王公表伝》
《太宗実録》⇒《大清太宗文皇帝実録》
《世祖実録》⇒《大清世祖章皇帝実録》
《内国史院満文档案訳編》⇒《清初内国史院満文檔案譯編》

  1. 《太宗実録》巻11 天聰6年5月甲子(27日)
  2. 《太宗実録》巻20 天聰8年閏8月庚寅(7日)
  3. 《太宗実録》巻23 天聰9年5月丙子(27日)
  4. 《太宗実録》巻24 天聰9年7月辛亥(3日)
  5. 《王公表伝》巻36 蘇尼特部總傳
  6. 《太宗実録》巻28 天聰10年4月乙酉(11日)
  7. 《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  8. 《内秘書院檔》第1輯 崇徳2年檔冊(01-02-17、01-02-18)
  9. 「アルトゥン─ハーン伝考証」
  10. 《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  11. 《太宗実録》巻50 崇徳五年正月辛未(19日)
  12. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒「ガルダン以前のオイラット」。及び「アルトゥン─ハーン伝考証」
  13. 「アルトゥン─ハーン伝考証」
  14. 《内秘書院檔》第1輯 崇徳6年檔冊(崇徳6年10月30日 01-05-12)《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳
  15. 《太宗実録》巻65 崇徳八年八月庚午(9日)
  16. 《世祖実録》巻1 崇徳八年八月丁丑(16日)
  17. 《世祖実録》巻11 順治元年十一月辛丑(17日)
  18. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.3⇒《内国史院満文档案訳編》中巻 順治三年正月十七日
  19. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.4⇒《内秘書院檔》第2輯 順治3年檔冊(順治3年5月2日 02-03-11)《世祖実録》巻26 順治三年五月丁未(2日)
  20. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.4⇒《内秘書院檔》第2輯 順治3年檔冊(順治3年7月18日 02-03-17)及び第2輯 順治3年檔冊(順治3年8月20日 02-03-18)、《世祖実録》巻27 順治三年七月丁巳(13日)
  21. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《世祖実録》巻28 順治三年九月己未(順治3年9月16日)
  22. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治四年五月初五日 02-05-30、02-05-31)⇒宣和堂註:《内秘書院檔》の当該部分を確認すると、4/22付けのセツェン・ハーン宛の勅書にはエルへ・ツォーホルには触れていないが、5/5付けのザサクト・ハーン及びダンチン・ラマ宛の勅書にはエルへ・ツォーホルのバーリン略奪の件に触れていることから、4/23~5/5の間にバーリン部襲撃の報告があったと考えるべきか?
  23. 《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年3月29日 02-05-23、02-05-24)
  24. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《世祖実録》巻31 順治四年四月丙子(5日)
  25. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.6~7⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年4月22日 02-05-29)
  26. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.8~9⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年5月5日 02-05-30)⇒宣和堂註:同様の勅書をダンチン・ラマ、オムブ・エルデニ、ジェプツンダンパ・ホトクトにも送っている(同書 02-05-31~33)
  27. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.9~11⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(亥年8月吉日⇒順治4年11月21日 02-05-50)
  28. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11~12⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年12月10日 02-05-51)
  29. 《「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11⇒内秘書院檔》第3輯 順治5年檔冊(順治5年5月吉日 03-01-43)
  30. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11⇒《世祖実録》巻40 順治五年八月乙未(3日)
  31. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.12⇒《内秘書院檔》第3輯 順治5年檔冊(順治5年9月16日 03-01-49)、《世祖実録》巻40 順治五年九月丁丑(16日)
  32. 諸説あるものの特定出来ない人物
  33. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.13⇒《世祖実録》巻41 順治五年十一月癸未(23日)
  34. 《世祖実録》巻41 順治五年十二月戊戌(8日)
  35. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.12~13⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月7日 03-02-25)
  36. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.13⇒《世祖実録》巻42 順治六年二月己酉(20日)
  37. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年8月初8日 03-02-08、03-02-09)
  38. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月7日 03-02-25)
  39. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14~15⇒《世祖実録》巻46 順治六年十月壬辰(7日)
  40. 正確にはグシ・ハーンの二子?オムボ・ゾリクト・バートル・ジノン
  41. 《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月初7日 03-02-26
  42. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.15⇒《世祖実録》巻46 順治六年十月辛丑(16日)
  43. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.15~16《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊 順治7年3月初10日 03-03-07)
  44. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.16~17《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年4月12日 03-03-11)
  45. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.17⇒《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年10月25日 03-03-39)
  46. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.23⇒《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年11月22日 03-03-40)
  47. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒《世祖実録》巻51 順治七年十二月戊子(9日)
  48. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒乌云毕力格〈车臣汗汗位承袭的变化〉
  49. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒《内秘書院檔》第3輯 順治8年檔冊(順治8年9月15日 03-04-43)
  50. 『西洋人の見た中国皇帝』P.59 ただし、この本ではアジゲが大同に立ち寄ったのはモンゴル国(ホルチン部?)から王女を皇后に迎える交渉をするために立ち寄ったことになっている。廃后靜妃は順治8(1651)年8月13日に皇后に册封されているので、この頃に交渉していてもおかしくはないが、実録の記録とは食い違う。
  51. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉☆中国第一历史档案馆蒙文顺治十年档、蒙8号
  52. 「アルトゥン─ハーン伝考証」
  53. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18~19⇒《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年2月29日 04-01-16)
  54. 《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年6月13日 04-01-35)
  55. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年6月26日 04-01-36)
  56. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《世祖実録》巻77 順治十年七月辛酉(28日)
  57. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《世祖実録》巻78 順治十年九月癸卯(11日)
  58. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《内秘書院檔》第4輯 順治11年檔冊(順治11年3月20日 04-02-03)
  59. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻88 順治十二年正月甲寅(29日)
  60. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒☆《理藩院題本》巻1 順治12年2月12日
  61. 《世祖実録》巻89 順治十二年四月甲戌(19日)
  62. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻91 順治十二年四月辛酉(7日)
  63. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻91 順治十二年五月戊子(5日)
  64. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《内秘書院檔》第4輯 順治12年檔冊(順治12年5月22日 04-03-05)、《世祖実録》巻91 順治十二年五月壬寅(19日)
  65. 《世祖実録》巻94 順治十二年十月庚申(10日)
  66. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20~21⇒《世祖実録》巻95 順治十二年十一月辛丑(21日)
  67. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.21⇒《世祖実録》巻96 順治十二年十二月丙子(26日)
  68. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.21~22⇒《内秘書院檔》第5輯 順治14年檔冊(順治14年2月18日 05-02-02)
  69. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.22~23⇒《内秘書院檔》第5輯 順治14年檔冊(順治14年11月19日 05-02-20)
  70. 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.22~23⇒《内秘書院檔》第6輯 順治16年檔冊(順治16年4月20日 06-01-23)、《世祖実録》巻125 順治十六年四月甲寅(24日)

昭顕世子は瀋陽を目指す

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 時間が空きましたが、昭顕世子の日記の続きです。この辺は他に裏の取りようがないので、《朝鮮王朝実録》や《清世祖実録》も確認せずにダラダラ読んでいきます。一部前回と重複しますが、北京から瀋陽までの行程を見ていきます。

二十四日 辛亥 晴
世子留北京。(中略)○午時、世子發行、出自東門。申時、至通州城東十里許江邊、止宿。內官・司禦・宣傳官・禁軍以下落留者、并錄于下。(中略)○皇帝・固山額眞、領率甲軍之還瀋者、世子一時出來、軍兵之數、十餘萬云、而蒙人居多焉。領兵將南斗爀軍兵、亦爲出還、而直向山海關大路而行。

 5月24日、晴。世子北京に滞在。(中略)
 昼頃(午時)、世子一行は東門(朝陽門?)から出発した。
 昼過ぎ(申時)、通州城から東へ10里の川辺に到着したのでここに宿泊することにした。文官、軍属で行軍途中に脱落した者は以下の通り(省略)。皇帝グサ・エジェンの命令で軍を引き連れて世子のように瀋陽に一時的に帰る兵は十余万と言う噂だ。内訳としてはモンゴル人が多い。領兵將南斗爀が引き連れている軍は山海関大路(昭顕世子の往路のような山海関を通過して遼東に行くルート?)を直行した。

 と言うことで、世子一行は半日で通州近くまで進み、宿泊します。宿を取ったというよりは野営を張ったという感じでしょうかねぇ。朝鮮軍山海関大路を直行するのを横目に世子一行は別ルートを進むようです。

二十五日 壬午 晴暁乍雨
世子止宿處。○講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、至夏店、少歇。未末、三河縣川邊、止宿、去夏店、三十里也。

 5月25日 晴のち雨
 世子は宿處に泊まった。講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝早く(卯初)に出発して夏店(現在の河北省三河市西?)に到着し、水分を補給された。昼過ぎ(未未)に三河県(現在の河北省三河市)の川辺で宿泊した。夏店から30里である。

 通州から三河県ですから、この日は来た道をそのまま遡行してる感じですね。ちなみに夏店三河県の西にあった駅宿iのようです(往路でも立ち寄ってました)。

二十六日 癸丑 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、到邦均店、少歇、去三河、四十里也。申時、到薊州城南五里許、止宿、去邦均、三十里也。

 5月26日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)に出発し、邦均店(現在の天津市蓟州区邦均镇)に到着し水分を補給した。三河県から40里である。夕方前(申時)には薊州城(現在の天津市蓟州区)から南に5里の場所に到ったのでここで宿泊した。邦均店から30里である。

 で、三河県から一日で薊州まで遡行してます。行きと同じで基本的には街で宿を取らずに宿営…まぁビバークとかキャンプとか言う感じなんですかね。相変わらず追い立てられるような旅程です。邦均店夏店薊州の間にある駅宿ですii

二十七日 甲寅 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、不由山海關大路、迤東北作行、至遵河下流水邊、止宿、去薊州七十里也。

 5月27日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。山海関大路を経由せず、東北に方向転換して遵河(?不明)下流の水辺で宿泊した。薊州から70里である。

 ここで、帰路は往路とは違う進路を取ることが事が判明します。理由は定かではありませんが、北京で別れた南斗爀率いる朝鮮軍山海関大路を遡行した事をワザワザ記したのは、世子一行と違う進路で瀋陽に帰ったことを強調したモノと思われます。でも、世子一行は何で転身したのか…ドルゴンの気が変わって連れ戻されることを恐れたのかとも思ったのですが、読み進めていくとちょっと様子が違うみたいなんですよね…続けましょう。

二十八日 乙卯 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、至遵河縣東十里許、少歇、去下流、四十里也。至山屯營城東五里許、止宿、去遵河四十里也。山屯、乃喜峰口之直路、而山海關亦不遠、實是東北之要害也。山高峽長、處處負險所、以設關防開摠府、以重其地、而往年爲清人所陷、城外民居、盡爲燒毀、城內則人民尚爾殷盛焉。

 5月28日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。遵河県(遵化県?現在の河北省唐山市遵化市)から東に十里の場所で水分を補給し、更に下流に降って40里進んだ。山屯営(三屯営?現在の河北省唐山市迁西县三屯营镇)城から東に五里の場所で宿泊。遵河県から40里である。三屯営喜峰口(現在の河北省唐山市迁西县と宽城县の境)の玄関口で、山海関(現在の河北省秦皇岛市山海关区)からもそう遠くない。(北京)東北の要害である。山高く峡谷は長く、所々の難所に関所や詰所が作られていてこの地が要害の地である事が分かる。往年、清人はここを陥落させ、城外の民家はことごとく焼き払われたが、城内は人々でまだ賑わっていた。

 続いて世子一行は恐らくは遵化県、恐らくは三屯営と順調に旅程をこなしていきますが、比較的メジャーな長城の関所である喜峰口をスルーして東に行ってますから、何らかの目処が立っているようですね。あと、三屯営清朝華北侵入で焼き払われたと言う話は、恐らく天聰年間に喜峰口から清軍が侵入した己巳之変の時のことでしょうね。

喜峰口

《清史图典》第一冊 太祖太宗朝 P.106《直隶长城险要关口形势图卷・喜峰口》

二十九日 丙辰 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、渡灤河上流、過東寨里。申時、到河邊、止宿。是日、行七十里。

 5月29日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。灤河(河北省と内モンゴル自治区を経由して渤海に流れる大河)上流を渡り、東寨里(現在の河北省唐山市迁西县罗家屯镇东寨村)を通過した。夕方前(申時)には川辺に着き、宿泊した。この日の行程は70里である。

 ここでも世子一行は順調に長城線を東行するような進路を取っています。灤河は位置的にも矛盾しませんし問題ないでしょう。

六月初一日 丁巳 晴
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、過建昌城外、去長城冷口纔五里許。建置經略衙門、故城名謂之建昌略也。城中將官、領軍儀、持羊酒梨果、出迎清將于城外、清將坐于廟堂、受拜而禮送。午時、出冷口東、去山海關百八十里云。大川、自蒙古地南流、山形峭峻、中折如門、城頭兩邊、各設煙臺・砲樓、西則名曰最勝臺、尤爲高爽、臺閣羅絡城上、城下有人家數百戸、設木柵于兩煙臺間、水流柵下、最勝臺下有出入之路、而水漲則不得通矣。去冷口二十里許川邊、止宿、卽蒙古地界也。是日行八十里。

 6月1日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。建昌城外(現在の河北省唐山市迁安市建昌营镇)を通過し、長城冷口(現在の河北省迁安市)から5里の場所に来た。経略衙門が置かれたのだが、元の都市名である建昌がその名称の由来である。城中の将官は軍儀を率いて羊肉、酒、梨などの果物を携えて清将を城外で出迎え、清将は廟堂で待機してこれを受領して返礼した。昼時(午時)、冷口から東に向かった。山海関から180里の場所という。大川はモンゴルから南に流れている。山容は峻厳で途中で折れ曲がり門のようになっており、両端には煙台や砲台が作られていた。西の台は最勝台といい最も高い位置にある。台閣羅格は城の上にあり、城下には人家が数百戸あった。木柵が両煙台の間に設けられていて、柵の下には水が流れていて、最勝台の下にも水が流れこんでいて、水を堰き止めれば通行出来ない仕掛けになっている。冷口から20里の川辺で宿営した。ここはモンゴルの境界内で、この日は80里進んだ。

 と、建昌営に到着すると、どうやら世子清将率いる清軍と同行若しくは連携していたことがようやく分かります。世子一行が通りかかるまで、建昌営はまだ清朝に帰順していなかったようで、世子と同行した清将に帰順した様子が描かれています。北京に入るまでと異なり、一応降伏した礼物は受け取っているようですね(ちゃんと返礼もしてますけど)。往路と違って、住民が辮髪にするかどうかが帰順の証しとはなっていないようで、その辺も気になります。
 そして、いよいよ世子一行は冷口から長城を出てモンゴル領域に入ります。どうして冷口から北上したのかは記述がない以上不明ですが、考えるに入関後の治安状態とか敵対勢力の有無を確認する清将に同行したってイメージでしょうかね。でも、どうも記述の中では件の清将なり清軍は主要な任務のついでに世子の護衛をしている感じがします。ただ、世子は予めドルゴンにルートを指定されて同行してた様な印象は受けます。流石に情勢不安で安全確認もされていないルートを藩王世子に護衛もつけずに放り出すのもどうかと思いますし。

冷口

《清史图典》第一冊 太祖太宗朝 P.106《直隶长城险要关口形势图卷・冷口》

初二日 戊午 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里許、止宿。此後所經、皆無人之境。故地名、莫由知之。山高谷狹、樹木葱鬱、軍馬沓至、不能得達、緣崖攀木、魚貫而行、其險阻跋涉之苦、有不可言。草莽間、往往有髑髏、乃清人年前西犯時往來之地云矣。

 6月2日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで宿営した。この後の行程は人の居ない領域なので、地名などは知るよしもない。山は高く谷は狭く、樹木は鬱蒼としていて、軍馬でなければ到達出来ないような場所で、木に掴まって崖をよじ登り、相い連なって進んだ。道中、道が険しかったことの苦労は言葉で尽くすことが出来ない。草むらの中には、時々白骨化した骸があったが、恐らくは清人が数年前に華北侵攻した時の進軍ルートだった(時の被害者)と言う話である。

 と言うわけで、いよいよモンゴルに入ったので、地名すら満足に今後は出てきません。一応出てくる部分もありますが、正直どのルートを経由して瀋陽にたどり着いたのかは確定出来ませんでした。
 あと、行き倒れた髑髏は清朝華北侵入のせいにされているのはどうなんでしょうかねぇ…。喜峰口(天聰3年の己巳之変)や青山関龍井口城子嶺(崇徳3年の戊寅虜変)はともかく、冷口って進軍ルートに入った事あったんですかねぇ…。戊寅虜変の時に退却時に冷口使おうとしたら、防備が堅くて青山関に抜けたと言う話があるんですが、被害が出てるとしたら領側なンじゃないですかね…。

初三日 己未 陰夕乍雨
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、行四十里許、止宿。○禁軍鄭振一、領率瘦病夫馬落後。【清人有先行出瀋者、一行粮餞將乏之意、傳令于館所。】

 6月3日 曇り、夕方から雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。40里の行程で宿営した。禁軍鄭振一は病気や栄養失調などで脱落した人馬を統率するために残った。【元註:清人瀋陽に先行する者がいたので、一行の糧食が窮乏していることを瀋陽館に伝える事を託した】

 と言うわけで、復路でもやはり脱落者が出始めます。北京の食糧事情がよろしくないなかで、逃げ出すように瀋陽に出発したという経緯から、糧食豊富という状態ではなかったんだと思いますが、出発から10日もしない内に早馬出して瀋陽館に無心しなくてはいけない状態に追い込まれてしまっています。留まるも地獄だったんでしょうけど、進むも地獄ですね…。

初四日 庚辰 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月4日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初五日 辛酉 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行七十里許、止宿。

 6月5日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して70里の行程のところで宿営した。

初六日 壬戌 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月6日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初七日 癸亥 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。○禁軍金擎一、以病落後、使禁軍金志雄救護、留待鄭振一偕來。

 6月7日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。禁軍金擎一は病気になった後脱落したが、禁軍金志雄を救護に向かわせて、鄭振一と合流して休ませた。

 三日同じような内容の記事が続いた後に脱落者が出たので後発隊とした様なことが書かれてますね…。いよいよ健康状態も食糧事情も逼迫してきます。

初八日 甲子 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月8日 晴れ
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初九日 乙丑 晴夜雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里、少歇。午後、行六十里、止宿大川邊、卽大凌河上流也。是日、渡此川上流七度。○內官金希顏、領率內卜、日暮落後。

 6月9日 晴れ、夜に雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に60里進んだところで、大きな川の川辺で宿営した。これは大凌河の上流である。この日、この川の上流を7度渡った。一行の荷物を運搬していた内官金希顏が日暮れに脱落した。

 同じ記事がまた出てきた後に、大凌河の上流で何とか渡河した後に、一行からはぐれた集団が出ます。この日は日が暮れても宿営しなかったみたいですね。

初十日 丙寅 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○朝、內官金希顏、來到、上下卜物、盡爲霑濕、人馬夜行飢餒、故止宿處留。清將夜送家丁二人促行。

 6月10日 晴れ
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝、内官金希顏が合流したが、荷物は全部ビショビショに濡れていて、人馬は夜通し歩いて飢えていたのでここに留まって宿営した。夜に清将が家丁二人を送ってきて先導させた。

 昨日はぐれた集団と合流は出来たモノの、ビシャビシャに濡れてるわ、夜通し歩いてクタクタだわでこの日はお休みしたようですね。清将が家丁を送り込んでることから、清軍とは行動は共にしていないようですけど、しばしば連絡が取れるような位置関係だったみたいですね。

十一日 丁卯 雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、清人已發、未及打火、食前發行、行四十里許、風雨大作、不得行。

 6月11日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。日が昇りきる前に清人はすでに出発した。火を起こす前で朝食もとらずに40里進んだが、風雨がきつくなったために進めなくなった。

 相変わらず清軍との距離感が分かりませんが、夜明け前には世子一行を待たずに清人は出発してますね…。で、北京あたりでよく見た火を起こさず=食事を取らず進行する事への恨み辛みをまた書き連ねています。

十二日 戊辰 晴夕雷電乍雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、行四十里許、少歇。午後、行六十里、止宿。所經無水、人馬飢渇、甚矣。陪衛軍兵粮絶、使宣傳官尹廷俊、領率往義州衛、取粮追來、此去義州、迤東南二日程許云矣。

 6月12日 晴、夕方から雷雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝少し早めに(卯初)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に60里進んだところで宿営した。水のないところだったので、人馬ともにとても飢渇した。持ってきた兵粮が尽きてしまったので、宣伝官尹廷俊に領卒を率いて義州衛(現在の辽宁省锦州市义县)に行って糧食を持ってこさせることにした。ここから義州へは東南に二日の行程ほど離れているという。

 と言うわけで、糧食がいよいよ底を尽きて近くの拠点=義州衛から無心することにしたようですが、この時、一番近い義州衛からは2日の距離だったようです。

十三日 己巳 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、行四十餘里、少歇。午後、行二十里許、止宿。

 6月13日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に20里進んだところで宿営した。

十四日 庚午 晴
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、行二十五里許、至一處沮洳之地、蘆葦如束、泥濃沒馬、中央水深一丈、橫木作架、奉世子以渡、卜物則皆卸馬、荷擔以運、騾驢駞馬之屬、陷没僅出、以此遲留。日勢已晚、因爲晝點。○衙譯李■[於/叱]石輩來現、賜羊一口・米一斗。先是、到薊州城外、止宿處設幕之際、■[於/叱]石有不遵下令之事、世子親責之。是後、累日陪行、而切不現謁、今日渡渠之時、相値於駕前、不得已現謁。○午後、行五十里許、止宿。始出義錦大路、西去義州衛、二日程矣。○是夕、下令曰、登程已久、露宿經過、一日爲苦、而駞馬俱疲、不得致遠、明曉、擇率若干員役、各騎清馬、持數日粮、疾馳先行、落後人馬・卜物、則使申繼黯、領率追來。

 6月14日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。25里進んだところで湿地帯に出た。葦が束のように生えており、泥が濃くて馬が填まってしまった。中央部分は水深一丈あったので、木で即席の橋を作り、世子を担いで渡っていただいた。荷物はみな馬から下ろして担いで運んだが、ロバがラバか駱駝のように泥に足を取られて遅々として作業が進まなかったので、昼時までかかってしまった。(中略)午後、50里進んだところで宿営した。ようやく義錦大路(義州と錦州をつなぐ幹線?)に出た。義州衛の西、2日ほどの場所である。この夕方、出発してからすでにかなりの日数が経過しており、野営が続き、駱駝も馬も疲弊しているため、明日からは若干の選抜メンバーに数日の糧食を持って騎馬で先行させ、残りの人馬、荷物は申繼黯に任せて後を追わせる命令を下した。

 また、似たような記述が続いて行きでも見たような湿地帯に突入です。で、義錦大路と呼ばれる幹線に出てきて義州衛まで西から2日の行程に出てきた…と言うのですが、これが一体どこなのかよく分かりません。錦州(現在の辽宁省锦州市)、義州を繋ぐ幹線道路もあったんでしょうが、どこまで伸びていたのかよく分からないです。で、いよいよ食料が尽きかけてきたので先行部隊を選別したワケですが…。

十五日 辛未 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、發行、內官金希顏、文學李䅘、司僕主簿趙壤、譯官徐尚賢・梁孝元、禁軍朴希復等四人、各色掌張難伊、理馬閔有信、公贖加外等四名、驛子姜■[古/邑]同、軍牢澤伊、刷馬駈人三名、陪從先行、行十五里許、至古塔下、打火。又行十五里許、清將以爲、此去柵門不遠、後軍兵留待齊會、一時入柵、世子不可先行云。世子不得已止宿。申繼黯等、領率追來。

 6月15日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。夜明けとともに(質明?)出発。内官金希顏文学李䅘司僕主簿趙壤訳官徐尚賢、同・梁孝元禁軍朴希復ら四人、各色掌張難伊理馬閔有信公贖加外ら四人、駅子姜[古/邑]同軍牢澤伊刷馬駈人三人は世子に陪從して先行した。15里進むと古塔に行き着いたので、火を起こし(て食事を取っ)た。また15里進むと、清将が「ここから柵門までは遠くないが、後続の軍兵を待ってから一緒にを越える。世子だけ先行させるわけにはいかない」と言うので、世子はやむを得ずここで宿営した。申繼黯らは後続の部隊を率いて追いついた。

 と言うわけで、先行部隊はいきなりの辺りに屯っていた清軍に足止めを食らいます。で、このなんですが…やっぱり長城線とは違うッぽいですね。行きは長城柵門は別々に記述されているので、同じ建築物を指しているワケではなさそうですが、位置関係がよく分かりません。よって、この日の現在位置は義州からほど近い場所なんでしょうが、文字通り義州から西の位置なのか、行きと同じようなコース通っているのかこの記述だけではよく分かりません。それに、先遣隊に補給の用意を命じたハズなのに、その後、義州衛には立ち寄った形跡がない上言及もされませんから、その辺も謎ですよね…。

十六日 壬申 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、清將率若干騎、取徑路馳往。世子一時作行、行五十里許、入柵。柵內有庄頭家、世子少歇、欲爲晝點、而泉井皆竭、一行不得飲、因卽發行。○譯官李信儉・禁軍金繼壽・衙譯韓甫龍等、賫持內書及留館狀達、來到。○申時、到渠邊止宿。都摠都事權霌・金瑜等、領水剌饌物、自瀋陽迎候。是日、行七十里。○申繼黯等、領率卜物、曉頭先發、由大路入柵。【譯官徐尚賢、持行次入柵之報、先往瀋陽。】

 6月16日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。夜明けとともに(質明?)、清将は若干の騎兵に先行させたので、世子も一緒に先行し、15里進んでに入った。の中には小作人頭の民家があったので、世子はお昼頃まで休憩したいとの仰せだったが、井戸や湧き水の類いはすべて枯渇しており、皆喉の渇きを訴えたのですぐに出発した。訳官李信儉禁軍金繼壽衙訳韓甫龍らが内書(?)や瀋陽館で保管していた報告書(留館狀達)を奉じて(瀋陽から?)やって来た。昼過ぎ(申時)、運河沿いに着いたのでここで宿営した。都摠都事權霌金瑜らが王族の食事を(水剌⇒スラ、饌≒飯饌⇒バンチャン?)を持って瀋陽から迎えに来た。この日は70里の行程だった。申繼黯らは一行と荷物(卜物?)を率いて夜明けから出発して(義錦)大路からに入った。

 やはり、漢土…ここは清朝直轄領モンゴルとの境界として機能しているみたいですね…。の中に入ったらまともな食事にありつけると心の支えにして来たのに、いきなりあてが外れて食事どころか飲み物にも事欠く有様でゆっくりとお茶すら出来なかったようですね。そんな状態でスラッカン(水刺館)の王族ごはんが瀋陽から着いたらさぞや美味しく感じたことでしょう。それにしても、ご飯についてはかなり臨場感ある紀行文ですよね…。

十七日 癸酉 雨
講院・薬房問安。答曰、平安。○質明、發行、行六十里、到遼河城外、晝點。未時、渡河、行二十里許、止宿。是日大雨、一行盡爲沾濕。

 6月17日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。夜明けとともに(質明?)出発して60里進んだ。遼河城(大凌河城?=現在の辽宁省锦州凌海市一带?)に昼(晝點)到着。昼過ぎ(未時)、20里進んだ所で宿営。この日は大雨で一行は皆ずぶ濡れになった。

 と言うわけで、遼河城という地名がよく分かりません…。大凌河城なら錦州近くなのですが、似てるようで違う遼河城なわけでして…。まぁ、大凌河上流では正しく『大凌河』表記なので、大凌河城の部分だけ『遼河城』表記ってワケではないと思いますが、それらしい地名は出てくるモノの場所の特定は現段階では無理ですね。

十八日 甲戌 雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里、到永安橋、少歇于橋邊。留館人員、并來迎于永安橋。中路、清將行拜禮于皇帝墓、世子亦隨行焉。○未時、世子從北門、入還館所。○前參贊臣李敬輿・前判書李明漢・前同知臣許啓、誠惶誠恐、謹再拜上啓于王世子邸下。伏以臣等、脫南冠之囚、獲逐東返、喜北辰之近、猶切西悲、千里言旋、一心如戴。伏念臣等、忠慚死國、智昧周身、造次危迫之機、奚論有罪無罪、終始曲全之德、專荷大朝小朝、朔氣成春、恩渥洽露。伏遇王世子邸下、誠能感物、孝在寧邦、瞻望龍樓、久違日三之問寢、棲遑鶴野、幾痛陽九之罹災、仰體睿念之欲生、特濟微命於不測、臣等敢不漣漣灑涕、步步回頭、備嘗艱難、未效割股之願、歸與父老、益殫延頸之忱、臣等不勝感激惶恐之至、謹奉啓稱謝以達。

 6月18日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。40里進んだ所で(盛京郊外の)永安橋に到着したので、世子は橋のそばで休憩された。瀋陽館に残っていた人員が永安橋まで迎えに来た。途中、清将は皇帝の陵墓に拝礼に行ったので世子も随行した。昼過ぎ(未時)、世子北門から(盛京に入城し)瀋陽館に帰還された。(後略)

 と、遼河城?という場所から翌日には瀋陽に到着しています。遼河城大凌河城だったとすると180Km離れた瀋陽にワープしたことになります。他に遼河城に相当しそうな場所が思いつかないので、この問題には決着がつきそうにありませんが…。
 ただ、食糧事情は北京と比べて雲泥の差で良かっただろう瀋陽に到着して、人質の身とは言え住み慣れた瀋陽館にようやく帰ってきたわけです。4/9に出発してから二ヶ月あまりしてようやくの帰還ですが、入関作戦に同行して移動に一ヶ月程度かかっている事を考えると、やはりトビウオターンの強行軍です。日程だけ見ると行きより帰りの方がウルトラ強行軍なんですね…何だってこんなに急き立てたれるように瀋陽目指したんでしょうか…。お腹が空いてた以外の積極的な理由が見当たらないのがナンですが…。
 明代にしても清代にしても朝鮮使節北京に向かう場合は、基本的には陸路国境を越えて瀋陽なり遼陽を通過して山海関経由で北京に入っていますからiii、復路とは言えモンゴル経由で帰還することはありません。まぁ儀礼的な使節団の順路と戦時中の行軍ルートを比較してどうするんだった話ですが…。
 あと、帰路に皇帝の陵墓に寄ってるわけですが、この位置から行けるのはホンタイジの陵墓である昭陵なんでしょうけど、この頃には整備済んでいたんでしょうかねぇ…。ともあれ、永安橋昭陵瀋陽の北側にあるので、そうなるとやはり毉巫閭山を北回りのルートを辿ってきたと考えた方が合理的ですが…遼河城が引っかかります…。遼河辺りにあった防御施設くらいの緩い解釈でいいのかしら…。

(仁祖22年6月)○癸未(27日)/賓客任絖、輔養官金堉等在瀋陽馳啓曰:“世子之行,六月十八日還自北京。淸人將於八月望日,移都北京,兩宮亦將一時入往,夫馬三百匹之內,世子命減五十匹。第念,驛馬疲困已甚,不可以駕轎,若買騾代之,則事甚便易,請令廟堂指揮。九王言曰:‘元孫本非久留之人,卽令還送本國,諸孫則世子之行,宜一時率來。麟坪大君則未經痘疫,待鳳林大君人來,交替出去,而鳳林則自本國,直到北京爲當。’云。且‘前頭將有大擧,極擇砲手、火兵之壯健者,整齊於七月之前,來待於安定之間,聞令卽赴師期。而若不精擇,則相臣、兵判難免其罪。’云。俄而鄭譯又來,言于館所曰:‘質子九員中一人不來,事極不當,依前充數入送。鳳林之行,亦趁七月二十五日入瀋爲當。’云。”iv

 で、世子が6/18に瀋陽館に戻ったことは《朝鮮王朝実録》でも確認が取れます。ここでは、北京から帰還した世子が飼馬300匹の内50匹が損害があったことが第一に触れられていて、そこかよ?って感じもしますが、入関作戦成功の興奮なり、明朝滅亡の悲嘆より現実的な飼馬の損害に触れているのは個人的には印象的です。更に、7月には鳳林大君(後の孝宗)が世子に替わって北京に直接来るように、ドルゴンから指示があった旨言及されています(天然痘に罹患していない麟坪大君は免除されてます)。おまけに火砲の精兵を選んで7月には寄越せ、基準に達していない場合は罪に問うからそのつもりでと付け加えてますね…。さらに、瀋陽館から随行した職員の内9人に1人は帰ってこなかったというのになんと理不尽極まりないことに、補充するように求められているので鳳林大君一行はまず7/25までに瀋陽入りして欲しいと、瀋陽館からもメッセージがあったようですね。
 …と言うわけで、《昭顕瀋陽日記》の記述を補う面白い記事はあるものの、世子のルートに関わるような記述はありませんでした。
 瀋陽館の位置と昭顕世子のその後についてちょっと調べて居るので、まとまったらまた記事を上げると思います。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
于敏中 等編《日下舊聞考》北京古籍出版社
清史图典》第一冊 太祖太宗朝 紫禁城出版社
松浦章『近世中国朝鮮交渉史の研究』思文閣
朴趾源/今村与志雄 訳『熱河日記1 朝鮮知識人の中国紀行』東洋文庫325

  1. 《日下旧聞考》巻101 京畿⇒「明李貢併三河驛記略 三河縣東有驛曰公樂,西有驛曰夏店,皆去縣二十里。」
  2. 《日下旧聞考》巻114 京畿⇒「薊州三十里至邦軍店,三十五里至下店。松漠紀聞 〔朱昆田原按〕邦軍今志作邦均。下店今志作夏店。〔臣等謹按〕邦均店在州西三十里。夏店隸三河縣境。」
  3. 『近世中国朝鮮交渉史の研究』に引く《通文館志》によると、清朝への朝鮮使節は鴨緑江⇒鎮江城⇒湯站⇒柵門⇒鳳凰城⇒鎭東堡⇒鎭夷堡⇒連山關⇒甜水站⇒遼東⇒十里堡⇒盛京⇒邊城⇒巨流河⇒白旗堡⇒二道井⇒小黒山⇒廣寧⇒閭陽驛⇒石山站⇒小遼河⇒杏山驛⇒連山驛⇒寧遠衛⇒曹庄驛⇒東關驛⇒沙河驛⇒前屯衞⇒高嶺驛⇒山海關⇒深河驛⇒撫寧驛⇒永平府⇒七家嶺⇒豊潤縣⇒玉田縣⇒薊州⇒三河縣⇒通州⇒北京と言うルートを辿って北京に到っている。また、乾隆年間の朝鮮使節団の紀行文でもある『熱河日記』の旅程は更に詳細だが、基本的に多様なルートを辿っている。
  4. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 二十二年(1644)

明末チベット僧のインテリジェンス活動~袁崇煥と王喇嘛、李喇嘛~

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 清朝チベット仏教政策を調べていたら、清初…というか明末に対モンゴル、対マンジュ交渉…というか諜報活動で活躍した二人のチベット僧が出てきたので、とりあえず纏めておきます。縦横家のように舌先三寸でモンゴル諸部をマンジュから離反させた王喇嘛と、袁崇煥ホンタイジとの和平交渉を担った李喇嘛の事績が中心です。

王喇嘛(ワン・ラマ Wang-lama)
 東北チベットアムド地区の一部、ド・メー地方出身のチベット僧。出家して三吉八蔵(サンジェ・パサン sangs-rgyas Pa-sangs)と称しましたが、明朝側、後金/清朝側双方からは王喇嘛と記録されることが多いです。ド・メー地方はチベット人モンゴル人漢人の雑居地区でワン・サンジェ・パサンのように漢人姓チベット名を持つ「漢人喇嘛」を多く排出しました。王喇嘛もその中の一人の漢人であったようですi
 モンゴル語に巧みであったため、少なくとも天啓2(天命7 1622)年までには兵部尚書兼右副都御史王在晋麾下の宣化鎮モンゴル政策に携わったようです。
 まず、天啓2(天命7 1622)年4月、マンジュと連携していたハラチン部罕孛羅(ハンボロ?)に明朝との歴代の旧恩を強調して明朝に寝返らせる事に成功しますii iii
 その後、同年6月には内ハルハホンギラト部の有力者・ジャイサイ(宰賽 jaisai)をヌルハチとの確執を焚きつけて明朝に寝返らせる事に成功していますiv
 次いで同年8月にはチャハルリンダン・ハーンと対マンジュ国軍事同盟を締結する事に成功するvなど、対マンジュ国戦でモンゴル諸部を明朝側に引き込む謀略に携わっています。
 立て続けに工作を成功させていることから、これが一連の経略だったと考えた方が合理的でしょう。この頃、一度はマンジュに帰順したモンゴル諸部…というか内ハルハ諸部が帰順や離反を繰り返すのがどうも分からなかったのですが、こういう暗躍が裏にあったと言うことなんですね。
 更に、まさにチャハル工作が奏功したその日、天啓2(天命7 1622)年8月に、天啓帝のお気に入りの兵部尚書孫承宗山海関を視察してvi、その5日後に遼東経略王在晋の不備を指摘して失脚させてvii viii、その後任に立候補してix遼東に赴任します。
 孫承宗は若くして科挙に及第して、天啓帝日講官を務めたことから信任を得たようです。山海関を視察してその不備を指摘しただけではなく、弾劾して失脚させた王在晋の後任に収まってることから、自分なら遼東の劣勢を挽回出来るという自負もあったのではないでしょうか。また、山海関に入ってからはほぼ孫承宗を指す代名詞と言っていい”枢輔“と言う称号で呼ばれることからも、天啓帝からの絶対的な信任を感じます。経歴だけ見ると鼻持ちならないエリートのようですね…。清朝華北侵入に一家でに抗した”忠臣“ではあるんですけどねぇ…。
 天啓3(天命8 1623)年、孫承宗体制に移行してからも王喇嘛は対モンゴルの工作に従事していたようですがx、前任者が採用した諜報員と言うだけでも孫承宗は気に入らなかったようです。
 ついで、天啓4(天命9 1624)年、ちょっとした行き違い?で王喇嘛の裏切りを確信して、王喇嘛を処刑するよう上奏していますxi xii
 しかし、翌天啓5(天命10 1625)年2月には王喇嘛は勅命を受けているのでxiii、どういう経緯かは不明ですが、処刑されずに遼東に留まったようです。
 もっとも、その後、同年9月には孫承宗柳河之役での敗戦で弾劾を受けて、遼東経略を辞任して自宅療養させられていますxivから、王喇嘛との確執は有耶無耶になったものと思われます。この孫承宗の失脚も魏忠賢が己に附和しないのを快く思っていなかったので、敗戦にかこつけて失脚させたと言われています。明朝の末期的状態がここでも見て取れてしまいますね…。
 天啓6(天命11 1626)年、マンジュ軍が遼西回廊を進撃して錦州城を包囲しつつ寧遠城を攻撃すると、王喇嘛祖大寿等と協力して防戦に協力しxv、戦捷後の論功行賞ではモンゴル諸公ヌルハチから遠ざけたことxvi袁崇煥から評価されて副総兵待遇に昇格していますxvii。この寧錦大捷後の同年8月にヌルハチは戦傷が元で没しているので、間接的にヌルハチを死に追いやった…と言うと言い過ぎですね。
 更に天啓7(天聰元 1627)年5月には、王喇嘛チャハルリンダン・ハーンの娘婿グイェン・ヒヤ(貴英哈 güyeng kiy-a)を通じてチャハルを動かして、マンジュを北から牽制させていますxviii xix xx
 この年3月に袁崇煥は後述する李喇嘛を弔問使としてムクデン(盛京=瀋陽)に送っていますが、書簡の往来の中で李喇嘛が自身とともに王喇嘛の名前を挙げて、ホンタイジ袁崇煥の間を取り持つと説得していますxxi。仲介役として相応しい地位としてマンジュにも名の知れた僧侶だったという事でしょう。
 翌崇禎元(天聰2 1628)年には、王喇嘛チャハルの西遷に伴って遼東から離れて大同に着任しましたが、5月~6月にチャハルグイェン・ヒヤ長城を越えて大同を包囲していますxxii王喇嘛チャハルの統御に完全に成功していなかったと言うことでしょうし、チャハル明朝の言いなりになっていたわけではないと言うことでしょう。
 王喇嘛グイェン・ヒヤを説得してなんとか退却させましたxxiiiが、崇禎帝は国境の一ラマが外交や同盟を主導している状態は中国としての威厳が保てないのではないか?と批判していますxxiv。その後も袁崇煥には功績を評されているものの、明朝側の資料から王喇嘛の記載はこれ以降途絶えます。

 しかし、一方で清朝側の資料ではこれ以降も王喇嘛の名前はトゥメト部のタブナン(駙馬)として散見されます。王喇嘛李喇嘛の業績を纏めた李勤璞は2人の王喇嘛説を採って、遼東で活躍した王喇嘛トゥメト部のワン・ラマは別人としています。しかし、同時期に明朝王喇嘛トゥメト部のワン・ラマが活躍していた様でもないですし、明らかに別人と分かる記載もないので、同一人物と考えても問題ないようにも思います。モンゴルの人名としても王喇嘛なりワン・ラマはかなり珍しい部類に入ることも確かです。
 ただし、明朝の外交政策を主導したチベット僧と、トゥメト部支配層の娘婿とでは、かなり立場が違いますし、後で見るように明朝王喇嘛が謀略や交渉で活躍していたのに、トゥメト部のワン・ラマは戦働きしかしていませんから、明朝王喇嘛トゥメト部のワン・ラマの間には断絶があることは明白ですが、もののついでなので崇徳年間に活躍したトゥメト部のワン・ラマについても業績を併記しておきますxxv

 崇徳元(崇禎9 1636)年7月~9月、トゥメト部のタブナンワン・ラマ睿親王ドルゴンに従って華北に侵入し、北京近郊や山東省を転戦していますxxvi xxviixxviii
 その後、崇徳5(崇禎13 1640)年、トゥメト部の一員としてマンジュの要請に従って、睿郡王ドルゴン粛郡王ホーゲに従って錦州を包囲しましたが、敗戦の責を問われて支配下の領民と家畜を削られますxxixが、その後、崇徳6(崇禎14 1641)年9月までには戦死したのでxxxホンタイジワン・ラマダルハン号を追贈しています。

 崇徳7(崇禎15 1642)年には、ホンタイジワン・ラマの子・單巴松(タンパソン? Bstan-pa Gsung?)にダルハン号の襲号を許していますxxxi
 崇徳元年の華北侵入の際の《満文老档》の記事を見るに、ワン・ラマトゥメト部のグム・タイジ(Gumu Taiji)と行動を共にしていることからグムの関係者であると考えられます。この時期のトゥメト部のグム・タイジは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》のジャサクグサベイセグム(扎薩克固山貝子固穆)に比定されますxxxiiから、ワン・ラマは年代から考えるとグムの父親であるオムブ・チュフル(鄂木布楚琥爾)のタブナン(=娘婿)で、グムの義兄弟と推定されます。崇徳5年時点ではオムブ・チュフルと行動を共にしてともにして、ホンタイジに罰せられているので、可能性は高いと思いますが…推測に推測を重ねた状態ですし、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》にはグム崇徳元年の華北侵入に参加したという記載がないですから、推測の域は出ません。

ホンタイジ⇒袁崇煥書簡

〈清太宗皇太極致袁崇煥書〉《清史図典》第一冊 太祖 太宗朝 P.99

李喇嘛(リー・ラマ Lii Lama)
 出家して鎖南木座(ソナムツォ bsob nams mtsho)と称しましたが、明朝側、後金/清朝側双方から李喇嘛として記録されています。少なくとも天啓6(天聰元 1627)年には袁崇煥麾下で対モンゴル工作に従事していたようですxxxiii。有名なホンタイジ袁崇煥の往復書簡の発端となった人物です。
 天啓6(天命11 1626)年、袁崇煥ヌルハチの弔問とホンタイジの即位の祝賀に李喇嘛後金に派遣しますxxxiv。この際に袁崇煥李喇嘛を使わした理由は、ヌルハチ死去の虚実を確認するためで、更に隙あればヌルハチの諸子や配下の離間、または明朝に帰順するように説得、従わないなら拘束して朝廷の処分に委ねる様に指令が下されていますxxxv xxxvi
 スパイ映画のような指令ですが、明朝側の史料から確認出来ますから、少なくとも袁崇煥は朝廷には諜報活動を行うように李喇嘛に指示した旨報告しています。ワクワクしますね。
 これに対して、ホンタイジは自国の情勢を隠さず、むしろ李喇嘛に自勢力の軍勢や装備、帰順したモンゴル集団について調べさせxxxvii xxxviiiバーリンxxxixジャルートへの遠征部隊の凱旋にも同席させていますxl。そして袁崇煥宛の信書を李喇嘛に託して送っていますxli
 袁崇煥はどうやらヌルハチが死んだことで、マンジュ明朝に帰順して遼東の兵乱が収まることを期待していたようですが、返礼使の奉書に「大金」とあることで、ホンタイジが父の意思を継ぐ意思があることを察して落ち込んでいますxlii。しかし、袁崇煥マンジュ国の状況を報告した李喇嘛の功績を天啓帝に上奏して褒賞を賜与することを提案して許されていますxliii
 一方、チベット僧明朝後金マンジュの間の中立的存在を期待していたホンタイジは、李喇嘛明朝袁崇煥に肩入れする態度に不信感を抱いてxliv明朝マンジュ国の講和は成立しませんでした。或いは、朝鮮遠征時に後背を衝かれないようにする時間稼ぎだったとも言われています。

 しかし、李喇嘛ホンタイジから袁崇煥と別に本人宛の信書を往来させているxlv xlviことからも、充分にホンタイジに存在を認識されていたと考えられ、清朝チベット仏教政策にも影響を及ぼしたと考えられます。ホンタイジ李喇嘛を批判した仏僧は中立ではないのか?という言説も、ホンタイジ自体がその後、崇禎帝即位時にバ・ラマ(ba lama 白喇嘛)というチベット僧を派遣しているxlviiことから、仏僧の中立を建前と承知していたか、もしくは李喇嘛の活躍にヒントを得てチベット僧の活用に思い至ったのか…どちらにしろチベット僧を介して外交交渉することを具体的にホンタイジに認識させたのは李喇嘛だと言ってもいいと思います。
 また、明朝側は少なくともマンジュが間諜を領内に放っていて、中にはチベット僧に扮する者も居ると考えていたxlviiiようなので、王喇嘛の影響もあったのかもしれません。
 
 ただ、この二人のチベット僧明朝に信任され重用されていたかと言うと又別の話のようで、孫承宗崇禎帝のように軍事の枢要にチベット僧が介入することを快く思わない人が居たことも確かです。それに、上司である薊遼総督ですら、モンゴル人チベット僧の姿をしていれば誰でも敬うし、中には呪術や幻術を使うような怪しげな輩もいて、王喇嘛李喇嘛チベット僧と言っても漢人であるしそれらと変わらないし、本場のチベット僧と違って教養も怪しい紛い物だと思っていたようですxlix。むしろ、袁崇煥が彼らを高く評価している方が当時としては奇特だったのかもしれません。
 王喇嘛にしろ李喇嘛にしろ、それなりに成果を上げたハズなんですが、こう報われないと明朝のシステム自体に問題があるとしか思えないんですよねぇ…。

参考文献:
李勤璞〈明末遼東邊務喇嘛《中央研究院歴史語言研究所集刊》第71本第3分
李勤璞〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉《中央研究院近代史研究所集刊》第30期
新藤篤史「清朝前期統治政策の研究」博士論文
神田信夫『清朝史論考』山川出版社 「袁崇煥の書簡について」
三朝遼事實録17卷總略1卷 国立国会図書館デジタルコレクション
大清太宗文皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
漢籍電子文獻資料庫

  1. 王、李二喇嘛、雖曰番僧、猶是華種。⇒《明實録》熹宗 巻73
  2. 王在晉題撫賞諸夷。其夷屬夷來守關外也。始於罕孛羅勢之窺犯、一時聲勢甚大、寒上人心悚悚皇皇、若朝夕不能自保者。臣差加銜、都司閻守信、通官王擒胡、又差、番僧喇嘛王三吉八蔵、遊撃守備等官張定、王朝宗再往論、宣布皇上威徳。罕酋憣然省悟、懐我好音、自云『我家祖父老把都、青把都、白供大等受了天朝撫賞厚恩五十餘年、今遼東欲剿殺奴兒哈赤、我願出力報效、發帳房三百頂、傳調朶顔猍暈大等帳一千頂、同去哨守山海關外』。此屬夷守寧前之因也。(後略)⇒《三朝遼事實録》巻8 天啓2年壬戌4月
  3. (前略)河西淪陷之後、潰兵逃民、號呼晝夜、山鳴海沸、不忍見聞。西虜罕孛羅勢、擁鐵騎二萬餘壓境而陣、自關以西、洶洶皇皇、都門晝閉、良賤易服、士民商賈、飭裝南還者、絡繹於道、此乾坤何等時也。臣身在危關、生死呼吸、不可複支矣。急遣都司閻守信、通官王擒胡持諭帖宣布朝廷威德。又遣游擊張定、番僧王喇麻從邊外、假爲使於虎墩兔而遇諸途者、從旁勸誘。仰藉我皇上寵靈、酋罕聞諭感泣、懷我好音、自發夷帳三百頂、傳令屬夷發夷帳一千頂、來守關門。而後關門之闔者始開、賣柴賣米互相貿易、胡越一家。據撫夷各官冊報。諸夷爲我運送過大小銃炮一百七十七位、紅黃銅鉛十萬一千二百觔。救送難民男婦八千四百七十七名口、接送馬騾牛驢四百二十二匹頭只隻。我之出哨游騎、始及中前、漸而進於前屯、又漸而進於寧遠廣寧、而關外城堡、雉堞連雲、澤鴻安堵、耕獲盈野、橐裝載途、遂使關外二百餘里之河山、還我祖宗版圖之舊、原其始、文吏誰紓一籌、武弁誰發一矢。不有諸夷護關領哨、吾兵何能東向一步。兩年以來塵靖烽消、不可謂非屬夷力也。律以八議之法、其功豈可盡沒。(後略)⇒《皇明經世文編》巻424 王司馬奏疏二〈遵旨撫處屬夷報竣事撫處屬夷〉
  4. (前略)先是、喇麻僧土三吉叭[口蔵]及通官朱梅等、每言宰賽必圖報怨。聀謂宰賽有子女在彼、安能撒脫。據云宰賽一子巳逃回、有一子二女在奴中、賽常言「譬如死了、止出得一身汗」。因囑番僧・通官、令諸部酋長挑其怒以激之。今兩報不約而同、指爲宰賽事。顧宰酋之力、未足以攻奴。所云占住金台石・白羊骨舊寨、其言尚未可信也。然以夷攻夷之計、小試其端、而奴之役役以守鎮江南衛、則職之累疏請兵請餉、接濟毛文龍者、不爲虚招矣。(後略)⇒《皇明經世文編》巻424 王司馬奏疏二〈備陳撫欵事宜疏〉
  5. 經略王在晉恭奉虎酋受款併陳塞外夷情、以嚴防範事。(中略)八月十三日令山海道閻鳴泰・關外道袁崇煥・同撫夷官李増等出關、俾令[門/身]刀插血、立有盟詞。願助兵滅奴、併力恢復天朝疆土。若奴兵到、憨兵不到、斷革舊賞。倘奴酋通賂、背盟陰合、罹顕罰。蓋指天爲證矣。(中略)是舉也、副将王牧民先約朱梅・張定・喇嘛王桑吉叭[口蔵]自爲盟、而後與虜盟。所以通官無所刺謬于其間、而浮費絶。(中略)奉聖旨。西虜受款、知卿控虜有方、其效勞文武各官、統候事竣錄取。⇒《三朝遼事實録》巻11 天啓2年壬戌9月
  6. (天啓2年8月)丙子(13日)兵部尚書大學士・孫承宗、廵歷山海。⇒《明實録》熹宗 巻25
  7. (天啓2年8月18日)改兵部尚書王在晉為南京兵部尚書。⇒《明實録》熹宗 巻25
  8. 承宗面奏在晉不足任,乃改南京兵部尚書(後略)。⇒《明史》巻250 列伝138 孫承宗伝
  9. 在晉既去,承宗自請督師。詔給關防敕書,以原官督山海關及薊、遼、天津、登、萊諸處軍務(後略)。⇒《明史》熹宗 巻250 列伝138 孫承宗伝
  10. 王喇嘛自西部還、文貴以蝋書歸款⇒李勤璞〈明末遼東邊務喇嘛〉引用の《高陽太傅孫文正公年譜》巻3
  11. 孫承宗疏云、近日刑部諮稱臣傳将要殺王喇嘛。見今、喇嘛日在羅城原爲張經世從宣鎭招來。而督臣用之款虜、毎見臣事有賞慰、何曾要殺、何曾在逃。大約反側之窺伺。豈其無因而番快之捶楚、何求不得也。⇒《三朝遼事實錄》巻13 天啓4年甲子
  12. (天啓4年2月)癸丑(29日)、大理寺丞・吳之皞爲左少卿・孫承宗言「臣見、捕獲奸細紛然見告。而左袒經略者捕皆巡撫之人。左袒巡撫者捕皆經略之人。甚至喑啞孤兒立殺受賞其勑所司調劑寬嚴毋以遼民之在苦。而疏于防毋以遼民之可疑。而苛於誅。」上是之。
    《兩朝從信錄》大學士・孫承宗、弭邊釁張曰。臣于視部時、曾見捕獲奸細紛然見告。而左袒經畧者捕皆巡撫之人、左袒巡撫者捕皆經畧之人。此豈奸細分曹、而應抑。豈遊徼擇人、而捕罔不、招辭成獄口。口為真甚至喑啞之孤兒。立殺受賞賣刀之殘卒。以紿相獲。即如近日、刑部咨稱、臣傳稱將要殺王喇嘛、奸細・董成俊、從羅城密放。 王喇嘛逃走。見今 王喇嘛日在關城、原為尚書・張經世從宣鎮招來。而督臣用之款。讋毋見臣時有賞慰。何曾要殺、何曾在逃。⇒《明實録》熹宗 巻39
  13. (天啟五年二月)丁未(28日)。遣兵部郎中董象恒齎勑命圖書、頒給西僧喇嘛王桑吉叭[口蔵]等。⇒《明實録》熹宗 巻56
  14. (天啟5年9月7日)兵科給事中・王鳴玉、都給事中・羅尚忠、刑科給事中・蘇兆先、各具疏參劾馬世龍并及樞輔孫承宗。承宗亦引疾乞罷。得旨輕進失事責在。鎮臣再整軍容嚴加備禦還仗。卿督率彈厭以安人心、封疆重任何人堪代。豈得遂欲求歸。既而承宗再疏告病。上復勉留之。⇒《明實録》熹宗 巻63
  15. (天啟六年四月)辛卯(19日)、薊遼總督王之臣、查報犒賞。優恤山海寧前軍士、用過銀一萬八千三百六十六兩。有奇。
    兵部覆敘寧遠功次。先是、廵関御史洪如鐘題、據袁崇煥報
    正月十八日、奴賊率眾渡河。左輔・蕭昇・鄧茂林・陳兆蘭等俱從右屯等處收回。
    二十一日、城外收聚畢時、城中士卒不滿二萬。緫兵滿桂、副將左輔、參將祖大壽、皆習見奴兵未可爭鋒以死守爭。大壽遂發塞門之議。諸將朱梅、徐敷、奏并王喇嘛皆主大壽議。而何可綱按劍决之。於是 王喇嘛請撤西洋大砲入城。彭簮古率勍兵挽。而登之盡焚城外民舍積蒭。令同知程維、模查察姦細。通判金啟倧、按城四隅編派民夫供給飲食衞官裴國珍鳩辦物料諸生守巷口有一人亂行動者即殺城上人下城者即殺滿桂提督全城而以東南首衝身任之左輔分西面祖大壽分南面朱梅分北面蓋。
    二十二日、而城中部署定。
    二十三日、賊薄城矣。先下營西北遠可五里、大砲在城上。本道家人・羅立素、習其法、先裝放之殺賊数十人。賊遂移營而西。
    二十四日、馬步車牌勾梯砲箭一擁。而至箭上、城如兩懸牌間如。蝟城上、銃砲迭發每用西洋砲。則牌車如拉朽。當其至城、則門角兩臺攢對橫擊、然止小砲也。不能遠及故門角兩臺之間。賊遂鑿城高二丈餘者、三四處於是火、毬火把爭亂。發下更。以鐵索垂火燒之、牌始焚。穴城之人始斃賊稍郤。而金通判、手放大砲堯、以此殞城下賊屍堆積。
    次日、又戰如昨攻打至未申時、賊無一。敢近城、其酋長持刀驅兵僅至城下。而返賊、死傷視。前日更多俱搶屍於西門外。各甎窑拆民房燒之、黃煙蔽野。是夜、又攻一夜。而攻具器械俱被我兵奪。而拾之且割得首級如昨。
    二十六日、仍將城圍定。每近則西洋砲擊之。賊計無、施見覺華島有煙火。而氷堅可渡、遂率眾攻覺華兵將俱死、以殉糧料八萬二千餘及營房民舍俱被焚。
    次日、賊引去。是役也。⇒《明實録》熹宗 巻70
  16. (天啟6年4月19日)西夷不撫、奴勢不狐。王牧民與朱梅、祖大壽、孫懷忠、王世忠、 王喇嘛李喇嘛、此撫夷有功者也。⇒《明實録》熹宗 巻70
  17. 得旨。寧遠挫賊恢復有機。朕心嘉悅內外文武各官功。(中略) 王喇嘛給副緫兵廩給、增其徒從。餘俱依擬。⇒《明實録》熹宗 巻70
  18. (天啟七年五月)甲申(19日)遼東廵撫・袁崇煥題、奴圍錦州甚嚴、関外精兵盡在前鋒、今爲賊攔斷兩處。夷以累勝之勢、而我積弱之餘、十年以來、站立不定者。今僅能辦一守字、責之赴戰、力所未能。且寧遠四城爲山海藩籬、若寧遠不固則山海、必震此天下安危所係。故不敢撤四城之守卒、而遠救只發奇兵、逼之方募死士二百人、令其直衝夷營如楊素用。寡法今已深入、未卜存亡。又募川浙死卒帶銃砲夜警其營、又令傅以昭舟師東出、而抄其後。且令王喇嘛諭虎酋領賞夷使貴英恰率拱兔、乃蛮各家從北入援、無所不用其力。⇒《明實録》熹宗 巻84
  19. (天啟七年五月)庚辰(15日 中略)廵撫遼東兵部右侍郎袁崇煥題、奴氛逼近、內外二鎮恊力守錦州、臣堅守寧鎮。以副縂・左輔、統余國奇官兵爲左翼。令都司・徐敷統官兵從大凌河入錦佐之。其西壁以副縂朱梅等各官兵守之。而趙率教居中調度、賈勝領奇兵東西策應至于寧遠。以副將・祖大壽爲主帥統轄各將分、信地相機戰守沿邊小堡俱歸。併于大城會同関門鎮臣節節防禦。領賞西夷、臣遣王喇嘛宣諭、令其結營自固、决不至疏虞。貽皇上東顧之憂也。(後略)⇒《明實録》熹宗 巻84
  20. (天啟七年八月)乙未(2日 中略)兵部敘寧錦功。得旨、寧錦大捷、朕心嘉悅、內外文武諸臣、宜行敘賚。(中略)兩喇嘛僧、王桑吉、李鎖南、各賞銀十兩。⇒《明實録》熹宗 巻87
  21. (天聰元年3月)壬申、(中略)若汗說七宗惱恨。固是往因。然天道不爽。再一說明。便可放下。袁巡撫是活佛出世。有理沒理。他心下自分明。所說河東地方人民諸事。汗當斟酌。良時易遇。善人難遇。有我與王喇嘛二僧在此。隨緣解說。事到不差。煩汗與各王子。放得下。放下了。難捨者。捨將來。佛說苦海無邊回頭是岸。干戈早息。即是極樂。我種種譬喻。無非為解化修善演我如來大乘慈悲至教也。敬修寸楮。⇒《太宗實録》巻2
  22. (崇禎元年五月)丁亥(27日)(中略)插漢貴英哈爲虎墩兔憨婿、狡猾善用兵、既死新平堡、其妻兀浪哈丈、率眾自得勝路入犯、自洪賜、鎮川等堡折墻入。忽報插漢至孤店三十里、初不傳烽、以王喇嘛僧止戰也。急收保、倚北関爲營、遂圍大同。虎墩兔屯海子灘。代王同士民力守、乃分屯四營、流掠渾源・懷仁・桑乾河・玉龍洞二百餘里、遣人至縂督張曉所脅賞。⇒《崇禎實録》卷1
  23. (崇禎元年五月)丁亥(27日)(中略)曉遣西僧王哈嘛往諭、時苦旱乏水草、援兵漸集、乃退。(中略)六月庚寅朔(1日)、西人犯大同、山陰知縣劉以南禦郤之。(中略)癸巳(4日)插漢虎墩兔憨出塞。⇒《崇禎實録》巻1
  24. (崇禎元年六月)丙辰(27日)、(中略)兵部尚書・王在晉曰「大同燹掠、宜以按臣勘報、不煩旂尉。」上曰「疆事伏一哈嘛僧講欵、不將軽我中國哉。」⇒《崇禎實録》巻1。
  25. 一応、明朝の方は王喇嘛、トゥメト部の方はワン・ラマ表記にしておくが、史料上での表記には差がない
  26. (juwan uyunn)wang lama i olji,niyalma juwan ilan,ihan emke,eihen emke,uheri tofohon(後略)⇒[崇徳元丙子年、崇禎九年、1636、七月](十九日)王喇嘛の俘虜は、人十三人、牛一頭、驢馬一頭で、合計十五である。⇒『満文老档VI 太宗3』P.1195
  27. (ice jakūn)tumet i gumu taiji,wang lama,šanggiyan jase de okdoko cooha de gidaha,cang ping ni hoton be wan kalka arafi jergi de efaha,tagein de gumu,wang lama ding hing ni cooha de gidaha,juwan morin baha⇒[崇徳元年丙子年、崇禎九年、1636、九月](初八日)Tumet の Gumu Taiji、王喇嘛が長城で迎撃した敵兵を破つた。昌平の城を梯子、楯を作つて攻撃を加はつた。掠奪に行つて Gumu と王喇嘛は、定興の総兵を破り馬十頭を得た。⇒『満文老档V 太宗4』P.1260
  28. (崇徳7年8月16日)爾父王喇嘛。原係土默特部落塔布囊。和碩睿親王過燕京。略山東時。迎往出邊。擊敗山寨敵兵。⇒《太宗文皇帝實録》巻62
  29. (崇徳5年3月)庚子(19日)。先是、往略明中後所、土默特部落俄木布、竟未披甲。王喇嘛遇敵敗走。至是喀喇沁部落、查薩袞杜稜、塞冷、土默特部落、查薩袞達爾漢及參政塞冷、尼堪於邁賴袞俄魯木地方、議其罪。俄木布、家產牲畜人口、應籍其半。 王喇嘛、家產牲畜人口、應籍三分之一。奏聞。上命免籍家產。罰俄木布、人十戶。 王喇嘛、人五戶。⇒《太宗文皇帝實録》巻51
  30. (崇徳6年9月)乙亥(2日)、(中略)先是、梅勒章京・碩翁、科羅巴圖魯、勞薩、護軍參領・丹代、土默特王喇嘛、察哈爾國昂邦章京・多尼、都喇爾、達爾漢諾顏等。隨多羅睿郡王多爾袞、多羅肅郡王豪格與明洪承疇兵戰歿。至是。上遣內大臣往奠之。⇒《太宗實録》 巻57
  31. (崇徳7年8月)癸丑(16日)。賜單巴松。噶爾瑪。賀琫。號為達爾漢。各賜敕書。賜單巴松敕書曰。爾父王喇嘛。原係土默特部落塔布囊。和碩睿親王過燕京。略山東時。迎往出邊。擊敗山寨敵兵。及隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇三營步兵於營外。墜馬身歿。是用賜號達爾漢。以爾單巴松襲之。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。賜賀琫敕書曰。爾父達爾漢拜賽。隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇 三營步兵。陣亡。是用命爾賀琫。仍襲達爾漢號。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。賜噶爾瑪敕書曰。爾父祁他特。原管旗事。隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇 三營步兵。被創身歿。是用賜號達爾漢。以爾噶爾瑪襲之。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。⇒《太宗實録》巻62
  32. 扎薩克固山貝子固穆列
    察喀爾・林丹汗、恃其强侵不已。固穆父鄂木布楚琥爾、約喀喇沁部長・蘇布地等擊察哈爾兵四萬、於土黙特之趙城復殺。其赴張家口、請明賞兵三千與交惡恐不敵。本朝天聰二年、偕蘇布地上書乞援。三年六月、遣台吉卓爾畢㤗入貢尋率屬來朝。九月、上親征察哈爾、鄂木布楚琥爾從。十月、從征明北京。六年、由都爾弼從征察哈爾林丹汗遁。詔隨貝勒阿濟格略明大同宣府邉。九年授扎薩克。崇徳三年隨豫郡王多鐸、圍明中後所、總兵祖大夀襲我軍。鄂木布楚琥爾潰走。議罪罰馬。四年、卒。子固穆嗣掌扎薩克。六年、從圍明錦州、敗總督洪承疇援兵。八年、遣屬布達爾從征明。⇒《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻25 土黙特部總傳
  33. (天啟6年4月19日)西夷不撫、奴勢不狐。王牧民與朱梅、祖大壽、孫懷忠、王世忠、 王喇嘛李喇嘛、此撫夷有功者也。⇒《明實録》熹宗 巻70
  34. (天命11年11月)乙酉(16日)。遣明使李喇嘛還。令方吉納。溫塔石。并七人偕往。因遺書曰。大滿洲國皇帝。致書於大明國袁巡撫。爾停息干戈。遣李喇嘛等。來弔喪。竝賀新君即位。爾循聘問之常。我亦豈有他意。既以禮來。當以禮往。故遣官致謝。至兩國和好之事。前皇考往寧遠時。曾致璽書與爾。令汝轉達。至今尚未回答。汝主如答前書。欲兩國和好。我當覽書詞以復之。兩國通好。誠信為先。爾須實吐衷情。勿事支飾也。⇒《太宗實録》巻1
  35. (天啓6年10月)壬子(13日)。遼東廵撫・袁崇煥、遣喇嘛僧鎖南等、入奴偵探情形。具疏上聞、且言、臣欲乘奴子爭立、乘機進勦。但錢糧器械乞勑該部預為料理、其方略機宜仍懇皇上裁酌施行。上嘉其忠猷、仍諭整備戎行、一應錢糧器械、該部預處具覆。⇒《明實録》熹宗 巻77
  36. (天啓6年)十二月。遼撫袁崇煥題。臣先于鎭守内臣劉應紀、紀用、鎭臣趙卒教東巡、而得奴死之信。蓋聞之而未見其的也。無一確探以相聞、邊臣所任何事。亟往偵其虚實、一也。困離間其諸子、與夷上下、二也。且諭其毋仍前叛逆、東手歸命、聴朝廷處分、三也。遂商之經、督二臣、以喇嘛僧鎖南木座往、同守備傅以昭等、共三十三人以行、臣與鎭、道密授之策。私計、此一役也。漢人重観威儀、與西虜在彼者、追念舊事、寧不共與中國聖明之思、諸奴子安能有其眾耶。臣酌酒酒淚、而壯本僧之行色。在庭之人且有耻不得與東行之選者矣。⇒《三朝遼事實録》巻16
  37. (天命11年10月17日)明寧遠巡撫袁崇煥 。遣李喇嘛。及都司傅有爵。田成等三十四人。來弔太祖喪并賀上即位。因潛窺我國情形。⇒《太宗實録》巻1
  38. (天啓6年12月)辛亥(13日)。(中略)初、遼撫袁崇煥以奴死、虜信未的、奏遣喇嘛僧李鎖南、以燒紙爲名往偵之、至是還。言、渡三岔河、河氷忽合、自西連東、如橋而渡。奴以爲神、供億一如內地。酋四子待以客禮、令僧閱其兵馬・器械・并搶粆花夷人以示威、仍具參・貂・玄狐・雕鞍、差夷答謝。既而又奏、自寧遠敗後、旋報死亡、只據回鄉之口、未敢遽信。幸而廠臣主持於內、鎮守內臣、經督鎮道諸臣具有方略、且謀算周詳。而喇嘛僧慧足當機、定能制變、故能往能返。奴死的耗與奴子情形我已備得、尚復何求。不謂其懾服皇上天威、遣使謝弔、我既先往以爲間、其來也正可因而間之、此則臣從同事諸臣之後、定不遺餘力者。謹以一往一還情形上聞。
     得旨。據奏、喇嘛僧往還奴中情形甚悉、皆廠臣斟酌機權、主持於內、鎮督經臣協謀於外、故能使奉使得人、夷情坐得。朕甚嘉焉。(後略)⇒《明實録》熹宗 巻79
  39. (天命11年10月)丙寅(27日)。楞額禮。阿山。還自巴林。俘獲甚多。上率諸貝勒大臣。竝明使李喇嘛。及官四員。出迎十五里遍閱人口牲畜畢楞額禮等叩見上親加慰勞。特許行抱見禮刲八牛祭纛凡獲人口二百七十一。駱駝三十四馬一百一十一牛一千二百一十一羊二千五百八十六。內以駱駝二十四。馬四十。牛六百。羊一千分賜貧人。餘按品級功績均賜出征將士。并賜 李喇嘛駝一馬五羊二十八。⇒《太宗文皇帝實録》巻1
  40. (天命11年11月)癸酉(4日)。凱旋諸貝勒列八旗兵來見。上率諸貝勒大臣出迎。立八纛。拜天畢上御黃幄凱旋。諸貝勒大臣。跪見。上以大貝勒代善。阿敏。二兄跪拜。不欲坐受。率大貝勒莽古爾泰 。及諸大臣答禮。上命巴克什達海。傳旨問曰。二兄及諸貝勒。在行間安否。巴克什庫爾纏。前跪代奏曰。荷蒙上天福佑皇上威靈。所向克敵。幸不辱命。代善。阿敏。及諸貝勒群臣。以次跪見上。行抱見禮。上以仰承太祖鴻業。兵威素著。今茲遠征。剋期制勝。因追憶太祖功德。念諸兄弟勤勞。愴然淚下。代善及諸貝勒群臣無不感泣。見畢。以次列坐。嗣明使李喇嘛等見上。又見三大貝勒。於是以凱旋。行飲至禮。⇒《太宗實録》巻1
  41. (天命11年11月)乙酉(16日)。遣明使李喇嘛還。令方吉納、溫塔石、并七人偕往。因遺書曰。大滿洲國皇帝。致書於大明國袁巡撫。(後略)⇒《太宗実録》巻1
  42. (天啓6年12月)庚申(22日)。(中略)崇煥又奏。奴遣方金納溫台什二夷奉書至。臣恭敬和順三步一叩。如遼東受賞時、書封稱大人。而猶書大金字面。一踵老酋故智臣。即封還之。潛偵其意。則深悔奴之悖逆。⇒《明實録》熹宗 巻79
  43. (天啓6年12月)庚申(22日)。疏末復歸功魏忠賢、且請獎賞西僧得旨。(中略)賞軍西李鎖南本座任使效勞著重、加獎賞餘俟奏來。另行甄別。該部知之。⇒《明實録》熹宗 巻79
  44. 天聰元年4月甲辰=8日)答李喇嘛書曰。觀來書。以佛門弟子。為介紹之人。所言皆欲成兩國之好。爾喇嘛博通理道明哲人也。我兩國是非。洞然明白。曲在我則規我。曲在彼則規彼。宜無偏袒之心。故我以衷言相告。自古以來。或興或廢。何代無之焉。可枚舉。如大遼天祚無故欲害金太祖而兵起。大金章宗無故欲害元太祖而兵起。萬曆無故侵陵我國。偏護葉赫。而我兩國之兵起。我師既克廣寧。諸貝勒將帥咸請進山海關。我皇考太祖以昔日遼金元不居其國。入處漢地易世以後。皆成漢俗。因欲聽漢人居山海關以西。我仍居遼河以東。滿漢各自為國。故未入關。引軍而返。彼時意漢人或來議和也。遲之四載。明人乘間修葺寧遠。伺隙搆兵。我因出師以攻寧遠。時適嚴寒。兵士勞苦。用即班師。及皇考太祖升遐。爾喇嘛來弔。此天欲我兩國和好之時矣。故具書議和。遣官偕往。又以書詞不合。封還至再。今爾喇嘛書內又云有仍願兵戈一語難以轉奏。夫我以衷言致書於明。明國皇帝亦以書報我。彼此通達明析。則和好可成。若不使直吐衷情。止令順從彼意。欲議和好。⇒《太宗實録》巻3
  45. (天聰元年3月)壬申(5日)。方吉納溫塔石。偕明寧遠使臣杜明忠等齎袁崇煥 李喇嘛書各一函至。⇒《太宗実録》巻2
  46. 天聰元年4月甲辰=8日)答崇煥書曰。(中略)故遣使同李喇嘛致書於爾。(中略)答李喇嘛書曰。(後略)⇒《太宗實録》巻3
  47. (天聰2年正月)甲子(2日)。先是。明寧遠總兵祖大壽 部下人銀住。為我兵擒獲。至是。遣銀住齎書往寧遠。書曰。彼此互為大言。徒滋支蔓。何所底止。夫搆兵則均受戰爭之禍。息兵則共享太平之福。此理之易曉者也。我欲通兩國之好。共圖太平。擬遣使同白喇嘛致祭爾先帝。竝賀新君即位。及閱爾來書。有弔喪者為誰。講和者為誰之語。是以停止遣使。但令銀住同來使往訊。如謂以禮往來為善。則我即遣使往矣。⇒《太宗実録》巻4
  48. (天啟六月閏六月乙丑(25日))廵視南城御史・王時英、盤獲番僧於廣寧門外十方庵。(中略)當今奴酋得計全在姦細乞勑法司譯審、刑部移文、禮部取譯字。⇒《明實録》熹宗 巻73
  49. (天啟六月閏六月乙丑(25日))廵視南城御史・王時英、盤獲番僧於廣寧門外十方庵。頭結黃髮、面目異、甞語若鳥聲、字如蛇跡因、而驗察隨身番經数十葉。原領四川、長河西魚。通寧遠軍民宣慰司、批文一紙內稱、大西天羅漢哈喎。願遊漢地名山道、院寺觀等。語踪跡可異。當今奴酋得計全在姦細乞勑法司譯審、刑部移文、禮部取譯字。生譯審批文可據。又有上荊南道掛號分守川西道、查驗各印信関防。又蕳出西天舘本內番字、真實名經一卷、與本番認識。本番即踴躍捧誦法。司硑研審實係西番非東夷也。薊遼總督閻鳴泰疏言。夷狄之人、聞中國之有聖人、重譯來朝此盛世之風也。
    目今関門、王李二喇嘛出入虜巢、玩弄夷、虜於股掌。而在夷地者如古什喇嘛、朗素喇嘛等、靡不摶心內向、屡効忠謀。盖夷狄之族、敬佛一如敬天、畏僧甚於畏法。而若輩亦聞有密呪幻術、足以攝之。虜酋一見喇嘛、必拜必親、聽其摩頂受記、則不勝喜。王、李二喇嘛、雖曰番僧、猶是華種、夷狄敬服已自如此、況真喇嘛乎。
    乞該部將、番僧觧發臣衙門如道術。果有可用何惜片席之地容此比丘如止是行腳庸流即驅逐出境詔許之。⇒《明實録》熹宗 巻73

延禧攻略の小ネタ(宮訓圖十二幀と遮陰侯)

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 と言うわけで、ゆるゆると《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を見ています。まだまだ序盤なので話は進んでいないんですが、見ていて割と気になるネタがちらほらあるので、メモを。
 まず、両把頭(マンジュ女性のヘアスタイル)がこの時代の肖像画や宮中画と同じように小さい(慈嬉太后=西太后のように巨大化するのは清末)とか、辮髪乾隆年間の風俗画に見えるくらいに毛が残っている部分が少ない…辺りですかね。風俗考証って難しいと思うんですが、この辺力入れてる感じはします。
 で、第1集の選秀女の選定基準で出てきた①マンジュ(満洲)女性は纏足をしてはならない、②マンジュ女性には”一耳三鉗“の風習がある…辺りは実際もそうだったようです。ただ、”一耳三鉗“が評価されたかは知りませんが…。

 そして、第1集最後に出てきた扁額宮訓図ですが…これ元ネタあるんですね…。
 扁額については《高宗實録》の乾隆6(1741)年11月の項に記事があります。

(乾隆6年11月)癸酉(12日)。諭總管太監。御筆扁十一面。著掛於十二宮。其永壽宮 。現在有扁。此十一面扁。俱照永壽宮式樣製造。自掛之後。至千萬年。不可擅動。即或妃嬪移住別宮。亦不可帶往更換。i

 乾隆6年11月に永壽宮に掛かっていた扁額をモデルに他の11宮の扁額を作って前殿に掛けたようです。で、扁額を妃嬪が宮殿を移動する時に持って行くことを禁じています。それぞれの宮殿にどんな扁額を掛けたのかについては、《國朝宮史》に記述があるので表に纏めます。ドラマに出てくるのは、長安宮の”敬修内則“のみですが、他の宮殿も同じように掛かってますね。
 で、宮訓圖については《養吉齋叢録》に記事があります。

大内宮東西各列六宮。乾隆間以古后妃之有懿行者、爲宮訓圖十二幀。景仁宮燕姞夢蘭、承乾宮徐妃直諫、鍾粹宮許后奉案、延禧宮曹后重農、永和宮樊姫諫獵、景陽宮馬后練衣、儲秀宮西陵教蠶、啓祥宮姜后脱簪、長春宮太娰誨子、咸福宮婕妤當熊。遇年節則張掛、年事畢、収藏於景陽宮後之學詩堂。ii

 こちらは時期がはっきりしませんが、多分、乾隆6年よりはだいぶ後のことと思われます。この記事、何でか永壽宮翊坤宮が抜けてますが、他の宮殿の内容は《養吉齋叢録》より成立の早い官選書《國朝宮史続編》と一致しています。こちらは年中掛かったままの扁額と違って、普段は景陽宮の後殿・學詩堂に保管してあって、時節のイベント事に各宮殿に掛けてイベントが終わったら仕舞ったようですね。ただ、実物の所在は分からないッぽいですね。

 以下、各宮殿の扁額宮訓圖を《國朝宮史》と《國朝宮史續編》から引用してみます。

宮訓圖十二幀と前殿扁額一覧

所在宮殿名前殿扁額iii宮訓圖十二幀iv《延禧攻略》史実
東六宮景仁宮贊德宮闈燕姞夢蘭圖舒貴人・淳雪(ナラ氏)皇太后(孝聖憲皇后)
承乾宮德成柔順徐妃直諫圖嫻妃・淑慎(ホイファナラ氏)嫻妃
鍾粹宮淑慎温和許后奉案圖純妃・蘇靜好
延禧宮v慎贊徽音曹后重農圖
永和宮vi儀昭淑慎樊姫諫獵圖愉貴人・阿研(珂里葉特氏)
怡嬪(柏氏)
愉貴妃
景陽宮柔嘉粛敬馬后練衣圖學詩堂(冷宮?)
西六宮永壽宮令儀淑德班姫辭輦圖慶常在・陸晚晚皇太后(孝聖憲皇后)
翊坤宮懿恭婉順昭容評詩圖潁貴人(バーリン氏)惇妃
儲秀宮茂修内治西陵教蠶圖貴妃・高寧馨
嘉嬪(金氏)
(皇后)
啓祥宮勤襄内政姜后脱簪圖瑞貴人(ソチョロ氏)
長春宮敬修内則太娰誨子圖皇后・容音(フチャ氏)孝賢純皇后
咸福宮内職欽承婕妤當熊圖

 東西六宮の実際の位置は
⑫咸福宮 ⑨儲秀宮 ■内■ ③鍾粹宮 ⑥景陽宮
⑪長春宮 ⑧翊坤宮 ■三■ ②承乾宮 ⑤永和宮
⑩啓祥宮 ⑦永壽宮 ■宮■ ①景仁宮 ④延禧宮
     ● 養心殿
 こんな感じなので、順番としては内三宮に近い方から東六宮西六宮、南⇒北のように順番に上げているようです。まぁ、延禧宮永和宮の順番が《國朝宮史》では逆になってますが、《日下舊聞考》と《國朝宮史續編》の順番は一致していますし、実際の位置は上に上げたような感じになるのを勘案して順番変えてました。
 ついでにドラマに出てくる各后妃の配置も漢語版Wikipedia参考に入れてみました。
 史書からはどの宮殿にどの后妃が居たのかは分かりませんが、孝賢純皇后がどうやら長春宮で生活したらしいことvii viii ixと、皇太后孝聖憲皇后永壽宮x景仁宮xiで生活したらしいことは《清實録》でも確認出来ます。…と言っても、ご存じのようにすぐに慈寧宮西側の壽康宮に引っ越すんでxii雍正帝の葬儀で一時的に住んでいたみたいですね。
 上の表の史実の后妃所在地については《紫禁城100》と言う図録に載っていたので、纏めたモンの何を参考にしたのか今ひとつ分からないので、この辺要注意ですねぇ…。

 ついでに各后妃のモデルの出身民族を書いておきますかね…。
■マンジュ⇒皇太后(孝聖憲皇后 二オフル氏)、皇后(孝賢純皇后 フチャ氏)、嫻妃(ホイファナラ氏)、舒貴人(舒妃 イェヘナラ氏)
■モンゴル⇒愉貴人(愉貴妃 珂里葉特氏)、潁貴人(穎貴妃 バーリン氏)、瑞貴人(瑞貴人 ソチョロ氏)
■漢⇒貴妃(慧賢皇貴妃 高氏)、純妃(純恵皇貴妃 蘇氏)、怡嬪(怡嬪 柏氏)、嘉嬪(淑嘉皇貴妃 金氏)、慶常在(慶恭皇貴妃 陸氏)
 満蒙漢が満遍なく揃ってますね…。珂里葉特って初めて見たましたけど、なんて読むんですかねぇ…。舒貴人納蘭明珠の曾孫がモデルですね。また、ドラマの中では皇貴妃の侍女みたいに出てきた嘉嬪も歴とした妃嬪ですね。各宮殿は何人かの妃嬪で住んでいるので、このドラマでは皇貴妃と嘉嬪は同じ宮殿の別の建物に住んでいるという解釈なんでしょうね。○○宮の主人みたいな言い方でその宮殿のメイン妃嬪を表現します。

北海公園 團城 2008/11/23撮影

 で、第2集引きから第3週頭までに出てきた霊柏も元ネタがあります。
 北海公園にある團城内の承光殿前にある通称遮陰侯と言われる木です。ただ、ネットでは割と記事を見かけるんですが、元ネタがよく分かりません。

 金鰲玉蝀橋之東有崇臺、卽臺址爲圓城、(中略)中搆金殿、爲承光殿、卽元時儀天殿之舊也、俗名團殿。(中略)殿前有古栝、槎枒拏攫、傳爲金時遺植。xiii

 《國朝宮史》で確認出来るのは、元代儀天殿旧址・承光殿前の古栝アブラマツ?が金代からの古木だと言うことだけですね…。元ネタは柏じゃなくて松なんですよな…。
 乾隆帝乾隆11(1746)年にこの古木について詩を詠んでいるので一応載っけておきます。

御製承光殿古栝行
五鍼爲松三鍼栝,名雖稍異皆其儕。
牙槎數株倚睥睨,歲古不識何人栽。
夭矯落落吟萬籟,盤拏鬱鬱排千釵。
徒聞金元飾棟宇,兩人並坐傳齊諧。
甕城久閉殿閣寂,綺榱落色風箏摧。
珊瑚反掛珠簾斷,喬柯雪夜烏鳴哀。
嗟嗟偃蹇凌雲姿,難辭根幹纒蒿萊。
往來或有尋題者,弔古感慨多徘徊。
瓊華遺跡惜就圯,況近紫禁城西隈。
爰葺爰築命匠人,事殊經始攻靈臺。
時向重基駐行蹕,金鰲蜿蜒空明皆。
盤桓嘉蔭撫壽客,真堪弟視竹與梅。
春朝緑雲參天青,秋夕碧月流陰皚。
靈和之栁非倫比,滄桑閲盡依然佳。
滄桑閲盡依然佳,嗚呼,種樹之人安在哉!xiv

 精々が”盤桓嘉蔭撫壽客“辺りが日陰を作った伝説の元なのかなくらいですね…。

 あと、第3集で出てきた碧螺春ネタ。康熙帝南巡の際に賜名を受けてて、元の名前は”嚇煞人香“だったというのもよく聴く説話なんですが、これも元ネタがよく分かりません。

 と、とりあえずはこんな所ですかねぇ…。

参考文献:
鄂爾泰 張廷玉 等編纂《國朝宮史》北京古籍出版社
慶桂 等編纂《國朝宮史續編》北京古籍出版社
于敏中 等編纂《日下舊聞考》北京古籍出版
章乃炜 等編《清宮述闻》故宫出版社
赵广超《紫禁城100》故宮出版社
呉振棫《養吉齋叢録》中華書局
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫

  1. 《高宗實録》巻154
  2. 《養吉齋叢録》巻17
  3. この項すべて⇒《國朝宮史》巻12 宮殿1 内廷 上
  4. この項すべて⇒《國朝宮史續編》巻55 宮殿5 内廷2
  5. 《國朝宮史》では5番目
  6. 《國朝宮史》では4番目
  7. (乾隆13年3月)辛丑(17日)。上還宮。(中略)戌刻。大行皇后梓宮至京。文武官員及公主王妃以下。大臣官員命婦。內府佐領內管領下婦女。分班齊集。縞服跪迎。由東華門。入蒼震門。奉安長春宮。上親臨視。皇子祭酒。王以下文武官員。俱齊集舉哀行禮。⇒《高宗実録》巻311
  8. (乾隆42年2月)丙辰(20日)(中略)又宮內之長春宮 。向有孝賢皇后及皇貴妃等影堂。朕不過每歲於臘月二十五忌辰之日一臨。但思列后及聖母。均未有專奉聖容處所。則 長春宮即歲暮亦不便懸像矣。此事著停止。⇒《高宗實録》巻1027
  9. 宣和堂註:ただし、《高宗實録》では孝賢純皇后が平生過ごした場所としての記述ではなく、梓宮として長春宮を使用したと言う記録で、その後、孝賢純皇后の御影を飾って祭祀したとはいうものの、皇貴妃や歴代皇后も一緒に祀っていることから、もしかして孝賢純皇后と長春宮って関係なくない?と言う気もする。
  10. (雍正13年9月)辛亥(15日)。(中略)奉皇太后還宮、居永壽宮。上日詣問安。還。居乾清宮南廊苫次。⇒《高宗実録》巻2
  11. (雍正13年9月)乙卯(19日)。上詣雍和宮梓宮前。行大祭禮。儀與初祭同。禮成。釋縞素。更素服。奉皇太后還宮。居景仁宮。⇒《高宗実録》巻3
  12. (乾隆元年11月)乙未(6日)。上恭奉皇太后移居壽康宮。皇太后禮服升座。儀仗全設。中和樂。設而不作。上詣慈寧門。行九叩禮。⇒《高宗實録》巻30
  13. 《國朝宮史》巻15 宮殿5 西苑中
  14. 《國朝宮史》巻15 宮殿5 西苑中

延禧攻略の小ネタ2(オシャン収賄事件)

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 と言うわけで、《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」》を引き続きツラツラ見ているのですが、第7集~第8集でオシャン(鄂善 Ošani)収賄事件が出てきます。まぁ…調べると実録にもこの事件は出てくるんですね。

 と言うわけで、以下適当な訳をつけますが、関係ないとおぼしき部分や乾隆帝の回りくどい言い回しその他は適当にカットして読み飛ばしてるので、誤読してる時はご指摘していただけるとありがたいです。

(乾隆6年3月)甲申(19日)。諭、據御史仲永檀參奏、提督鄂善、於張鳴鈞發掘銀兩案內。有俞長庚妻父孟魯瞻、轉託范毓馪、與提督說合。送銀一萬兩。屬其照拂。並侍郎吳家騏、亦曾得姓銀二千五百兩。又稱原係風聞言事。據實密奏。以備訪查等語。鄂善係朕倚用之大臣、非新用小臣可比、伊意欲朕訪查。不知應委何等之人。若委之禁近小臣。豈大臣不可信。而小臣轉可信乎。若委之大臣。又豈能保其必無恩怨乎。况命人暗中訪查。而朕不明言。藏於胸臆間。是先以不誠待大臣矣。此事甚有關係。若不明晰辦理。判其黑白。則朕何以任用大臣。而大臣又何以身任國家之事耶。著怡親王和親王、大學士鄂爾泰張廷玉徐本、尚書訥親來保、秉公查審。使其果實。則鄂善罪不容辭。如係虛捏。則仲永檀自有應得之罪。王大臣必無所偏徇於其間也。仲永檀又奏稱向來密奏留中事件。外間旋即知之。此必有串通左右、暗爲宣洩者。則是權要有耳目。朝廷將不復有耳目矣、等語。朕於左右近侍。訓約甚嚴。防閑甚密。數年以來。凡密奏留中之件。皆朕親自緘封。並有覽閱之後。默記於中。比時即焚其稾者。實無宣洩之隙。其有宣洩於外者。則皆係本人自向人言。以邀名譽。而反謂自內宣洩。以爲掩飾之計。朕猶記方苞進見後、將朕欲用魏廷珍之意。傳述於外。並於魏廷珍未經奉召之前。遷移住屋。以待其來京。此人所共知者。又李紱曾經召對。朕以君不密則失臣、臣不密則失身之義、訓諭之。伊稱臣斷不敢不密。但恐左右或有洩露耳。朕諭云朕從來召見臣工。左右近地曾無內侍一人。並無聽聞。亦何從洩露。如此二人者。則皆此類也。至於權要串通左右一語。朕觀此時、並無可串通之左右。亦無能串通左右之權要。伊既如此陳奏。必有所見。著一併詢問具奏。朕之所以廣開言路者。原欲明目達聰。以除壅蔽。若言官自謂風聞言事。不問虛實。紛紛瀆陳。徒亂人意。於國事何益。是以此案必須徹底清查。不便含糊歸結。亦正人心風俗之大端也。仲永檀摺併發。ii

 乾隆6年3月19日。御史仲永檀が密奏して弾劾するには、提督オシャン張鳴鈞で採掘された銀について二件の疑惑があり、俞長庚とその岳父孟魯瞻范毓馪と結託してオシャンと談合し、その見返りとして銀1万両を送り、その一党である侍郎吳家騏もまた俞姓の銀2千5百両を得たとの風聞がある…と。
 これに対して乾隆帝オシャンは自ら抜擢・起用した権臣なので、新たに起用した下っ端の役人とはワケが違う、疑惑を徹底的に調査して虚実を究明するべし、と厳命します。特に怡親王弘曉和親王弘晝大學士オルタイ(鄂爾泰 Ortai)、同・張廷玉、同・徐本、尚書・ネチン(訥親 Neciniii)、同・ライブー(來保 Laibooiv)に命じて共同審理をさせました。乾隆帝曰く、オシャンの罪は許しがたいが、もしこれが仲永檀による根拠のない讒訴であったなら、仲永檀は相応の罪に問われるだろう…と。また、仲永檀が密奏した内容がすでに世間では周知されていたと言うことは、情報が漏洩しているとしか考えられない。恐らく本人が売名のために漏らしているのだろう。云々と。
 初めは仲永檀の売名行為を疑い、オシャンは虚偽の誣告を受けたと見てたみたいですね。

(乾隆6年3月)庚寅(26日)。諭王大臣等。御史仲永檀參奏鄂善得受俞長庚賄賂一案。朕初以爲必無之事。仲永檀身恃言官。而誣陷大臣。此風斷不可長。但事不查明。何以治仲永檀之罪。因而派王大臣七人。秉公查審。屢經研訊。逐日奏聞。乃鄂善家人及過付人等。俱各應承。是鄂善受賄之處。已屬顯然。朕特召和親王、大學士鄂爾泰、尚書訥親來保、同鄂善進見。面加詢問。鄂善始猶抵飾。朕諭之曰。此事汝家人及過付之人。皆已應承。汝能保汝家人捨命爲汝。而自認此贓爲己吞乎。若能如是。事亦可已。若不能如此。此數人者出。將秉公嚴詢。彼時水落石出。汝一身之事。所關甚小。而朕用人顏面。所關則大。汝若實無此事則可。若有。不妨於朕前實奏。朕另有處置。而諭此數大臣從輕審問。將此事歸之汝家人。以全國家之體。設非朕有指示。此數人者。但知秉公而已。敢如是辦理乎。鄂善熟思。乃直認從家人手中得銀一千兩是實。朕以鄂善在朕前。已經自認。毫無疑竇。以皇考及朕平日深加信用之大臣。而負恩至此。國法斷不可恕。若於此等稍有寬縱。朕將何以臨御臣工。但朕心尚欲以禮待大臣。以存國體。賈誼曰。其有大罪者。聞命則北面再拜。跪而自裁。上不使人捽抑而行之。朕之處鄂善。亦猶是耳。因垂淚諭之曰。爾罪按律應絞。念爾曾爲大臣。不忍明正典刑。然汝亦何顏復立人世乎。汝宜有以自處也。乃彼既出之後。朕猶恐如此辦理。或有過刻之處。又令和親王等四人、會同大學士張廷玉福敏徐本、尚書海望、侍郎舒赫德、再加詳議。據王大臣等奏稱、鄂善婪贓負國。法所不容。人心共憤。理當明正典刑。乃蒙天恩。容其自盡。實無過刻之處等語。朕因令訥親來保前往。將王大臣奏帖、與鄂善閱看。並傳諭曰。朕於大臣。視同手足。今爾負朕至此。朕萬不得已。如此辦理。自降旨之後。心中戚戚。不能自釋。如人身之失手足也。汝心中若有欲言之事。不妨向二人再行陳奏。鄂善忽奏稱我錯聽皇上諭旨。以爲我家人已供我得銀一千兩。又聽得諭旨云。爾係皇考及朕信用之大臣。如果有受賄實情。可在朕前據實奏出。朕另有辦處。以全大臣之體。我因皇上屢次降旨。滿尚書皆可信其無他。今我被人參劾。審有得銀之供。恐皇上辦理爲難。是以一時應承。我實無贓私入己。如家人供出我來。我情願與之質對等語。朕當爾等面詢鄂善時。總以至誠開導。欲得其實情。爾等皆爲之感泣。鄂善亦良心發見。俯首無辭。因而直認不諱。此時並未以威懾之。以言誘之。以刑訊之也。旋命訥親來保、傳旨與伊。朕意彼若自知罪重。誠心悔過。或以罪當監候。懇切哀求。尚欲緩其須臾之死。乃鄂善無恥喪心。至於此極。其欺罔之罪。即立時正法。亦不爲枉。夫朕之所以令彼自處者。欲全國家之體。而賜彼以顏面也。乃彼自不惜顏面。朕將何惜。豈皇考在天之靈。不容此負恩之輩。冒恩苟免。欲使明正典刑。以儆戒大小臣工耶。可將鄂善革職。拏交刑部。著福敏海望舒赫德、會同爾等嚴審。則虛實自見。或因鄂善愧懼。一時錯認。亦未可知。王大臣必不阿朕旨、而故入人以重辟也。夫奸盜等案。朕尚熟思審慮。期於至當。况鄂善曾爲大臣者乎。朕爲此事數日以來。寢不安席。食不甘味。深自痛責。以爲不如皇考之仁育義正。能使百爾臣工。兢兢奉法。自不致身陷重辟。水弱之病。朕實蹈之。若再不明彰國法。則人心風俗。將來何所底止。朕之苦衷。亦惟皇考在天之靈鑒照之耳。垂淚書此。王大臣其體朕意焉。布告天下。咸使聞知。v

 ところが、約1週間後に審理命令を受けた王大臣7名がオシャン収賄事件の捜査を行い、その報告が乾隆帝に続々と入ってくると事態は一変します。
 まず、オシャンの家人や使用人が供述すると、オシャンが賄賂を受け取ったことを認めたことで、収賄の事実が証明されました。
 乾隆帝和親王弘晝大学士オルタイ尚書ネチンおよびライブーとともに、オシャンと面会して直接問い糾しました。オシャンは考え込んだ後に、家人が銀1千両を貰ったのは事実だと素直に認めました。
 乾隆帝を前にしてオシャンが収賄の事実を認めた以上、オシャンの罪状は明らかです。しかし、オシャンが退室すると、乾隆帝は捜査に万が一間違いがあってはいけないし、罪状が明らかであっても過剰に刑を科してはならない…と、和親王他4名と会同大学士張廷玉フミン(福敏 Fumin)vi徐本、尚書海望vii、侍郎シュヘド(舒赫德 šuhede)を呼んで再度審議させることにしました。大臣等が言うことには、オシャンは権力を欲しいままにして賄賂を受け取ったので、法の容認するところではありませんし、世論はこれを聞いて憤慨しています、刑法に照らし合わせて自尽を賜るべきでしょう…と奏上します。
 乾隆帝自身は不満もあったものの審理を受け入れ、オシャンを革職した上で刑部フミン海望シュヘドに審理を預けた。オシャンが恐怖に駆られて衝動的に虚偽の自白していないか確認し、乾隆帝の旨に阿る様なことなく公明正大な審理をするようにと言付けました。

 乾隆帝オシャン助ける気満々で王大臣に説得されてますやん…(それでもオシャンのことがあってから、よく眠れず食もすすまないとか言ってる辺りちょっと…)。でも、賄賂の額がしらっと1万両から1千両になっているのはお咎めないんですかねぇ…。

(乾隆6年3月)辛卯(26日)。(中略)諭、前據御史仲永檀參奏鄂善得受賄賂一案。朕初心疑爲必無此事。特令王大臣等秉公察審。務得實情。今據王大臣等。悉心根究。逐日將情形奏聞。鄂善顯有納賄情弊。昨朕召伊進見。面加詢問。伊亦自行承認。及朕遣訥親來保傳旨宣諭。伊忽支飾改供。小人之情狀畢露。其爲納賄。確實無疑矣。仲永檀身爲言官。能發奸摘伏。直陳無隱。甚屬可嘉。應加超擢。以風臺諫。著將僉都御史鄭其儲、調補順天府府丞。其僉都御史員缺。即將仲永檀補授。至仲永檀摺內所奏大學士等到俞姓送帖弔奠一事。令查詢明白。全屬子虛。然伊得之于枋之口。則非伊捏造可知。又奏留中密摺宣洩於外一事。伊既舉出吳士功參奏史貽直一件。查上年吳士功果有此奏。現在交王大臣等查詢。是伊亦並無妄言之咎。俱不必向伊置問。朕始疑仲永檀妄言誣陷大臣。故欲加罪。令查詢有據。旋即加恩擢用。朕大公至正之心。可以對天地。亦可以對臣民。自今以後。諸居言官之職者。皆當以仲永檀爲法。而不必畏首畏尾矣。viii

 更に翌日、乾隆帝オシャン収賄事件について、初めはオシャンを全く疑わなかったが、王大臣に共同審理させてその報告を日々聞いたところ、オシャンが収賄したことは明白で、昨日自らオシャンと接見したところ、オシャン自身が罪状を認めたので、ネチンライブーを派遣して訓戒を授けた。仲永檀の密奏は事実であったことが判明した。乾隆帝は初め仲永檀が権臣を妄りに誣告しようとしているのだと思って、罪を与えようとしていたのだが、捜査結果が密奏の正確さを証明した。皆仲永檀を見習うように…と語りました。
 一日経てついに仲永檀を褒め始めます。どうやら接見後に派遣したネチンライブーからの報告がまずかったみたいですね。

(乾隆6年4月)己酉(15日)。(中略)刑部等衙門、會同九卿科道議奏。陞任御史仲永檀。參奏原任提督鄂善、於俞廷試家發掘銀兩。受賄婪贓、照律科斷、應擬絞候、一疏。諭、此案情節。朕從前所降諭旨。甚爲明晰。鄂善婪贓受賄。已在朕前自認不諱。毫無疑竇。國法斷不可恕。朕尚欲以禮待大臣而存國體。不忍明正典刑。令其自處。又令訥親來保、前往傳旨。鄂善此時。或以罪當監候。懇切哀求。未嘗不可緩其須臾之死。乃伊無恥喪心。將在朕前面認之語。肆行抵賴。此尚不謂之欺罔乎。尚不謂之大不敬乎。經王大臣等、將伊擬絞立決。實屬情罪相符。朕所以復命九卿科道會議者。原欲使諸臣共知此案情節。亦處治重罪。例應三覆奏之意。今九卿科道等、忽改爲擬絞監候、以爲婪贓之罪。律當如是。獨不思鄂善之重罪。在於欺罔、大不敬。今止照伊輕罪定擬。而置重罪於不問。有是理乎。從來案情介於疑似之間者。臣工或從重定擬。以待奉旨改輕。謂爲恩出自上。朕尚以爲不可。豈有全無疑義之事。而反議從輕者。將竟視朕爲姑息優柔之主乎。此則大非朕所望於九卿者也。朕於此案、再三斟酌。未嘗不欲從寬。即遣王大臣向鄂善降旨時。亦非必不可暫緩其死。無如伊輾轉狡獪。自陷重辟。若照九卿改議。則朕前旨。不且爲無著之空言乎。寬縱至此。何以御臣工而昭國憲。鄂善本應照後議即時處絞。但刑於市曹。朕心始終不忍。著新住、五十七、前往刑部。帶鄂善至伊家。令其自盡。餘著照原議完結。至於九卿此議。錯繆已極。是何意見。著大學士傳旨嚴行申飭。ix

 そして、翌月15日、刑部などの衙門から審理の結果が奏上されます。オシャンの収賄は国家が採掘した銀両に関する収賄なので、刑法に照らし合わせて絞監候(絞首刑?)が相応しい…と。乾隆帝は、この事件の罪状は明確でオシャンは収賄したことを面前で認めたことで一分の疑いもない。そのあとにネチンライブーを派遣して訓戒を授けた時にも、懇切と助命を訴えて未だに自害していないなど厚顔無恥にもほどがある。王公大臣からも絞監候と判断されたが、朕が9人の王公大臣に再審させた所結果は同じ、更に刑部での判断も絞監候ならば覆しようがない。オシャンだけが重罪ではないと思っていたのなら、はなはだ不敬である。しかし、オシャンが公開処刑されるのは忍びないので、オシャンを自宅に帰らせてから自盡させた。云々。
 庇いきれないと諦めたんでしょうけど、事細かい忖度要請を突っぱねた刑部の人たち偉いっすね。

長春宮扁額 2008/11/23撮影

 これで、オシャンの件は決着がつきましたが、ご覧の通りオルタイ張廷玉も審理側の大臣であって、オシャン収賄事件からは彼ら二人の党争という感じはしません。しかし、乾隆帝自身うさんくさいと思っていた仲永檀の弾劾ですが、翌年暮れにまた事件が発覚します。

(乾隆7年12月)丙申(12日)。(中略)又諭、仲永檀密奏留中之摺。鄂容安如何問及。仲永檀如何告知。臣工密奏之事。豈容如此宣洩。仲永檀鄂容安、俱革職。拏交慎刑司。著莊親王履親王和親王平郡王、大學士張廷玉徐本、尚書訥親來保哈達哈、審明具奏。x

 と言うわけで、翌乾隆7年12月12日、仲永檀の密奏の内容をオヨンゴ(鄂容安 Oyonggo)が知っていたことが問題視されて双方革職されています。莊親王允禄履親王允祹和親王弘晝平郡王xi福彭と大学士・張廷玉徐本、尚書ネチンライブーハダハ(哈達哈 hadaha)らが審理に当たり奏上しています。
 前年のオシャン審理以上になかなか錚錚たるメンバーが審理を担当しているあたり乾隆帝の関心の高さがうかがえますね。

乾隆七年。壬戌。十二月。辛丑(16日)。(中略)諭大學士等。朕細閱鄂容安仲永檀、供詞。伊等往來親密。於未奏以前。先行商謀、既奏以後。復行照會。二人俱已供出。明係結黨營私。糾參不睦之人。爾等祗擬以洩漏機密事務之律。不合。著會同三法司。另行嚴審定擬具奏。xii

 4日後の16日、乾隆帝は審理を要請した大学士達に、ヨロンゴ仲永檀は、彼らは日頃から親密に往来しており、密奏を奏上する前に内容を協議したり、奏上した後も内容を確認したりしていることを倶に認めた。明らかに私党を結託していたのだ。この機密漏洩は厳しく捜査して奏上するように…と、指示しています。
 まぁ、前回のオシャンの時にスルーされてしまった、密奏の内容が漏洩している件に、どうやらオルタイの長子であるオヨンゴが関係していたことを掴んで再燃したってことですかね。臣下が結託して党派を作るのは中国歴代王朝では罪に問われる行為です。官僚はただ皇帝の利益にのみ従事すべきなので、党利党益を優先する朋党は私欲を優先すると見なされるわけです。

(乾隆7年12月)癸卯(18日)。諭曰。王大臣等審訊仲永檀鄂容安、一案。今日奏請刑訊仲永檀鄂容安、並將大學士鄂爾泰、革職拏問。此奏又屬錯誤。此奏前經王大臣會審時。仲永檀鄂容安、已將平日往來親密。並將具奏事件前後商量情節。一一供出。夫以仲永檀如此不端之人。而鄂爾泰於朕前屢奏其端正直率。則其黨庇之處。已屬顯然。久在朕洞悉之中。若欲將伊革職拏問。則已於前日降旨。何待爾等今日之奏請。蓋以鄂爾泰乃皇考遺留之大臣。於政務尚爲諳練。朕不忍以此事深究。若以此事深究。不但罪名重大。鄂爾泰承受不起。而國家少一能辦事之大臣爲可惜耳。但其不能擇門生之賢否。而奏薦不實。不能訓伊子以謹飭。而葛藤未斷之處。朕亦不能爲之屢寬也。鄂爾泰著交部議處。以示薄罰。朕辦理此事。皇考在天之靈。自能洞鑒。鄂爾泰嗣後當洗心滌慮。痛改前愆。以副朕恩。倘仍前不檢。鄂爾泰自思之。朕從前能用汝。今日能寬汝。將來獨不能重治汝之罪乎。至爾等奏請將仲永檀鄂容安、加以刑訊。伊等俱曾爲三品大臣。又豈可似盜賊罪犯。重加三木。則不過套夾一訊。爲汝等斷案張本。又何必多此一番奏請乎。况此事情跡已明。無庸刑訊。仲永檀受朕深恩由御史特授副都御史。乃依附師門。將密奏密參之事。無不豫先商酌。暗結黨援。排擠不睦之人。情罪甚屬重大。鄂容安在內廷行走。且係大學士之子。理應小心供職。閉戶讀書。乃向言官商量密奏之事。情罪亦無可逭。但較之仲永檀、尚應末減。爾等可定擬具奏。xiii

 その2日後の18日、審理に従事していた王大臣に乾隆帝が審理内容を語っています。仲永檀ヨロンゴ、並びに大学士オルタイは革職。日頃から彼らは親密に往来しており、この事件の前後の事情は一々供出させているが、仲永檀はただの下っ端の役人ではなく、オルタイ乾隆帝の面前で釈明したところでは、オルタイの党派の一員であることは明らかである。オルタイは前帝遺留の大臣で、政務にも熟達している。この事件を究明することは乾隆帝自身も忍びないが重罪である。オルタイが我が子をキチンと指導せず、ヨロンゴも心を改めないのであれば、乾隆帝も寛容にはできない。しかし、行いを改めるのなら、オルタイは従前のように要職に就かせよう。仲永檀ヨロンゴについても事情が明らかになったので、これ以上罪を問うことはない。ただし、仲永檀乾隆帝の抜擢を受けて副都御史の出世しながら師匠(オルタイ)の派閥に与して密奏の内容を漏洩させたことには叙情酌量の余地はない。密かに派閥を形成して無実の人を排除するとは重罪である。ヨロンゴ内廷走行の地位にあり、かつ大学士(オルタイ)の子息である。コソコソと言官(仲永檀)の密奏について共謀するなど罪は逃れ得ない。しかし、比較してみれば仲永檀の方が減刑の余地はあるので協議せよ。
 と言うことで、仲永檀の弾劾よりむしろオルタイへの訓戒がメインになってますね。重罪だ!と言いながらあまり重刑で当たらないような雰囲気が醸し出されています。

(乾隆8年1月)丁巳(2日)。(中略)又諭。仲永檀漏洩密奏一案。由於仲永檀趨附鄂容安。而鄂容安因向伊詢問。原屬多事。理應懲治。但鄂容安從前在阿哥書房行走尚好。且伊父大學士鄂爾泰。年老有疾。鄂容安從寬免發臺站。仍在阿哥書房行走。嗣後當閉戶讀書。不預外事。倘因現經革職。在書房行走。不似從前盡心。朕必重治其罪。大學士鄂爾泰當嚴切教訓之。xiv

 で、翌乾隆8年の新年早々この件が審理されて、ヨロンゴが以前勤めた阿哥書房行走での仕事ぶりが評価され、かつオルタイが高齢で病気がちであったので、罪を免じて上書房行走に任命されています。この事を以てオルタイの教訓としたとしています。
 まぁ、ヨロンゴはこの後も順調に出世するのであまり影響ないみたいですが…。

(乾隆8年2月)甲午(10日)。吏部議處大學士鄂爾泰、將行止不端之已革副都御史仲永檀、濫行奏薦。於伊子已革詹事鄂容安不能嚴加管束。致向仲永檀商量密奏之事。應照例降調。得旨。鄂爾泰所有加級紀錄。俱著銷去。抵降二級。從寬留任。xv

 更にその8日後、改めて仲永檀は前例に照らし合わせて降格する旨審議の結果は出ているんですが、どうやら審議の最中に獄中死してるようなんですよねxvi

 こちらの件ではオルタイと息子のオヨンゴは関係者として革職までされていますが、張廷玉は全く出てこないので、やっぱりオシャン収賄事件が権力闘争の道具として利用された…って辺りはドラマの創作ですかねぇ…。
 まぁ、乾隆6年当時の事件を掻い摘まんでよくドラマに落とすなぁ…と感心します。まぁ翌年の件と合わせれば党争の余波とも取れなくはないにしても、貴妃高氏はかすりもしてませんから、よくこんなとこから取ってくるなと言うのが素直な感想ですね。

参考サイト
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
人名權威資料庫

  1. ドラマの字幕では”オサン”。ただし、発音はオシャン。人名權威資料庫によるとOšan。
  2. 《高宗實録》巻139
  3. 乾隆6年当時吏部尚書
  4. 乾隆6年当時刑部尚書
  5. 《高宗實録》巻139
  6. 乾隆6年当時吏部尚書?
  7. 乾隆6年当時禮部尚書
  8. 《高宗實録》巻139
  9. 《高宗實録》巻140
  10. 《高宗實録》巻180
  11. 克勤郡王家嫡流
  12. 《高宗實録》巻181
  13. 《高宗實録》巻181
  14. 《高宗實録》巻182
  15. 《高宗實録》巻184
  16. 命定擬具奏,奏未上,永檀卒於獄。⇒《清史稿》巻306 列傳93 仲永檀

延禧攻略の小ネタ3(茘枝、清朝と犬)

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 と言うわけで、またツラツラと《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を見ています。11集~12集あたりでは献上品の茘枝が出てきたんでちょっと調べてみました。

 そもそも、茘枝って文献上どれくらいから記述あるのかと思ったら《華陽國志》の巻3蜀志僰道縣の項iに記述があるんですね。《華陽國志》の編纂が東晋 永和11(355)年で、僰道縣は現在の四川省宜賓市です。四川省でも採れたんだなぁ…という感じですね。
 献上品としての記録ってやっぱアレかなと思ったら、やっぱりアレでしたね…。唐玄宗楊貴妃のために献上されたって記事が《新唐書》に記事がありましたii。この頃から誕生日お祝いに茘枝ってことなんですかね。産地はぼんやり南方なんですね。

 で、清朝での茘枝の記述は結構早くて順治4年の広東省の平定の記事からですね。

(順治4年7月)甲子(25日)。(中略)以廣東初定、特頒恩詔。詔曰。(中略)一、廣東起解戶禮兵工四部折色錢糧。金花、黃白蠟、烏梅、五棓子、螣黃、黑鉛、桐油、黃熟銅、圓眼、菉筍、荔枝、香蕈、木耳、砂、核桃、蜂蜜、藥材、四司料價、胖襖、胭脂木、南棗木、紫榆木、紫竹、梨木、翠毛、均一料、魚油料、蔴、鐵、鐵稅、會試、會同館、協濟昌平本色錢糧、黃白蠟、芽茶、葉茶、銀硃、貳硃、生漆、錫、生銅、藥材、廣膠、并鋪墊水腳銀兩。俱照萬歷四十八年額數。自順治四年正月初一日以前。已徵在官者。起解充餉。拖欠在民者。悉行蠲免。iii

 まぁ、順治4(1647)年、広東省の平定に際して税を万暦48(1620)年の額に戻します…と言う記事の中に茘枝が上げられています。ただ、この年1月に清朝広東省を制圧しているので、何で7月まで放置してたのかなって言うのは気になりますが、広東省なんですね。

 で、献上品としての茘枝の記述は雍正7(1729)年に、広東省の献上品として出てきます。

雍正七年,考選四川道監察御史,八閱月,章數十上。嘗歷詆用事諸大臣,謂:「朝廷都俞多,吁咈少,有堯、舜,無皋、夔。」上不懌,召所論列諸大臣大學士朱軾、張廷玉 輩並及元直,詰之曰:「有是君必有是臣。果如汝所言無皋、夔,朕又安得為堯、舜乎?」元直抗論不撓,上謂諸大臣曰:「彼言雖野,心乃無他。」次日,復召入,獎其敢言。會廣東貢荔枝至,以數枚賜之。iv

 大臣とやり合った後に翌日に下賜してるあたり、やはり雍正帝…って感じです。

 ほんでは、清朝茘枝の献上品は広東省だったの?と言うとそうでもないみたいですね。

(乾隆41年10月)辛丑(3日)。飭禁各省貢獻。諭、向來各省督撫、例進方物。如雲南、雲產石。福建、柑橘荔枝之類。隨所產陳獻。仍不外乎任土作貢之義。乃閱時既久。督撫等踵事增華。即有購覓古玩充貢者。其始因恭逢皇太后七旬、八旬、萬壽大慶。及朕六旬萬壽。各督撫備物以申忱悃。尚非過分。伊等遂習焉不察。於每歲萬壽、年節、亦一例呈進。朕因其既已遠致。不得不量收數種。以聯上下之情。(中略)因亦擯而不用。久有旨勿許再進。即此亦可知朕之好尚矣。嗣後各省督、撫、除土貢外。毋得復有進獻。在京王、公、頭品大臣。及內廷翰林等。亦當一體遵照。並將此通諭知之。v

 乾隆41(1776)年に乾隆帝が贅沢品の献上を誡める訓示の中で、福建省茘枝が贅沢な献上品の代表例として上げられてますね。ここでようやく福建茘枝が出てきました。ただ、贅沢を誡める文脈で出てきますねぇ…。
 皇太后喜寿傘寿萬壽大慶乾隆帝自身の還暦萬壽大慶のような特別な誕生日ならわかるけど、毎年と時候の挨拶の時までこんな贅沢品献上せんでもええんちゃうか?と、言ったところでしょうか。茘枝に限らず贅沢品の献上をあまり乾隆帝が喜んでいなかったと言うことになるんでしょうけど(建前としては…でしょうけどね)、乾隆6年から何十年も後のことですから、当時はドラマみたいなこともあったのかもしれないですけど。

儲秀宮扁額

儲秀宮扁額 2008/11/23撮影

 で、清朝宮廷の犬となると…雍正帝はかなりの犬好きだったと言われていますが、乾隆帝郎世寧(Giuseppe Castiglione)に〈十駿犬圖〉を描かせるくらいには愛着持ってた様ですしね。清朝と犬は距離が近い位置に居たように思います。猟犬ってなると鷹狩りの鷹と同じような位置なんでしょうかねぇ。清初の人名では犬に因んだ名前をつけたくらいですし…例えば安親王ヨロ(Yolo 岳樂)はチベット犬の意味だったりします。あんまり犬に対してマイナスイメージないみたいですけどね。

明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
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  1. 僰道縣、在南安東四百里。拒郡百里。髙后六年、城之治。馬湖江會、水通越嶲。本有僰人。故秦紀言、僰童之冨、漢民多漸斥徙之。有茘支、薑蒟。⇒《華陽國志》巻3 蜀志 https://www.kanripo.org/text/KR2i0003/003#txt
  2. 帝幸驪山,楊貴妃生日,命小部張樂長生殿,因奏新曲,未有名,會南方進荔枝 ,因名曰 荔枝香。⇒《新唐書》巻22 志第12 禮樂12
  3. 《世祖実録》巻33
  4. 《清史稿》巻306 列傳93 李元直傳
  5. 《高宗實録》巻1018

キタイ皇帝の尊号メモ

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 と言うわけで、個人的にキタイの歴代皇帝の尊号を纏めておきます。

 ただ、キタイの皇帝…の自称はハンなので、キタイ語ではなんだか違う名称がある様な気もしますね…(何故か耶律大石だけグル・ハンという尊号が残ってるのも謎)。キタイ文字が読めればもうちょっと違うんだと思いますが、ご教授頂いたところではi漢号キタイ号はあまりリンクしていなかったようなんですよねぇ。

小字廟号諡号尊号即位上尊号備考
阿保機啜里只太祖 大聖大明神烈天皇帝天皇帝元年春正月庚寅元年春正月庚寅
德光德謹堯骨太宗 孝武惠文皇帝嗣聖皇帝天顯二年冬十一月壬戌天顯二年冬十一月壬申
兀欲世宗 孝和莊憲皇帝天授皇帝大同元年夏四月戊寅大同元年九月壬子朔
述律穆宗 孝安敬正皇帝天順皇帝天祿五年秋九月癸亥天祿五年秋九月癸亥
賢寧明扆景宗 孝成康靖皇帝天贊皇帝應曆十九年春二月己巳應曆十九年春二月己巳
隆緒文殊奴聖宗 文武大孝宣皇帝昭聖皇帝⇒天輔皇帝乾亨四年秋九月癸丑乾亨四年冬十月己未朔
宗真夷不菫只骨興宗 神聖孝章皇帝文武仁聖昭孝皇帝太平十一年夏六月己卯重熙元年十一月己卯
洪基涅鄰查剌道宗 孝文皇帝天祐皇帝重熙二十四年秋八月己丑清寧二年十一月戊戌
延禧延寧阿果天祚皇帝壽隆七年正月甲戌壽隆七年正月甲戌
涅里宣宗 孝章皇帝天錫皇帝保大二年保大二年北遼
雅里撒鸞保大三年天祚帝皇太子
大石重德德宗天祐皇帝(葛兒罕)甲辰歲二月五日甲辰歲二月五日西遼

 天○皇帝みたいな尊号が多いですけど、あんまり統一されているわけでもなさそうです。節目節目でどうやら尊号も諡号のように増えていったようなので、これもよく分からないですよねぇ。
 ついでに、キタイ国の称号について調べたこともメモ。キタイ国の原語は胡里只 契丹 國=huliš kitai gurもしくは契丹 胡里只 國=kitai huliš gurhulʤiモンゴル語ulusの意味。正式名称としては大中央フリジ契丹国=mos diau-d huliš kitai gurと言うのが多め(語順が前後するので大体こんな感じと言うこと)。哈喇契丹は誤訳なり他称であってではないよと。カラ・キタイは他称であって自称ではない…と言う当たり調べてみると結構ショックですね。

◇参考文献
吉本智慧子「契丹文 dan gur 本義考―あわせて「東丹国」の国号を論ず―」 立命館文学 第609号
愛新覚羅烏拉熙春『契丹文墓誌より見た遼史』松香堂
遼史》中華書局

  1. https://twitter.com/toueiriusui/status/1261096763261243392?s=20

延禧攻略の小ネタ4 吃肉分福と怡僖親王・弘暁

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 と言うわけで、またツラツラと《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を見ています。今回は14~15集当たりに出てくる福分けの肉吃肉分福の話を纏めました。

 坤寧宮で行われるマンジュの儀式で臣下に賜与される茹で豚肉自体は、一般向けの書籍でも紹介されているので割と有名です。まずは入江陽子『紫禁城─清朝の歴史を歩く』岩波新書 にこうあります。

 毎朝四時頃から始められる朝祭は、シャーマンが手に神刀を捧げ神歌を唱えながら跳舞し、列席の人々も三弦、琵琶、拍板、手拍子の伴奏にあわせて「オーララ」とはやす。この時主厨太監は二頭の生きた豚を祭神に供え、その耳に水を注ぐ、豚は当然悲鳴をあげ暴れるが、これを神が御嘉納になった証としてその場で殺して皮を剥ぎ、頭、尾、肩、肋、肺、心に解体して「阿瑪尊肉(アマーソンロウ)」と称して神前に供える。
 夕祭は午後四時頃から行われる。朝祭の後、一日中祭場に据えられた大鍋で煮た犠牲の肉が再び神前に供えられる。シャーマンは美麗な絹の裳裾と鈴を腰に巻き、手鼓を打ち旋回舞踏しながら無我の状態に入り、ペチコート「内裙」と鈴を解いて神前にささげる。この直後、すべての窓に黒布の幕が引かれ、竈の火を含めた殿内のすべての灯が消された闇のなかを、参列者は鼓板を打つ太監だけを残して退去。シャーマンが鈴を鳴らし神を言祝ぐ歌を三度ゆっくり唱える。これを「背灯祭」という。やがて灯がともされ、招き入れられた皇帝の代僧や当直の大臣、侍衛が犠牲の肉を食べることから「吃跳神肉(チーチャオシェンロウ)」ともよばれる奇怪な神事である。
 ことに正月二日の大祭には、この満州族iの秘儀に参列し吃肉を許す王公大臣を皇帝が自ら指名する。臣下に対する最高の恩賞で、なかには葬儀のときに「坤寧宮吃肉」と書いた牌をかかげる人も少なくない。ii

 わりと長い引用になりましたが、おおよそこんな感じの儀式ですね。毎日豚は煮られていたようですが、特に正月二日の儀式に参加出来るのは大変な栄誉とされたわけですね。ドラマ《延禧攻略》では太祖ヌルハチが苦難の時に臣下と塩ゆでの豚を分け合ったとか言うことになってますが、どれ見てもそんなことは書いてません。光武帝の豆粥かよって話ですがそれはさておき、マンジュシャーマンによる神事で供されるお裾分けというのは共通しています。まぁ、儀式の様子は坤寧宮を暗室にしたような記述になってますから、ドラマとは全然違いますね…。
 ともあれ、この日のメンバーに選出されることは大変な栄誉だったわけです。しかし、豚肉が美味いの不味いのについては触れられていません。

 で、更に引用長くなりますが、茹でただけの豚肉が不味かったという話は他の本には記述があります。

(前略)清朝の決まりによれば、坤寧宮はシャーマニズムの祭祀の場所であり、豚肉を煮ることはその中でも重要な儀式であった。毎日朝晩に祭祀を行うほかに、大祭と一日、十五日には皇帝と皇后が自ら参加することになっていた。祭祀のあとに下げた肉は無駄にせず、宮中の侍者たちに分け与えられた。いわゆる「祈りの心が神のみもとに届けば、捧げものは人がいただく」というところだ。
 夜明けになると、乾清門では宦官のあの甲高い声でこう伝えられる。「大人がたに肉をお召し上がりいただきます───」。こうしてすべての侍者を坤寧宮の入り口に呼び集めて肉を分けるのだ。宦官が朱塗りの鉢を運んでくると、そこにはきれいに切り整えられた肉がのせられ、塩がまいてあり、それを直接手で持って食べることになっていた。大臣たちにも肉を食べる機会があり、清末の瞿鴻機が宮中での見聞を記した『儤直紀略』の記載によれば、「毎年坤寧宮では肉を三度いただき、宮中の臣下たちはみな加わった」という。貝勒(ベイレ)(貴族)や大臣たちがこの白煮肉(パイジューロウ)を食べる際には「晶飯を吃する」と雅やかに表現した。食べ方も侍者たちと比べて文雅で、小刀で肉を薄片に切って碗の中に入れ、樺の樹の箸で食べる決まりであった。
 もともと坤寧宮の大鍋で肉を煮る際には調味料を加えなかった。やがてこの原始的な食べ方は、遊牧生活に別れを告げて終日豪奢な衣装をまとい、豊かな食事を口にするようになった王侯や大臣たちからすると、吞み下すのにも苦労するものになっていた。そこで誰ともなくある方法が考え出された。上等の醤油を浸した「油紙」と呼ばれる紙を用いるのだ。白煮肉が運ばれてくると、彼らはこの紙を取り出し、小刀と碗を拭うふりをして味をしみ出させた。これで肉をうまい醤油につけたのと同じことになるわけで、ずいぶん食べやすくなった。iii

 と言うわけで、崔岱遠 著/川浩二 訳『中国くいしんぼう辞典』みすず書房 にはこうあります。ドラマの中では祖宗の苦難を忍ぶ儀式に塩を持ち込むなんて…って感じでしたが、清末にもなるとすでに塩で味付けしてあったり、紙に醤油しみこませて誤魔化したみたいですね。
 

坤寧宮

坤寧宮扁額 2008/11/23撮影

 と、一旦和書を離れて漢籍を確認すると、こんな感じです。

派吃跳神肉及聽戲王大臣
 定制,大內於元旦次日及仲春、秋朔,行大祭神於坤寧宮,欽派內外藩王、貝勒、輔臣、六部正卿祭神。上面北坐,諸臣各蟒袍補服入,西響神幄行一叩首禮畢,復向上行一叩首禮,合班席坐,以南爲上,蓋視御座爲尊也。司俎官捧牢入,各實銀盤,膳部大臣捧御用俎盤跪進,以髀體爲貴。司俎官以臂肩臑骼各盤設諸臣座前,上自用御刀割析,諸臣皆自臠割,遵國俗也。食畢賜茶,各行一叩首禮。上還宮,諸臣以次退出。是晚,各賜糕餈酏□iv,各攜歸邸。至上元日及萬壽節,皆召諸臣於同樂園聽戲,分翼入座,特賜盤餐肴饌。於禮畢日,各賜錦綺如意及古玩一二器,以示寵眷焉。v

 まずはこういうことは大抵書いてある随筆《嘯亭雑録》を調べたら案の定、記述がありました。著者の礼親王昭槤の活躍した嘉慶年間には正月二日と仲春、秋朔に坤寧宮で大祭が行われ、その儀式で皇帝自ら煮豚を諸臣に切り分け配るのは清朝の旧習であると書かれていますね。肉を食べた後はお茶を下賜されて、臣下がお辞儀をした後皇帝はその場を立ち去り、参加者は糕…つまりケーキの類いをお土産に貰ったようですね。割と他の文章でも糕は出てくるんで、セットで参加者に配っていたようです。

 で、《嘯亭雑録》のもう一カ所にもこの儀式についての記述があったのでついでに…。

貴臣之訓
 定例,坤寧宮祭神胙肉,皆賜侍衛分食,以代朝餐,蓋古散福之意。有貴臣領侍衛者,因訓其屬曰:「居家以儉爲要,君等朝餐既食胙肉,歸家慎勿奢華,晚間惟以糟魚醬鴨啖粥可也。」某侍衛應曰:「侍衛家貧,不能購此珍物。」某公乃語塞。其生長富貴不知閭巷之艱難若此,可知「何不食糜」之言,洵非虛也。又誡同族少年曰:「在外慎勿胡亂行走。」少年性黠,因故爲不解狀,某公赧顏良久曰:「所謂嫖妓等事是矣。」少年曰:「我輩外間皆名宿娼也。」一堂哄然。vi

 ザッと言うと、侍衛にも肉は分けられたと。で、これを朝ご飯の代わりとして、昔は福を散じると言う意味があったと。で、これから会話形式になっているんですが、その侍衛の主人たる貴人が侍衛に言うには、その肉を食べた後に帰宅して豪華な食事を取っては成らない、夕食には糟魚(山東省の魚の発酵食?)、鴨の味噌漬け?や淡いお粥など(粗末な食べ物)なら良いだろう…と。侍衛は家は貧しくてそのような珍奇な食べ物は買えません!と…云々。と言うわけで、侍衛に任命されるくらいの人にとってはむしろご馳走だったってことですかね…。

 で、更にこういうネタはとりあえず当たっておけと言う《養吉齋叢錄》を調べたらやっぱり記述がありました。

 坤寧宮,廣九楹。每歲正月、十月祀神於此,賜王公大臣喫肉。至朝祭、夕祭,則每日皆然。宮內西大炕,供朝祭神位;北炕,供夕祭神位。朝以寅卯,夕以未申。祭均用,並設香碟、淨水及糕。糕以黃荳、稷米爲之。朝則司祝擎神刀,誦神歌,三弦琵琶和之以致祝,遂進牲。夕則司祝束腰鈴,執手鼓,鏘步誦神歌以禱,鼓拍板和之,亦進牲。撤香灶、燈火,展背燈青幕,眾退出,闔戶。司祝振鈴誦歌四次致禱,所謂背燈祭也。既乃卷幕開戶,明燈撤供。朝祭神爲釋加牟尼佛、觀世音菩薩、關聖帝君,夕祭神爲穆哩罕神、畫像神、蒙古神,而祝詞有阿琿、年錫、安泰阿雅喇、穆哩穆哩哈、納丹岱琿、納爾琿 軒初、恩都哩僧固、拜滿章京、納丹延瑚哩、恩都蒙鄂樂、喀屯諾延諸號,中惟丹岱琿爲七星之祀。其喀屯諾延,即蒙古神,以先世有德而祀,餘無可考。又背燈祭,四時獻鮮,春雛雞,夏鵝,秋魚,冬雉。凡祭神供獻之際,撒麻以清語告神。俗謂撒麻太太,即舊會典贊祀女官長、贊祀女官類也。又司香婦長、司香婦、掌爨婦、碓房婦等,皆只承祀事者。又滿洲富貴之家,每歲祭神,亦有背燈祭。
 坤寧宮每日祭神及春秋立竿大祭,皆依昔年盛京清寧宮舊制。凡聖駕東巡盛京,亦必於清寧官舉祀神禮。
按:嘉慶丙辰,內禪以後,仁宗仍居毓慶宮,故即在毓慶宮立竿祀神,並在宮中行祀灶諸禮。vii

 《養吉齋叢録》の著者、呉振棫昭槤と同時代人ですが、昭槤より20才年少です。『紫禁城』の儀式に関する記述は結構ここから引用されてますね。ただ、こちらでは坤寧宮の大祭は正月と十月とされています。正月二日と仲春、秋朔の年3回としている《嘯亭雑録》の記述とはちょっと違いますね…。気にはなりますが調べようがないのでここは放置して次に行きましょう。

 で、『紫禁城』には阿瑪尊肉という記述があるのに《嘯亭雑録》と《養吉齋叢録》にはかけらもないのが気になったので調べてみると、阿尊肉と言う記述が《竹葉亭雜記》という随筆にあることが分かりました。著者である姚元之昭槤より10才年下で呉振棫の10才年上という感じでちょうど真ん中くらいの年かさです。皆さん年齢はそれぞれ10才くらい違うわけですが、同時代人ですね。

跳神,滿洲之大禮也。無論富貴士宦,其內室必供奉神牌,只一木版,無字。亦有用木龕者,室之中西壁一龕,北壁一龕。凡室南向、北向,以西方為上;東向、西向,則以南方為上。龕設於南,龕下有懸簾幃者,俱以黃雲緞為之。有不以簾幃者。北龕上設一椅,椅下有木五,形若木主之座。西龕上設一杌,杌下有木三。春秋擇日致祭,謂之跳神。其木則香盤也。祭時,以香末灑於木上燃之。所跳之神,人多莫知,遂相以為祭祖。嘗與嵩觀察齡、伊孝廉克善詳言之。南方人初入其室,室南向者多以北壁為正龕,西為旁龕;東向則以西壁為正龕,南為旁龕。不知所謂旁龕,正其極尊之處。始悟《禮》所謂以西方為上,南方為上,與此正合。極尊處所奉之神,首為觀世音菩薩,次為伏魔大帝,次為土地。是以用香盤三也。相傳太祖在關外時,請神像於明,明與以土地神。識者知明為自獻土地之兆,故神職雖卑,受而祀之。再請,又與以觀音、伏魔畫像。伏魔呵護我朝,靈異極多,國初稱為『關瑪法』。『瑪法』者,國語謂祖之稱也。中壁所設,一為國朝朱果發祥仙女,一為明萬曆帝之太后,關東舊語稱為『萬曆媽媽』。蓋其時明兵正盛,我祖議和,朝臣執不肯行,獨太后堅意許可,為感而祀之,國家仁厚之心亦云極矣。余則本家之祖也。其禮,前期齋戒。祭用豕,必擇其毛純黑無一雜色者。及期未明,以豕置於神前。主祭者捧酒尊而祝之,畢,以酒澆入豕耳,豕動則吉。若豕不動,則復叩祝,曰:齊盛不潔與,齋戒不虔與,或將有不吉,或牲毛未純與。下至細事一一默祝,以牲動為限,蓋所因為何,祝至何語而牲動矣。其牲即於神前割之,烹之。煮豕既熟,按豕之首、尾、肩、脅、肺、心排列於俎,各取少許,切為釘,置大銅碗中,名『阿嗎尊肉』,供之,行三跪、三獻禮。主祭者前,次以行輩排列,婦女後之,免冠叩首有聲。禮畢,即神前嘗所供阿嗎尊肉,蓋受胙意也。至晚,復獻牲如晨禮,撤燈而祭,其肉名『避燈肉』。其禮,祭神之肉不得出門,其骨與狗。狗所余骨,則夜中密棄之街,看街者即為埋之,亦有焚為灰而埋者。惟避燈肉則以送親友雲。舊禮,舍外一見祭室竈煙起,不論相識與否,群至賀,席地坐,以刀割肉自食。後漸以主人力不足供眾,遂擇請親友食肉矣。其日,炕上鋪以油紙,客圍坐,主家仆片肉於錫盤饗客,亦設白酒。是日則謂吃肉,吃片肉也。次日則謂吃小肉飯,肉絲冒以湯也。其所謂阿嗎尊肉,初不以食客,意謂此不可令客食也,然亦有與客食者。蓋主家人多,當其自嘗尚不足,故不能食客。若主家人少,自嘗有餘,又恐棄之,故以食客。初非秘不與客也。客食畢不謝,唯初見時道賀而已。客去,主人亦不送。又主屋院中左方立一神桿,桿長丈許。桿上有錫鬥,形如淺碗。祭之次日獻牲,祭於桿前,謂之祭天。舊有祝文,首句云『阿布開端機』。國語『阿布開』,天也;『端機』,聽也。謂曰天聽著。下文為『某某設祭』云云。今多不用祝文,唯主祭者默自口祝而已。又覺其文首句詞氣闊大,其祝時多亦不用此,首句但言『某某今擇於某月日獻牲設祭』。是祭也,男子皆免冠拜,婦人則不與。其錫鬥中切豬腸及肺肚生置其中,用以飼烏。蓋我祖為明兵追至,匿於野,群烏覆之。追者以為烏止處必無人,用是得脫,故祭神時必飼之。每一置食,烏及鵲必即來共食,鷹從未敢下,是一奇也。錫鬥之上、桿梢之下,以豬之喉骨橫銜之。至再祭時,則以新易舊而火之。祭之第三日換鎖,換鎖者,換童男女脖上所帶之舊鎖也。其鎖以線為之。舊禮,生人後乞線於親戚家為之作鎖。今不復乞線,但自買線為之。線用藍、白二色,亦有用紅、黃者,聚為粗線作圈。線頭合處結一疙疸,結處翦小綢三塊縫其上。舊例,上次祭時所帶,必至下次祭時始換之。今多只帶三日即取而藏之,下次祭時再帶之以俟換。其換鎖之儀,用箭一枝,搭扣處系以細麻及新鎖。院中神桿旁別置小桿,桿上紮柳枝一束,柳上翦白紙作垂綏二以系之。神座木版前有一釘,用黃絨繩一條,其繩極長,一端掛於釘上,一端牽於門外,系之柳枝上。令帶鎖者群聚圍座一處。主祭者持箭,以麻縷新鎖繞於香煙上,然後取一細縷搏於帶鎖者之懷。置已遍,復繞於煙,每繞一度,懷麻縷一度。如是者三,然後換新鎖。其舊鎖即系於所牽之黃繩上。自國初以來,所易者均在,若有以午久朽壞者,始取而焚之。神座前,平時每掛一黃布袋,即用以貯黃繩者也。當祭時開袋取繩,祭畢仍貯之懸於神前。其帶鎖,男子至受室、女子至於歸後始止。每換鎖時,有祭品一席,撤供即置於帶鎖者圍座處,群爭攫而食之。其未受室、於歸者,雖年二十餘,亦行此禮,亦與群兒攫食,蓋受福之意也。viii

 ちょっと手元に本がないのでアレですが、かなり記述が詳しいですね。皇族である昭槤より詳しいのナンなのよ…とは思いますが、長すぎるのでとりあえず上げるだけにしておきます。萬曆媽媽とか気になりますけど。

 ただ、この阿嗎尊肉嘉慶年間に活躍した3人の随筆からは不味い肉という感想はあんまり見られません。それどころか、むしろ当時としてはやはりご馳走だったのでは?という記事も先に引用した『中国食いしんぼう辞典』にあるので、引用しておきます。

 白煮肉を食べる習俗は宮中だけではなく各王府にもあり、食べきれない肉は下働きのものたちに下し渡された。乾隆六年(一七四一年)、定親王府に雇われていた夜回りの男が王府近くの缸瓦市(ガンワーシー)に食堂を開き、特大の砂鍋(土鍋)で煮た白煮肉の専門店にした。彼は伝統的なやり方改良を加えて大衆の味覚にあわせたために、商売はたいそう繁昌した。やがて時がたち、客は店を「砂鍋居(シャーグオジュー)」と呼ぶようになった。ix

 と言うわけで、ちょっとアレンジを加えれば市井の人気店になってるあたり、当時としてはあまり不味い部類ではなかったのではないかと思うんですよね…。《清宫述闻》あたりとツラツラ見ても、下賜用の阿嗎尊肉を横領して市井に売っていた宦官の話が出てくるので、そう不味い肉ではなかったのではないかと。
 時代が経つにつれて、儀式自体がないがしろにされてる感じもしますが、《清宫述闻》を読むと慈嬉太后西太后の時代にも坤寧宮の儀式を当日キャンセルした大臣が、翌日ものすごい勢いで慈嬉太后に怒られたという逸話も載っているので、重要な年中行事の儀式としては清末までは命脈を保ったようです。
 もっとも、堂子での儀式とセットだったようなんで、肉をみんなに分ける儀式…というよりマンジュとしての風習を思い出すための伝統的な儀式という側面は強かったようですが。

坤寧宮煙突 2008/11/23撮影


 で、ついでなので、ドラマ《延禧攻略》ではこの儀式でとばっちりを受けていた、怡僖親王弘暁についてもちょっとだけ。
 と言いながら、かの高名な怡賢親王十三阿哥胤祥の後継者の割に、史書での記述は多くありません。《清史稿》の怡賢親王允祥伝ではこんな感じです。

子弘曉,襲。乾隆四十三年,薨,諡曰僖。x

 胤祥の後継者であることと乾隆43(1778)年に薨去したこと、諡号が僖であったことしか記述がありません。《八旗通志》初集、《清史列傳》には怡賢親王から襲爵したことのみで《清史稿》の記事と内容はさして変わりません。欽定《八旗通志》には記載もないですね…。
 それではなんだからと、人名權威資料查詢を検索してみたら、ちょっとは詳しい記事が出てきました。《中國歷代人名大辭典》の引用だそうで…。

弘曉,清宗室,字秀亭。怡賢親王胤祥之子(後避諱,改允),襲怡親王爵。嗜典籍,建藏書樓九楹,名「樂善堂」。乾隆間《四庫》館開,各地藏書家均進呈藏書,惟「怡府」未進呈,其中善本、珍本甚多。

 どうやらかなりの蔵書家だったようですが、《四庫全書》編纂作業の時には全く協力しなかったと言うことのようですね。それはそれでドラマティックなんではないかと思うんですが、ドラマのようなクソ野郎ではなさそうですし、乾隆6年当時に問題起こして革職されたというわけではさそうです。ちなみに乾清門侍衛だったという記述もあるようですが時期も不明で、少なくとも乾隆6(1741)年当時は正白旗漢軍都統だったようなので、ドラマのように不遇を恨んだりはしそうにないですね…。まぁ、娴妃の父・訥爾布(ノルブ?)は検索するだに官位が引っかからないので、都統だったかすら怪しいんですけどね…。

◇参考文献
入江陽子『紫禁城─清朝の歴史を歩く』岩波新書
崔岱遠 著/川浩二 訳『中国くいしんぼう辞典』みすず書房
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
呉振棫《養吉齋叢録》中華書局
章乃炜等 编《清宫述闻》紫禁城出版社

  1. 原文ママ
  2. 『紫禁城』P.56~57
  3. 『中国くいしんぼう辞典』P.58
  4. [齋の上部/酉]
  5. 《嘯亭續錄》巻1 派吃跳神肉及聽戲王大臣
  6. 《嘯亭續錄》巻3 貴臣之訓
  7. 《養吉齋叢錄》卷7
  8. 《竹葉亭雜記》巻3
  9. 『中国食いしんぼう辞典』P.59
  10. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 聖祖諸子 怡賢親王允祥 附伝

延禧攻略の小ネタ5 御花園の皇族

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 と言うわけで《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を相変わらずツラツラと見ています。今回は23集に出てきた乾隆年間皇族を纏めておこうかと。

 で、まずはこのドラマのキ-マンである和親王弘昼ですね。五阿哥と言われるからには雍正帝のすぐ下の弟でずいぶん親しかったようですね。

 和恭親王弘晝,世宗第五子。雍正十一年,封和親王。十三年,設辦理苗疆事務處,命高宗與弘晝領其事。乾隆間,預議政。弘晝少驕抗,上每優容之。嘗監試八旗子弟於正大光明殿,日晡,弘晝請上退食,上未許。弘晝遽曰:「上疑吾買囑士子耶?」明日,弘晝入謝,上曰:「使昨答一語,汝虀粉矣!」待之如初。性復奢侈,世宗雍邸舊貲,上悉以賜之,故富於他王。好言喪禮,言:「人無百年不死者,奚諱為?」嘗手訂喪儀,坐庭際,使家人祭奠哀泣,岸然飲啖以為樂。作明器象鼎彝盤盂,置几榻側。三十年,薨,予諡。i

 《清史稿》に載ってる記事からしていきなりカンニング疑惑であるあたりからして、なんだか残念な感じがしますね。100年後に生きている人間なんて居らぬワイ!と言って生前葬を行ったことも書かれてますね。ゲラゲラ笑ったかどうかは書かれてませんが、家人が葬式をする様子を見ながら飲食して楽しんだとはありますね…。あぐらかいて笑ってたと言われてもあんま違和感がありません。
 で、この記事の元になったとおぼしき記事が《嘯亭雜録》にあります。

和王預兇
和恭王諱弘晝,憲皇帝之五子也。純皇帝甚友愛,將憲皇所遺雍邸舊貲全賜之,王故甚富饒。性驕奢,嘗以微故,毆果毅公訥親於朝,上以孝聖憲皇后故,優容不問,舉朝憚之。最嗜弋腔曲文,將琵琶、荊釵諸舊曲皆翻爲弋調演之,客皆掩耳厭聞,而王樂此不疲。又性喜喪儀,言人無百年不死者,奚必忌諱其事。未薨前,將所有喪禮儀注皆自手訂,又自高坐庭際,像停棺式,命護衛作供飯哭泣禮儀,王乃岸然飲啖以爲樂。又作諸紙器爲鼎、彞、盤、盂諸物,設於幾榻以代古玩。余嘗睹其一紙盤,仿定窯式而文緻過之,宛然如瓷物,亦一巧也。及王薨後,其子孫未及數年相次淪謝,亦預兇之兆所感應也。ii

 雍正年間皇帝の別宅扱いだった旧雍王府=後の雍和宮乾隆帝から下賜されたので頗る裕福だったとか、性格は驕慢でちょっとしたことで朝廷でネチン(訥親 Necin)を殴りつけたものの乾隆帝生母である孝聖憲皇后の取りなしで不問に付されたので、朝廷では恐れ憚ったとか何とか。ネチンの話は流石にないだろうと思ったら、時期は不明ながらも元ネタありましたね…。もっとも、当時ネチン吏部尚書だったハズなので、軍機大臣では盛りすぎですね…。ともあれ、《嘯亭雜録》の作者・昭槤乾隆41(1776)年生まれで、乾隆30(1765)年に薨去した弘昼とは面識がないはずですが、まぁ、ケチョンケチョンですね…。ただ、音楽はかなりの腕前だったり、生前葬に使用した紙で模倣した陶製の礼器はなかなかのもんだったと評していますが、和親王家礼親王家でなんかトラブルでもあったんでしょうかねぇ…。

 ついでなので、茶会に出席していた他の皇族も紹介しておきます。
 まず、乾隆帝のもう一人の弟・弘曕から。康煕50(1711)年生まれの乾隆帝雍正11(1733)生まれの弘曕は20以上も年の離れた弟になります。圓明園で養育されたため、圓明園阿哥と称されたとかなんとか。乾隆帝皇長子永璜雍正6(1728)年生まれですから、甥より若い叔父に成るわけで、宮中で乾隆帝の皇子たちと共に育ったと言う話も納得出来ますね。

 果毅親王允禮,聖祖第十七子。(中略)無子,莊親王允祿等請以世宗第六子弘曕為之後。
 弘曕善詩詞,雅好藏書,與怡府明善堂埒。御下嚴,晨起披衣巡視,遇不法者立杖之,故無敢為非者。節儉善居積,嘗以開煤窰奪民產。從上南巡,囑兩淮鹽政高恆鬻人葠牟利,又令織造關差致繡段、玩器,予賤值。二十八年,圓明園九州清宴災,弘曕後至,與諸皇子談笑露齒,上不懌。又嘗以門下私人囑阿里袞。上發其罪,並責其奉母妃儉薄,降貝勒,罷一切差使。自是家居閉門,意抑鬱不自聊。三十年三月,病篤,上往撫視。弘曕於臥榻間叩首引咎,上執其手,痛曰:「以汝年少,故稍加拂拭,何愧恧若此?」因復封郡王。旋薨,予諡。iii

 その後、弘曕は叔父である果親王允禮が無子のまま薨去したので、果親王家を継承しています。どうせなら、果親王允禮をこのお茶会で登場させても良かったと思いますが…。
 弘曕は詩詞に長けており、また蔵書家としても有名で怡親王弘暁明善堂に匹敵するほどの量を誇っていたようです。ただ、乾隆28(1763)年には兩淮鹽政高恆との癒着や、窯元を強引な手段で開いて民間の窯元を圧迫したことでベイレに降爵の上、職務を剥奪されてますね。その後、乾隆30(1765)年、重病のため郡王に進爵したもののそのまま薨去。むしろ、ドラマの中の怡親王のモデルなんではって感じですが…。

堆秀山御景亭

堆秀山御景亭 2008/11/23撮影

 で、十二叔と言われていた履親王允祹ですね。謎の多い人物で、オロス佐領率いたり、順治帝生母の孝荘文皇后の侍女・スマラ姑に養育されたとか、色々興味が尽きません。

 履懿親王允祹,聖祖第十二子。康熙四十八年十月,封貝子。自是有巡幸,輒從。五十六年,孝惠章皇后崩,署內務府總管事務,大事將畢,乃罷。五十七年,辦理正白旗滿洲、蒙古、漢軍三旗事。六十年,上以御極六十年,遣允祹祭盛京三陵。六十一年,授鑲黃旗滿洲都統。世宗即位,進封履郡王。雍正二年,宗人府劾允祹治事不能敬謹,請奪爵,命在固山貝子上行走。二月,因聖祖配享儀注及封妃金冊遺漏舛錯,降鎮國公。八年五月,復封郡王。高宗即位,進封履親王。乾隆二十八年七月,薨,予諡。iv

 とは言え、乾隆年間管理宗人府事務として大祭を代行するくらいしか実録にも記載ないです。ドラマの中で怡親王の現状を説明しているのが管理宗人府事務を踏まえてのことならなかなかなもんなんですが。

 で、慎郡王允禧です。

 慎靖郡王允禧,聖祖第二十一子。康熙五十九年,始從幸塞外。雍正八年二月,封貝子。五月,諭以允禧立志向上,進貝勒。十三年十一月,高宗即位,進慎郡王。允禧詩清秀,尤工畫,遠希董源,近接文徵明,自署紫瓊道人。乾隆二十三年五月,薨,予諡。v

 詩作や工画に優れて五代宋初董源明代文徵明に私淑した…と。文人皇族の走りと言っていい経歴の人物です。

 最後に平郡王福彭ですが…。なんでこの人引っ張ってきたのかなぁという唐突さがありますね。

 平敏郡王福彭既襲爵,授右宗正,署都統。(雍正)十一年,命軍機處行走。授定邊大將軍,率師討噶爾丹策零。師次烏里雅蘇臺,奏言:「行軍,駝馬為先。今喀爾喀扎薩克貝勒等遠獻駝馬,力請停償直。彼不私其所有,而宗室王、公、貝勒皆有馬,豈不內媿於心?臣有馬五百,願送軍前備用。」十二年,率將軍傅爾丹赴科布多護北路諸軍。尋召還。十三年,復命率師駐鄂爾坤,築城額爾德尼昭之北。尋以慶復代,召還。乾隆初,歷正白、正黃二旗滿洲都統。十三年,薨,予諡。vi

 平郡王克勤郡王家の嫡流ですね。封号が改称されて平郡王になってますが、子の慶寧の代の乾隆43(1778)年に封号が克勤郡王に戻ります。ただ、他の皇族と違って雍正年間には定辺大将軍としてジュンガルガルダン・ツェリンとの紛争に参加したりと、武人寄りの経歴の持ち主ですね。なんで出てきたんだろ……。

参考文献・サイト
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
漢籍電子文獻資料庫
人名權威資料庫
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫

  1. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 世宗諸子
  2. 《嘯亭雜録》巻6
  3. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 聖祖諸子
  4. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 聖祖諸子
  5. 《清史稿》巻220 列傳7 諸王6 聖祖諸子
  6. 《清史稿》巻216 列傳3 諸王2 太祖諸子1

延禧攻略の小ネタ6 孝賢純皇后

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 と言うわけで《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を相変わらずツラツラと見ています。今回は以前調べたことの追加…と、漢語版Wikipediaで皇后フチャ氏のモデルである孝賢純皇后の項とか魏瓔珞のモデルである魏佳氏の項目を見てたら、あの挿話も元ネタあるのかよ…というのが何個かあったので、纏めました。

 まず、遮陰侯の話ですね。前回発見出来なかった遮陰侯の文章を何個か見つけたのでメモを。

〈探海侯〉とは北海公園の団城内にある西に向かって曲がりくねった一株の古松である。その枝先は城壁の姫垣を掠めて下に傾き、あたかも太液池の広々としたさざ波を見下しているかのようなので、乾隆帝が〈探海侯〉の名を与えた。さらに団城の承光殿の東側の古柏には〈遮陰侯〉、その傍らの二株の白松には〈白袍將軍〉の称号を与えた。現在〈探海侯〉はすでにないが、二株の〈白袍將軍〉はうち一株が、また〈遮陰侯〉は健在である。i

 まずは北京の風俗画集である『燕京風俗』の解説パートに遮陰侯が出てきますが、白袍将軍はともかく探海侯とか初耳なんですが、ともかく書籍で遮陰侯の記述を発見出来ました…まぁもっとも1980年代出版の本なんで、この頃にはこの伝説は定番になっていたと言うところでしょうかね…。

 で、前に調べた時には遮陰侯北海に生えてるから、御花園にはないやろ!とか、古栝はアブラマツだからではないのでは?と思ったんですが、どうやら元ネタになるような記事もあったようです。

擒藻堂院壁、恭刻高宗純皇帝聖製御花園古柏行。石上恭刻皇上御製古柏詩。
 古柏布清陰、悲含寸草心。先皇遺澤厚、雨露億年深。ii

 と言うわけで、嘉慶年間勅撰の《國朝宮史續編》に御花園擒藻堂の記事があります。ついでに言えば《清宫述闻》に解説があるので引用してみましょう。

 按:皇上、清嘉庆帝也。高宗《古柏行》首四句:“擒藻堂边一株柏、根盘厚地枝擎天。八千春秋仪传说、厥寿少当四百年。”(古柏今尚存。)梁诗正《矢音集・恭和元韵》首四句云:”承光殿前有古栝、曾经丽藻垂九天、御花园柏更奇矫、长歌复作识岁年。”(承光殿在团城内、古栝今尚存。)iii

 御花園にある擒藻堂の壁には乾隆帝の《古柏行》が刻まれている…と、で、詩に詠まれた古柏はまだ《清宫述闻》の記述当時にはまだ健在だったと。乾隆年間の大臣である梁詩正の著作《矢音集恭和元韵の項で乾隆帝御製の詩ivを紹介しているようです。曰く、承光殿の前には古栝があり、御花園は更に趣があった…と。遮陰侯伝説のある古栝御花園古柏乾隆帝の同じ詩の中で詠まれていると。恐らくこの辺りがドラマの霊柏の元ネタなんでしょうね…というかこんなの調べてたのかよ!

 更に、先の堆秀山に隣接する擒藻堂近くに生えていたようですね。で、堆秀山というとドラマでは9月9日の重陽の日に皇太后を招いて各后妃が宴会開いた御景亭のある場所なんですが、割とガイドブックではそういう紹介の仕方をされているんですが、《國朝宮史》にも《日下舊聞考》にも《國朝宮史續編》にも出てこないのでホンマかいなと思っていたんですが…。

堆秀山
 【初】叠石为嵩山、山正中有石洞、旧门额曰:堆秀。左侧恭镌高宗纯皇帝御笔”云根”二字。山巓有亭曰:御景亭。(《国朝宫史续编》)
按:堆秀山、明曰堆绣山、万历间拆去观花殿、叠石为之。
又按:乾隆帝《赋御花园花朝》诗有”堆秀山前景物芳”之旬。
九月九日、前清帝王、皇后、妃嫔登高、在御花园之堆秀山。(《帝京岁时纪胜笺补》稿本)
按:清嘉庆帝有《登堆秀山歌》。山南有一轩、矮而小、内壁以竹嵌成、极精雅、额曰:禊赏。v

 と、またも《清宫述闻》に記述があるんですね。引用されている《帝京歳時紀勝箋補》は今ひとつどういう本なのかは調べが付かなかったんですが、”前清“と書いているからには民国以降の著作だと思われるので、信憑性と言う面では眉唾ですかねぇ…。正直そんなに広いように見えないので、入れて精々4~5人くらいな物だと思いますが。

御景亭後景 2001年03月22日撮影

 で、続いて皇后娘々のネタに…。序盤の瓔珞がまだ繍房に居た頃、任された皇后娘々の誕生日祝いに新調する礼服に使用する孔雀糸を盗まれて、鹿尾の毛糸で袖に刺繍したことがありましたが…。元ネタあるんですね…。

朕讀皇祖御製清文鑑知我國初舊俗、有取鹿尾氄毛緣袖以代金線者、蓋彼時居闗外、金線殊艱致也。去秋塞外較獵、偶憶此事、告之先皇后、皇后即製此燧囊以獻、今覽其物、曷勝悼愴、因成長句、以誌遺徽。練裙繒服曽聞古、土壁葛燈莫忘前。共我同心思示儉、即茲知要允稱賢。鉤縚尚憶椒闈獻、縝緻空餘綵線連。何事頓悲成舊物、音塵滿眼淚澘然。vi

 と、こんなことでもない限り紐解かない《清高宗御製詩》二集に納められた詩にはこんな感じのことが書いてあります。適当に訳すと、乾隆帝清文鑑を読んでいたところ、清朝入関前の旧俗として(礼服は)金糸の代わりに鹿尾の毛糸で袖を刺繍されていたと、清朝が関外に居た頃は金糸は大変貴重だったのだと。かつて秋に塞外に出猟した際に偶々この事を先の皇后(=孝賢純皇后)に話したところ、皇后は鹿尾の毛糸で装飾した嚢を作って乾隆帝に献上した云々と。元々、皇后乾隆帝からこのネタを聞いて、倹約の故事として気に入ったようですね。
 で、この手のネタの宝庫のお馴染み《嘯亭續録》にもやはり記事がありました。

純皇后之賢德
 孝賢純皇后富察氏,文忠公之姊也。性賢淑節儉,上侍孝聖憲皇后,恪盡婦職。正位中宮,十有三載,珠翠等飾,未嘗佩戴,惟插通草織絨等花,以爲修飾。又以金銀線索緝成佩囊,殊爲暴殄用物,故歲時進呈純皇帝荷包,惟以鹿羔[毛蒙][毛戎]緝爲佩囊。仿諸先世關外之製,以寓不忘本之意,純皇每加敬禮。後從上東巡,崩於德州舟次。純皇帝深爲哀慟,故於文忠父子恩寵異常,實念后之德也。vii

 ここでも、孝賢純皇后の美談として紹介されていますね。曰く、宮中に皇后として13年在位しながら、宝玉のついた装飾を身につけたことがなく、草花を用いて装飾していたと。また、金糸や銀糸を使った嚢は贅沢だとして、鹿尾の糸を使った嚢を使っていた。これは関外の頃に使われていたものの模倣品だといい、倹約の心を忘れぬようにと身につけておられたと云々。
 元ネタは確かに礼服の袖を鹿尾の毛糸で刺繍したという話のようですが、どうやら、孝賢純皇后が鹿尾の毛糸を使ったのは礼服の袖ではなくて、巾着か匂い袋の刺繍としてのようですね…。女官の才知を皇后娘々が褒めると言った筋でもないわけですが…。

 また、ドラマでは乾隆帝が病にかかった際に、皇后娘々が看病する話が出てきましたが、似たような話が残ってるようですね…。

孝賢皇后
阿文成公云:「純聖壯年,曾患癤,甫愈,醫云:須養百日,元氣可復。孝賢皇后聞知,每夕於上寢宮外居住奉侍,百日滿後,始回宮。」viii

 文正公アグイ(agūi 阿桂)はかつて「乾隆帝が壮年の頃、おでき(?皮膚疾患?)を患ったが中々癒えなかった。医者が言うには、百日も療養すれば回復するという。孝賢純皇后はこれを伝え聞くと、毎夕乾隆帝の寝宮の外に待機して、百日たった後にようやく自分の宮殿にお戻りになった。」と語った。と言うわけで、そう言えばドラマには出てきてないアグイが語るというかたちの逸話ですが、これが載っている《郎潛紀聞》って光緒年間に成立しているので、結構後になってからの記録ですね…。まぁ、何にしても皇后娘々乾隆帝を甲斐甲斐しく看病するという逸話はすでに清代にはあったと言うことになりますかね。

 あと、魏瓔珞のモデルである魏佳氏が元は孝賢純皇后の付き人であったという話ですね。

孝賢皇后陵酹酒
那能恝爾去、仍趁便而來。
言念曽齊案、奚堪更酹杯。
草猶逮春緑、松不是新栽。
舊日玉成侣、依然身傍陪。
註:令懿皇貴妃爲今皇后斫教養者並附地宫。ix

 探すのに苦労する《高宗御製詩》の四集にありました(辛い)。まぁ…詳細は省きますが、乾隆帝の自注で一応そのことに触れられています。まじかぁ…。

参考文献・サイト
画 王羽儀/題詩 端木蕻良/監修 内田道夫/解説 臼井武夫『燕京風俗』東方書店
慶桂 等編纂《國朝宮史續編》北京古籍出版社
章乃炜 等編《清宮述闻》故宫出版社
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
漢籍リポジトリ 御製詩集
维基文库郎潛紀聞二筆九巻

  1. 『燕京風俗』P.2-56~2-57
  2. 《國朝宮史續編》巻55
  3. 《清宫述闻》P.546
  4. 《矢音集》巻8⇒恭和扁製御花園古柏行元韻
    承光殿前有古栝曾經一麗藻垂九天御花園柏更奇矯一長歌復作識歲生
  5. 《清宫述闻》P.545
  6. 《清高宗御製詩二集》巻4
  7. 《嘯亭續録》巻1
  8. 《郎潛紀聞二筆》巻9
  9. 《御製詩四集》巻35

黄馬掛その2

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 先日、珍しく過去に書いた記事黄馬掛にコメントをいただきました。

馬掛けの下の着ている裾の長い衣服は片方に継ぎ目がある使用なのでしょうか??

 うん?継ぎ目?なんだろそれ…とコメントだけ読んでも全く理解出来ませんで、とりあえず当該記事の当該画像を確認して見ました。

《李鴻章克復蘇州戦図・李鴻章像》(部分)i

 うお、今まで全く気がつかなかったけど、ホンマに右膝の辺りにツギハギあるやん!確かになんやこれ!絵だけでは何なので、写真を見てみましょう…。

黄馬掛を着た醇親王・奕譞(中)と李鴻章(右)、善慶(左)。ii


 手元にあった写真集をパラパラ見たところ、やっぱり右膝の辺りにツギハギがありますね。おおマジか…。
親王

馬上の醇親王・奕譞iii


 モデルが醇親王奕譞にバトンタッチしてますが、やはり右膝のあたりにツギハギが見えます。絵画だけの問題じゃ内容ですねこりゃ…。白黒写真で見るとかなり黒く写ってますが、Wikipediaの李鴻章の項を見ても写真では黄馬掛は黒っぽく映るようです。

 で、とりあえず官僚の服装を確認する時にはやはり《大清會典》ではないかと検索掛けてみたんですが、黄馬掛で検索してもヒットせず…。それならと、取りあえず李鴻章と時代が近いだろう光緒版の《大清會典圖》をペラペラ捲ってみたところ…ありましたよ。右膝にツギハギのある服。

皇帝行袍圖 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服

 こ、これや~!行服はどうも狩猟用の服みたいですね。木蘭行圍とかフォーマルな狩猟で着る服ってことですかね。ふむふむ。ついでに隣にあるキャプションを見るとこんな感じです。

皇帝行袍。制如常服袍。長減十之一。右裾短一尺。色及花丈随所御。緜袷紗裘惟其時。iv

 長袍の長さ一割減で右裾が一尺短くしてるよ、と確かに書いてますね。少なくとも、黄馬掛の下に着る長袍皇帝行袍をモデルにしていることは間違いないようです。なんですが、ちょっと問題も…。

皇帝行掛色用石青長與座齊袖長及肘緜袷紗裘惟其時。v

 行袍の上に羽織る行掛石青色を使うと書いてますね…。石青色は検索すると、黒みがかった藍色とのことで、少なくとも黄色ではなさそうです。まじか…。
 ちなみにこの光緒版《大清會典圖》の挿絵も、調べてみると元絵は《皇朝禮器圖式》にあるようです。編纂責任者は莊親王允祿で序文の日付は乾隆辛卯とありますので、乾隆36(1771)年成書ですかね。ということで、乾隆年間には行服はすでに規定されていたようです。ついでなんで皇帝行褂皇帝行袍の説明文を上げておきましょう。

皇帝行褂謹按本朝定制
皇帝行褂色用石青長與坐齊袖長及肘棉袷紗裘各惟其時

皇帝行袍謹按本朝定制
皇帝行袍制如常服袍長減十之一右裾短一尺色及花文隨所御棉袷紗裘各惟其時vi

 まぁほぼほぼ《大清會典圖》の説明はこれの引き写しですね。挿絵も全く同じです。ですが、行掛の色からすると、皇帝行服黄馬掛は直接イコールではなさそうですね…。ムムム。

 黄馬掛の色については行き詰まったので、漢語版Wikipediaの黄馬掛の項を見てみると、黄馬掛にも三種類あると書いてあります。曰く①行職褂子、②行圍褂子、③武功褂子と。ザッと内容読んでみると、①行職褂子皇帝が出御する際に側近である内大臣御前大臣御前侍衛がお供する際に着たユニフォーム的な衣装。②行圍褂子は狩猟の際に腕前が特に素晴らしい参加者に下賜されるトロフィー的な衣装。③武功褂子は特に著しい功績を挙げた者を顕彰する意味で下賜された勲章的な衣装…ということで、道光咸豐以降は武功を上げた者に下賜されることが多かったと言いますから、曾國藩左宗棠李鴻章の絵画に描かれた黄馬掛はこれに当たるでしょう。百度の黄馬掛の記事読むと、これに加えて④特使特赐として外交特使として派遣される官員に下賜されたともありますね。③との差異を定義するのは難しそうですが、Wikipediaの李鴻章の項にある写真光緒22(1896)年のロシアニコライ2世戴冠式出席時のヨーロッパ外遊のものでしょうから、それに当たりますかね。
 ただ、この辺り根拠となる史料が提示されていないので不安になってきました。この辺りまことしやかなこと書いてて小説みたいな記事多いんですよね…。

 でも、どうにも黄馬掛と言う単語が出てこないので、名称自体は後世の通称なのかしらと思っていたら、《嘯亭續録》に記述がありました…。

黄馬褂定制
 凡領侍衛内大臣,御前大臣、侍衛,乾清門侍衛,外班侍衛,班領,護軍統領,前引十大臣,皆服黄馬褂,凡巡幸,扈從鑾輿以為觀瞻。其他文武諸臣或以大射中侯,或以宣勞中外,上特賜之,以示寵異云。vii

 ほんま、昭槤はワイが疑問に思うようなことは大抵の事書いてるんやなぁ…(呆れ)。ともあれ、嘉慶年間では侍衛内大臣侍衛大臣侍衛乾清門侍衛外班侍衛班領護軍統領前引大臣などは皆、黄馬掛を着て、巡幸の際には皇帝の輿に扈従した(見栄えの良さも考慮した模様)。その他の文武諸臣はあるいは(木蘭行圍などで)獲物を射て命中させたり、狩猟中や狩猟後の功労に対して皇帝が特に下賜したもので、殊更寵愛を示したものだと言う…と。漢語Wikipediaで言うところの①行職褂子、②行圍褂子の内容の元ネタはこれのようです。

《康熙帝出巡図》(部分)viii


 絵画をパラパラ確認していたら、《康熙南巡図》あたりは巡幸する康熙帝の周りを黄馬掛を着た侍衛たちがビッシリと固めています。巧い感じの切り取りが出来なかったので、画像は《康熙帝出巡図》ですが、基本的にはこの絵のように巡幸に黄馬掛を着て従う侍衛=ボディーガードですね。他の絵で確認しても、右膝に継ぎ目が見当たらないので、常服ベースの黄馬掛なんだと思います。

 で、《嘯亭續録》ではサラッと書いてる狩猟時の褒賞としての黄馬掛についての記述はないのかと確認していたら、これまた清代の雑学的な紹介ではよく出てくるお馴染みの《養吉齋叢録》に記事がありました。《養吉齋叢録》の巻16は木蘭行圍について書かれているのですが、その中に黄馬掛についての記事があります。

《狩猟聚餐図》(部分)ix

八旗扈從官員馬褂,各按旗色,舊制也。日久漸弛。嘉慶六年,命隨圍之都統,毋庸按照旗色;副都統未賞黃馬褂者,俱按旗色服之。x

 どうやらは嘉慶年間は木蘭行圍の際には、八旗官員は都統は所属旗に応じた色の馬掛に固執する必要はないものの、副都統黄馬掛を下賜されていないものは、己の旗に応じた色の馬掛を着るように規定されて居たようです。となると、元々は冰嬉のように八旗官員は旗に応じた色の馬掛を着ていて、都統クラスは黄馬掛を下賜されているのが当然、副都統クラスでも下賜された人間の方が多かった…と言うことなんですかね。

《塞宴四事図》(部分)xi

圍場八旗分四正四隅。相距二、三十里不等,近者距六、七里。蓋有山者,始爲圍場,山大則禽獸多,山小則禽獸少,故遠近不能一致。凡進哨行圍,每日收圍後,路中諸蒙古獻禽者,分賞黃馬褂、孔雀翎。xii

 と、ここまでは黄馬掛がどういった理由で下賜されるのかは明確ではなかったのですが、ここでは、モンゴル諸公の参加者で猛禽類を献上した者がいたので、黄馬掛孔雀羽花翎を下賜されたと明記しています。狩猟の獲物を献上することでその成績を競って、特にいい獲物を献上したものに皇帝の狩猟衣装である黄馬掛を下賜したと考えれば、日本の戦国武将が巻き狩りで家臣に陣羽織を下賜するようなもんだったのかな…と、想像をしていたんですが、絵画資料を見るに、やはり皇帝行服行掛は《大清會典圖》の記述通り黒みがかった藍色…石青色で、皇帝そば近くに仕える侍衛行服黄馬掛だという事は一目瞭然ですね。となると、モンゴル諸公など気安く会えない臣下に側近の衣装を下賜した…と言うのが切っ掛けだと考えた方がすんなりいきそうですかね。自分は滅多に外には出さない従業員のユニフォームを土産にしちゃうような…インペリアルガードなりきりセットって感じなのかなと理解しました。

《乾隆帝一箭双鹿図》xiii


 で、探してみると乾隆年間にも黄馬掛があったようで、狩猟によって下賜されたことも明記されている記事も見つけたんですが…。また、詩の註なんですよね… xiv。ちなみに乾隆年間には黄馬掛ではなく黄掛若しくは黄褶と言ったようですxv木蘭行圍のようなフォーマルな狩猟では鹿を射た功績を賞されて、主宰者である皇帝から記念品かトロフィーとして黄褶花翎が下賜されていたようです。

行圍有賞黃馬褂者,隨圍則服之。常時不得服用。xvi

 しかし、木蘭行圍で獲得した黄馬掛は狩猟所の中でだけ着用が許され、平時の着用は許されなかったようですね。内大臣侍衛行幸に扈従する際に着る黄馬掛とは着る場所が違ったと言うことですね。

《岳鍾琪画像》xvii


 とは言え、雍正年間岳鍾琪の肖像や、乾隆年間フカンガの肖像などは行服で描かれていて、岳鍾琪行掛石青色っぽく見えるので、これもしかして皇帝行服なのかなぁ…と思いますよね…。フカンガのはオレンジっぽいものの黄馬掛のようにも見えます。それぞれ右膝のあたりにツギハギがあるので、行服であることは間違いなさそうですが、それぞれ狩猟中って雰囲気でもないですし、フカンガに到ってはご自宅のオフショットみたいな感じですけど、この頃には木蘭圍場の外で黄馬掛着用禁止令はなかったんですかねぇ…。

《福康安画像》xviii


 木蘭行圍と言う行事の性格上、黄馬掛が下賜されるのはモンゴル諸公が多かったようですが、いずれにしても皇帝の御前で狩猟の腕前や功績を賞され、直々に着衣を下賜されるという行為と、禁色である黄色の着衣を許されるというのは、トロフィー的な意味ではかなり価値を有したようですね。それ故に内乱鎮圧の武勲に対して黄馬掛を下賜すると言うのも、お金の掛からない功労方法としては有効だったと言うことでしょうか。狩猟時のトロフィー程度の意味しかなかったはずの黄馬掛は最終的には外交特使の装束として相応しいと思われるくらい、フォーマルな装いとされるにまで到ったと言うことでしょうか…(なんで官服ではだめだったのかという問題もありますが)。そうこうするうちに、狩猟場以外で着ては成らないという決まりは、すっぽ抜けたようですが。

《英嬪・春貴人乗馬図》xix


 今回のことで図版探してたら結構黄馬掛が描かれた絵画を見つけたんですが、咸豐くらいになると、妃嬪に男装させるのに使うくらいには砕けた感じになってるみたいですね…。李鴻章たちと同時期になるんでしょうか…。

参考文献 サイト
漢籍リポジトリ 欽定大清會典 皇朝禮器圖式 欽定熱河志 欽定千叟宴詩
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
呉振棫《養吉齋叢録》中華書局
《清史图典》第三冊 康熙朝 上 紫禁城出版
《清史图典》第五冊 雍正朝 紫禁城出版
《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 紫禁城出版
《清史图典》第十冊 咸豊 同治朝 紫禁城出版
『地上の天宮 北京・故宮博物院展』図録

  1. 《清史图典》第十冊 咸豊 同治朝 P.44
  2. 《故宮珍蔵人物照片薈萃》P.59
  3. 《故宮珍蔵人物照片薈萃》P.57
  4. 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服
  5. 光緒《欽定大清會典圖》巻75 冠服19 平服 行服
  6. 《皇朝禮器圖式》巻13 行營冠服
  7. 《嘯亭續録》巻1
  8. 《清史图典》第三冊 康熙朝 上 P.228
  9. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.17
  10. 《養吉齋叢録》巻16
  11. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.23
  12. 《養吉齋叢録》巻16
  13. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.17
  14. 《欽定熱河志》巻114⇒御製永安莽喀元韻 于敏中 場選榆林迤右邊〈大營駐海拉蘇台䝉古語謂冇榆樹處也圍場在大營西南〉白沙紅樹景天然寳騮到處頻呼雋〈上乘寳吉騮馳射連中四鹿衆皆歡呼〉華褶頒來儼序賢〈是日䝉古王公有於御前射鹿者賜黄褶二人花翎四人以旌其能〉圍凖十三初發軔〈今嵗自永安莽喀至塔里雅圖凡十三圍場〉騎掄千二各彎弦擇肥馳進慈寧饍〈上以親射鹿遣御前侍衛馳進皇太后〉纘武承歡例萬年
  15. 《欽定千叟宴詩》巻2 預宴五十二人詩六十四首⇒〈克什克騰/頭等台吉〉根敦達爾扎〈年六十一〉(中略)鹿仰叶豳歌效獻豜〈臣因射鹿恩賞黄褂花翎〉已拜裳華黄褶(後略)
  16. 《養吉齋叢録》巻16
  17. 《清史图典》第五冊 雍正朝 P.113
  18. 《清史图典》第六冊 乾隆朝 上 P.107
  19. 『地上の天宮 北京・故宮博物院展』P.079

清朝初期のチベット僧たち:1

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 気がつくと一年以上放置してましたね…。と言うわけで、コロナでバタバタしてたら静岡から東京に居を移すことになって更にバタバタしてました。記事を書くほどに暇が出来たわけではないのですが、お蔵入りしていた記事を引っ張り出してきました。
 と言うわけでこの記事は、池尻陽子『清朝前期のチベット仏教政策』汲古書院 を読みながら、清朝治下で活躍したチベット僧を並べてみたものです。と言ったところで、他の論文読みながら補足もしてるんですけどね…。何にしても、この辺は清朝モンゴル政策とも絡んでくる部分なんですが、あまりお手軽にアクセス出来る情報がなかったので、お手軽な備忘録を作ってみたものです。
 この辺の前史は以前纏めた明末チベット僧のインテリジェンス活動~袁崇煥と王喇嘛、李喇嘛~をご覧になっていただくとして、とりあえずは苦心したヌルハチホンタイジ期です。

◇ヌルハチ期◇
 遼陽遷都と同時に蓮華寺を建立し、ホルチンからダルハン・ナンソを招聘しましたが、遼陽に来て3ヶ月程度でダルハン・ナンソが急逝して仕舞ったので、ヌルハチチベット仏教政策の全容はよく分からないままです。

オルロク・ダルハン・ナンソ(斡祿打兒罕襄素 Örlüg Darqan Nangsui/odlog darhan nangsuii
 元はホルチン部のミンガン・ベイレ次子のハタン・バートル麾下の有力者だったようです。しかし、天命6(1621)年6月、ヌルハチの招聘に応じてホルチン部から衆を率いてマンジュに帰順しています。iiiiv
 天命6(1621)年3月、ヌルハチ遼陽に遷都すると、5月にマンジュ後金清朝初のチベット仏教寺院・蓮華寺(喇嘛塔園)をダルハン・ナンソの為に建立していますv。しかし、ダルハン・ナンソは同年8月22日viか10月viiに入寂しています。
 その後、ヌルハチの命によってダルハン・ナンソの舎利を納める塔の建設が命じられています。その後まもなくヌルハチ自身は他界しますが、舎利塔は9年の歳月を要して天聰4(1630)年になって完成していますviii

◇ホンタイジ期◇
 マンジュに帰順したハズの内ハルハが、明朝チベット僧を使った寝返り工作を受け、ある程度の効果を上げていたことは、ホンタイジにとって相当なショックな出来事だったようです。王喇嘛李喇嘛の訪問から前後して、チベット僧の活躍が見られます。当時はチャハルリンダン・ハーンや、そのモデルケースとなったトゥメトアルタン・ハーン、更に遡って元朝クビライに倣ったとおぼしきチベット仏教政策を実施しました。すなわち、壮麗なチベット寺院を建立したり、チベットから高僧を招いたり、霊験のある仏像を招来したりと、マンジュチベット仏教の大施主として認識させる事によって、モンゴル世界での地位向上を確立させようとしました。当初、チャハルを意識してかサキャ派僧のビリクトゥ・ナンソムクデン盛京(遼寧省瀋陽)に建立した実勝寺を任せるなどサキャ派を重用していましたが、崇徳年間に入ってからはアルタン・ハーン以降モンゴル世界…特にハルハで信仰を集めていたゲルク派のダライ・ラマ5世の招請を企画したり、バンディタ・ノモンハンイラグクサン・ホトクトなどゲルク派の僧侶を重用するなどしてゲルク派よりに転向しています。

バ・ラマ(白喇嘛 ba lamaix
 別名:バガバ・ラマ(baga ba lama)xダルハン・ナンソの弟弟子xiマンジュ清朝で始めて外交を担ったチベット僧です。
 天命6(1621)年10月、ダルハン・ナンソが入寂すると、ダルハン・ナンソの遺言で後継者に指名されたため、ホルチンから招聘されて蓮華寺の座主を務めています。
 ホンタイジの即位後、天聰2年に天啓帝の弔問と、崇禎帝の即位祝賀の使節として明朝に派遣されていますxii。また、天聰3(崇禎2=1629)年には明朝袁崇煥への和平交渉の使者として派遣されています。
 天聰4(1630)年には遼陽ダルハン・ナンソ舎利塔が完成したため、落慶式に参加してますxiii
 天聰5(1631)年からはホンタイジに招聘されて、瀋陽三官廟に居住し、明朝の捕虜・張春と同居して帰順の説得に当たっていますxiv
 しかし、張春を説得出来ないまま、6年後の崇徳2(1637)年に瀋陽で入寂しています。

 と言うわけで、王喇嘛李喇嘛に対抗する感じで活躍を期待されたバ・ラマです。康煕乾隆あたりの宣教師にも言えることですが、宗教関係者わりと便利に使われてますね。

ビリクトゥ・ナンソ(Tib.bi lig thu nang so bla ma>Mon.biligutu nangsu blam-a)xv
 サキャ派の支派ゴル派の還俗僧。チベット僧としての地位は低かったようですが、チベット語、モンゴル語など言語能力に長けたことからマンジュ後金に重用されましたxvi。また、マハーカーラ像の招来や実勝寺盛京四塔寺の創建を主導するなど、盛京時代のチベット仏教政策を主導しています。
 天聰8(1634)年、チャハル崩壊に伴って、マハーカーラ像を携えて逃亡してきたメルゲン・ラマの帰順を担当しています。xvii
 まず、天聰9(1635)~崇徳3(1638)年、盛京ムクデン実勝寺(Man.šu ilgai soorin i yargiyan etehe fucihi soorin)及び四塔寺の建立に従事していますxviii
 更に、天聰10(1636)年正月、マハーカーラ像の供養会が盛大に開催されていますxix。当然、ビリクトゥ・ナンソが式典を主導したものと思われます。
 しかし、順治年間に入り清朝入関を果たすと、ムクデン実勝寺に起居したビリクトゥ・ナンソは、清朝チベット仏教政策に携わる機会は減ったようですxx
 ただ、ムクデンを代表するチベット僧であったことは確かなようで、順治9(1652)年、ダライ・ラマ5世の北京招請には携わり、以後順治13(1656)年まで、ダライ・ラマ5世との間に断続的に書簡の往来があったようです。xxi

 と言うわけで、清朝初期の宗教政策を支えたビリクトゥ・ナンソですが、言語が堪能な点が評価された当たり、清朝では王喇嘛のような活躍の仕方を期待されたのかもしれませんね…。それでも、マハーカーラ像の招来、その像を安置するべく建立された実勝寺の創建、首都ムクデンを守護すべく計画された四塔寺の建設と、清朝初期の宗教政策の重要案件にはすべて関与しています。ムクデンジャサクラマ制度では一大拠点になりますから、その基礎を築いた僧侶です。

メルゲン・ラマ(Mergen Lamaxxii
 天聰8(1634)年8月、チャハルからマハーカーラ像を招来した僧です。メルゲン・ラマについてはこれ以上の事績は分かりません。マハーカーラ像は元々リンダン・ハーンサキャからチャハルに招来した仏像ですね。

 個人的にはチャハルのマハーカーラ像の招来が、北元の正統を清朝が継承した象徴とされた…というのは買いかぶりなんではないかとは思うものの、招来した僧侶にも触れておくべきかと。

マンジュシュリ・ホトクト(Man.manjusiri kūtuktuxxiii)
 別名:アシャン・マンジュシュリ(Tib.a zhang manydzu sirixxiv)。清朝内に於けるチベット仏教の一大派閥・サムロ派興隆の切っ掛けを作ったチベット仏教僧です。清朝チベット仏教政策の拠点であるシレトゥ・フレーの原型を作ったシレトゥ・フレーの実質的な初代ジャサク大ラマです。
 デプンゴマン学堂のサムロ・カムツェンで修行後、トゥメトの寺院で修行していたところアルタン・ハーンの尊崇を受けるようになり、自らの親族であるダダライ・ラマ3世(ソナム・ギャンツォ)を招請することを薦め、両者は青海湖東岸のチャップチャールでその後のチベット、モンゴルの趨勢を決定する歴史的な会見を行ったxxv…とされています…が、流石に年代が離れているので転生僧の前世の話でしょうかね…。また、アムド東部にあるウシタク寺も創建しています。この辺も前代の事績である可能性ありますね。
 気を取り直して、マンジュシュリ・ホトクトマンジュとの関係を見ていきます。天聰3(1629)年2月に華北遠征中のホンタイジの陣中見舞いに潘家口(河北省唐山市迁西县境)まで赴き、その後、ホンタイジに招聘を受けて、天聰4(1630)年にムクデン(盛京=瀋陽)に赴いて歓待を受けていますxxvi
 壬申(=天聰6、1632)年にはホンタイジより家畜を伴った移動式の僧院・フレー(庫倫)を賜与され、後にフレーが一カ所に固定されたので、南モンゴルでも遼東寄りの当該地(現在の中国内蒙古自治区通遼市庫倫旗)はマンジュシュリ・ホトクトに因みマンジュシュリ・フレーと呼ばれましたxxvii。甲戌(天聰8=1634)年にはマンジュシュリ・ホトクトホンタイジの万寿の祈願を行っていますxxviii
 乙亥(天聰9=1635)年、マンジュシュリ・ホトクトは病床に伏したので自らの引退を奏上しましたが、ホンタイジは慰留しています。しかし、翌(崇徳元=1636)年8月にマンジュシュリ・ホトクトは入寂していますxxix

 マンジュシュリ・ホトクト清朝ジャサク・ラマ制度の一大拠点となるシレトゥ・フレーの実質的な初代責任者ですね。恐らくはホンタイジチベット仏教界でも地位の高い僧侶に帰依して、保護下に置く、という構想の一番成功した例なのではないかと思います。

シレトゥ・ダルハン・チュージェ・ナンソ
 マンジュシュリ・ホトクトの弟で、別名:ナンソxxx
 崇徳元(1636)年にマンジュシュリ・ホトクトが入寂すると、シレトゥ・ダルハン・チュージェが遺言に従って第2代ジャサク大ラマに就任しました。このため、同地はシレトゥ・フレーと称されるようになりますxxxi
 丙戌(順治3=1646)年にシレトゥ・ダルハン・チュージェは入寂しています。

 事績がよく分からない二代目シレトゥ・フレージャサク大ラマですが、その名シレトゥフレーの名称とする位には影響力はあったものだと思われます。

イラグクサン・ホトクト(Mon.ilaγuγsan qutuγtu)
 別名:セチェン・チュージェ(Tib.se chen chos rje)xxxii若しくはグーシ・チュージェ。若しくはセチェン・チュージ・ギェルウェー・ティンレーバ・ジンバ・ギャンツォ(Tib.se chen chos rje rgyal ba’i ‘phrin las pa sbyin pa rgya mtsho)。ミニャク(四川省西部)出身xxxiiiアムド地方東部のパージュ寺の創始者xxxiv清朝の勢力下にあったチベット僧ではなく、チベットから清朝に派遣された最初の使節僧です。後述のバンティダ・ノモンハンと経歴が混同されたり、一代後の転生イラグクサン・ホトクトの方が政治史的にはインパクトあるので混同されたりと、経歴を調べるだけで疲労がたまる人物でした。
 1625(天啓5=天命10)年にパンチェン・ラマから「国師グーシ」号を授与されていますxxxv
 崇徳2(1637)年10月にセチェン・グーシ・チュージェという人物が使者としてホンタイジと接見していますxxxvi。この使者をイラグクサン・ホトクトと同一人物であると比定して、ホンタイジからシレトゥ・フレーの初代ジャサク大ラママンジュシュリ・ホトクトの後任を打診されて、マンジュシュリ・ホトクトの弟であるシレトゥ・ダルハン・チュージェを推挙した、とのではないか?と、いう説もありますxxxvii
 鉄辰(1640=崇徳5=崇禎13)年、パンチェン・ラマ一世とダライ・ラマ五世の指令を受けて、施主として清朝を見極めるための使者としてムクデンに派遣されます。この際に、両ラマからイラグクサン・ホトクト号を授与されていますxxxviii
 崇徳7(1642)年10月、イラグクサン・ホトクトムクデンに到着すると、ホンタイジ諸王ベイレを引き連れて城外で出迎え歓迎しています。その後イラグクサン・ホトクトムクデンに8ヶ月滞在した後、崇徳8(1643)年5月にホンタイジからの信書を携えた清朝側のチャガン・ラマ等の使節団とともにチベットへの帰路についています。
 火犬(順治3=1646)年後半にハルハに派遣されますが、順治4(1647)年正月までには入寂したxxxixようなので、ハルハで客死したようですxl

 事績を纏めるのが難しい一人目のイグラクサン・ホトクトですね。チベットからの外交使節といった活躍で知られています。清朝のチベット僧というワケではありませんが、清朝に派遣されたり、ハルハに派遣されている上、次代のイラグクサン・ホトクトと事績が混乱しやすいので、紹介しておきます。

チャガン・ラマ(Cha gan bla ma)xli
 崇徳年間から清朝チベット及びモンゴルの外交渉に携わり、平行してダライ・ラマ5世招請使として活躍したチベット仏教僧です。
 ホンタイジの頃にどこかから逃げてきて清朝に帰順したようですがxlii天聰10(1636)年2月には、ホンタイジの命令に従って明朝との交易所・殺胡口に貂皮や高麗人参を持参してを交易行っていますxliii xliv
 崇徳元(1636)年には清朝の使者としてハルハ左翼のセチェン・ハーンに派遣されいますxlv。と言うことで、チャガン・ラマ清朝からハルハに派遣された初のチベット仏教僧と言うことになりますxlvi
 崇徳4(1639)年にはダライ・ラマ5世招請使としてチベットの諸勢力に派遣されていますxlvii
 しかし、翌崇徳5(1640)年、ダライ・ラマ5世招請使を共同で送る盟約を交わしていたハルハ右翼のザサクト・ハーンが招請使の派遣を拒否したためxlviii、これを背反行為と捉えたホンタイジダライ・ラマ5世の招請プロジェクト自体を中止しています。
 更に、ホンタイジの治世の頃から”内のグモン(gumeng)のフレー“のジャサク・ラマに任命されていますxlix。文脈からムクデンチベット仏教寺院を統括する地位にあったと言うことでしょうかねぇ。
 木猿(順治元=1644)年、チベットからの使節の返礼使としてチベット使節 セチェン・チュージェ(後のイグラクサン・ホトクト? 前述)に同行してムクデンから出発してチベットに到着しl順治3(1646)年、チベットから直接北京に帰還していますli入関時期にはムクデンではなくチベットに居たってことなんでしょうけど、ムクデンで生活していたはずなのに、家財を北京に持って来れたのか気になりますね…。
 更に、順治8(1651)年に、ダライ・ラマ5世招請使としてチベットに派遣されていますliiホンタイジの頃にハルハと共同して行おうとして一旦断念したダライ・ラマ5世招請を、順治帝になって清朝単独で行おうと仕切り直して企画されたってことでしょうね。
 その後も変わりなくダライ・ラマ5世招請を主導したようで、順治9(1652)~10(1653)年のダライ・ラマ五世の北京招請の際にはダライ・ラマ5世と接見していますliii
 順治13(1656)年には、ダライ・ラマ5世招請の功績を顕彰する意味で、順治帝からダルハン・チュージ号を授与されたようですlivが、チベット側の記録を見ると、順治8年のダライ・ラマ5世招請使に出発した段階でダルハン・チュージェ号を有していた可能性がありますlv
 で、少なくとも順治16(1659)年までには京師ジャサクラマ(札薩克喇嘛)としてチベット僧を統括する地位にあったようですlviが、これはムクデン時代からその責務を負っていたと考えた方が良さそうですね。
 そして、順治18(1661)年11月以降、入寂したようですlvii。その後、転生僧と認められてジャサクラマ制度の上層部に見られるホトクト号を受封されているのも、ダライ・ラマ5世の招致が高く評価されてのことなんでしょう。

 と言うわけで、崇徳から順治にかけてダライ・ラマ5世招致計画の交渉を担当し、最終的にはそれを実現させたチャガン・ラマです。そりゃ清朝としては転生僧認定もしますわね…。

 ご覧のように、清朝チベット仏教政策を追うと、どうにもチベット政策とモンゴル政策が密接に関係していることが見て取れるかと思います。と言うわけで、次回は順治年間から康煕前半かなと思ってます。

◇参考文献
新藤篤史「清朝前期統治政策の研究」大正大学 2018年度 博士(文学) 32635甲第120号博士論文
李勤璞《白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立》中央研究院近代史研究所集刊 第30期
池尻陽子『清朝前期のチベット政策』汲古書院
池尻陽子「入関前後における清朝のチベット仏教政策」『満族史研究』3
石濱裕美子『清朝とチベット仏教─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部

  1. 〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉
  2. 「清朝前期統治政策の研究」P.47
  3. 「清朝前期統治政策の研究」P.19
  4. 宣和堂註:しかし、この際ダルハン・ナンソの部衆はホルチンから”逃げてきた”と表記されていることから真っ当な招聘だったのかは注意が必要。
  5. 宣和堂註:「清朝前期統治政策の研究」ではダルハン・ナンソが招聘されて蓮華寺が建立されたとしているが、前述のようにダルハン・ナンソが帰順したのが6月なら帰順前から蓮華寺が建っていたことになり、1ヶ月の矛盾が生じるのではなかろうか…。
  6. 「清朝前期統治政策の研究」P.11に引く〈大金喇嘛法師寶記〉
  7. 「清朝前期統治政策の研究」P.46に引く《旧満洲檔》
  8. 「清朝前期統治政策の研究」P.11
  9. 〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉
  10. 「清朝前期統治政策の研究」P.11
  11. 「清朝前期統治政策の研究」P.12に引く〈大金喇嘛法師寶記〉漢文版
  12. (天聰2年正月)甲子(2日)。先是。明寧遠總兵祖大壽 部下人銀住。為我兵擒獲。至是。遣銀住齎書往寧遠。書曰。彼此互為大言。徒滋支蔓。何所底止。夫搆兵則均受戰爭之禍。息兵則共享太平之福。此理之易曉者也。我欲通兩國之好。共圖太平。擬遣使同白喇嘛致祭爾先帝。竝賀新君即位。及閱爾來書。有弔喪者為誰。講和者為誰之語。是以停止遣使。但令銀住同來使往訊。如謂以禮往來為善。則我即遣使往矣。⇒《太宗実録》巻4。
  13. 「清朝前期統治政策の研究」P.12に引く〈大金喇嘛法師寶記〉漢文版
  14. (天聰5年11月)丙戌(17日)。上曰朕觀副將張洪謨佳士也佳士當付與賢貝勒養育墨爾根戴青善於養人舉動皆合朕意故以與之監軍道張春 不肯薙髮令與白喇嘛同居三官廟諸副將參遊等官每旗分隸四員祖大壽 子姪。各賜房屋。以客禮恩養之。⇒《太宗実録》巻10
  15. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.34
  16. 『清朝とチベット仏教』P.51
  17. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35
  18. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35
  19. 「清朝前期統治政策の研究」P.11
  20. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.34~35
  21. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35
  22. 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.135
  23. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.39
  24. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.45
  25. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.45
  26. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.46~47
  27. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.47
  28. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.48
  29. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.49
  30. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.49
  31. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.50
  32. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40
  33. 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137
  34. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.62
  35. 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137
  36. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.62
  37. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.65
  38. 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137
  39. (順治4年正月)壬戌(20日)。(中略)遣理藩院副理事官羅多理。賜故喇嘛伊拉古克三胡土克圖鞍馬。緞疋。器皿茶香等物。⇒《世祖実録》巻30
  40. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.52
  41. 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」
  42. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42
  43. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.39
  44. 宣和堂註:当時は清朝と明朝は交戦状にあって直接交易が出来なかったので、勢力下のトゥメト部などのモンゴル王公やチベット僧を介して交易を行っていたらしい
  45. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.38
  46. 宣和堂註:前年天聰9(1635)年のセツェン・ハーンからの使者の返礼と思われる⇒清初、清朝とハルハ左右翼との関係史
  47. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.38
  48. 宣和堂註:崇徳2(1637)年にダライ・ラマ5世招請使を直接提案してきたのは外ハルハとオイラートを代表した…と称したハルハ左翼のセツェン・ハーンなので、ザサクト・ハーンがこの話をまともに信じていたかは確認を要する。⇒清初、清朝とハルハ左右翼との関係史
  49. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42~43
  50. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40
  51. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40
  52. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40
  53. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40
  54. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.41
  55. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42
  56. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42
  57. 『清朝前期のチベット仏教政策』P.43
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